【ニュースペーパー2011年10月号】原水禁関連記事
2011年10月01日
●「さようなら原発」─6万人が集まり9.19集会開かれる
再稼働を許さない意志を1000万署名につなげよう!
●経済と環境を両立させた脱原発政策をめざす
ドイツ連邦議会議員・緑の党会派 副代表 ベーベル・ヘーンさんに聞く
●キャラバンと全国集会を開催 上関を「脱原発」の大きな転換点に
原水爆禁止山口県民会議 事務局長 大久保 弘史
●レイキャビク会談25周年を迎えて(1) 核兵器廃絶への展望を考える
「さようなら原発」─6万人が集まり9.19集会開かれる
再稼働を許さない意志を1000万署名につなげよう!
東京・明治公園を埋め尽くす全国からの参加者。
入りきれない人々の列は最寄りのJR千駄ヶ谷駅まで続いた。
「さようなら原発 いのちが大事!」「子どもたちを守ろう!」「海・空・大地を守ろう!」─会場を埋め尽くす6万人のシュプレヒコールが響き渡りました。福島第一原子力発電所の事故を受け、9月19日、作家の大江健三郎さん、鎌田慧さん、瀬戸内寂聴さんなどが呼びかけた「さようなら原発1000万人アクション」の集会が東京・明治公園で開催されました。原発問題を訴えるアクションでは過去最大規模のものとなり、脱原発への決意を新たにしました。
運動の結節点であり、出発点にしよう
最初にあいさつに立った鎌田慧さんは「この集会はこれまでの運動の結節点であり、これからの出発点だ」とした上で、「8割が原発はいらないと言っているのに、再開しようというのは人民への敵対行為だ」と、政府の動きを批判。「核と人類は共存できないことを訴え、1000万署名を達成しよう」と呼びかけました。
大江健三郎さんは「原発は荒廃と犠牲を伴う」とし、「イタリアは国民投票で脱原発を明らかにした。日本ではこれからも原発事故を恐れなくてはならない。私たちはそれに抵抗し、政治家や経団連に思い知らせるためには、集会やデモしかない。まず、それをしっかりやろう」と訴えました。
経済評論家の内橋克人さんは、地下原発など「原発の新たな安全神話」をつくり、核武装が可能な潜在力を持とうとする動きに警鐘を鳴らした後、「原子力エネルギーではなく、いのちのエネルギーが輝く国にしよう。今日はその第1歩を踏み出す日にしよう」と、再生可能な自然エネルギー推進を提唱しました。
「幼い子どもが『げんぱつこないで』と泣き叫ぶような社会をつくってしまった」と、落合恵子さんは悔やみながら、「次は誰が犠牲になるのかというストレスはもういやだ。原発という呪詛から自由になって、『いのち』から始まる社会をつくろう」と語りました。
脱原発はできるかどうかではなく、やることだ
骨折で療養中の作家の澤地久枝さんも立ち、「今日はなんとしても来たかった。広島・長崎の原爆を体験し
た日本は原発を持ってはいけないはずだった」と述べながら、「歴代の政権や電力会社の責任を明らかにさせて、市民の運動による世直しに希望をつないでいきたい。その人間の砦を築いていこう」と、力強くアピールしました。
環境団体のFoEドイツ代表でミュンヘン大学教授のフーベルト・ヴァイガーさんは、福島原発事故を受け、ドイツで2022年までに原発の全廃を決めた動きを報告し、「脱原発はできるかできないかではなく、政治
的にやるかやらないかの問題だ。国際的な連携を強め
て核のない社会を実現しよう」と呼びかけました。
俳優の山本太郎さんも駆けつけ、「3月11日以来、生き延びたいという気持ちが強くなった。そのためには原発を全て止めるしかない」とエールを送りました。
集会で発言する呼びかけ人の大江健三郎さん(中央)ら
悲しみの中から立ち上がる福島につながって
最後に福島からの1000人以上の参加者を代表し「ハイロアクション福島原発」の武藤類子さんが立ち、これまでの支援に感謝を述べた後、「福島の美しい風景に、放射能が降り注いで、不安の中で、逃げるか逃げないか、食べるか食べないかをめぐり、人とのつながりが引き裂かれてしまった」と涙をこらえながら、この半年を振り返りました。そして、まだ原発を推進する動きに対し、「バカにするな! いま私たちは静かに怒りを燃やす『東北の鬼』になって、悲しみの中から立ち上がっている」と憤怒をこめ、最後に「どうか私たちとつながり続けてほしい。忘れないでほしい。一人ひとり考え決断し、行動し横につながっていこう」と、力を込めて訴えると、満場の拍手がやみませんでした。
