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目次
あ行
アイアンボトムサウンド
スペルは「Iron bottom Sound」。 ソロモン海、ガダルカナル島北方にある海峡のこと。日本語では「鉄底海峡」と呼ばれる。
ソロモン諸島方面は日米両軍が陸海空すべてのステージで死闘を繰り広げた戦場であるが、
中でもこの一つの小さな海域は、激しい戦いの末に海底を埋め尽くさんばかりの多数の艦船や航空機が沈んでいることから名付けられた。
艦これでは「南方海域」、5-3『サブ島沖海域 「第一次サーモン沖海戦」』が該当する。
そして、2013年11月1日から27日までのイベント「決戦!鉄底海峡を抜けて!」では主戦場となり、提督達の阿鼻叫喚が日夜響き渡る「アイアンボトムサウンド祭り」が繰り広げられた。
★この地で行われた主な海戦
・第一次ソロモン海戦(1942年8月9日)
・サボ島沖海戦(1942年10月11日-12日)
・第三次ソロモン海戦(1942年11月13日-15日)
・ルンガ沖夜戦(1942年11月30日)
★この地で眠る主な艦船(駆逐艦以上)
帝国海軍
戦艦(2隻):霧島・比叡
重巡(1隻):古鷹
駆逐艦(7隻):暁・綾波・高波・照月・吹雪・巻雲・夕立
その他(7隻)
連合国海軍
重巡(5隻):「アストリア」・「キャンベラ(豪海軍)」・「Northampton」・「クインシー」・「ヴィンセンス」
軽巡(1隻):「Atlanta」(他にも「ジュノー」が後退した後、伊26潜水艦の雷撃により撃沈されている)
駆逐艦(13隻):「アーロン・ワード」「バートン」・「ブルー」・「コルホーン」・「カッシング」・「デ・ヘブン」
「ダンカン」・「グレゴリー」・「ジャービス*1」・「リトル」・「モンセン」・「プレストン」・「ウォーク」
その他(11隻)
アウトレンジ戦法
戦闘において、相手の射程距離外から一方的に攻撃を行う戦法である。当然のことながら相手より射程距離の長い武器を必要とする。
艦これでは航空母艦「瑞鳳」「瑞鶴」がこの戦法に言及している。
- 海戦におけるアウトレンジ戦法は一般的な戦法であり、大艦巨砲主義や航空母艦の誕生とも密接にかかわる。
数で劣る日本海軍が戦艦「大和」「武蔵」を建造したのも、大口径(=長射程)の主砲で相手戦艦の射程外から一方的に先制打撃を加えて戦力を削ぐ目的であった*2。
太平洋戦争が始まると航空母艦が海戦の主役の座を奪ったのも、その搭載兵装である航空機の攻撃力と射程(航続距離)が戦艦のそれを遥かに上回ったためである。
- 後にマリアナ沖海戦において、第一機動艦隊(第三艦隊)司令長官小沢治三郎中将が航空機によるアウトレンジ戦法を考案した。
日本軍の空母9隻・艦載機500機に対して米軍の空母15隻・艦載機900機という戦力差を補うべく、日本海軍機の特徴である航続距離の長さを生かして米側の攻撃が届かない位置から先制攻撃を行い、あらかじめ敵空母の戦闘能力を削っておくことを狙った。
しかし、開戦当時の練度とは程遠いパイロットでは攻撃目標に到達することすら困難であり、疲労の中目標まで到達しても、強力なグラマンF6F戦闘機を配備しレーダーと航空管制を用いた高度な防空網と、新兵器VT信管を搭載(とはいえ使用率は)した対空砲火が待ち構えており、「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるまでの完敗を喫した。
また、そうまでして守ろうとした空母群も敵潜水艦の先制攻撃を受け大鳳、翔鶴を攻撃隊発進前に失うに至り、機動部隊は事実上壊滅した。 - とはいえ、目標に到達した機がいなかったわけでもなく、また数機程度ではあるものの当初予定のとおり陸上基地へたどり着いた機体があるのも事実ではある。
レーダー管制もVT信管も無い日本艦隊相手に全機撃墜され、9割(41機中4機のみ帰還)も戻らなかったミッドウェー戦時のアメリカ艦攻隊と比べれば、発着艦すらままならぬと言われた練度で数機程度でも生き残れた点だけはマシ…と言えなくも無い。 - 小沢中将のアウトレンジ戦法は「人命より艦を優先させる」「飛行機は弾丸の代わりと考える」とし、艦載機を空母の一兵装と捉えた、艦隊戦における伝統的な思想に基づく戦法であったことがうかがえる。
しかし、砲弾と異なり航空機は迎撃が可能であるため、実際の戦闘は航空戦に終始し、元より質・量ともに圧倒的な相手に対し、自軍の航空戦力にさらに負担を背負わせる形になった。
- 艦これでは23年春イベントからレーダー射撃と同じくよりによって敵側に砲撃戦においても射程距離外から一方的に攻撃を行うアウトレンジ戦法が実装されてしまった。
青葉型重巡洋艦
古鷹型重巡洋艦での運用上の不具合を解消するために設計しなおされた巡洋艦である。「青葉」「衣笠」の2艦が建造された。
人力装填だった主砲を機械装填の連装砲にし、高角砲も8cm⇒12cmに変更するなど古鷹型の教訓が生かされている。後の近代化改装では酸素魚雷の発射能力を古鷹型と共に手に入れている。
開戦時には「古鷹」・「加古」と共に第一艦隊・第六戦隊に所属し、小型ながら他重巡と同様最前線で戦い続けた。第一次ソロモン沖夜戦での輝かしい勝利は古鷹型・青葉型のハイライトである。
しかしサボ島沖夜戦では旗艦青葉が判断ミスから集中砲火を浴び大破、衣笠は第三次ソロモン沖海戦でエンタープライズに沈められることとなる。
唯一生き残った青葉はこの後2度も沈没の危機を迎えるがその度に死線をくぐり抜け呉に帰投した。彼女の運の高さはこれらのエピソードが由来である。
修理の見込みが立たず浮き砲台となった青葉は1945年7月24日の空襲でついに着底し終戦を迎えた。
朝潮型駆逐艦
ロンドン海軍軍縮条約脱退を前提に、白露型駆逐艦までの小型・重武装路線から舵を切った大型駆逐艦である。10隻が建造された。
艦のサイズは特型駆逐艦とほぼ同じだが、強度を確保したために排水量は約20%増えている。主砲・魚雷は白露型と同一のものを主砲1門増とし、さらに13mm機銃が追加された。
設計段階での性能(速力・航続力)に満足できなかった海軍は、すぐに陽炎型駆逐艦の設計に取り掛かるが、竣工後の公試では設計値を遥かに上回る数値を叩き出した。
初期には機関や舵での不具合も発生したが、一部艦が陽炎型と共通運用されているところからもその船体設計の優秀さは証明されている。
開戦時には「エース」である第ニ水雷戦隊、また第四水雷戦隊に所属した彼女たちは、戦争中を通じて前線を駆け回り全艦が終戦時までに喪失している。
その奮闘に比べ武運には恵まれない印象が強く、特に第八駆逐隊、第十八駆逐隊所属艦の戦歴は涙無しでは語れない。
ネームシップである「朝潮」が戦没した後は、「満潮型駆逐艦」と改定された。
朝潮型(10隻):朝潮・大潮・満潮・荒潮・山雲・夏雲・朝雲・峯雲・霰・霞
(※)開戦時の所属
第二艦隊・第ニ水雷戦隊(旗艦:神通)麾下
第八駆逐隊:朝潮・大潮・満潮・荒潮
第十八駆逐隊:霰・霞・(陽炎・不知火)
第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦:那珂)麾下
第九駆逐隊:山雲・夏雲・朝雲・峯雲
油の一滴は…
アイテム屋さんの特撰コーナー商品「タンカー徴用」の説明文にある言葉。
木炭や薪で動く自動車も使用されていたほど石油節約に励んでいた戦前の日本には、「ガソリン1滴、血の1滴」という標語があった(もとはフランスの首相クレマンソーの言葉らしい)。
大戦末期にはサツマイモや松の根から作った代用燃料を製造しており、戦後アメリカ軍がテストしたところ数日でエンジンが使い物にならなくなったと言う*3。
井上提督(井上成美)
いのうえ・しげよし/1889.12.9 - 1975.12.15
1933年~35年に当時練習戦艦であった比叡の艦長である。海軍兵学校37期の最先任者として数々の要職を歴任したエリート軍人であった。小澤治三郎とは同期で、ハンモックナンバーは井上の方が上(井上は2番、小澤は45番)である。また、日本帝国海軍として最後に大将になったので「最後の海軍大将」とも言われている。
大艦巨砲主義が海軍内でも常識だった頃に飛行機の兵器としての将来性に注目した一人。それは比叡の艦長時代に気づいたという。同じような考えは山本五十六、大西瀧治郎、小澤治三郎も持っていたが、井上は「将来の連合艦隊は雲の上」と主張していた。航空本部長時代には彼の考えに部下が全くついていけず、「一体あなたは(海軍を)どうしたいのですか!?」と聞いたところ、「海軍の空軍化だよ」と答えている。
昭和10年代前半、海軍省ナンバー3の軍務局長として米内光政大将(海軍大臣)や山本五十六中将(海軍次官)と共に日独伊三国軍事同盟に反対し、海軍記者からは「海軍三羽烏」と呼ばれ現在でも海軍の最強トリオとして伝えられている。対米戦開戦直前には米国と戦争になった際の敗戦や潜水艦による商船破壊、爆撃機による都市の空襲も予測する。そして、その予測は悉く的中していく事になる。
戦争中は第四艦隊司令長官として珊瑚海海戦を指揮した後、兵学校長となり堂々と英語教育を行うなど教育改革を実施した。兵学校校長で引退しようかと思っていたが、その後海軍大臣に復帰した米内光政によって海軍次官として中央に戻される。米内が大臣に復帰した時の第一声が「井上君は今どこにいる?」だった。海軍省で見た「メイキング」(ウソの報告)の山に驚き、「もう戦争できません」と大臣と共に終戦工作に奔走することになる。これは極秘中の極秘で、彼らの横で働いていた秘書官・副官でさえも「全然知らなかった」と戦後に述べている。
しかし、終戦間際に大将昇進と同時に次官を事実上解任され、そのまま終戦を迎える。米内による突然の「解任」は青天の霹靂であり、その理由は諸説あって海軍史に残る謎の一つである。
終戦後は横須賀に隠棲し、近所の子供たちのために英語塾を開講して教鞭を執った。1975年、86歳で老衰の為死去。
他人にも自分にも厳しすぎるきらいがあり、考えた末に正しいと思ったことは脅されても屈しなかった。「海軍三羽烏」の伝記を書き井上本人に会ったことがある阿川弘之も、「米内さん、山本さんとは気さくに酒が飲めそうだけど、井上さんとは一緒に酒を飲もうと思わない」と述べている。しかし、部下として接したことがある人は、「皆井上さんを冷たいとか厳しいと言うけれど、実は非常に優しい。女はそこに気づいている。だから芸者にあれだけ慕われるんだ」「あの人は話の筋が通らないことが嫌いなだけで、筋さえ通せば怖くもなんともない」と述べている。
教育に相当な興味があり、軍務局長時代に親しい記者に「将来どんなポストに就きたいですか?」と聞かれ、「練習艦隊司令官か兵学校校長だね」と即答していた。それを聞いたか知ったか、井上を兵学校校長にせよと嶋田繁太郎海軍大臣にゴリ押ししたのが山本五十六である。しかし、これはハンモックナンバー的には明らかに左遷であり、山本が何故「左遷」を海軍大臣に推薦したのかは謎である。
教官や生徒からも「国賊」「校長横暴」と罵られてまで押し通した兵学校の教育改革は、「日本は必ず戦争に負ける。負けた後の日本を立て直す人材を育成する」という一点であったが、それは「軍人として口が裂けても言えなかった」と心の奥に秘めていた。その教育は「教養教育」であり、今風に言えば兵学校を「軍事学部」から「教養学部」に変えるような大改革であった。その方針はそのまま現代の防衛大学校の教育に受け継がれ、防衛大学校の公式の歴史に名前が載っている唯一の旧日本軍軍人でもある。
特攻作戦も「あんなの作戦ではない」と猛反対し、戦艦『大和』の特攻が決まった時も軍令部に押しかけ、「特攻で死んでいく『大和』の若い者たちが可哀想だとは思わんのか!」と、同期の小澤治三郎軍令部次長を詰問している。
また、『大和』等の戦艦を優先的に修理せよという軍令部の命令に激怒、「あんたらはいつまで大艦巨砲主義の亡霊を引きずってるんだ。戦艦が航空機には叶わないってことを証明したのはあなた方ではないか。『武蔵』や他の戦艦がどんどん航空機攻撃で沈んでいってるのに、まだ目が覚めないか!」と伊藤整一軍令部長(当時)を詰問している。伊藤は「次官の言うこともわかるのだが…」とほとんど言い返せなかったという。
井上は、歴史の陰で意外な活躍をしている。
�二・二六事件を数年前から「予言」し、事件前から那珂に臨戦態勢を敷かせ(事件中は『那珂』は九州へツアー中だったので、『木曽』が出動)、比叡を東京湾に向かわせて天皇を救出しようとしていた。また当時の横須賀鎮守府は海軍内の皇道派の巣窟で、決起した陸軍青年将校に同調する動きをピシャリと封じ込めたことは、意外に知られていない。すべては鎮守府長官だった米内光政の許可済みだったが、事件当日米内提督が何と女遊びの上朝帰りで不在であったので、提督代理として鎮守府を指揮した。米内提督の「朝帰り事件」はバレるとクビの危機があったが、彼はそれを戦後、米内の死去まで隠し通し、歴史家も「米内さんを庇ったね」と総括している。
�終戦前の昭和20年、陸海軍を統合した「国防軍」と大本営陸海軍部トップの上に立つ「統合総参謀長」創設の動きがあった。これは事実上陸軍による海軍の吸収合併であり、軍令部は渋々同意したものの、井上は陸軍の陰謀と見破り米内大臣と共に猛反対し、これを流産させた。昭和天皇も「『統合総参謀長は米内でないと絶対に不可』という(陸軍が絶対承知できない)条件をつけたよ」と密かに彼らをバックアップしたことを、鈴木貫太郎総理大臣に述べている。
