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2.ひのくに横断 |
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熊本のホームで出発を待つ豊肥本線の一番手は、肥後大津行きの電車で、これまた815系のワンマン2両。熊本周辺は今や、この電車の独壇場となっているようだ。私がしばらく来ないうちに、九州の列車の陣容もずいぶん変わってしまったものだ。
かつては全線ディーゼルだった豊肥線だが、1999年に熊本から肥後大津までが電化され、熊本側は都市近郊路線の様相を呈するようになった。実際、地図を見ると、熊本の市街地は豊肥線に沿って広がっており、鹿児島線はその端をかすめているに過ぎない。このため電化前から、博多発の特急「有明」が豊肥線の水前寺まで、わざわざディーゼル機関車に牽引されて乗り入れていた時期があった。今では電化により、「有明」は機関車の助けを得ることなく、水前寺・武蔵塚・肥後大津まで入っている。
とはいえ、豊肥線の線路は貧弱で、路地裏のような狭苦しいところを進んでゆく。新水前寺、水前寺と、学生が多く乗り込んできて車内は満員になった。ここからは徐々に客は減り、「有明」の多くが折り返す武蔵塚でかなり下車した。特急の終点とは思えないような小さな造りの駅だが、実際ここは1981年開業で、古い時刻表には存在すらしていない駅なのだ。それが今や、豊肥本線の中で両端(熊本・大分)を除けば最も利用者の多い駅となり、博多駅で「武蔵塚行き特急」とアナウンスされるほどに出世したのだ(※)。
※2006年春に、武蔵塚〜三里木間に「光の森」駅が開業し、「有明」の多くは光の森発着に変更された。
武蔵塚を過ぎると、おもしろい光景に出会う。線路の右側に沿う道路もろとも、杉並木の中を進むようになる。この並木道には見覚えがある。かつて中学生の時、急行「火の山」に乗って通ったことを覚えているし、親戚に阿蘇に連れて行ってもらったときに、車で通った記憶もある。
この道路は、もともと熊本と大分とを結んでいた豊後街道で、肥後(熊本)の藩主となった加藤清正が整備したもの。そのとき植えられた杉並木の中を、今ではクルマと電車が行き交うようになっている。しかし、あれ?と思う。おぼろげな私の記憶では、杉の木はもっと大きく、うっそうとしていた。自分が大きくなったためか、それとも並木そのものが衰退したのか、ともかく15年以上の時を経て再会した杉並木の印象は、「こんなものだったか?」という感じだった。
そうするうちに、電車の終点である肥後大津に着く。関西在住の私は、滋賀の大津にならって「ひごおおつ」と読んでしまいそうになるが、正しくは「おおづ」である。ここで電化区間は終わり、気動車に乗り換えることになる。
次の宮地行きは、真っ赤なキハ200。筑豊・篠栗線の「赤い快速」として活躍していた車両で、同路線の電化後どこへ行ったのだろうかと思っていたら、こんな所に来ていたとは。おかげで、ここからはクロスシートで阿蘇の景色を十分堪能できそうだ。
大津を出ると、これまでと一転、列車は登り勾配にかかり、山の中へと入ってゆく。そして阿蘇の外輪山が、みるみる眼前に迫ってくる。新型車の部類であるキハ200をもってしても、速度が上がらない。目一杯の勾配なのだろう。
外輪山の中腹に位置する立野に到着。列車はここで小休止する。山の傾斜はここからさらにきつくなり、まっすぐには登れない。このため、豊肥線は「スイッチバック」で高度を稼ぐことになる。
ドアを閉めた列車は、これまでと反対方向、つまり熊本側へ向かって発車する。まもなくもと来た線路と分かれて、勾配を駆け上がってゆく。さっきまでいた立野の集落が、あっという間に遠ざかる。かなり高度を上げたところで、列車は停車。運転士が車内の通路を通って反対側へ、つまり熊本側から大分側へと移動。そして列車は再び発車。登ってきた線路が下方へ去り、引き続き山の中を登ってゆくことになる。
これで相当高度を稼いだはずなのに、立野駅手前で交差した国道57号が、あっさりと追いついてきた。鉄道は絶対的に坂道に弱い。だからこそ、いろんな技を駆使して勾配に挑むのであり、その様こそがおもしろいのだが、交通機関として不利な条件であることは確かであり、同じ坂をやすやすと登ってくるクルマの存在がしゃくに思えてくる。