集会後、参加者は三つのコースに分かれパレード行進。楽器を演奏したり、横断幕やプラカードを掲げながら、「原発はいらない!」「再稼動をさせるな!」などと訴え、渋谷、原宿、新宿の繁華街を歩きました。沿道の関心も高く、手を振ったり、拍手をする人が続き、パレードは4時間近くにわたって行われました。
アーティストのU.Gサトーさんが呼びかけた「脱原発ポスター」
市民のグループではユニークなプラカードが目を引いた
印象的な言葉がそこら中にあふれた
「さようなら原発!」を強く訴える長野県原水禁
(写真はすべて今井明さん)
経済と環境を両立させた脱原発政策をめざす
ドイツ連邦議会議員・緑の党会派 副代表 ベーベル・ヘーンさんに聞く
【プロフィール】
1952年、ドイツ・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州フレンスブルク市生まれ。78~90年、デュイスブルク―エッセン大学で研究助手。85年に緑の党入党。90年、ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙で当選。95~2005年同州農業大臣。2005年ドイツ連邦議会選挙で当選。被爆66周年原水禁世界大会ではゲストとして参加。国際会議(広島)、長崎大会で報告を行った。
――ベーベルさんは元々、社会運動に関心を寄せていたのですか。
私は緑の党に関わるまで、特に他の党などに関わったことはありませんでした。1970年代半ばには、平和運動や反原発運動、女性運動など様々な運動があり、そうした運動が集まって緑の党が設立されました。
1970年代の運動は、私たちが親の世代に反発するという意味もありました。私たちの親の世代というのは、第二次世界大戦に直接責任を負っている世代と考えたからです。その戦争世代にはなかった、新しいものをつくり出していくという思いがありました。これは興味深いのですが、戦争責任を負っている国、ドイツ、オーストリア、イタリアもそうなのですが、これらの国は段階的な原発からの撤退を打ち出している国です。それが、世代間闘争といいますか、前の世代に対する反発の表れ、そうした意識があったということが言えるかもしれません。そのようなことで、私も緑の党に入党しました。
脱原発といえば、1986年のチェルノブイリ原発事故以前からその動きはありました。とりわけ、79年にアメリカのスリーマイル島原発事故が起こって、核汚染の問題であるという観点から、原発に反対する運動が盛り上がっていました。私も当時は学生でしたが、デモ行進にも参加しました。
チェルノブイリの事故当時、私はドイツ・ルール地方の工業地帯に子どもたちと二人でいました。しかし、実際に放射線の危険を知らされたのは、事故から5、6日経ってからのことでした。しかも、これはロシアからではなく、スカンジナビアの計測によって初めて知ったのです。そこから、ドイツの脱原発運動が盛り上がっていきました。
――なぜドイツは政治の中に脱原発を盛り込むことができたのでしょうか。
原発に対する経済利権というものはドイツにもありました。とりわけ、エネルギー関係の大企業は原発を推進したいという立場でした。そんな中でも、原発はダメだと主張する人も数多くいました。それでも、チェルノブイリ事故の前から原発に明確に反対していたのは緑の党だけでした。ドイツ社会民主党(SPD)に関しては、党内で二つに分かれていました。しかし、事故後は方針を転換して脱原発のほうへシフトしました。それで原発の段階的廃止ということを訴えるようになり、2001年の脱原発法につながったのです。
しかし保守政党は、エネルギー関連企業とのつながりが深いですから、推進の立場は変わりませんでした。そうした中で、メルケル首相は、稼働年数を延長する政策をとってきましたが、日本の福島第一原発事故を受けて、その方針を転換せざるを得なくなりました。
反原発のロビー活動ということを私たちもやっていて、エネルギー企業に対して、原発反対ということを訴えてきました。私も議員に当選して、この問題を調査、研究したのですが、こうしたエネルギー関連企業の利益は、脱原発法以降、逆に上がっているのです。2002年は60億ユーロだったものが、2010年には300億ユーロになっています。これは、電力4社の寡占状態に加えて、ドイツの電気料金がかなり高いということもあるのです。いかに経済的に、なおかつ環境的に良い方法でやるか、ということを議論の中心に据えてきたこともあります。