餓えた狼
重巡洋艦「足柄」のことである。1937年のジョージ6世戴冠記念観艦式に招待された際に、イギリスからつけられたあだ名に由来する。
日本では本艦への高評価と捉える言葉とされたが、英国側から見れば然にあらず。
(特に英国の)巡洋艦に本来求められた機能である「シーレーン防衛のための長期航行に耐えられる居住性・ゆとり」、
「外交の顔となる旗艦としての気品・優雅さ」といったものが無い無骨さが揶揄としての「狼」につながった様である
(そりゃあ1万t級の船体にあれだけの重武装ですから……。それにジャン・コクトーのように絶賛した人も多数いるのよ……)。
そんな経緯やあの容姿や発言もあり、いつの間にか「行き遅れのアラサーOL」キャラが定着する不憫な娘(熟れた狼)になってしまったのだが、
現在は足柄さんファンも急速に増えており、毎晩本気の「嫁争奪戦」が繰り広げられている模様。
乙型駆逐艦
艦隊型駆逐艦の甲型に対し、防空型として設計・建造された駆逐艦。
秋月型が該当する。
か行
改○○型
ゲーム内では2度目以降の改装を施された一部の艦で使われている艦型名称。
雪風改二が改陽炎型、Fletcher Mk.IIが改Fletcher級、伊勢型改二が改伊勢型、金剛型改二丙/乙が改金剛型、赤城改二/戊が改赤城型、加賀改二/戊/護が改加賀型、阿賀野型改二が改阿賀野型、龍鳳改二/戊が改龍鳳型、大和改二/重が改大和型、鳳翔改二/戦が改鳳翔型、稲木改二が改鵜来型、初月改二が改秋月型ということになっている。
が、本来の意味は下記のとおりで、軍事上の常識には反しており、あくまで艦これのゲーム内だけでの語であることに注意すること。間違えて使うと失笑を買う類。他所の三次と違って実在のものであるということをお忘れなく。
元の艦の図面を基本的には流用しているものの、この図面の段階で若干の改良(いわゆるマイナーチェンジ)を施して設計しなおし、新規に建造された艦を、既存と区別して改○○型、あるいはその改良第一号の艦名をとって××型などと呼ぶことがある。つまり間違っても大規模改装を施した後の艦を示すものではない。
書類上は同系列の艦形に含まれており、たいていは非公式の呼び方である。
・ゲーム内台詞での例
- 例1:海風 白露型7番艦だが艦橋形状などが変更されており、改白露型もしくは海風型1番艦とも呼ばれる。山風も同様。
- 海風がボイスで言い直しているのがそれである。山風は図鑑で改白露型を名乗る。
- 例2:葛城 台詞中に「改飛龍型」と出てくるが、雲龍型自体は飛龍の図面を基にした改良設計となっているため、改飛龍型と呼んで差し支えない
- 一般計画要領書では「302号艦(雲龍)型」には括弧書きで「飛龍改」と併記されている。
ちなみに鈴谷改二・熊野改二のボイスを聞くと「改鈴谷型=改装した鈴谷型の呼び方」かのようにとれる言い方をしているが、これは誤解というか誤用。
確かに鈴谷・熊野は最上・三隈と比べて船体形状やボイラーに図面段階での設計変更があるため、最上型から改良されたという意味で改最上型(鈴谷型)と呼ばれることはある。
だが、実際に改鈴谷型に当たるのは、鈴谷型の図面を流用して設計、建造開始されたものの竣工しなかった「伊吹」と「第301号艦」だけである。
他にも不知火改二の台詞中の「改陽炎型(しいて言うなら該当は夕雲型)」や運営ツイート内の「改長門型」や「改利根型」(計画のみ)や能代改二の台詞中の「改大和型,改阿賀野型(どちらも計画のみで実在しない)」など、特に最近運営側が誤用を増加・混在させている傾向にある。注意されたし。
間違って覚えないように。
陽炎型駆逐艦
朝潮型駆逐艦が設計時性能で振るわなかったことから1937年に建造を決定した大型駆逐艦である。
第三次軍備補充計画(マル3計画)で15隻、次計画(マル4計画)で4隻が駆逐艦(甲)として最終的に19隻が建造されている。
次代の夕雲型駆逐艦もマル4計画以降で駆逐艦(甲)として建造されたことから、併せて甲型駆逐艦と称するが、基本計画番号や艦艇類別等級別表では最初から別々の艦型扱いである。
艦のサイズは朝潮型と同じ2,000t級であり、兵装については主に量ではなく性能自体が強化され、竣工時から酸素魚雷を装備している。
航続力・速力は朝潮型(設計時)を上回り、まさに「艦隊型駆逐艦」の決定版と言えるものであった。
全艦が開戦時に竣工済。朝潮型と共に「水雷戦エース」として第二水雷戦隊を中心に配属され、一時は二水戦の駆逐艦を全て陽炎型にする転換案(八駆と十七駆の入替案など)も計画されるなど期待されていたが、時既に水雷戦の時代ではなく、激戦地で奮闘するも敗戦時に生き残っていたのは雪風ただ1隻であった。
(もっとも、南洋の輸送作戦中などで艦隊戦自体は発生しており、本領発揮する機会に恵まれた艦も居ないではない)
陽炎型(19隻):陽炎・不知火・黒潮・親潮・夏潮・早潮・初風・雪風・天津風・時津風
浦風・磯風・浜風・谷風・野分・嵐・萩風・舞風・秋雲
(※)開戦時の所属
第一艦隊・第一水雷戦隊(旗艦:阿武隈)麾下
第十七駆逐隊:浦風・磯風・谷風・浜風
第二艦隊・第ニ水雷戦隊(旗艦:神通)麾下
第十五駆逐隊:黒潮・親潮・早潮・夏潮
第十六駆逐隊:初風・雪風・天津風・時津風
第十八駆逐隊:(霰・霞)・陽炎・不知火
第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦:那珂)麾下
第四駆逐隊:嵐・萩風・野分・舞風
第一航空艦隊・第五航空戦隊(旗艦:翔鶴)麾下
戦隊直属:秋雲
なお、秋雲については戦後の一時期、夕雲型1番艦とされていたが、近年の研究結果から現在では陽炎型19番(最終)艦とされている(艦娘としてのイラストや台詞にも反映されている)。
観艦式
陸軍の観兵式に相当する、海軍の最高式典である。
艦これでは一艦隊だけで行う任務であるが、史実では天皇陛下を観閲にお迎えし大多数の艦艇が参加した大々的行事である。
ちなみにこの時天皇陛下が乗艦、観閲なされる艦を『御召艦』と呼ぶが、比叡はこの大役を担うという栄誉に三度も与っている。
なお、軍艦を並べてパレードするのは日本海軍と海上自衛隊位で、他国の海軍の観艦式は軍艦を並べて停泊させたところに観閲用の艦艇が航行することが多い。
艦長
「軍艦」の最高責任者である。日本海軍では巡洋艦以上の「菊のご紋章が付いた艦艇(※)」のみに存在し、中佐・大佐・少将が任を負った。
その権限は絶大だが責任も絶大であり、沈没時は艦と運命を共にするのが英国など一部の諸外国含めて暗黙の掟となっていた。
なお、現在も自衛隊では以下の規定がある。
「艦長は、遭難した自艦を救護するための方策が全く尽きた場合は、乗員の生命を救助し、
かつ、重要な書類、物品等を保護して最後に退艦するものとする。」
(※)「軍艦」に含まれない駆逐艦・潜水艦・海防艦等の最高責任者は「艦長」ではなく「長」である。
巡洋艦の艦長は「巡洋艦艦長」となるが、駆逐艦の長は「駆逐艦長」であって「駆逐艦艦長」は間違い。
艦長と同列の指揮官は「駆逐隊司令」や「潜水隊司令」となる。
艦内神社
日本海軍の艦艇内に設けられていた神社であり、航海などでの艦の安全を願って祀られたものである。
- それぞれの艦名に関わりのある神社を勧請しており、旧国名を由来とする戦艦は同じ国に存在した「一之宮*4」を祀る。
ただし例外もあり、例えば戦艦日向では一之宮ではなく県庁所在地にある宮崎神宮(宮崎市)が勧請されていたが、日向国(宮崎県)の一之宮である都農神社(宮崎県児湯郡都農町)が、日向に宮崎神宮とともに祀ってほしいと請願した記録がある。
その他の艦船では、艦名と同じ名前の由来を持つ神社を祀るケースが多かったとされる。ただし、あくまで任意に祀られたものであり、例外*5も存在する。- なお、軍艦全てに祀るよう指示された伊勢神宮以外にも、複数の由緒ある神社が存在する場合もある(例.赤城は赤城山中腹の三夜沢赤城神社が分祀元だが、頂上付近にある大洞赤城神社にも付き合いが有った)
- 現在でも未だ祀られた分祀元が判っていない艦もあるが、これは戦禍で分祀元に関する資料が紛失したり、戦後に分祀元の側で、縁の有る品や該当する部分の社務日誌を「戦争礼賛の証拠」とされることを危惧して廃棄した場合もあるため*6である。
余談ではあるが、駆逐艦「潮」が巨乳キャラになったのは、同艦の艦内神社を熊本県の潮神社と誤解したのが元?らしい。
なお潮神社が奉っているのが「おっぱいの神様」なのは事実である。
艤装
フネが目的を達する為に必要な工事のこと。またはそれによって搭載された機材のこと。
商船や個人所有の場合、進水から一貫して造船所が請け負う事が多い。
軍艦の場合、兵器と軍機を取り扱うため、民間から軍工廠が引き継ぎを受けるか、軍が民間を一時的に軍属に取り込んで対応する。
この際の作業の指揮監督を行うのが艤装員長で、通常は事故がなければそのまま初代艦長を拝命する。
給油艦
石油燃料を運搬、補給するための艦。
実装済みの艦では補給艦の速吸・神威・神威改母が給油艦を名乗っている。
千歳型水上機母艦は給油艦としての機能も備えており、千歳にはそれ由来の台詞がある。
剣埼型潜水母艦(祥鳳型軽空母の前身)は当初は高速給油艦として計画されており、瑞鳳にはそれ由来の台詞がある。
嚮導駆逐艦
作戦室や無線室など艦隊指揮官用の旗艦設備を持ち、駆逐艦隊の指揮が行えるようになっている駆逐艦。
旗艦設備を増設するため通常の駆逐艦よりも一回り大きくなる。
ТашкентとJervisが該当する。
キリン改二
朝潮役などの声優、宮川若菜が描いたキリンっぽいもの。
「ズイパラ!」で公式グッズが制作されたのち、サンリオに採用が決定し「KIRIN Kai-II」としてキャラクター化された。
佐渡や早波の期間限定グラフィックにも登場を果たしている。
近代化改修
旧式艦に現在の戦闘でも通用するよう改造を施して、性能アップさせること。リフォームみたいなものである。
米国のアイオワ級姉妹(戦艦)のように、艦齢が50年近くなのに近代化改修されて実戦(湾岸戦争)に参加した例や、
イタリアのようにフランス新戦艦への対抗として弩級戦艦を元の面影も無いくらいに大改装(魔改造)し、
近代戦艦に仕立てあげてしまった例もあった。
技術革新や実戦での教訓により、艦艇は一気に旧式化が進んだりするので、
どこの国でも積極的に行われる(勿論そのような意識とか余裕があればの話だが)。
最もこれは艦艇のみならず、航空機や戦闘車両など他の兵器にも当てはまる事である。
またワシントン軍縮条約下では主力艦建造禁止という制限があった為、それを補うべく、より積極的に行われた。
この他に、破損した艦艇が修復ついでに近代化改修を受けることもあった。
艦これでは、他の艦が必ず素材として消費されるが、もちろん実際はそんなことはしない。
不要な艦はせいぜい部品の流用が行われる程度である。
あとは後方支援の任務に回されたりスクラップや実験台や防波堤にされたりするくらい。
ワシントン軍縮条約・ロンドン軍縮条約において新造が禁じられたため、各国の戦艦群は、魔改造と言えるぐらいの近代化改修が実施された。
兵装や機関の入れ替えや、艦橋部の機能拡張(※)などあらゆる手段を講じたため、外見は新造時と比べて大きく変わり、性能も改善された。
(※)元々は箱形の艦橋部分から高所見張り台とそれの支柱が生えている簡素な外見だったところに、多層構造物を追加していったため、
外見的には二階建て一軒家から高層集合住宅にまで変化してしまった。
この多層構造の艦橋が仏舎利(パゴダ)を連想させることから、日本戦艦の艦橋はパゴダマストと呼ばれる。
空母機動艦隊
高速の空母と護衛の駆逐艦・巡洋艦で編成された艦隊のこと。単に「機動艦隊」あるいは「機動部隊」とも呼ばれる。
艦これの場合、旗艦と2隻目を高速の空母にし、その護衛として巡洋艦・駆逐艦を3~6隻目に配置すれば、綺麗な輪形陣の空母機動艦隊が完成する。
駆逐隊
水雷戦隊に所属し、数隻(4隻を基本とする)で構成された部隊。隊なので「司令官」ではなく「司令」が指揮を執る。
略号は「dg」*7。
雪風など駆逐艦達が「提督!」ではなく「司令!」と呼ぶのはここに由来する。
(「提督」とは呼ばれないのは、駆逐隊司令は大佐が担っていたため。
水雷戦隊の長は「司令官」たる少将が担当した。司令官は基本「将」なので「提督」と呼ばれる)
軽(航空)巡洋艦
艦これ内での軽巡洋艦の一種。もう少し突っ込んで言うと艦これ独自の区分。
水上爆撃機・回転翼機・航空要員が装備可能な反面、
大型電探は装備不可能であるのが、通常の軽巡洋艦との相違点。
GotlandとGotland andraが該当する(改造後のGotland改は軽巡)。
軽巡洋艦(二等巡洋艦)
ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約を経て規定された巡洋艦の分類である。略称「軽巡」。
最終的定義は「主砲が6.1インチ(15.5cm)以下、基準排水量が10,000トン以下の巡洋艦」である。
日本では二等巡洋艦として分類されていて、「川」の名前が艦名につけられた。
速度と航洋性、一定の戦闘力といった諸々の要素をバランスさせ、コストパフォーマンスにも優れた「艦隊の何でも屋」。
水上艦に想定される、およそありとあらゆる任務に従事したと言って良い。
