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1.本州の西の果て |
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2002年8月4-6日 厄神→小月→長門本山→下関→阿川→折尾→日田→博多→厄神 |
2002年8月4日、夜の加古川駅。夜行列車での旅立ちはいつも、喧騒が去った後の静かなホームから、と決まっているのだが、この夜はそうではなかった。通路にも、ホームにも人があふれている。ここぞとばかりに着飾った若者たちがペアで、グループで。
意表をつくこのラッシュをもたらしたのは、この晩に行われた加古川の花火大会だった。なんと臨時列車も出ているようだ。しかし見た限り、列車に乗り込む客の大半はそうした若者たちで、家族連れや年配者の姿は少ない。結局、そのような人たちはクルマで乗り付けるということか。
その騒がしさも、23時近くにもなると次第に収まってきた。今夜乗る列車は、加古川を23時05分に出る、夜行快速「ムーンライト九州」。思えばこの列車との出会いは、高校2年の夏、私が初めて泊まりがけの鈍行一人旅を敢行したときだった。それ以後は、仕事との兼ね合いもあって私の旅行は冬が中心となり、夏の8月に夜行列車で旅をするのは、実にそのとき以来、11年ぶりのことである。
ところが、そんな感慨とは裏腹に、列車を迎え入れるホームに流れたのは、「1番線に、電車が参ります」という、合成音声のそっけないアナウンス。第一、ファン的観点から言うと、この列車は客車なので「電車」ではない。我ながら無粋な突っ込みだとは思うが、せっかくの旅立ち列車がそこらの通勤電車と同列に置かれているようで、なんとなく面白くない。
列車に乗り込むと、ほぼ満席の車内はまだざわついていて落ち着きがない。私は明日5時過ぎには降りる予定だから、できるだけ早く寝つきたいのだが、空調の音、列車の走行音に振動が気になり、体勢もなかなか定まらずに時間ばかりが過ぎてゆく。結局、いまいち寝付けぬまま短い夜を過ごしたのだった。
今回の旅行は、この列車で山口県まで飛び、8月5日の一日間を山口と北九州巡りに費やし、同じ「ムーンライト九州」で帰って来るという日程を予定している。メインは、山口県の小野田線で走る現役最古参電車「クモハ42」、そして本州西端の日本海沿いを走る山陰本線である。
8月5日早朝。静まり返った厚狭(あさ)のホームに降り立ったとき、空は少しばかり明るさを帯びはじめていた。本州の西の果て、長門の国で、長い一日が始まる。小野田線入りするために、まずは上り電車で宇部まで引き返さねばならないが、その1番電車までには1時間ほどある。
そこで、2駅先の小月(おづき)まで行って引き返してくることにする。どうもこういう旅行の際には、どこへ行くともなく無為に過ごすのがもったいなく思えて、常に移動していなければ気のすまない性分なのだ。
黄色い気動車2両編成には「小倉」行きのサボ。九州はすぐそこだ。が、今はまだ関門海峡は越えない。わずかな客を乗せた気動車は緩やかなペースで山を抜ける。こんな緩慢な走りでは私の眠気は醒めない。
「カップヌードル」の広告塔が目立つ工場の脇を過ぎ、小月の駅に着く。目の前に広がるのは、青々と広がる田畑。列車の去ったホームには、ただ虫の声ばかりが響く。駅前は割とひらけていたが、時間も時間、バスを待つおばあさんが独りいるだけだった。
朝日を面に浴びて、上り一番列車が入ってくる。もと来た道を引き返すのだが、さすがは電車、さっきの列車と同じ線路を走っているとは思えないほど、フットワークが違う。野山を越えて進んでゆく列車の頭上を、場違いに立派な道路橋がまたいでゆく光景に、何度か出くわす。地元から有力者でも出ているのか、鉄道派にはうらめしい光景である。
6時を過ぎて、早くも東の空にまぶしく輝く太陽を前方に見ながら、厚狭を通り越し、宇部に到着。元私鉄の貧相な宇部線の線路に入ってゆくのは、お世辞にも乗り心地がいいとはいえない、105系のワンマン電車である。そろそろ通勤者や学生が車内に目立ちだす。8月5日が動き始めた。
工場群の前をゆっくり通過して、電車は宇部新川の駅に着く。外見だけは清涼なデザインの105系が、構内に所狭しとひしめいている。そんな中に、たった1両、しかしそれらと全く異なる存在感を醸す電車が・・・。
到着した宇部新川のホームの向かいで、静かに出発を待つ。その姿は、これまで多くの場所で多くの列車を見てきた私にとっても、初めて出会う種類のもの。それもそのはず、昭和一桁の時代の生き残りであり、いまやこの地にただ1両のみ残る電車なのだ。チョコレート色一色、無骨な配線やリベットがむきだしで、今風の車両のスマートさとは無縁な外観。これまで写真の中でしか見たことのなかった存在が、いま現に目の前にいる。その車番は、「クモハ42001」。