ドイツ全土から16万人が参加し脱原発デモ(5月28日・ベルリン)
――ドイツの労働組合は原発に対してどういう立場をとっていますか。
統一サービス産業労働組合(ヴェルディ)は、大学や企業の人々がメンバーになっていて、私もその一員です。現在、委員長は緑の党の関係者なのですが、原発に対する立場は、雇用状況でちょっと揺れています。しかし、実際には再生可能エネルギーのほうが雇用を生み出す力が10倍以上あります。
組合が対象にするのは、あくまで雇用されている人であって、失業している人とか、中小企業の人ではなく、大企業中心というところがあります。大企業にいれば、かなりの権利を持てるということがあります。労働組合はだいたい反原発の立場を取ることが多いのですが、100%そうとは言えません。左翼政党でも同様です。「反原発」でも、どこまで信用したらいいのか、よく見極めなければなりません。
チェルノブイリ原発事故の後、緑の党は「原発を全て閉鎖しろ」と、当時にしては急進的な主張をしたわけですが、選挙では残念ながら負けてしまいました。なぜかというと、人々は原発を閉鎖するのはいい、でもそれで雇用はどうなるのだということを心配していたのです。それに対する展望を当時は出すことができませんでした。その後、2001年にSPDと緑の党が20年間で段階的に原発を閉鎖するということを打ち出し、福島の事故を受けて、保守系の政党もほぼ同じ目標で閉鎖するということを言い始めています。
――2022年にドイツでは原発が全く動かなくなるということは確かなのですか。
2001年にSPDと緑の党、そして大企業である電力会社が妥協の末、言ってみれば協定を結んだわけです。緑の党には、なぜ20年もかかるのか、5年もあれば十分ではないかと反対の声もありました。ただ、この「妥協」がメルケル政権に原発稼働延長への言質を与えたということです。2022年に原発が全て停止するかということですが、9基のうち3基は確かに閉鎖されます。残りの6基に関しては2021年までとは書いてあるのですが、実はこの年の8月に選挙があります。その際に「経済への影響」ということを持ち出して、延長しようという動きが出る可能性はゼロとは言えません。
――今後、「EU全体で脱原発」という動きになっていくと考えますか。
メルケル政権が、原発の運転を12年間延長すると決めたとき、私たちは強く反対しました。その決定に多くの企業が支持を表明しました。ただ、興味深いことに1社だけ、それに反対した大企業があったのです。原発をなくすために、再生可能エネルギーを進めたいとするシーメンスです。自分たちが、フィンランドでの原発開発で大損しているという背景があるとは言え、シーメンスがそれに反対したのは興味深いところです。
もう一つ興味深いのは、エコノミストも指摘していることなのですが、今後5年間で環境部門の経済効果は、再生可能エネルギー関連企業が自動車メーカー(全体で約60万人)を凌駕し、それより多い雇用が生まれるのです。
EU全体としては、残念ながら脱原発の方向へ向かっていないと思います。国によってかなり傾向が違いますし、ドイツが原発の段階的廃止というのを決定したときに、中には「ドイツはどうかしている」とかなり怒っている国もありました。ドイツの後を追うような国もありますが、それとは全く違う方向へ進もうとしている国もあって、フランスはそのいい例です。多くの保守政党も、脱原発は決まってしまったものの、何でこんなことをやらなければいけないのか、という意識を持っているというのが実情だと言えます。
〈インタビューを終えて〉
「ドイツの気のいいお母さん」と言うようなベーベル・ヘーンさん。ドイツのポスト団塊世代か。「戦争世代の親たちの、前の世代に対する反発の表れ、その中で自らのアイデンティティーをつくり上げてきた」と述懐している。日本のポスト団塊の世代の私は、戦後の社会の中で、戦争世代の親たちの社会と闘ってきた団塊世代への、ゆがんだ憧れとある種の劣等感の中で生きているように思う。ベーベルさんのにこやかな笑顔と「日本人はどうして怒らないのですか?」という柔らかいが辛辣な批評。嗚呼、このように闘えたら日本も変わるのかと思う。
(藤本 泰成)
キャラバンと全国集会を開催
上関を「脱原発」の大きな転換点に
原水爆禁止山口県民会議 事務局長 大久保 弘史
福島原発事故を受け建設が困難に