なお球磨型、長良型、川内型は、その排水量から別名「5,500トン級」とも呼ばれる。
ワシントン軍縮条約以降、巡洋艦の大型化・重武装化を日本海軍は強力に進めたため、
「那珂」以降、純粋な軽巡は戦中の阿賀野型まで作られなかった。
そのため、開戦時には艦歴が15年を超える旧式船ばかりとなってしまった。
しかし、そのような条件下でも練度を極限まで高められた各艦は主に水雷戦隊の旗艦として運用され、
その活躍は麾下の駆逐艦と共に「華の水雷戦隊」と称された。
天龍型:「天龍」「龍田」
球磨型:「球磨」「多摩」「大井」「北上」「木曾」
長良型:「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒」「阿武隈」
川内型:「川内」「神通」「那珂」
夕張型:「夕張」
阿賀野型:「阿賀野」「能代」「矢矧」「酒匂」
大淀型:「大淀」「仁淀」*8
上記のほか、ゲーム中では重巡である最上型・利根型も書類上は軽巡とされていた。
理由については重巡洋艦の項を参照。
撃破
敵を無力化すること。類義語は「大破」で、決して完全破壊の意味ではない(ここ重要)。
戦力として役に立たない、戦闘不能の状態に追い込めれば、これを「撃破した」と言える。
さらに損害を与えて墜落に至らしめれば「撃墜」、沈没させれば「撃沈」である。
また防衛線や拠点などの場合、撃破後に占拠することで「陥落」となる。
例外は装甲車両などの陸戦兵器。
陸の上ではそれ以上落ちも沈みもしようがないからか、修理不能な完全破壊も含め大破以上は全て「撃破」となり、少々紛らわしい。
部隊や艦隊などといった大きな単位の場合、損害によって組織的な行動を出来なくした時点で撃破である。
やはり残らず破壊するなどしなくても達しうるもので、もしそこまでの被害を与えた場合は「撃滅」や「殲滅」等と称する。
艦これで例えるなら、A勝利が撃破、S勝利が撃滅に相当する。
B勝利についてはゲーム内表記のとおり、味方よりも敵の方が被害が大きかったという「戦術的勝利」であり、これは撃破とは呼ばない。
なお、任務(クエスト)の説明文にある「撃破せよ」「撃滅せよ」などの文言は、必ずしも達成条件と一致しているとは限らない。
ちなみに、自陣営が敵の攻撃を受けた際、これに反撃を加えて撤退に至らしめた場合は被害にかかわらず「撃退」という。
航空戦隊
航空機を主兵力として運用できる艦船2隻以上や、複数の航空隊で編成された戦隊のこと。
なんか定義が細かいのは、空母以外の艦種による航空戦隊も存在するため。(航空戦艦伊勢・日向による四航戦や、水上機母艦瑞穂・千歳による十一航戦など。)
陸上基地の航空隊で編成された航空戦隊も複数存在した。
「赤城」「加賀」の第一航空戦隊(一航戦)や「飛龍」「蒼龍」の第二航空戦隊(二航戦)、「翔鶴」「瑞鶴」の第五航空戦隊(五航戦)が有名。
高角砲
敵航空機の攻撃から自軍を護るために作られた火砲で、陸軍で言う「高射砲」と同一。
特徴は、仰角を高く(最高90度なんて種類も)取れることと、旋回・装填・砲弾の発射速度が高速であること。
特に装填は、基本的に砲身がどの仰角であっても装填できる能力を持つこと。
これが出来ない砲は、どれほど高仰角をとれても高角砲の対義語である「平射砲」に分けられる。
艦隊型駆逐艦が装備した12.7cm連装砲は改良型で75度までの仰角を手に入れたが、装填機構の改良が得られず、砲身を水平に戻して装填しなければならないため、高仰角での発射速度は同口径の高角砲には遠く及ばない。
甲型駆逐艦
艦隊型駆逐艦である陽炎型と夕雲型の、予算書類上での通称としての分類。昭和十四年度海軍軍備充実計画(マル4計画)中で「駆逐艦(甲)」とされたことに拠る。
同計画による予算で、陽炎型は嵐以降の4隻、夕雲型は11隻が建造されている。
ちなみに陽炎から野分までは1つ前のマル3計画での予算で建造されているが、この計画では単に「駆逐艦」とされている。
また海軍側での識別である艦艇類別等級表では、陽炎型、夕雲型は最初から別の扱いであり、甲型として統合されたわけでもない。
論議の的となった秋雲についても、同表では最初から陽炎型に記載されており、夕雲型へ移されたり逆に陽炎型へ移されたりした事実も無い。
つまるところ通称の類ということになるが、このあたりは特型とやや似ているものの、吹雪型で統一した艦型としていた特型と違い、最初から別々の艦型とされているところに違いがある。
行動半径
航空機もしくは艦艇が、拠点から出発して補給の為の中継点などを経由せずに、元の拠点まで戻ってこられる距離を半径として描く円、またその半径の数値そのもの。
早い話が手持ちの燃料で往復できる限界範囲のこと。
半径と名のつくとおり、この距離を半径とした円を描いて行動圏を示す。そのため算出は線であるが、比較の単位は面積であって「長い・短い」ではなく「広い・狭い」である。
更に兵装を搭載しての攻撃任務における距離で示すのが「戦闘(作戦)行動半径」。
戦闘時の消費予定分を除外して巡航分のみの燃料で計算されるので、当然のことながら通常の行動半径よりも狭くなる。
高速戦艦
ゲームでは速力が「高速」の戦艦、すなわち金剛型戦艦4隻とBismarck、Littorio姉妹、Iowa、Гангут*9、Richelieu、South Dakota、Washington、Conte di Cavour改を指す。
ちなみに金剛型は竣工時は『巡洋戦艦』であった。
後の第一次改装で防御力向上と引き換えに速力が低下したため『戦艦』に分類された。
第二次改装で速力が復活したが、区分は最後まで『戦艦』であり『高速戦艦』はあくまで俗称である。
ぶっちゃけた話、この「高速」という基準自体がかなり時代ごとの主観になっているため、数値での線引きが明確に無いからである。
そのため長門型は就役当時、速力26.5ノットを誇り、押しも押されもせぬ立派な高速戦艦だった(当時の金剛型は27.5ノットで1ノットしか違わない)。
大改装を受けて25ノットに下がってしまったが……。
日本の戦艦はアメリカに比べて速力を重視しており、一番遅い扶桑型でさえ同時代のアメリカ戦艦より2ノット余り高速だったことはあまり知られていない。
甲標的母艦
特殊潜航艇甲標的 甲型/丙型/丁型を搭載可能な母艦。
実装艦では水上機母艦の改造型千歳甲/千代田甲、瑞穂改、日進甲の4隻が該当する。
本ゲームでは独立した艦種としては登場せず水上機母艦に内包される形となっており、前述の4隻は改造前の初期段階から甲標的の運用が可能となっている。
護衛駆逐艦
商船護衛の目的で建造された小型の駆逐艦。
艦これ実装艦ではSamuel B.Robertsが該当する。
護衛対象が低速であることや、対水上艦戦闘が主としては想定されていないことから、速度は30ノットを切る低速設計となっている。
金剛型戦艦(巡洋戦艦)
全艦が大正初期に就役した、ゲーム実装艦全体通しても最年長の艦型(Гангутに抜かれたが)
ドレッドノート・ショックに対応しきれていなかった帝国海軍が英国に発注する形で一番艦「金剛」が誕生。
その際に日本側の要請で世界で初めて14インチ砲を装備された。
また彼女のデータを元に部品買い付け・国内組み立ての形で「比叡」、民間の重工業会社への委託という形で「榛名」、「霧島」が建造された。
建造直後はあくまで「超ド級の主砲を持った巡洋艦(巡洋戦艦)」とされたため、艦名は山の名から取られ、公式に戦艦とされたのは第一次改装後の事である。
第一次世界大戦当時は片親の英国も羨む存在であったが、WW1以降の建艦競争の激化によりこの発展系である「天城型巡洋戦艦」が計画されるはずであった。
しかし軍縮条約の影響でその目途が立たなくなり、幾度もの近代化改修を経て30ノット近い速力を誇る「高速戦艦」として生まれ変わり第二次世界大戦に突入。
本来期待された役目は「味方水雷戦隊の突撃を支援するため、巡洋艦以下の敵艦を蹴散らすこと」であったが、航空機と潜水艦の時代と化した太平洋戦争では本来の活躍が出来ず、それでも「古いから喪失してもあまり惜しくない」事情から各地の戦線を駆け回る(悪く言えば酷使される)。
結果として帝国海軍の戦艦としては多くの海戦に参加したが、第三次ソロモン海戦で比叡と霧島が沈み、捷一号作戦からの撤退中に金剛が斃れた。
辛うじて内地に戻った榛名も重油不足で二度と出撃できず、終戦間際に呉で浮き砲台として果てる。
そのため健在艦はなかったが、着底ながら戦没を免れた榛名は戦後解体という形で最期の務めを果たした。
ゲームでは第四艦隊の開放に全員そろえるのが必須となるため需要の高い艦娘である。建造でも出るが2-4突破以前ではほぼボス限定ドロップのため多少条件が厳しい。
第四艦隊開放とケッコンカッコカリ任務が連動しているため、ケッコンのためにも彼女らとの邂逅が欠かせない(課金アイテムとして指輪を購入する手段もある)。
他にも何かとケッコンに縁のある子らで、ケッコン後の出撃任務完遂により金剛型全員を改二にする任務が開放される他、ケッコンBGMが元の公式キャラソンが作られた。
ちなみにゲームで一度改造すると持ってくる41cm連装砲は、元々は長門型のほか天城型に装備される予定だったものであり、史実での運用実績はない。
さ行
作戦規模
艦これ運営が期間限定海域、いわゆるイベントの開始前に告知で使っている語。
本来は作戦目標の大きさや度合い、それによって必然的に決まる部隊数や兵員規模などで大小が決まるものだが、運営は何をどう勘違いしているのか単純にイベントでのマップ数のことを指して使っていて、ゲージ数やギミック数などとは無関係。
実は、これまで告知のあったものについてはマップ数3の際は「小規模*10」、4または5の際は「中規模」、6または7の際は「大規模」でアナウンスされており、一応は思いつき感覚で言っていたものではないらしい。意味を取り違えた表現なのは変らないのだが
これがハッキリしたのが21年夏イベの告知*11で、このときは「海域数規模」という多少マシな表現になったが、程度そのものの表記については「小規模」と変更はされおらず、これまでの例と同じくマップ数は3であった。いざフタを開けたときのゲージ総数や敵戦力については、既にご存知のとおりである。
つまり告知が小規模であろうが大規模であろうが、艦娘の練度や数、装備の程度といった攻略に必要となる自軍兵力の度合いとは一切関連性はない表現、ということである。複数ゲージだらけでも泣かない
ちなみに、今後の表現が「海域数規模」で固定となるようであれば、海域数といっている以上「小規模なのに大きb(」等は告知を読みとれていない八つ当たりになりかねない、ということでもある。どうぞご注意あれ。
酸素魚雷
魚雷推進の動力にはいくつかの種類があるが、終始水に潜りっぱなしという魚雷の特性上、内燃機関を動力源とする場合には燃料の他に酸化剤、要するに酸素が必要になる。
その酸化剤に純酸素を使用したものとして第二次大戦までの兵器史上では唯一の実用魚雷が、俗に言う日本の酸素魚雷である。
水上艦艇用61cm径の九三式魚雷、潜水艦用53.3cm径の九五式魚雷、そして甲標的 甲型に搭載された45cm径の九七式魚雷の3種類が、主に酸素魚雷と呼ばれるものとして該当する。
(一応、航空機用の九四式魚雷というものも存在するが、これは短期間のみで製造中止となった)
なぜ当時唯一かといえば「酸素を使う」ことの有効性に対して、純酸素の取り扱いなどに関して当時はあまりにデメリットが多かった、というのはご存知のとおり。
酸素それ自体もさることながら、搭載艦に酸素発生装置を併せて搭載しなくてはならないなど、総合的な運用上の難点が多かったこともある。
なお、非常に誤解されていることなのだが「酸素魚雷」というのは制式名ではなく、あくまで戦後の通称・俗称の類であるということ。
当時も酸素自体を「第二空気*12」等の別の名称で呼んで秘匿しており、酸素使用に関しては超絶重要な機密事項であった。
つまり「九三式酸素魚雷」という制式名の兵器は存在しない。くれぐれもお間違えなきように。
酒保
しゅほ。軍隊の施設や艦船の中に設けられた売店・購買。
日用品の他に嗜好品や食物も売っているので、軍隊内ではちょっとした心のオアシスとなる。
給料天引きで購入するため、給料封筒がスッカラカンとか封筒の中身は借用書のみという
笑えない軍隊逸話もある。
ゲーム内ではデイリー補給任務「艦隊酒保祭り!」にこの語を見られる。
また2014年9月末から隼鷹改が「酒保の方にも補給を頼むぞ?」と口にするようになったが、彼女の場合「酒をくれ」と言っているに等しい。
ちなみに現代の海上自衛隊艦艇でも酒保と呼ばれているが、航海中は禁酒のため酒類は置いていない。
重巡洋艦(一等巡洋艦)
ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約を経て規定された巡洋艦の分類である。略称「重巡」。
最終的定義は「主砲が6.1インチ(15.5cm)を超え8インチ(20.3cm)以下、基準排水量が10,000トン以下の巡洋艦」である。
日本では一等巡洋艦として分類されていて、「山」の名前が艦名につけられた。
ただし、当時の日本海軍はこの条約の抜け道(※1)を使った「重巡相当の軽巡」を作っていたため、軽巡(二等巡洋艦)扱いの(名前も河川名を持つ)重巡が数多くいる。