やがて列車は、緑鮮やかな高原地帯へと進んでゆく。そんな風景を眺めつつ、鳥栖で購入した「焼麦(しゃおまい)弁当」を食する。内容は、「シューマイつきのかしわめし」である。かしわめしの味付けはほどよい程度。やや甘口かなという気もするが、許容範囲内。シューマイは食べ応えがあった。窓の外の爽やかな景色が、食欲を増進させる。鉄道旅行の至福の時だ。
今進んでいるのは、阿蘇の巨大なカルデラの中だ。北側には、外輪山が屏風のように連なり、まるで特大の城塞の中にいるかのようだ。南側には、今も活動を続ける阿蘇の本山が見渡され、頂上付近からわずかに噴煙を上げていた。カルデラ内には平地が広がり、稲はすでに黄色く色づき始めている。
しかし、見れば見るほど不思議な光景だ。まずは、どうやったらこんなダイナミックな地形ができあがるのか。噴火で出たマグマの跡が陥没して、そこに再び火山が隆起して・・と理屈では分かるが、あまりにスケールが大きくて、私の貧しい理解力では到底把握しきれない。さらに、連なる山の中には、木が生えておらず、草や低木ばかりで明らかに色が異なる部分がある。線路際にも、そんな黄緑色の小山が時折現れる。どういった違いで、そんな差が生じるのかわからない。
学問的にはいろんな説明ができるのだろうが、あえて理解したいとは思わない。ともかく、「不思議」のひとことである。
阿蘇駅で乗客はほとんどいなくなり、稲田やとうもろこし畑を見ながら、終点宮地に到着。島式ホームの向かいには、色あせたディーゼル機関車と、連なる3両の客車の姿。これは、快速「あそBOY」号のものだ。
「あそBOY」は、8620型蒸気機関車が牽引するウエスタン調の観光列車として、1988年から豊肥線を走り始めた。人気を博していたものの、やはり立野の急勾配は老体にこたえたようで、SLの老朽化から最近ではディーゼル機関車のアシストを得て走る有様だったらしい。そしてついに、SLはこの前日、8月28日をもって運行を終了してしまった。残り少ない夏の終わりまでもたなかったことからして、よほど‘容態’は悪かったのだろう。
SLなき今、とりあえずこの夏はディーゼル機関車がピンチヒッターを務めることになったが、発車を前にして「あそBOY」号はガラガラだった。夏休みも末の平日だからということもあろうが、やはり「あそBOY」はSLが牽いてこそのもので、ディーゼルでは役者が違うということか。はやく「後釜」を見つけたいところだろう。
さて、ここ宮地からは、普通列車の接続がない。宮地〜豊後竹田間は鈍行の極端に少ない(1日5往復)区間で、ここだけは特急を利用しないとうまくつながらないのだ。次の特急まで40分ほどあるので、駅を出てみる。
せっかくなので、阿蘇山をしっかり見渡せる場所へ出て、写真を撮っておきたい。その一心で、駅前から国道57号へ出て、西へ向けて歩く。実は、中学生の時にひとりで阿蘇へ来た際には、宮地から阿蘇までこの国道を歩いている。そのときも夏の暑い時期で、かなり参った記憶がある。
ところが、行けども行けども、よい場所に行き着かない。この国道、南側つまり阿蘇山の側に店だの何だのが建ち並び、景色を見渡せる場所がないのだ。意地になってどんどん歩くうち、宮地駅からずいぶん遠ざかってしまった。
もう少し、もう少しだけと、トータル2km近く歩き進み、いよいよタイムリミットかと思われたそのときに、やっと南側に出る路地を見つけた。そこで2枚だけ写真を撮り(そのうちの1枚が左のもの)、もと来た道を急ぎ引き返す。なんとか本懐を遂げられたからまだよかったものの、たった2枚の写真のためにこんなにムキになったのかと、我ながらばかばかしい。
復路は時計とにらめっこしながらだったが、最後はぎりぎりになり、駅まで走って駆け込む羽目になった。ホームにはすでに、入ってくる赤い特急列車の姿。切符も買わずに改札を抜け、そのまま乗り込む。
