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更新日:令和5(2023)年4月14日
ページ番号:314930
(しもふさこくぶんじあと)
国指定史跡
昭和42年12月27日
市川市国分3-20-1ほか
国分寺は正式名称「金光明四天王護国之寺」とよばれ、天平13年(741)聖武天皇が発した国分寺建立の詔勅により全国に建立された。下総国分寺跡は、市川市の通称国分台とよばれる標高約20mの台地の南端に所在しているが、現在の建物はいずれも江戸・明治期以降に建てられたものである。
昭和41年(1966)・42年(1967)に、市川市史編さんのため、市川市教育委員会により発掘調査が実施された。その結果、現本堂北側で金堂基壇(東西31.5m、南北19m)、金堂基壇中心から北西40mの位置に講堂基壇(東西26m、南北18m)、西へ39mの位置に、一辺18mの塔基壇といった中心的な建物跡が発見され、国分寺としてはめずらしく、東大寺式伽藍ではなく、法隆寺式伽藍配置であったことが明らかとなった。また、寺域内の一部の区域から、寺の営繕に係わる施設や厨と思われる施設が確認されている。
出土遺物は土器、金属器、陶磁器、瓦など多種多様なものが多数発見されている。そのうち、国分寺を表す遺物として「東寺」、「金」、「大寺」と書かれた墨書土器がある。また、下総国分寺を特徴づける遺物として軒先丸瓦があり、多くの国分寺では「蓮華文」とよばれる文様を軒先丸瓦に使用しているが、この国分寺では「宝相華文」とよばれる文様を使用している。
約300m東側に離れた台地斜面地には、宝相華文軒丸瓦をはじめとする下総国分寺に使用したと思われる瓦を製造した北下瓦窯跡が発見され、平成22年(2010)に追加指定された。
講堂跡
北下瓦窯跡
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