敵の同等以下の艦船を蹴散らし、かつ夜戦などで戦艦に肉薄攻撃でダメージを与えるというとんでもないコンセプトの下、限られた排水量の中で限界まで能力向上を図った結果、単艦あたりの戦闘力は他国重巡より数段優れたものとなった。
太平洋戦争中はその力を遺憾なく発揮し、海軍の「主役」としてあらゆる局面で活躍をすることとなった。
古鷹型:「古鷹」「加古(※2)」
青葉型:「青葉」「衣笠」
妙高型:「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」
高雄型:「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」
最上型:「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」(※3)
利根型:「利根」「筑摩」(※4)
(※1)日本海軍の行った抜け道は二つ。一つは条約脱退を見越し、後で20.3cm砲への換装可能な15.5cm砲を積んだ「軽巡」を作ったこと。
もう一つは基準排水量を過少申告し、実際は10,000トンを超える基準排水量で竣工させたこと。
……まあ、排水量過少申告は他国もやっていたのだが。ちなみに、ロンドン条約をマジメに守ったのはイギリスだけで、日本だけでなくアメリカも条約を守るつもりは全く無かった。
(※2)「加古」は当初川内型軽巡洋艦の予定だったが、キャンセルされた際にその名前で重巡とした例外。
(※3)15.5cm三連装砲を積んで竣工し、後に20.3cm連装砲に積み替えた。書類上は最後まで軽巡。
(※4)15.5cm三連装砲を積む予定で建造し、完成時は20.3cm連装砲で竣工。書類上は最後まで軽巡。
竣工
船が進水後の艤装工事と公試運転を終え、引渡し可能になること。
船の誕生日的な扱いを受ける日の一つであるが、こちらは用船側の主観による。
この日を以てタライモドキが完成品としての「商船」や「軍艦」となる。
旧海軍においては、竣工後の引渡しを以って正式に軍艦籍に編入、軍艦としての生涯のスタートとなる。
初めて軍艦旗を掲揚するのも、このタイミング。
軍艦旗自体は国際法の関係上、戦闘での破損や強風による喪失などといった不測の事態に備えて複数用意しているものではあるが、この初めて掲げた軍艦旗は、陸軍部隊で言えば隊旗に相当する、その艦にとって特別な意味を持つものとなる。
また、海軍的に、竣工できなかったことを未成と言う。
進水式を済ませて艤装を終える直前に廃艦処分を受けた戦艦「土佐」や、
着工直後に中止を受けて影も形も存在しない空母「翔鶴(二代目)」など、その程度は様々。
中止決定の段階で軍が引き取り、船体は適宜の方法で処分(大方は廃品業者に払い下げ、あるいは標的艦として撃沈処分)され、天城や翔鶴のように名跡は残って欠番として1つ送られる。
また民間発注の場合、程度に応じた金額は支払われるが、完成に必要な人員と資材を引き当ててから建造が始まるため、完成しないと引き当て分が多大な経費負担として残る。
巡洋戦艦
英語ではBattlecruiser(戦闘巡洋艦)であり、巡洋艦に戦艦級の攻撃力を持たせた艦船として定義されている。
金剛型は竣工時は巡洋戦艦であったが、後の第一次改装で防御力が向上したため戦艦に分類された。
ちなみに「戦艦としての防御力」の基準だが、おおよそ自身の主砲に耐えうるアーマー(防御甲板)を備えているかどうかである。
艦娘では他に「赤城」が当初巡洋戦艦として起工され、紆余曲折を経て正規空母となった。
本ゲームには図鑑などの一部で名称のみ登場し、艦種としての巡洋戦艦は存在しない。
探照灯の図鑑説明文に「巡洋戦艦が装備可能です」とあるが、これを装備可能な金剛型はゲーム上は最初から戦艦であり、巡洋戦艦としての金剛型は登場しない
(改造前のスロットが3しかない部分で「巡洋戦艦」らしさを出してはいる)。
公式の告知や図鑑中に巡洋戦艦とある場合、金剛型・Bismarck級・V.Veneto級・Iowa級・Richelieu級・South Dakota級・Гангут級の事を指す。
白露型駆逐艦
初春型駆逐艦での失敗を活かし、再度設計をし直した駆逐艦である。10隻が建造された。
友鶴事件の教訓を設計段階から取り入れて、安定性と船体強度を持たせているのが特徴である。
ただし、3連装×2基まで減らされていた魚雷発射管は4連装×2基に増強し、後に酸素魚雷搭載となった。
なお、後期の4隻は第四艦隊事件の教訓も取り入れて設計を改めたため「改白露型」「海風型」とも呼ばれている。
しかし、改良をもってしても重武装と安定性の両立は1,500トンの特型駆逐艦サイズでは難しく、
海軍はロンドン海軍軍縮条約脱退を見越して2,000トン級大型駆逐艦(朝潮型)の建造に舵を切ることとなる。
最前線で激しい戦闘を繰り返した故、残念ながら終戦まで健在だった艦は無かったが、武勲艦は数多い。
白露型 :白露・時雨・村雨・夕立・春雨・五月雨
改白露型・海風・山風・江風・涼風
(※)開戦時の所属
第一艦隊・第一水雷戦隊(旗艦:阿武隈)麾下
第二十七駆逐隊:(有明・夕暮)・白露・時雨
第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦:那珂)麾下
第二駆逐隊:村雨・夕立・春雨・五月雨
第二十四駆逐隊:海風・山風・江風・涼風
艦これでは武勲艦が多かったことから「改二」対象が7隻(白露・時雨・村雨・夕立・海風・山風・江風)設定されている。
さらに白露・村雨・春雨についても改造によって新グラフィックに変更されるようになった。
司令、司令官
一部の艦娘はプレイヤーの事を「提督」ではなくこう呼ぶ、二次創作の際には間違えないよう要注意である。
駆逐隊の指揮官という意味合いで駆逐艦がそう呼ぶと思いきや、巡洋艦クラス以上の艦娘がこう呼んだり「提督」と呼ぶ駆逐艦もいる。
それらにもまた史実における事情が混ざっていたりいなかったりするので、一度調べてみるのも一興かもしれない。
- 史実での「司令」「司令官」「司令長官」の使い分けについて。
- 駆逐隊などの「隊」の長・・・「司令」:中佐・大佐・一部の少将が着任
- 水雷戦隊などの「戦隊」の長・・・「司令官」:一部の大佐および少将・中将が着任
- 「艦隊」の長・・・「司令長官」:中将・大将が着任
⇒司令が「提督」と呼ばれるケースは例外的。
司令官の一部で「提督」と呼ばれないケースがある。
司令長官は皆「提督」である。
進水
船殻が完成し、初めて船渠から出渠すること。
この日に行われるのが「進水式」である。
船の誕生日的な扱いを受ける日の一つであるが、こちらは造船側の主観による。
船大工、造船技師にとって自分達の造った船の船出となる記念日であり、船渠から追い出して次の建造を受注できるようになる経営的に重要な日でもある。
対する用船側としては、この時点では艤装はおろか機関すら搭載されておらず、フネっぽい形をしたタライのようなものの未完成品でしかない為、引き渡し前の建造過程における中間日程、といった意味でしかない。
実際のところ、現物が未完成で試験も行っておらず、当然引渡し前の段階であるため軍籍には入っていないので、この時点では軍艦(=軍のフネ)ではない。
ちなみに、この進水式の際に命名されることも多いが、必ずしも艦名が決まるのがこの日、というわけではない。
水雷戦隊
2~4個駆逐隊と旗艦で編成される日本海軍の部隊で、軽巡洋艦が旗艦となり、少将が司令官に任じられた。
第一~第六、第十一の7個戦隊が編成された。略称は「○水戦:○すいせん」略号「Sd」
なお、エース扱いをされたのは前線部隊を担う第二艦隊所属の二水戦で、常に最新鋭の駆逐艦が配備された。
第一艦隊所属の一水戦は、戦艦主体である主力部隊の護衛が主任務のため、やや旧式の艦で構成されていた。
しかし水雷戦隊は損耗が非常に激しく、戦争末期の礼号作戦・北号作戦で第二水雷戦隊は日本海軍最後の勝利と作戦成功を成し遂げたが、その内情はほとんど第一水雷戦隊の看板替えであった。
ちなみに平時でも常に存在する常設とされたのは一水戦・二水戦までで、以降は戦時の編成である。
日本海軍の水雷戦の主力部隊として最前線で活躍を続けた。
水雷戦隊一覧
名 称 | 編 制 | 時 期 | 所 属 | |
---|---|---|---|---|
第一水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | ||
・「阿武隈」 | ・第六駆逐隊:「雷」、「電」、「響」、「暁」 ・第十七駆逐隊:「浦風」、「磯風」、「谷風」、「浜風」 ・第二十一駆逐隊:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」 ・第二十七駆逐隊:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」 | ・開戦時 (1941/12/10) | 第一艦隊 | |
・第六駆逐隊:「雷」、「電」、「響」、「暁」 ・第二十一駆逐隊:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」 ・第二十四駆逐隊:「海風」、「山風」、「江風」、「涼風」 ・第二十七駆逐隊:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」 | ・セイロン沖海戦後 (1942/4/10) | |||
・第六駆逐隊:「雷」、「電」、「響」、「暁」 ・第二十一駆逐隊:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」 | ・ミッドウェー海戦後 (1942/7/14) | |||
・第九駆逐隊:「朝雲」、「山雲」、「白雲」、「薄雲」 ・第二十一駆逐隊:「初春」、「初霜」、「若葉」 | ・ガダルカナル島撤退後 (1943/4/1) | 第五艦隊 | ||
- | ・第一輸送隊:「阿武隈」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」 ・第二輸送隊:「木曾」、「朝雲」、「薄雲」、「響」 ・第一警戒隊:「島風」、「五月雨」 ・第二警戒隊:「長波」 ・キスカ島未到達:「若葉」、「初霜」、「国後」、「日本丸」 | ・キスカ島撤退作戦時 (1943/7/29) | ||
・「阿武隈」 | ・第七駆逐隊:「曙」、「潮」 ・第十八駆逐隊:「薄雲」、「霞」、「不知火」 | ・戦時編制制度改定後 (1944/4/1) | ||
・第七駆逐隊:「曙」、「潮」 ・第十八駆逐隊:「薄雲」、「霞」、「不知火」 ・第二十一駆逐隊:「初春」、「初霜」、「若葉」 | ・マリアナ沖海戦後 (1944/8/15) | |||
第二水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | 時 期 | 所 属 |
・「神通」 | ・第八駆逐隊:「朝潮」、「満潮」、「大潮」、「荒潮」 ・第十五駆逐隊:「黒潮」、「親潮」、「早潮」、「夏潮」 ・第十六駆逐隊:「初風」、「雪風」、「天津風」、「時津風」 ・第十八駆逐隊:「霞」、「霰」、「陽炎」、「不知火」 | ・開戦時 (1941/12/10) | 第二艦隊 | |
・第十五駆逐隊:「黒潮」、「親潮」、「早潮」 ・第十六駆逐隊:「初風」、「雪風」、「天津風」、「時津風」 ・第十八駆逐隊:「霞」、「霰」、「陽炎」、「不知火」 | ・セイロン沖海戦後 (1942/4/10) | |||
・第十五駆逐隊:「黒潮」、「親潮」、「早潮」 ・第十八駆逐隊:「霞」、「霰」、「陽炎」、「不知火」 ・第二十四駆逐隊:「海風」、「山風」、「江風」、「涼風」 | ・ミッドウェー海戦後 (1942/7/14) | |||
・第十五駆逐隊:「黒潮」、「親潮」、「早潮」、「陽炎」 ・第二十四駆逐隊:「海風」、「江風」、「涼風」 ・第三十一駆逐隊:「長波」、「巻波」、「大波」、「清波」 | ・ガダルカナル島撤退後 (1943/4/1) | |||
・「能代」 | ・第二十四駆逐隊:「海風」、「涼風」 ・第二十七駆逐隊:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」 ・第三十一駆逐隊:「長波」、「巻波」、「大波」、「清波」 | ・「能代」編入時 (1943/9/1) | ||
・第二十七駆逐隊:「白露」、「時雨」、「五月雨」、「春雨」 ・第三十一駆逐隊:「長波」、「沖波」、「岸波」、「朝霜」 ・第三十二駆逐隊:「藤波」、「早波」、「玉波」、「浜波」 ・「島風」(駆逐隊を組まず単独で所属) | ・戦時編制制度改定後 (1944/4/1) | |||
・第二駆逐隊:「清霜」、「秋霜」、「早霜」 ・第二十七駆逐隊:「時雨」、「五月雨」 ・第三十一駆逐隊:「長波」、「沖波」、「岸波」、「朝霜」 ・第三十二駆逐隊:「藤波」、「玉波」、「浜波」 ・「島風」(駆逐隊を組まず単独で所属) | ・マリアナ沖海戦後 (1944/8/15) | |||
・「矢矧」 | ・第七駆逐隊:「潮」、「霞」、「響」 ・第十七駆逐隊:「磯風」、「浜風」、「雪風」 ・第二十一駆逐隊:「初霜」、「朝霜」、「時雨」 ・第四十一駆逐隊:「冬月」、「涼月」 | ・菊水作戦直前 (1945/3/1) | ||
第三水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | 時 期 | 所 属 |