この特急、その名も「九州横断特急」という。2004年春、豊肥線の特急「あそ」と、肥薩線の急行「くまがわ」とを統合して登場し、人吉から熊本・阿蘇・大分を経由して別府へと至る。昔の急行列車を思わせるような強引なルート引きと、「九州横断」という身も蓋もないネーミングに、発表当初驚かされたものだ。
宮地を出た特急は、高度をさらに上げ、東側の外輪山を越えにかかる。カルデラが左手後方に去り、トンネルに突入する。九州一の標高の駅だという波野を通過すると、あとは下りの一途。人里離れた山林の中を進んでゆく。乱れた息は収まってきたが、汗がなかなか引かない。
この特急は2両編成で、後ろの車両が自由席。そしてなんとこの列車、特急でありながら「ワンマン」列車なのだ。女性乗務員がいるが、この人は「車掌」ではない。車内販売のワゴンを押し、客にコーヒーなどを売っている。
「九州横断特急」に使われている185系車両は、もともと四国の特急用だったのを、JR九州が久大線・豊肥線急行の特急化のためにJR四国から購入したものだ。もっとも、車両がグレードアップしただけで、スピードは急行時代からちっとも速くなっていない。(停車駅そのものは、むしろ急行時代より増えている。)元来速さを求められる列車ではないので、「九州横断」と名付けることで観光色を前面に出すことを意図したのかもしれない。実際、「あそ」から「九州横断」となった際に、車内は木目調のシックなものに改装されている。
大分県に入って豊後荻(ぶんごおぎ)に停車。いったん「人里」と呼べる場所に出たが、そこから再び山林へ。ダイナミックな景色を堪能できた熊本側と比べると、こちらは見えるものといえば林ばかりで、どれだけ下ってきたのかの実感もわいてこない。
さきの乗務員さんが、今度は切符発行の端末を持ってやってきた。もう豊後竹田が近いが、一応宮地から豊後竹田までの乗車券・特急券を頼んでみる。端末を打ち始めてはみたものの、竹田到着が迫って、「申し訳ありませんが、駅の方で」と、本当に申し訳なさそうに言われた。そして出て行って到着の車内放送。一人何役も、大変な仕事だと思う。降り際に、もう一度済まなさそうに頭を下げられた。
谷間に位置する豊後竹田(ぶんごたけた)駅。すぐ近くに絶壁がそそり立つ。滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとなった岡城が近く、ホームにこの曲が流れている。改札で精算を済ませ、武家屋敷風の駅舎を眺める。
ホームに戻ると、さきほど特急が停まったところに、次に乗る別府行きの普通が入っていた。宮地まで乗ったのと同じ、赤いキハ200で、これで豊肥本線はすべて、「赤い列車」で走り抜くことになる。JR九州は、イメージカラーである赤色を、車両デザインにも大胆に用いている。しかし、「火の国」を貫くこの豊肥線こそ、赤い色が最も似つかわしい路線だといえるだろう。
列車はさらに高度を下げつつ、山間を進んでゆく。しだいに谷が広り、単調な田園風景になってきた。眠気に襲われ、気づくと大分が近い。感動の連続だった豊肥本線の旅も、最後にはダレてしまった。
日が暮れてきて、今日の旅も終焉近しの雰囲気が漂ってきたところで、日豊本線に合流して大分に着。乗客のほとんどが入れ替わる。
この列車は、豊肥線から日豊線に入って別府まで達する唯一の普通列車である。しかし、さきの「九州横断特急」をはじめ、久大線の「ゆふ」や、宮崎方面への「にちりん」といった大分発着の特急の多くは、県庁所在地の大分ではなく別府を起点・終点としている。いかにも観光に重心を置く九州の鉄道らしいが、市街地外れの熊本からわざわざ武蔵塚まで乗り入れる「有明」にもみられるとおり、JR九州は「名より実を取る」方針なのかもしれない。
西大分を出ると、車窓右手に別府湾が広がってくる。海を見るのは実に、筑肥線に乗った朝以来のことだ。東別府までの比較的長い区間、列車は海岸に沿って、時にトンネルを出入りしながら快走する。併走する国道10号は、片側4車線ほどある幅広い道で、車が速いスピードで行き交っている。そして前方、湾の入り江に建物のひしめく別府の市街地が見えてくる。
日本一の湧出量を誇るという別府温泉だけに、そのにぎわいも半端ではない。夕刻のメインストリートは人の往来が盛んで、タクシーも頻繁に行き交っている。ただ私自身は、こういう‘いかにも繁華街’的な雰囲気は好きではない。