昭和初期の電車の姿そのままに、小野田線を走るクモハ42001
車内に踏み込む。床も窓枠も木。ニスかワックスか、車内には独特の香りがする。向かい合わせの座席は今の基準からすれば、狭くて小さく、まるで小人の電車だ。この席が満杯になることは今やなかろうが、もし4人座るとなれば、ひざとひざを突き合わせて小さくなっていなければならないだろう。
発車時刻が来て、ドアがガランゴロンと音を立てて閉じる。
「ずぅいぃ・・」低い独特のモーター音とともに、電車が動き出す。
あっこの音・・高校時代の記憶がよみがえる。通学で毎日のように利用していた、神戸電鉄の800系。車体は昭和30年代の製造だったが、足回りは昭和初期に同電鉄が開業した当初からの車両の流用。当時友人から、「釣り掛け式」とよばれるその駆動の仕組みを教わったが、あまりよく理解できなかった。とにかく、一挙一動がダイレクトに伝わる車両で、時速60km以上出すと、いかにも頑張って走ってますという風で、いつも利用する客の立場からすればきつい電車であった。
800系は私の高校卒業と時を同じくして廃車となり、以後その乗り心地を味わう機会はなかったので、このクモハ42は初対面であるにもかかわらず、妙な愛着というか、懐かしさが感じられた。とはいえ、この電車は少し速度が出たかと思うとすぐに加速をやめ、ほとんど惰性で、実にのんびりと走ってゆく。ほかの電車にペースを合わせるために必死で走っていた800系とは対照的に、こちらは年相応に、全く無理をしない。俗世間から離れて静かに、マイペースな老後を過ごす「ご隠居」の様相である。
西を向いて走り出したクモハ42は、居能から宇部線と分かれて小野田線に入り、川を渡ると工場地から田園地帯に移る。田の字形をした窓の下段を持ち上げて風を入れ、古老電車の走りを満喫する。小さくアップダウンする野の小道、短い駅間を、少し加速しては惰力で進む、の繰り返しで、クモハ42はゆっくりゆっくり進んでゆく。床下からは、走行音とともに、ポコポコと機械音が響いてくる。実にアナログな走りである。
雀田から小野田線本線から分かれ、たった2.3kmの本山支線に入る。宇部新川を朝一番に出、最後に宇部新川へ戻るまで、クモハ42はこの本山支線だけを往復することになる。以前は1日11往復走っていたのが、昨2001年から5往復に激減されてしまったのは、まずは合理化のためだろうが、このクモハ42の負担を減らすことにもなったのだろう。
開け広げた窓の外を覗いていると、線路際に伸びる木の枝に危うく当たりそうになった。
線路は長門本山で唐突に終わりを告げる。たった1両分のホーム。しかしそれで必要かつ十分である。8人ほどいた乗客のうち、駅を出て去っていったのは1人だけで、あとは駅周辺で電車を見たり、写真を撮ったりしている。やはり皆、クモハ42目当ての人々だったのだ。反対側の運転台に移った運転士も、それは重々承知の様子だった。
駅の先、少し離れたところには、周防灘が広がっている。かつては海底炭田もあったとのことで、昔はこの本山支線も積み出しに使用されていたのだろう。今では半ば、クモハ42を保存するがための路線になっている風で、それはそれでいささか寂しい。
6分後、クモハ42はもと来た道を引き返す。地元客が1人入れ替わっただけで、あとは皆、往路と同じメンバーでの折り返しである。残り少ない道中、スピードも出ていないのに縦横に揺さぶられる独特の走りを堪能しよう。
それにしても、この電車の色、正式には「ぶどう色」というそうな。でもどこがぶどうなのだろう。私としては、やはり「チョコレート」のほうがしっくりくる。
小野田線本線と本山支線がV字形に分かれ、その間に鋭角にホームが設けられた雀田。名残惜しい気持ちでクモハ42を降り、小野田行きの電車に乗り換える。次にここを訪れるとき、この電車はまだこの線を走っているだろうか・・・
※ と、この時点で薄々不安を抱いていたが、それが的中、クモハ42は翌春で現役引退となった。
さて、乗り換えた小野田行きの電車は、これまた個性派である。クモハ123、荷物車を改造した車両だとのこと。窓がやけに大きく、こざっぱりした車内には、端から端までロングシートが続いている。同じ1両単行だが、先のクモハ42の重厚さとはまさに好対照をなす、実にそっけない造りだ。
小野田で山陽本線に復帰、3分の接続で下関行きに乗り換え。目当てのクモハ42に会い、とりあえず旅の第一目標は果たされた。しかし時刻はまだ8時前、今日の一日はまだ先が長い。下関までの道中、できるだけ眠りを補っておこう。