・「川内」 | ・第十一駆逐隊:「吹雪」、「白雪」、「初雪」 ・第十二駆逐隊:「叢雲」、「東雲」、「白雲」 ・第十九駆逐隊:「磯波」、「浦波」、「敷波」、「綾波」 ・第二十駆逐隊:「天霧」、「朝霧」、「夕霧」、「狭霧」 | ・開戦時 (1941/12/10) | 第一艦隊 | |
・第十一駆逐隊:「吹雪」、「白雪」、「初雪」、「叢雲」 ・第十九駆逐隊:「磯波」、「浦波」、「敷波」、「綾波」 ・第二十駆逐隊:「天霧」、「朝霧」、「夕霧」、「白雲」 | ・セイロン沖海戦後 (1942/4/10) | |||
・第十一駆逐隊:「初雪」、「夕霧」、「天霧」 ・第二十二駆逐隊:「皐月」、「水無月」、「文月」、「長月」 ・第三十駆逐隊:「望月」、「卯月」、「三日月」 | ・ガダルカナル島撤退後 (1943/4/1) | 第八艦隊 | ||
・「夕張」 | ・第二十二駆逐隊:「皐月」、「水無月」 ・第三十駆逐隊:「卯月」、「夕月」 | ・戦時編制制度改定後 (1944/4/1) | ||
・「名取」 | ・第二十二駆逐隊:「皐月」、「水無月」、「夕凪」 ・第三十駆逐隊:「卯月」、「夕月」、「秋風」 | ・マリアナ沖海戦後 (1944/8/15) | 連合艦隊直属 | |
第四水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | 時 期 | 所 属 |
・「那珂」 | ・第二駆逐隊:「村雨」、「夕立」、「春雨」、「五月雨」 ・第四駆逐隊:「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」 ・第九駆逐隊:「朝雲」、「山雲」、「夏雲」、「峯雲」 ・第二十四駆逐隊:「海風」、「山風」、「江風」、「涼風」 | ・開戦時 (1941/12/10) | 第二艦隊 | |
・第二駆逐隊:「村雨」、「夕立」、「春雨」、「五月雨」 ・第四駆逐隊:「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」 ・第八駆逐隊:「朝潮」、「荒潮」 ・第九駆逐隊:「朝雲」、「山雲」、「夏雲」、「峯雲」 | ・セイロン沖海戦後 (1942/4/10) | |||
・「由良」 | ・第二駆逐隊:「村雨」、「夕立」、「春雨」、「五月雨」 ・第九駆逐隊:「朝雲」、「夏雲」、「峯雲」 ・第二十七駆逐隊:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」 | ・ミッドウェー海戦後 (1942/7/14) | ||
・「長良」 | ・第二駆逐隊:「春雨」、「五月雨」 ・第二十七駆逐隊:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」 | ・ガダルカナル島撤退後 (1943/4/1) | ||
第五水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | 時 期 | 所 属 |
・「名取」 | ・第五駆逐隊:「朝風」、「春風」、「松風」、「旗風」 ・第二十二駆逐隊:「皐月」、「水無月」、「文月」、「長月」 | ・開戦時 (1941/12/10) | 第三艦隊 | |
第六水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | 時 期 | 所 属 |
・「夕張」 | ・第二十九駆逐隊:「追風」、「疾風」、「朝凪」、「夕凪」 ・第三十駆逐隊:「睦月」、「如月」、「弥生」、「望月」 | ・開戦時 (1941/12/10) | 第四艦隊 | |
・第二十三駆逐隊:「菊月」、「夕月」、「卯月」 ・第二十九駆逐隊:「追風」、「朝凪」、「夕凪」 ・第三十駆逐隊:「睦月」、「弥生」、「望月」 | ・セイロン沖海戦後 (1942/4/10) | |||
・第二十九駆逐隊:「追風」、「朝凪」、「夕凪」、「夕月」 ・第三十駆逐隊:「睦月」、「弥生」、「望月」、「卯月」 | ・第二十三駆逐隊解隊後 (1942/5/25) | |||
第十一水雷戦隊 | 旗 艦 | 駆逐隊 | 時 期 | 所 属 |
・「龍田」 | ・第六駆逐隊:「雷」、「電」、「響」 ・「新月」、「玉波」 | ・新編時 (1943/4/1) | 第一艦隊 | |
・第六駆逐隊:「雷」、「電」、「響」 ・「早霜」、「秋霜」、「霜月」 | ・戦時編制制度改定後 (1944/4/1 | 連合艦隊直属 | ||
・「長良」 | ・第四十三駆逐隊:「松」、「竹」、「梅」、「桃」、「桑」、「槇」、「桐」 | ・マリアナ沖海戦後 (1944/8/15) | ||
・「酒匂」 | ・「花月」、「宵月」、「桜」、「楢」、「椿」、「欅」、「柳」、「橘」、「楡」、「蔦」 | ・菊水作戦直前 (1945/3/1) | ||
・第五十三駆逐隊:「桜」、「楢」、「椿」、「柳」、「橘」、「欅」 「柿」、「菫」、「榎」、「楠」、「雄竹」、「初桜」、「樺」 | ・最終時 (1945/6/1) |
戦隊
旧日本海軍における艦隊の下位単位。
艦隊は複数の戦隊に区分することが出来る。
では戦隊が何から編成されるかと言うと大雑把に言えば、
- 2隻以上の軍艦
- 軍艦+軍艦以外の艦艇(駆逐艦など)や航空隊
- 2隊以上の航空隊
な感じ。
例)太平洋戦争突入直前の編成
第一戦隊(1S) ・・・戦艦2隻(長門・陸奥)
第四戦隊(4S) ・・・重巡4隻(愛宕・高雄・摩耶・鳥海)
第二水雷戦隊(2Sd)・・・軽巡1隻(神通)+3~4個駆逐隊
第一航空戦隊(1Sf)・・・空母2隻(赤城・加賀)
他にも潜水艦によって編成される潜水隊が数個集まった潜水戦隊(略称Ss)がある。
た行
第一機動艦隊
艦これでは「蒼龍」のMVP時のセリフでおなじみ。ミッドウェー海戦での機動部隊を指す。
だが、これは蒼龍の勘違い*13で、蒼龍が健在であった頃の正しい名称は「第一航空艦隊」。むしろ何故知っているのかが謎である。
なお、第一航空艦隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の6隻、及び各航空戦隊麾下の駆逐艦で構成される。
真珠湾以降、この6隻が揃って参加することがなかったのもあるが、ミッドウェー組の4隻ではなく第一航空艦隊=南雲機動部隊とされることもある点にご留意を。
第一航空戦隊
艦これでは「赤城」「加賀」が所属する航空戦隊で、略称「一航戦:いっこうせん」。
太平洋戦争開戦前までは、この二艦以外に「鳳翔」「龍驤」が所属していた時期もある。
ミッドウェー海戦以降は「翔鶴」「瑞鶴」が引き継ぎ、以降はその時点での最新鋭正規空母が所属することとなる。
このように様々な艦が所属していたが、艦これではほぼ赤城と加賀のみを指して使われている。そのため、一航戦改二と書かれている場合も、龍驤改二や翔鶴改二等は含まれない。
なお二航戦・五航戦も、それぞれ蒼龍と飛龍・翔鶴と瑞鶴のみを指して使われている。
第九駆逐隊
のちに第二十七駆逐隊となる第4代編成と初代第四十一駆逐隊からの改称となる第5代の2編成が艦娘により編成が可能で、大東亜戦争開戦時の第九駆逐隊が初代第四十一駆逐隊を基にする朝潮型中期ロットの駆逐隊として提督たちにはおなじみだろう。
初期編成艦は2014年秋イベ『発動!渾作戦』で実装された「朝雲」とその僚艦「山雲」「夏雲」「峯雲」により編成された。この4隻が艦これに揃うのに9年間を要した。当初の駆逐隊名である「第41駆逐隊」というセリフを夏雲が述べる場面があるが、こうした経緯による。「冬月」のいう第41駆逐隊とは別物であり、母港が横須賀鎮守府である以外の関連はない。
開戦時は那珂を旗艦とする第四水雷戦隊に所属。山雲が1941年12月31日の接雷事故で除籍修理、1942年10月夏雲をサボ島沖海戦で戦没、1943年3月峯雲をビラ・スタンモーア夜戦でそれぞれ失い所属艦が朝雲1隻となるも1943年4月1日、吹雪型駆逐艦「薄雲」「白雲」を加え阿武隈を旗艦とする第五艦隊第一水雷戦隊に転籍。
朝雲・薄雲がキスカ島撤退作戦に参加後、1943年9月1日修理明けの「霞」を編入、10月31日最後のスタメン朝雲が第十駆逐隊に転籍。
1943年3月1日修理明けの不知火を編入。16日護衛作戦中、白雲を米潜水艦トートグの雷撃により失い、3月31日解散。第十八駆逐隊と改称。
2023年夏イベ前段E-4の舞台は一水戦時代の9駆であり、作戦バナーも朝雲・霞・薄雲・白雲が登場していた。
第五艦隊
12月11日に新規実装された任務「第五艦隊を編成せよ!」でおなじみ。
『艦これ』では「那智」「足柄」「多摩」「木曾」で編成される艦隊である。これは1944年4月1日時点での第五艦隊第二十一戦隊の編成であり、更に第一水雷戦隊が加わったのが当時の第五艦隊の全艦艇となる。
史実ではアリューシャン方面からのアメリカ軍の反攻を防ぐために奮闘し(アッツ島沖海戦。43年3月27日)、レイテ沖海戦でも志摩艦隊として西村艦隊を追いかけてスリガオ海峡に突入を試みている。
1944年04月01日時点での所属
第五艦隊(司令長官:志摩清英中将)
また、アリューシャン方面での一連の戦いが、17春イベのモデルとなった。
第五航空戦隊
任務『「第五航空戦隊」を編成せよ!』でおなじみ。「翔鶴」「瑞鶴」が所属する航空戦隊で、略称「五航戦:ごこうせん」。
原忠一少将指揮の下で猛訓練をし真珠湾攻撃には間に合ったが、搭乗員の練度が一航戦・二航戦に及ばなかった*14とされている。
さらに、珊瑚海海戦で搭乗員にかなりの損失が出た上に翔鶴が中破したためミッドウェー海戦からは外されてしまうことになる。
ミッドウェー後は両艦が第一航空戦隊を編成することで、五航戦は解散となった。
第五戦隊
2014年5月23日に新規実装された任務 『「第五戦隊」を編成せよ!』『「第五戦隊」出撃せよ!』でおなじみ。
艦これでは重巡洋艦「妙高」「那智」「羽黒」で編成される艦隊である。
これは、太平洋戦争開戦時の第五戦隊の編成である。
史実では第二艦隊に所属して、当初は南方攻略の支援を行っていたが、
「那智」はスラバヤ沖海戦後に北方部隊へと編入されて第五艦隊の旗艦を務めることとなり、更にミッドウェー海戦後に第二十一戦隊に転属となったため、
第五戦隊が「妙高」「那智」「羽黒」で編成されていたのは、実質的に太平洋戦争開戦後3ヶ月の間だけであった。
その後は「妙高」「羽黒」の2艦編成となり、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などの主要な海戦に参加し奮戦を続けたが、
レイテ沖海戦で「妙高」が損傷。一旦は外洋航行が可能な状態にまで復旧するも、その後のアメリカ軍の攻撃により大破し行動不能となってしまう。
戦争末期の1945年2月には「妙高」の代わりに重巡洋艦「足柄」が配属され、新たに編成された第十方面艦隊の直属艦艇としてシンガポールを中心とした南方戦線を担当することになるが、
この時期既に本土と南方との間の制海権は失われつつあり、他の主要な残存艦艇の殆どが本土に帰還・撤退する中での配属は、事実上「南方に取り残された」と言えるものであった。*15
南方では厳しい戦局の中で輸送任務に従事するも、1945年5月16日、ペナン沖海戦で「羽黒」が沈没。
残された「足柄」も1945年6月4日、敵潜水艦の攻撃を受けて沈没。
歴戦の第五戦隊も、遂に全ての所属艦を失い解隊となった。
※太平洋戦争時には、他に重巡洋艦「高雄」「利根」や、軽巡大淀が所属していた経験がある。
第三航空戦隊
艦これでは昭和18年に軽空母に改装されたばかりの「千歳」「千代田」で編成された航空戦隊を指す。略称「三航戦:さんこうせん」。
ただ、太平洋戦争開戦時は「鳳翔」「瑞鳳」の部隊が三航戦を編成していた。その前は「龍驤」も所属。
2015年10月の新任務では千歳、千代田に加え「瑞鶴改」と「瑞鳳」が必要になるが、こちらは史実で言うと昭和19年8月の再編で組織されたものである。
捷一号作戦発令により、敵機動部隊を誘引する「囮」として、帝国海軍機動部隊最後の出撃をすることとなった。
第三十駆逐隊
艦これでは、任務『「第三十駆逐隊(第一次)」を編成せよ!』『「第三十駆逐隊(第二次)」を編成せよ!』などでお馴染み。
睦月型駆逐艦のみで構成された駆逐隊であり、艦これでは「睦月」「弥生」「望月」と、第一次では「如月」、第二次では「卯月」の四隻で構成される。
艦娘だけで編成でき、かつ公式に名前が出ている数少ない駆逐隊の一つである。
史実では太平洋戦争開戦時には第四艦隊・第六水雷戦隊に所属しており、当時の水雷戦隊旗艦は「夕張」であった。
真珠湾攻撃での別働隊としてウェーキ島攻略作戦を行うが、砲撃中にF4Fの空襲を受け如月が撃沈されてしまう。
その後は、南方方面の攻略作戦に投入され、主に船団護衛を中心に活躍する。
如月喪失後は3隻での活動であったが、1942年5月に「卯月」が転属し再び4隻体制となる。
ソロモン海での激闘の中「睦月」「弥生」が失われると一旦は解隊となるが翌年に再建される。
この後は睦月型・神風型駆逐艦を次々と配備されては失われることとなり、1944年12月に全艦喪失で再度解隊となった。
所属した艦娘が多いため、「俺だけの第三十駆逐隊」を作ることが可能。以下に変遷と対応する任務を記載しその一助としたい。