そこでまっすぐ通りを抜けて、海岸へと出る。穏やかな別府湾を小船が行き交い、南側には、お猿の住む高崎山も望まれる。振り返ると、山に向かってホテルの林立する温泉街。ヨットハーバーには多数のヨットやモーターボートが浮かび、リゾート地としての繁栄ぶりがうかがえる。
せっかく別府に来たのだから、温泉に入らない手はない。メインストリート沿いにある公共浴場。繁華街のど真ん中に立つ、やや場違いな洋館風の建物は、「駅前高等温泉」という名前だ。博士の帽子をかぶった人が出てきて、うんちくでも語ってくれるのかというような名称だが、もちろんそんなことはなく、カウンターに立つのは普通のおばさんだった。
入湯料300円を払い、貸しタオルと洗面器を受け取って中へ。古びたコンクリート造りの浴室へは、脱衣所から階段を下ってゆく。まるで岩穴の秘湯にでも入ってゆくかのような雰囲気だ。先客はだれもいなかったが、あとから「こんばんは」と言って年配の人が入ってきたので、「こんばんは」と返す。ぬるめの湯にじっくり浸かって、旅の疲れを癒す。
外はもう暗くなってきた。駅に戻り、土産と夕食を買うために店に入る。家への土産には、たこの干物を買った。温泉地でなぜ干物なのかと、我ながらおかしく思うが、菓子類を喜ぶ歳の家族でもないので、ほかに手頃なものが見あたらなかった。ただ、こうした観光地では、土産屋は多いが、意外に「普通の」店がない。土産選びで時間がなくなって、夕食まで手が回らず、缶ビールしか買えなかった。
柳ヶ浦行きの普通電車は、熊本県内でさんざん出会った、815系の2両編成。夕方ラッシュの時間帯と重なって、満員で別府を出る。しだいに客は減り、杵築(きつき)で席にありつけたものの、ロングシートではビールを飲む気が失せる。杵築から、瀬戸内海にコブのように突き出た国東半島の付け根を横切る格好での山越えとなるが、電車は田原坂で見せたと同じパワフルな走りで、夜闇の中を突っ走る。
柳ヶ浦の2つ手前の宇佐で下車。私の父の実家が宇佐の山奥で、今亡き父方の祖父が宇佐駅近くの病院に入院していたので、なじみは深い。(ただし実家に行くときには、柳ヶ浦駅を利用する事が多かった。)次に乗り継ぐ列車は宇佐始発なので、降りるのは宇佐でも柳ヶ浦でもよいが、宇佐の方が宇佐神宮の玄関口として有名で、市中心駅でもあるので、夕食調達には有利と読んでここで下車する。ちなみに私は、宇佐神宮に行ったことはない。
宇佐の駅舎は、宇佐神宮を意識してだろう、柱や軒下が朱色に塗られ、ライトアップされて妙にあでやかだ。しかし、建物自体は中規模駅にありがちな平屋のコンクリート造りなので、何だか庭先の松の木にクリスマスの電飾を取り付けたかのような無理矢理さが否めない。そしてその派手さとは対照的に、駅前は寂しく虫の声が響くばかりで、コンビニのひとつもない。夕食は小倉までお預けとなりそうだ。
門司港行きの普通電車に乗り、あとはひたすら小倉を目指す。食料調達はかなわなかったが、別府で買った缶ビールがまだ手元にある。あいにくこの電車もロングシートではあるが、ほとんど貸し切り状態なので気兼ねは要るまい。ぬるくなったビールを飲み干すと、空きっ腹に強力だったようで、たちまち眠くなった。大分県最後の駅である中津あたりまでは覚えていたが、その後1時間ほどは意識がなく、ふと目が覚めたときに目に入ったのは、「小倉」の駅名標だった。慌てて列車を降りる。
最初に小倉に到着してから16時間、ここに「北九州ループ」は完成した。
小倉で遅い夕食用のサンドイッチを購入して、この夏最後の「ムーンライト九州」号に乗り込む。往路と同じ4号車で、全く同じ車両、そして同様に冷房が効きすぎていた。これまで何度も経験してきたことだが、門司を出て、関門トンネルに入ると、「終わったな・・」と寂しさがこみ上げてくる。この夜はなぜか車掌が来ず、「指定席完売」のはずなのに隣の席は空いたままだった。キャンセルで払い戻しても190円しか返ってこない指定券なので、要らなくなったらそのまま捨ててしまう人が多いのかも知れない。
薄明るくなって加古川に到着。加古川線のホームには、おなじみ緑色のうるさい電車がもう待っている。「日常」に帰ってきたのだ。