下関は本州のまさに西の果て。山陽本線はこのすぐ先で関門トンネルに入り、本州に別れを告げる。九州は関門海峡を隔てて、もう目と鼻の先にある。しかしここに及んでも私はまだ九州へは渡らない。もう一度向きを逆に転じ、今度は山陰本線に入ることにしている。
京都から本州の日本海側を延々と辿る山陰本線は、下関のひとつ東の幡生(はたぶ)で山陽線に合流してその長い行路を終える。今回は、その山陰線に幡生側から入り、本州西端の日本海側の風景を堪能したい。旨い具合に、そんな私にとっておあつらえ向きの列車がある。
その列車はすでにホームで出発を待っていた。先頭には「西長門リゾートライナー」というヘッドマークが掲げられている。どこかの学生が描いたような、手作り風のヘッドマークだ。夏休みの時期に合わせて設定された臨時快速で、下関から山陰本線を辿って東萩へと向かう。往年の名車 キハ58系を使ってくれているのがファンの心をくすぐるが、長いホームにたったの2両とは寂しい。
この列車、後ろの車両が指定席となっている。わざわざ指定席車両を設定しているくらいだから、それなりに混雑するのだろうという読みがあって、私は前もって指定席券を買っておいた。今回は日本海の景色を楽しむのが目的だから、窓際に座れなければ意味がないのだ。しかし・・・
私の読みは見事に外れ、車内は呆れるくらいにガラガラだった。指定席の乗客は3人。事実上の貸し切り車両だ。先頭の自由席車両はそれより多かったが、それでも10人に満たない。あまりにもPRが足りなかったのか、それとも需要自体がなかったのか。「嬉しい誤算」ではあるが、指定席券の510円が惜しくも思えてくる。
ともあれ列車は定刻通りに出発し、次の幡生から山陰本線に入ってゆく。下関の都市圏から離れるにしたがってしだいに住宅がまばらになり、やがて海に近い雰囲気が漂ってくる。臨時列車の宿命で、たびたび対向列車待ちを強いられる。対向車は結構な混雑なので、やはりこちらのガラガラ具合は、知名度不足によるところが大きいのだろう。
一応車掌がやってきて指定席券の確認。そして何と、「この列車は冷房の調整がきかないので、寒かったら窓を開けてください」と言う。確かにこの乗車率では、窓を開けようが何をしようが人の迷惑にはならないにせよ、冷房付きの車両なのに窓の開け閉めで温度調整せよとは前代未聞。さすがは年季ものの車両である。
小串(こぐし)を出たあたりから、海の間近に沿って進む。別に寒くはないけれど、せっかく車掌の公認を得ているので、窓を開けて列車の足音に耳を傾けながら、風を浴びつつ眼前に広がる透き通った日本海にしばし見とれる。これぞ列車旅の贅沢。皮肉な話だが、こんな真似ができるのも、列車がガラガラにすいているおかげだ。
指定席は終点長門市まで取っているが、いちど途中下車してじっくり海を見ておきたいし、後の予定もあるので、阿川でこの列車を降りることにする。今日は平日なので仕方ないのかもしれないが、この乗車率では運転士と車掌の人件費すら出ないだろう。意気込んで指定席まで設定してみたものの、今年限りの企画に終わってしまいそうだ。
構内にエンジンのうなりと白煙を残し、臨時快速は阿川のホームを離れていった。無人の駅舎を出ると、重くのしかかるような熱気。時刻は10時前、高く昇った太陽が容赦なく照りつける。こんな中を歩けば体力消耗することは目に見えているが、降りた以上は歩かねばという半ば意地のようなもので、とりあえず海を目指して歩みを進める。あまりの日差しのきつさに、タオルを頭に被って歩く。なりふりかまってはいられない。
まもなく海水浴場にたどり着いた。整備された海岸だが、さきの列車と同じく、あまりにも人けがない。いかに平日とはいえ、夏休みなのだからもう少し人がいてもいいようなものだが。こうして真っ昼間からうろうろしている自分のほうが馬鹿のように思えてくる。ひとりで海水浴をするのもわびしいし、そんな準備などしてきていないので、靴を脱いで足を水に浸し、「一応山口の日本海に入りました記念」とする。
駅に戻り、ワンマン列車に乗り込んで引き返す。先の時間に余裕があるので、小串で下車してみる。こちらも海水浴場が近いが、阿川と比べると下関に近いせいか、活気では勝っている。さきほどより更に増し加わった暑さの中、またもタオルを被った権兵衛さんスタイルで歩く。
美しい日本海を眺められた満足感に浸ったが、体は正直である。小串から下関行き列車に乗ると、その中ではほとんど居眠りしていた。気が付けばもう下関。時刻は13時前となり、三度目の正直でこれからようやく九州入りとなる。