- 1941年12月(開戦時) :「睦月」「如月」「弥生」「望月」(第一次)
- 1942年05月(卯月編入):「睦月」「弥生」「卯月」「望月」(第二次)
- 1943年03月(再編) :「望月」「三日月」「卯月」
※他、1943年11月以降の所属経験者は「夕月」「松風」「秋風」「夕凪」「皐月」「旗風」「汐風」がいる。
第三十一駆逐隊
艦これでは、任務『精鋭「三一駆」、鉄底海域に突入せよ!』などでお馴染み。
大東亜戦争開戦後に完成した夕雲型駆逐艦により編成され、損耗により新たな駆逐艦が新たに編入されたことから、時期により編成が大きく異なる。艦これでは2023年8月現在夕雲型駆逐艦で編成された駆逐隊で未実装艦を含む唯一の駆逐隊である。
1942年8月31日、「長波」と「巻波」により編成(司令艦:巻波)。第二水雷戦隊(旗艦:神通。但し臨時旗艦として五十鈴・早潮等。)所属となる。
10月1日、「高波」を編入(司令艦:高波)。第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦に従事(二水戦臨時旗艦:長波)。ルンガ沖夜戦(1942年11月30日)にて「高波」を喪う。
1943年1月20日、「大波」が編入され(司令艦:大波)、更に同年2月25日「清波」を編入。一方、「長波」「巻波」はそれぞれ作戦中の損傷により本土にて整備に入る。「長波」の損傷は比較敵軽微で7月の北方ケ号作戦に従事。一方の「巻波」は9月下旬まで舞鶴で修理を受けた。
「大波」「清波」は4月以降内南洋部隊指揮下に組み込まれ、第四根拠地隊及び第二海上護衛隊の指揮下にて船団護衛に従事。更に6月以降「大波」「清波」は別行動となり、「大波」は7月上旬船団護衛で本土帰還、一方の「清波」は第三戦隊指揮下に組み込まれニュージョージア島の戦いに従事。7月12日のコロンバンガラ島沖海戦に参戦。7月20日「清波」は27駆「夕暮」と共に戦没した。
一方の「大波」は8月に「大鷹」の護衛をつとめた後舞鶴工廠にて修理を受けた。9月上旬には大波・巻波の修理も完了し31駆はラバウルに進出。
11月11日、ラバウル空襲にて「長波」は大破。同空襲の損傷艦共々長波は本土に帰還。11月20日、大波・巻波は三水戦指揮下の輸送作戦に従事中米海軍第23駆逐戦隊(隊司令:アーレイ・バーク大佐)との間で戦闘となり(セント・ジョージ岬沖海戦)、大波・巻波、11駆夕霧が戦没した。
1944年2月10日、修理中の「長波」のみとなっていた31駆に第11水雷戦隊で錬成中の「沖波」「岸波」「朝霜」(朝霜のみ横須賀鎮守府籍)が編入され、司令艦は岸波となる。編入3隻により輸送作戦に従事。
1944年6月のマリアナ沖海戦には前衛部隊に所属。同年10月のレイテ沖海戦では第一遊撃部隊第一部隊。長波・朝霜は第4戦隊の損傷退避に随伴。岸波・沖波は引き続き本体に追従し護衛に従事。
1944年11月、長波・朝霜が第4次多号作戦及び第3次多号作戦に従事。11月11日、第3次多号作戦にて長波戦没。同13日のマニラ湾空襲にて沖波戦没。11月15日、艦隊再編により31駆は第二遊撃部隊第一水雷戦隊に編入し朝霜が第二駆逐隊に転出。ただ、同年11月20日に第一水雷戦隊は解散され第二水雷戦隊に再編入される。12月4日、護衛中に岸波が米潜水艦フラッシャーの雷撃により戦没。1945年1月10日の除籍により31駆は解散となった。
第三戦隊
艦これにおいては金剛型戦艦4人で編成された戦隊。
これまで彼女達を編成する任務自体は存在しても名称は使用されていなかったが、
2014年7月28日のアプデで「精鋭『第三戦隊』全艦集結せよ!」が追加された。
ただし「精鋭」の名が示すとおり姉妹全員を改二にする必要がある。
全員最低レベル75、榛名に至っては80ものレベルが必要、
なおかつ任務発生にはケッコンカッコカリ任務「二人でする初めての任務!」の完遂が必須となるため、相当長い道のりとなるだろう。
第一次世界大戦前後に金剛型で編成された戦隊が由来であり、当時は当の金剛出身地である英国からも羨まれる存在であった。
ただし4姉妹がそろって所属していた例は稀で、それぞれの近代化改装や比叡が練習戦艦として御召艦任務を行うなどもあり実質は4隻中3隻が持ち回りで属していた。
また大正末期より金剛型は第四戦隊に移籍しており、その間は軽巡中心の戦隊となっていた。
昭和11年以降再び金剛型主体の戦隊となり、日米開戦前に編成上初めて4姉妹が揃い踏みしたものの、第一小隊の比叡・霧島と第二小隊の金剛・榛名で分かれて行動する場合が主であった(旗艦は比叡)。
一応、インド洋作戦など全員が一堂に会する作戦もなかったわけではない。
ミッドウェー以降の再編により比叡と霧島は第十一戦隊に移され、数ヶ月のうちに第三次ソロモン海戦で相次いで沈む。
残された金剛と榛名のうち金剛の戦没後は穴埋めで長門が配属されたものの、燃料不足により横須賀にいた長門と呉にいた榛名は顔合わせしておらず、そのまま昭和20年に解隊となった。
第十八駆逐隊
艦これでは、任務『「第十八駆逐隊」を編成せよ!』でお馴染み。
駆逐艦「霞」「霰」「陽炎」「不知火」の4隻で編成される駆逐隊である。
艦娘だけで編成でき、かつ公式に名前が出ている数少ない駆逐隊の一つであり、朝潮型・陽炎駆逐艦で構成された混成の駆逐隊である。
史実では太平洋戦争開戦時には第二艦隊・第二水雷戦隊に所属しており、当時の水雷戦隊旗艦は「神通」であった。
主に南雲機動部隊と共に活動をし、ミッドウェー作戦後はキスカ島攻略に投入される。
この攻略作戦中の1942年7月5日に米潜水艦「グローラー」の雷撃を受け、「霰」が沈没、「霞」「不知火」は艦首切断の被害を受ける。
宮坂義登大佐は更迭後自決(未遂、'77年まで存命)、残った「陽炎」は第十五駆逐隊に転出し、隊は解隊することになった。
1944年3月、修理が完了した「霞」「不知火」と「薄雲」を加え、隊が再編される。
第五艦隊・第一水雷戦隊所属となった隊は再びキスカ島へ向かい、撤退作戦の立役者となるが、ここで「薄雲」が米潜水艦「スケート」に撃沈される。
さらに捷一号作戦での志摩艦隊所属艦としてスリガオに出撃、突入は中止されたものの、
当作戦被弾・沈没した軽巡「鬼怒」の救出に向かった「不知火」が艦載機の襲撃で沈没、司令部も全滅し再度解隊となる。
残った「霞」は第一水雷戦隊付属となり(一時期第七駆逐隊にも編入されていた)、
キスカ撤退作戦の立役者木村昌福少将の旗艦として多号作戦・礼号作戦に参加、北号作戦では護衛として活躍する。
が、最後は天一号作戦で戦艦「大和」と共に沖縄へ向かい空襲で大破、駆逐艦「冬月」により撃沈処分された。
これほどまでに波乱万丈な駆逐隊は他に類を見ないものである。悲劇の駆逐隊として知られることが多いが、再建後の活躍の目覚ましさにも注目していただきたい。
隊長
まるゆはプレイヤー(=提督)の事をこう呼ぶ。
彼女は陸軍の出身なのでその名残であると思われる。
一方、同じ陸軍の出である神州丸、あきつ丸、山汐丸は「提督殿」と呼び、隊長とは言わない。
ちなみに陸軍では「○○殿」という尊称付けは普通にあることのようだが、海軍では役職や階級が尊称扱いでつけることは無いのだとか。
つまり、あえて使われるときはそう、いわゆるイヤミである。
第七駆逐隊
艦これでは駆逐艦「朧」「曙」「漣」「潮」の4隻で編成される駆逐隊。
艦娘だけで編成でき、かつ公式に名前が出ている数少ない駆逐隊の一つであり、俗に「特II改型」と呼ばれるグループで構成されている。
結成当初は特型駆逐艦は3隻で駆逐隊を編成していたため朧・曙・潮の3隻体制で、漣は特II型の「狭霧」、特III型の「暁」と第十駆逐隊を編成していた。
1939年11月に第十駆逐隊が解隊されたことに伴い漣が編入され、特II改型4隻が揃うことになった。
もっとも、対米英開戦時には朧は五航戦に移っていたため、七駆は3隻体制に戻っていたのだが。
開戦後は機動部隊護衛に従事し、曙・漣・潮は一航戦(「赤城」「加賀」)の護衛を、朧は「秋雲」と共に五航戦(「翔鶴」「瑞鶴」)の護衛をしていた。
初の空母同士の海戦となった珊瑚海海戦でも、五航戦の護衛として曙・漣・潮が参加している。
この戦闘で中破し退却する翔鶴が潮でも追いつけるかどうかまで付随していたり、
翔鶴を守りきれなかった責任を上層部が曙の船員に押し付けたり*16と五航戦がらみのエピソードは多い。
1942年10月に朧がキスカへの輸送中に米軍の爆撃を受け戦没、そして1944年1月には漣ががあの潜水艦「アルバコア」に撃沈される。
1944年10月、レイテ沖海戦では曙が「最上」の雷撃処分を行った。同海戦後、解隊された第十八駆逐隊から「霞」が編入されている。
1944年11月にマニラ湾で米軍航空機の攻撃を受け、曙が沈没、潮が中破してしまう。
潮は中破したまま横須賀に係留され、1945年1月に第六駆逐隊唯一の生き残りである「響」が第七駆逐隊に編入される。
1945年3月に霞は転出し、大和特攻で坊ノ岬沖に消えることになる(響も参加予定だったが触雷で中破し、とりやめられた)。
翌4月の二水戦解隊に伴い第七駆逐隊も解隊され、潮は中破したまま終戦を迎え、響は言わずもがなである。
第二駆逐隊
艦これでは駆逐艦「村雨」「夕立」「春雨」「五月雨」の4隻で編成される駆逐隊。
村雨・夕立・五月雨は艦これ開始時から実装されており、村雨・五月雨の自己紹介でも言及されていたが春雨が長らく未実装だったためなかなか揃わずにいた。
2014年8月のイベント報酬でようやく春雨が実装され、揃えることが可能になった。
史実では太平洋戦争開戦時には第二艦隊第四水雷戦隊に所属し、開戦時の旗艦は「那珂」であった。
ミッドウェー海戦後はガダルカナル方面の作戦に従事し、四水戦旗艦は「由良」が務めたが1942年10月に戦没したため、駆逐艦でありながら「秋月」が四水戦旗艦を務めることとなった。
第三次ソロモン海戦では秋月も損傷したため「朝雲」が四水戦旗艦となり、第一夜戦で夕立が「ソロモンの悪夢」と言わしめるほどの戦果を挙げた後戦没。
翌1943年3月で村雨が輸送任務中に米軍と交戦、撃沈される。
同年7月に第二駆逐隊は解隊され、春雨と五月雨は「白露」「時雨」が残された第二十七駆逐隊に転属された。
1944年6月に春雨が第二次渾作戦で戦没し、8月に五月雨が米潜水艦に撃沈された。
なお、「第二駆逐隊」としては1944年8月に夕雲型駆逐艦で編成された駆逐隊としてその名称が復活している。
「早霜」「秋霜」「清霜」の3隻で編成されたのがそれであるが、結成以前に早霜と秋霜はマリアナ沖海戦に参加していた
(正式に結成されたのは、清霜が訓練を終えて編入されてからだと思われる)。
同年10月に早霜がレイテ沖海戦で、秋霜が多号作戦で戦没し、清霜だけが残された状態で「朝霜」が第三十一駆逐隊から編入され2隻体制となるが、
清霜も礼号作戦で戦没し、生き残った朝霜が第二十一駆逐隊に編入されたことで第二駆逐隊は再び解隊された。
その朝霜も1945年4月の天一号作戦で戦没することとなった。
第二航空戦隊
艦これでは「蒼龍」「飛龍」が所属する航空戦隊で、略称「二航戦:にこうせん」。
山口多聞少将指揮の下ミッドウェー海戦までは無敵を誇った。
ミッドウェー以後は「飛鷹」「隼鷹」「龍驤」の3隻で編成され、
「龍驤」が第二次ソロモン海戦で沈没後は、「龍鳳」が加わることになる。
第二十一駆逐隊
艦これでは駆逐艦「初春」「若葉」「子日」「初霜」の四隻で編成される駆逐隊。
艦娘だけで編成でき、かつ公式に名前が出ている数少ない駆逐隊の一つであり、初春型駆逐艦のみで構成された唯一の駆逐隊である。
史実では太平洋戦争開戦時には第一艦隊・第一水雷戦隊に所属しており、当時の水雷戦隊旗艦は「阿武隈」であった。
子日戦没後に第五艦隊所属となり、キスカ島撤退作戦成功に寄与。レイテ沖海戦からは再び南方の最前線を駆け回る。
レイテ沖海戦以降は、各艦型最後の生き残りの寄せ集め駆逐隊となり、時雨(27駆)、朝霜(31駆→2駆)、霞(18駆→9駆=再建18駆→7駆)を編入し、1945年1月に戦没した時雨を除く3隻が坊ノ岬沖海戦に参戦。
最後は同作戦から生還した初霜のみとなるが、朝霜に座乗の駆逐隊司令部が同艦戦没により全滅したことで、歴戦の部隊もここで解隊となった。(残された初霜は第十七駆逐隊に編入され、45年7月戦没(大破着底) )。
第二十七駆逐隊
艦これでは駆逐艦「有明」「夕暮」(以上初春型駆逐艦)「白露」「時雨」(以上白露型駆逐艦)の2艦型混成四隻により編成される駆逐隊である。
複数の単発任務で時々名前の挙がる駆逐隊の1つで、当初艦これでは戦中再編成の「白露」「時雨」「春雨」「五月雨」(春雨・五月雨は解散された第二駆逐隊からの編入)の組み合わせで名指しされたのが最初で、史実で新規編成時は第九駆逐隊を名乗っていた。
太平洋戦争開戦時には「阿武隈」隷下第一水雷戦隊に所属していたが、開戦当初の阿武隈は南雲機動艦隊随伴任務のため27駆(や前述の21駆)とは別行動となっており、珊瑚海海戦時には第五航空戦隊の護衛にあたる。昭和17年7月の艦隊再編により「由良」隷下第4水雷戦隊に転籍。4水戦旗艦は村雨・朝雲を経て長良に受け継がれ4水戦の解散を受け能代隷下第二水雷戦隊に編入した。