上関原発建設をめぐっては、3月11日の福島第一原発事故以後、中国電力は3月13日、14日と準備工事を実施しようとしていましたが、福島の事故の影響はあまりに大きく、15日になって一時中断となりました。
しかし、原子力安全・保安院が指示している陸域での詳細調査は、6月まで行っていました(すでに海上ボーリングは中断)。それ以降、現在まで中国電力側の動きは止まったままです。
その間、3月22日には原水爆禁止山口県民会議など、地元の団体は中国電力本社(広島市)へ「建設中止」の申し入れを行いました。二井関成山口県知事は、6月27日の県議会本会議で「国の原子力政策や具体的な安全対策が示されていない現時点で、上関の計画自体が不透明な状況にあることから、埋め立て免許などの制度運用について新たな手続きに入ることはできない」と述べ、予定地の公有水面埋め立ての免許(2012年10月まで)の延長を現状では認めない考え方を示しました。8月1日には、「上関町の『原発建設中止!』を求める署名」が100万筆を超え、1,009,527筆を経済産業省の中山義活大臣政務官(当時)に手渡し、要請を行ってきました。新しく就任した野田佳彦首相の「原発の新設は現実的に困難」とする発言からも、電源開発・大間原発(青森・建設中)と共に残された、新規原発建設予定地である上関原発をめぐる動きは、ますます私たちの主張する方向になりつつあります。
広島・長崎からキャラバン行動―現地では集会開催
そのような流れの中で、上関原発の問題を広く訴えるために、8月16日から28日にかけて、長崎の爆心地公園を出発し、佐賀、福岡そして山口県内とつないでキャラバン行進を行いました。広島からも26日に広島市内の平和記念公園を出発し、28日の「さようなら上関原発全国集会」に合流しました。
炎天下、時には「ゲリラ豪雨」に襲われながら、二週間にわたって続けられたキャラバンでは、上関に原発が建設され、それが過酷事故を起こしたならば、周辺の町はもとより西日本一帯にも放射能が降り注ぐこともあり得ると訴えました。沿道からはたくさんの声援をいただきました。各地の原水禁組織、特に九州ブロックの原水禁の方々には大変お世話になりました。
キャラバンの締めくくりとして、上関町室津の埋め立て地において、「さようなら上関原発全国集会」を開催しました。山口県内はもとより、全国から1,250人もの参加を得ました。集会冒頭、原水禁山口の岡本博之議長があいさつを行い、「福島での原発事故をうけ、脱原発への動きが大きなうねりとなりつつある。さようなら原発1000万人アクションを成功させ、国のエネルギー政策転換を実現させたい」と訴えました。
続いて、上関原発を建てさせない祝島島民の会の山戸貞夫代表は、「上関原発準備工事は福島の事故を受けてストップしているが、推進派の中には、われわれの生活を壊すような動きも出てきており、上関原発の建設をやめると言わせるまでがんばりたい」と決意を語りました。また、長島の自然を守る会の高島美登里代表からは、環境保護団体として、各専門学会と連携した取り組みをさらに進めていることが報告されました。
福島からの報告として、福島県平和フォーラムの竹中柳一代表から、放射能被害の影響で地元の食物が口にできない現状や、福島県民の避難状況、県外への移転状況などが話されました。そして、福島第一原発事故により「福島県は人が住めないところ、耕作できない田畑、子や孫らの未来など、決して銭金(ゼニカネ)で取り戻すことのできないものを失った。福島を忘れさせないためにも国、政治の責任を追及すべき」と訴え、同時に「祝島はお金では買うことのできない、大きなものを守っている」とエールを送られました。
まさに「脱原発」への大きな転換点となるのが、上関原発の建設問題であり、上関が「脱原発」の最前線の闘いの場でもあることを改めて痛感させられました。ここが突破(建設)されれば、日本の社会において、二度と「脱原発」の社会はつくれないという思いです。
そして、参加者全員で「原発いらん」(原発いらない)とデモ行進を行った後、上関原発建設計画を中止させることが日本の脱原発の象徴になる、という集会宣言を採択しました。
レイキャビク会談25周年を迎えて(1)
核兵器廃絶への展望を考える
80年代の核戦争の危機と反核運動の高まり