二水戦編入直後の昭和18年7月に夕暮・有明を相次いで失い、同年11月に解散した第二駆逐隊より春雨・五月雨を編入する。昭和19年6月の渾作戦、マリアナ沖海戦で春雨・白露を失い、残る五月雨も同年8月に戦没し時雨単独となり時雨は西村艦隊に組み込まれレイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)で唯一生き残る。
昭和19年11月15日時雨が第二十一駆逐隊に編入されたことで解散となった。
第二戦隊
艦これでは長門・陸奥と扶桑・山城を中心として編成される艦隊のこと。
2014年10月10日のアップデートにより編成・及び出撃の任務が追加された。
編成では通常建造での最レアである長門姉妹が引っかかり、出撃任務のカレー洋では制空権争いの問題でルート固定が難しい。
もっとも、新婚旅行や精鋭二航戦で悪名高いリランカに比べれば、それでも羅針盤は優しい部類である。
史実ではミッドウェー後に改編された「第一艦隊・第二戦隊」が最も近い。
元々伊勢型と扶桑型を基幹とする戦隊であったが、大和型の完成を以て第一戦隊旗艦(即ち聯合艦隊総旗艦)の任を降りた長門型が、改装を受ける伊勢らに代わり加わった。
しかし出撃機会に恵まれず、そのうち陸奥の爆沈や改装後の伊勢型再編入により5隻体制となったが、やはり戦闘がなかった。
レイテ前には扶桑型のみの編成となってしまい「西村艦隊」の中心となるが、扶桑・山城ともにスリガオ海峡に消え、これを以て第二戦隊も消滅した。
戦艦娘4人という編成の融通でも資源でも重たいチームであるが、せめてゲームでは暴れさせてやりたいところである。
第四艦隊事件
艦これでは「龍驤」が言及している、昭和10年9月26日に三陸沖で日本海軍が被った大規模な海難事故。
海軍演習のため臨時に編成された第四艦隊が三陸沖で演習に向かったのだが、9月26日午後には艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。
そのため反転して回避する案も出されたが、上層部は「台風の克服も訓練上有意義である」と判断し、予定通りに航行を続けた。
その結果第四艦隊は台風の中心に入り、参加艦艇41隻の約半数である19隻が何らかの損傷を受けたのである。
- 昭和十年大演習 赤軍第四艦隊 編成
- 全41隻
- 被害状況
- 転覆・沈没が無かったのが不幸中の幸いだったが、主な被害は以下の通りであった。
詳細被害状況
- 原因
- 当初は特型駆逐艦や最上型、大鯨といった新鋭艦の被害が目立ったことから、それらに大規模に使用された溶接部の強度不足が主たる原因とされた。
しかし近年では、海軍軍縮条約の煽りを受けた重量軽減による船体強度に構造力学的問題があったことが主な原因と判断されている(当時は溶接技術が未熟だったことも否定はできないが)。
これがきっかけとなって日本海軍の艦艇は抜本的に設計が見直されることとなり、特に最上型の建造中であった「鈴谷」「熊野」は船体構造が「最上」や「三隈」とは異なる断面に変更されている。
- 余談
- 多数の艦船が台風のど真ん中を通過した事で台風に関する様々なデータが収集され、台風の詳細な構造が明らかになるという皮肉な結果が出ている。
- また、事件が発生した9月26日は台風の当り日となっており、
- は、全て9月26日に来襲している。
第四航空戦隊
艦これでは昭和19年5月1日に「日向」「伊勢」で編成された空前絶後の「航空戦艦」による航空戦隊を指す。
ゲーム内での任務名では第八駆逐隊や瑞雲隊と並び、【最精鋭】と称される非常に数少ない部隊である。
同年12月15日に第二艦隊に編入するまでは「隼鷹」「龍鳳」と艦これでは瑞雲12型(六三四空)などで有名な第六三四海軍航空隊も所属していた。略称「四航戦:よんこうせん」。
伊勢、日向の航空兵力(彗星)が転用されたため艦載機運用は無かったが、松田千秋少将指揮の下で独自の爆撃回避法を駆使してエンガノ岬沖海戦を戦い抜き、北号作戦を成功させた。
すでに浮き砲台となっていた榛名や長門と違い、伊勢・日向は損害も殆ど無く健在であったが、両艦の燃料を全て大和に譲ったために行動不能となり、昭和20年3月1日に解隊された。
第四十一駆逐隊
「夏雲」と「冬月」が自身の所属駆逐隊として言及する駆逐隊だが、実はそれぞれ初代・二代の「第41駆逐隊」であることに注意が必要である。
- 「夏雲」の言う「第41駆逐隊」は昭和13年に編成された初代の41駆で、朝潮型駆逐艦「朝雲」「山雲」「夏雲」「峯雲」により横須賀鎮守府で編成された駆逐隊で、開戦時には「第9駆逐隊」と改名されている。2022年8月の夏雲実装により全艦の実装が完了している。但し、この駆逐隊は昭和18年に吹雪型駆逐艦「薄雲」「白雲」、朝潮型駆逐艦「霞」が、昭和19年に陽炎型駆逐艦「不知火」が編入され、同年3月末に「第18駆逐隊」と改められている。これら編入艦も2023年8月の白雲実装により全艦集結が完了している。
- 「冬月」の言う「第41駆逐隊」は昭和19年に編成された2代目の41駆で、秋月型「冬月」「霜月」の横須賀鎮守府籍の駆逐艦により編成された。同年11月に解散した第61駆逐隊から「涼月」(佐世保鎮守府在籍)を編入。坊ノ岬沖海戦に「冬月」(中破)「涼月」(大破)が参戦し佐世保に帰投。坊ノ岬沖海戦後に「宵月」「夏月」(呉鎮守府在籍)を編入し終戦を迎える。8月15日に解散した第17駆逐隊より「雪風」を編入。雪風・宵月は台湾に譲渡、夏月はイギリスに引き渡されそのまま浦賀船渠で解体、冬月・涼月は北九州市若松港の護岸として埋め立てられている。
第四戦隊
任務『「第四戦隊」を編成せよ!』でおなじみ。第二艦隊所属。略称「四戦隊:よんせんたい」。
1934年以来、重巡洋艦「愛宕」「高雄」「鳥海」(一時期、三川艦隊所属で外れた時期がある)「摩耶」で一貫して編成され続けた戦隊である。
レイテ沖海戦で愛宕・摩耶・鳥海が戦没し、高雄が戦闘不能になったことで解隊となった。
第八駆逐隊
艦これでは朝潮型駆逐艦「朝潮」「満潮」「大潮」「荒潮」の四隻で編成される駆逐隊。
任務『「第八駆逐隊」を編成せよ!』が新規実装され、ご存じの提督も増えてきている。
任務名では第四航空戦隊や瑞雲隊と並び、「最精鋭」とされる数少ない部隊である。
史実では太平洋戦争開戦時には第二艦隊・第二水雷戦隊に所属しており、当時の水雷戦隊旗艦は「神通」であった。
開戦時からエースとして奮戦するも、バリ島沖海戦・ミッドウェー海戦で全艦損傷。1942年10月に復帰後も最前線に投入される。
満潮が第三次ソロモン沖海戦で損傷し本土で修理されている間に、大潮があの潜水艦「アルバコア」に撃沈され、ビスマルク海戦で荒潮が戦没、その救援をしていた朝潮も戦没し司令部全滅。1943年3月に解隊された。
「生き残ってしまった」満潮は第二十四駆逐隊→第四駆逐隊と異動を重ね、西村艦隊の一員としてスリガオ沖に沈むこととなる。満潮のキャラクター設定はこの史実が基になっている。
第六駆逐隊
艦これでは特III型駆逐艦「暁」「響」「雷」「電」の四隻で編成される駆逐隊。
任務に『「第六駆逐隊」を編成せよ!』があることから、知名度・人気も高い駆逐隊である。
史実では結成当時は特型駆逐艦は3隻で駆逐隊を編成していたことから、響・雷・電の3隻となっていた(暁は就役時は「漣」「狭霧」と第十駆逐隊を編成)。
1939年11月に第十駆逐隊解隊に伴い、暁が加わり特III型4隻が揃うことになった。
太平洋戦争開戦時には第一艦隊・第一水雷戦隊に所属しており、当時の水雷戦隊旗艦は「阿武隈」であった。
第三次ソロモン海戦で暁が戦没した後に第十一水雷戦隊に異動し、旗艦は「龍田」に代わる。
1944年に雷・電が立て続けに戦没し、響を残して全滅した第六駆逐隊は同年6月に解隊された。
残された響は連合艦隊附属を経て、「潮」だけが生き残っていた第七駆逐隊に編入された。
そして終戦を迎えたのち、ソ連に賠償艦として渡され「Верный」へと名を変えることとなる。
第六戦隊
任務『「第六戦隊」出撃せよ!』でおなじみ。第一艦隊所属。
1939年に重巡洋艦「加古」「古鷹」で編成され、1941年に重巡洋艦「青葉」「衣笠」が加わった。
本土にいることが多かった第一艦隊には珍しく開戦直後から最前線で先頭を続け、あの三川艦隊の勝利にも貢献している。
第一次ソロモン海戦の帰途で加古を失い、サボ島沖夜戦では青葉が大破し司令官の五藤存知(少将)が戦死。さらに古鷹も青葉を庇って撃沈されたことで解隊となった。
高雄型重巡洋艦
1932年に竣工した重巡洋艦である。「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」の4隻が建造された。
平賀譲造船官の海外出張により、藤本喜久雄造船官が後任として設計を担当している。
妙高型の設計を元に艦隊指揮能力の向上・居住区画の拡大・防御区画の短縮・魚雷発射管設置位置変更などの改良を加えたため、あの独特の大型艦橋が誕生した。
ただし重心が上がり安定性が劣ったため、後に安定化のための小型化工事をすることとはなるが。
魚雷については発射管を連装4基に減らす代わりに次発装填装置(魚雷16本搭載)を実装することで戦闘力を高めた。
開戦時には第二艦隊・第四戦隊に所属するが「鳥海」は南遣艦隊(後の第八艦隊)旗艦としてガダルカナル撤退に貸し出されることとなる。
第四戦隊は重巡洋艦戦隊のエースとして、数々の戦場を時には個艦で飛び回ることとなる。
ミッドウェー・ソロモン・ガダルカナル・キスカ・マリアナと主要な戦場には必ず第四戦隊の姿があった。
そして、レイテ沖海戦では「愛宕」が栗田艦隊の旗艦として四艦揃い踏みで挑むも、
10月23日に潜水艦からの雷撃で「愛宕」「摩耶」が轟沈、「高雄」が舵・缶損傷で離脱、さらに帰還中に「鳥海」が空襲で撃沈される。
辛うじてシンガポールに戻った「高雄」も戦闘には復旧することができず終戦を迎え、
接収したイギリス海軍によって「妙高」とともにマラッカ海峡で自沈処分をされることとなった。
書類上ではあるが「日本海軍最後の重巡洋艦」として、国民の人気も高かった艦である。
ダメコン
ダメージ・コントロールの略称。日本語では被害対策とか応急措置とか被害局限などと言われる。
さて艦艇のダメコンと言えば、たとえ艦が事故や敵の攻撃で被害を受けても、
それ以上の二次被害を引き起こさないとか、素早く応急処置を施して戦力を回復・維持できるとか、そういう事になる。
ソフト面(乗員の対被害練度)とハード面(多様な意味での「艦艇の頑丈さ」)の2つに分かれ、
前者は被害が起きた際の乗組員の対応意識や訓練が普段から十分なされているか等であり、
後者は単に船の堅牢さの他、一次・二次被害を抑えるよう考えられた造り方や運用に加えて、内部の消火・防災設備の質にも言及される。
ちなみに艦これでは装備の妖精さんたちがソフト面を担当してくれているようだ。
大戦初期の日本海軍のダメコン対策はアメリカ海軍よりハード面で特に遅れており、ミッドウェー海戦の敗北ではそれが如実に現れた。
その後は対策を練るも、やはり米軍の後手に回った感があり、
大型空母の大鳳や信濃が本来なら致命傷にならない程度の被害で撃沈されている。
航空機も零戦を始めとして、防御力は二の次という傾向にあった。え、チハタン? あいにく陸さんの事はちょっと…。
現在でも過去の太平洋戦線での教訓を生かして、海上自衛隊やアメリカ海軍では「木や紙、布の製品といった燃えやすい物は船に極力持ち込まない」としているとか。
また近年では米巡洋艦ベルナップの事故で「アルミ合金製の上部構造物はご法度」という教訓が生まれている。
着底
ちゃくてい。
損傷・浸水著しく浮揚能力を失い、船体が水底についてしまったが、甲板などの構造物がいまだ水面上に露出している状態。事故である座礁などと区別するため「大破着底」などと言われることも多い。
要は浅瀬で沈没した状態なのだが、ここで「着底」と「沈没」とで言葉の意味に差異が生ずる。
帝国海軍では着底自体を沈没と同義にはせず、最上甲板が水面上にあり、甲板が活動状態であれば完全喪失=沈没とはみなさない。
例えば伊勢・日向が着底後も軍艦旗掲揚を行っていた…という元乗員の証言があり、日向は着底後の空襲でも使用可能な火器を以て対空戦闘を行っていた記録もある。
日向は着底後も放棄されず活動状態にあり、軍艦旗降下と乗員の総員退艦は終戦後のことである。
用語自体は日向改が散り際に使用しているほか、彼女と同じく呉に係留されていた伊勢、榛名、青葉、利根などが呉軍港空襲により同様の最期を迎えた。
理論上引き揚げて動かせるようにすれば再利用可能である。日本側では青葉が一度着底(というより擱座か)しながらも復旧に成功したが、呉で再び着底、戦後解体となった。
なおアメリカは真珠湾で着底、どころか沈没した戦艦をもサルベージに成功し、スリガオ海峡夜戦に投入した。
超弩級戦艦
イギリスのオライオン級戦艦以降の「ドレッドノート級より大口径(13.5in以上(約34.3cm))の主砲を持つ戦艦」を指す。
艦これでは登場するほとんど*17の戦艦が超弩級戦艦である。
直掩機
直掩とは直接掩護の略。味方艦や味方の航空機を守ったり、哨戒を行う航空機のこと。護衛機ともいう。
鎮守府正面海域
鎮守府海域の最初のマップの名称。
地域のモデルは相模湾周辺、このことから鎮守府は最初のサーバーでもある横須賀鎮守府を指していると思われる。
全ての出発点にして新任提督の出鼻を挫く難関ポイント。
「ボスと戦いたいのに戦えない」というのは今後も嫌と言うほど経験するため、