1986年のアイスランド・レイキャビクで開催された米ソ首脳会談は、核問題の転換点としての意味を持つ会談でしたが、会談そのものは合意が成立したものではありませんでした。当時の状況は、80年代に入ると、ヨーロッパでは中距離核ミサイル配備をめぐって大きな反対運動が広がりました。英国でも米軍基地・グリーナムコモンへの巡航核ミサイル配備に反対する女性たちの運動など、英、独、オランダで、反核運動が広がっていきました。
米国では1980年11月の米大統領選挙で、軍需産業の支援を受け、旧ソ連の核兵器の恐怖を訴えた共和党のレーガンが大統領に当選し、中性子爆弾や新型核ミサイル(MX)開発を命じますが、米国でも核兵器凍結を求める運動がカトリック教会も巻き込んで全米的な運動となっていきます。米ソは81年から軍縮交渉に取り組みますが、ほとんど成果なく時間だけが経過していきました。こうした中、水爆研究者のエドワード・テラーが戦略防衛構想(SDI)をレーガン大統領に吹き込みます。
SDIとは、宇宙に巨大な鏡を打ち上げておき、発射直後のミサイルをその鏡に反射させたレーザー光線で迎撃するというもので、スター・ウォーズとも呼ばれました。レーガン大統領はこの構想に飛びつき、83年3月にテレビでSDIの必要性を訴えます。米国民はこの構想を一時は支持しました。
しかし、膨大な費用を費やすだけで、実現性がないことが次第に明らかになっていきます。米国の核問題専門誌「アトミック・サイエンティスト」の終末時計は、破局の3分前まで進みました。反核運動は一層広がりを見せ、レーガン政権は次第に追い詰められていきます。
この反核運動は、東欧でも教会関係者を中心に広がり始めます。「兵器を鋤(すき)に」という、ニューヨークの国連で展示されている東欧作家の彫刻をバッジやワッペンにして運動を始めました。
「核ゼロ」をめざしたゴルバチョフとレーガン
85年に、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、行き詰まっている軍縮交渉を打開するため、米ソ首脳会談などでレーガン大統領との対話を進める道をとり、軍縮交渉は一気に進展しはじめます。また、86年4月のチェルノブイリ原発事故に遭遇したゴルバチョフは、核戦争が起これば被害はチェルノブイリ事故よりももっと大きく、核兵器のない世界をめざすべきだと確信します。レーガン大統領もまた、ゴルバチョフ書記長を信頼できる相手として、ソ連との積極的な軍縮交渉を行うことを軍縮担当チームに命じていたのです。
こうして86年10月11日~12日にかけて、アイスランド・レイキャビクでレーガン大統領とゴルバチョフ書記長の会談が行われます。この場に同席した米国のマックス・キャンベルマン軍縮交渉主席代表によると、レーガン大統領はゴルバチョフ書記長に「核兵器ゼロ」の提案を繰り返し、もう少しで合意するところまでいったと述べています(「核兵器全廃への新たな潮流」・田窪雅文著・原水禁発行)。
結局、SDIで妥協が成立せず、会談は決裂しました。しかしこのときの交渉は、翌年12月にゴルバチョフ書記長が訪米し、ワシントンで開催された米ソ首脳会談で、中距離核兵器(INF)を全廃する条約調印として結実することになるのです。
核状況の悪化がつづく25年後の現在
レイキャビク会談から20年後の2006年、レーガン政権当時の国務長官だったジョージ・シュルツと、米スタンフォード大フーバー研究所のシドニー・ドレルを中心に、「レイキャビク20周年会議」が開催され、この会議を契機として07年1月と08年1月に「ウォール・ストリート・ジャーナル」にシュルツ、ヘンリー・キッシンジャー(ニクソン政権の国務長官)ら4人の連名で「核のない世界」を呼びかけ、これが09年4月のプラハでのオバマ大統領の核廃絶へ向けた演説につながっていくのです。
このオバマ演説を出発点として昨年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議へと世界の反核運動は盛り上がっていくのですが、核兵器国の抵抗で、期待したほどの成果は生まれず、2010年4月に署名した米ロの新START条約も、その後の展開は見えません。レーガンのSDI構想はミサイル防衛構想として生き続けています。
レイキャビク会談25周年を記念して今年も核廃絶の専門家会議の開催が予定されていますが、核兵器を取り巻く状況はすっかり変わってしまいました。この問題を運動の立場から、さらに検証していきたいと思います。
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