ここで耐性をつけてもらうしかない。
2期では編成数を減らす事でボスに到達しやすくなっている。
また、ベテラン提督の間では、艦娘を戦意高揚状態にする、いわゆるキラ付けの場としてよく利用される。
任務で「鎮守府正面」や「鎮守府正面海域」と指定されている場合「鎮守府正面海域(1-1)」ではなく「鎮守府近海(1-5)」を指す事があり(Bm5等)注意が必要。
丁型駆逐艦
戦時急造対空・対潜に重点を置き、小型・簡略化によって量産数の増加を図った駆逐艦の分類。
松型が該当する。
当初艦これには未実装だったが、梅雨&夏イベント2020にて実装された。
- 2020年5月4日、C2機関よりTwitterにて同年6月以降に実装予定*18である旨が発表された。
提督
艦これでの定義はプレイヤーのこと(用語集1を参照)。
なお元々「提督」とは「提綱監督」の略語である。
英語で「海軍元帥」「海軍大将」「海軍中将」「海軍少将」「海軍准将」を指す「admiral」の和訳として使っていた。
ちなみに旧軍の階級には「元帥」は極初期の約2年間を除いて存在しておらず、「老巧卓抜ナル者」が天皇の軍事上の最高顧問機関である元帥府に列せられる際に賜う称号として、明治31年に復活する。
このため階級としては(当然最上位も)大将のままで、表記は「元帥 海軍大将 東郷平八郎」のようになる。なお、准将については一貫して存在しなかった。
電探
電波探信儀の略称。日本帝国海軍の用語で、今で言うレーダーのこと。
Radarという綴りはRadio Detecting and Ranging(電波による探知および測距)の頭文字を繋いだものである。
弩級戦艦
イギリスのドレッドノート級に匹敵する、単一口径巨砲と蒸気タービン推進を備えた戦艦。
艦これではГангут、Conte di Cavourが弩級戦艦である。
特型駆逐艦
ワシントン条約によって主力艦の制限が課せられた日本海軍が生み出した重武装・高性能駆逐艦である。
睦月型駆逐艦の成果と軽巡夕張のデータを基に、排水量20%増しで武装を1.5倍以上にしたという革命的な進化を遂げた。
ただしあまりの重武装故に船体強度の余裕が無く、第四艦隊事件で初雪・夕霧の2隻が艦首切断の被害を負った。
また1934年の演習中電との衝突で深雪が沈没している。
終戦まで健在だったのは潮・響の2隻のみ
建造数とその期間により外観などで差異があり、それに基づいて「特I型」「特II型」「特III型」の3種に分類されるのが一般的。
ただし海軍での分類としては全て「吹雪型」である。
特I型(吹雪型)(10隻):吹雪・白雪・初雪・深雪・叢雲・東雲・薄雲・白雲・磯波・浦波
特II型(綾波型)(10隻):綾波・敷波・朝霧・夕霧・天霧・狭霧・朧・曙・漣・潮
特III型(暁型)( 4隻):暁・響・雷・電
(※)開戦時の所属
第一艦隊・第一水雷戦隊(旗艦:阿武隈)麾下
第六駆逐隊:雷・電・響・暁
第一艦隊・第三水雷戦隊(旗艦:川内)麾下
第十一駆逐隊:吹雪・白雪・初雪
第十二駆逐隊:叢雲・東雲・白雲
第十九駆逐隊:磯波・浦波・敷波・綾波
第二十駆逐隊:天霧・朝霧・夕霧・狭霧
第一航空艦隊・第一航空戦隊(旗艦:赤城)麾下
第七駆逐隊:曙・潮・漣
第一航空艦隊・第五航空戦隊(旗艦:翔鶴)麾下
戦隊直属:朧
修理中:薄雲
除籍済:深雪
友鶴事件(ともづるじけん)
昭和9年3月12日に水雷戦隊の演習中発生した千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」の転覆事故。
「計算上は大丈夫!」と言って水雷艇に駆逐艦並みの兵装をポン付けした結果、計算前提となる造船学の未熟や操艦ミスなどもあり転覆してしまい、100名の死者(生存者13名)を出す大惨事となった。
慢心ダメ。ゼッタイ。
この事件により、千鳥型水雷艇の設計者である藤本喜久雄造船官は責任を取らされて失脚してしまい、事件の時の心労がもとで翌年に脳溢血で他界してしまっている。
軍部が無理な要求*19をしてきたことが原因だというのに、特型駆逐艦を生んだ天才造船官はスケープゴートにされてしまったのだ。
史実ではこの反省により吹雪型や初春型などの積載の見直しが行われたものの、戦後もやっている(むらさめ(III)型)。
艦これ世界では兵装に重量の概念が無く、艦種に対する兵装縛りも緩い為に金剛型に大和砲を複数基積むような転覆待ったなしの過積載が日常化していたりする。
そのためか、2014/07/28のアップデートで戦艦に対して「適正積載時の命中率向上と過積載時の命中率低下」が
実装されることになった。
ちなみに米軍は、友鶴事件のような大事故を経験しなかったためか日本以上に性能重視で安定性の悪い艦を作り続けてしまい、
あのフレッチャー級駆逐艦もフィリピン沖の台風で転覆沈没してしまった艦が出てしまっていたりする*20。
しかも戦後もそれを反省すること無く、見るからに安定性の悪そうな艦を建造しまくった。
なお、非常に重心バランスの悪そうな現代のイージス艦だが、材質の軽量化が進んでおり実際はそれほど安定性は悪くないらしい(その代わり、防御力はペラッペラの紙装甲で衝突事故で死者が出るなど、シャレにならない事態も起きている)。
な行
南雲機動部隊
任務『南雲機動部隊を編成せよ!』でおなじみ。南雲忠一中将が指揮をしていた機動部隊の俗称である。
機動部隊の所属艦隊(戦隊)名称が度々変わっていたこともあり、こちらの方が分かりやすい。
真珠湾攻撃~ミッドウェー海戦までの第一航空艦隊、第二次ソロモン海戦~南太平洋海戦までの第三艦隊が南雲中将指揮下である。
艦これでは「赤城」「加賀」の一航戦、「飛龍」「蒼龍」の二航戦が編成条件である(つまりミッドウェー海戦での所属空母)。
予断だが、第一航空艦隊が編成されるとき聨合艦隊司令部の希望は小沢冶三郎であったが、軍令部は南雲忠一を据えたいきさつがある。
これは南雲の方が小沢より先任であったことに加え、山本五十六の暴走に釘をさしておく意味合いもあった。
そのおかげで戦後、南雲は日本軍の適材適所できない典型例として扱われてしまい、その評価はそりゃもう酷いもんだった。
この流れが変わるのは1994年に刊行された仮想戦記『ミッドウェイ陥落セリ』(原田治)がきっかけ。
しかしこの作品でもやっぱり赤城さんはいいとこなしの上、南雲が代理旗艦として勇壮と米軍に向けて突撃を下礼するのは長良だったりする……
曰く『巡洋艦ならば南雲は手に取るように理解できる』。長良ちゃんやったね! 赤城さんご愁傷様です……
西村艦隊
艦これでは任務『「西村艦隊」を編成せよ!』での条件である「扶桑」「山城」「最上」「時雨」が所属する艦隊を指す。
史実では、西村祥治中将が司令官としてスリガオ沖海戦(レイテ沖海戦の中の戦闘)を戦い、「時雨」を残して全滅した第一遊撃部隊第三部隊を指す。
所属は上記四艦のほかに「満潮」「朝雲」「山雲」が所属していた。
もしより史実に近い形で編成するのであれば、ぜひ満潮も入れてほしい。
そして、全艦無事に任務を果たし帰還することを心より願う。
扶桑改二実装と同時に、満潮も加えたメンバーでの編成および出撃任務が追加された。
2017年秋イベにあわせ、第3艦隊のみ7隻編成を組めるアップデートが実装され、この第3艦隊に西村艦隊全7隻を編成する任務が実装された。
は行
賠償艦
敗戦国から賠償として戦勝国へ引き渡された艦。
実装艦ではソ連に引き渡された響が引き渡し後の艦名であるВерныйとして、中華民国に引き渡された雪風が引き渡し後の艦名である丹陽として登場している。
他に引き渡しされた後に軍艦として運用された経歴を持つ実装艦は、現在のところ占守(ソ連)、対馬(中華民国)、屋代(中華民国)。
標的艦とされたり解体されたり海没処分されたりと、その後の運命は様々。
初春型駆逐艦
特型駆逐艦の特徴である"小型・重武装"を更に推し進めるべく開発された駆逐艦である。
1930年のロンドン海軍軍縮条約によって、駆逐艦にも一定の制限(1,500トン以上の駆逐艦は合計排水量の16パーセントまで)がかかったため、
特型駆逐艦より排水量を20%減らした1,400トンの船体に、ほぼ同一の武装を搭載するというコンセプトで開発された。
また日本海軍初の魚雷次発装填装置が装備された。
極限までの軽量化によって目的は達成されたものの、特型以上に船体の不安定(トップヘビー)さを公試で露呈、
さらに子日竣工直後には友鶴事件が発生したことで、安全の為に主砲設置位置変更や魚雷発射管の一部撤去等、設計を大幅に変更することとなった。
改修により船体の重心バランスは良くなったものの、戦闘力・速力が特型より大幅に低下した。
そのため、建造は当初予定の半分の6隻で打ち切りとなり、残りの6隻は「改改初春型」とも言える白露型として造られることとなる。
ちなみに、一時は有明・夕暮とともに白露から春雨までを含めて「有明型」に区分していた時期もあったが、最終的には有明・夕暮は初春型に収まり、以降は白露型とされた。
性能不足から新鋭艦にもかかわらず、"エース"である二水戦配属も叶わず、一水戦で戦うこととなったが、キスカ撤退作戦での若葉や天一号作戦での初霜の活躍など全艦最前線で奮闘した。
残念ながら終戦まで健在だった艦はなく、初霜のみ触雷・擱座の形であるが沈まずに終戦を迎えた。
(逆に言えば、6隻しかいないにもかかわらず全滅を免れている。倍の数の睦月型は全滅している)
初春型(4隻) :初春・子日・若葉・初霜
改初春型(2隻):有明・夕暮(改修方針の迷走の為さらに性能が低下してしまった)
(※)開戦時の所属
第一艦隊・第一水雷戦隊(旗艦:阿武隈)麾下
第二十一駆逐隊:初春・子日・初霜・若葉
第二十七駆逐隊:有明・夕暮・(白露・時雨)
半舷上陸(はんげんじょうりく)
艦これ運営がメンテナンス前にする告知に含まれていた言葉。
旧日本海軍では艦内の清掃やモノの上げ下ろしといった作業は、担当業務に就いていない下士官や兵が「右舷直」と「左舷直」の半分ずつに分かれ1日交替で行っていた。
このため非番となった日に、1日休みで上陸できることを半舷上陸と呼んだ。
現在でも海上自衛隊で使っている。
※もしもの際に船が動かせなくなるので「両舷上陸」は行われない。
逆に左右総出で作業に当たる場合もあり、その場合は両舷直と言う。
艦これでは艦娘を左右半分に分けるわけにはいかないのでただ単に休みの意味で使われている。
矢矧や瑞鳳などのボイス、アニメ2期でも用いられている。
飛行艇母艦(ひこうていぼかん)
大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇。
停泊して補給・整備・飛行艇乗員の休息を行う。
実装艦では秋津洲/秋津洲改・神威改母・日進改/日進甲が飛行艇運用能力を持つ。
ビハール号事件
1944年に発生した帝国海軍による集団捕虜処刑事件。被害者は65名にのぼり、帝国海軍の汚点の一つと言われている。
指揮を執っていた第十六戦隊司令官・左近允尚正少将(当時)は、戦後のBC級戦犯裁判で絞首刑を言い渡された。
連合国としては事件の「最高責任者(南西方面艦隊司令長官:高須四郎中将)」と「直接責任者(利根艦長:黛治夫大佐)」を処断するつもりであった。
裁判の中で、黛艦長は撤回を具申していたと認められたため、判決は禁錮7年、実際の服役は4年で済んでいる。
左近允は病没した高須中将の代わりに「最高責任者」とされたとの見方が強い(Wikipedia:左近允尚正)。
左近允の辞世の句は「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」。
(該当艦の利根・旗艦の青葉で話題が出ることがありますが、処刑は南西艦隊司令部の判断であり、反発すれば抗命罪に問われる状況でした。それに捕虜を虐待・処刑した例は巻雲など他にも複数あります。話題にする際はご留意あれ。)
2006年、ノンフィクション『海は語らない―ビハール号事件と戦争裁判(青山淳平/光人社)』が出版されている。興味を持った人は読んでみるといいだろう。
当時の利根通信手の息子がこの事件を追った連載記事(北海道新聞2011年8月8日-12日)とそのブログ1 2 ,3もあるので、そちらも参照されたい。
古鷹型重巡洋艦
5,500トン型軽巡洋艦の戦闘能力の不足を危惧した海軍が平賀譲造船官に1922年に開発をさせた偵察巡洋艦である。「古鷹」「加古」の2隻が建造された。
「夕張」で培われた小型・重武装のコンセプトに基づいて、「20cm(8インチ)砲6門」を7,100トン(※)という常備排水量で纏め上げ、世界を驚愕させた。
このことが後のロンドン海軍軍縮条約において「重巡洋艦」というカテゴリーを生むきっかけとなった。
ただし、その設計と引き換えに主砲は「単装砲3門をワンセットにして砲弾を人力で装填する」構造で速射ができず、かつ砲塔防御もほぼ皆無など運用においては大きな制限があった。
これらは後に青葉型重巡洋艦とほぼ同じ装備に変更され、戦闘力の強化が図られた。
また、乾舷の低さ故に舷側の窓からはしょっちゅう水が入る(ついたあだ名は「水族館」)など居住性は良くなかったことが伝わっている。
とはいえ、本型での成功が日本海軍の重巡洋艦の特色を引き出した事は高く評価すべきである。
開戦時には「青葉」・「衣笠」と共に第一艦隊・第六戦隊に所属し、小型ながら他重巡と同様最前線で戦い続けた。第一次ソロモン沖夜戦での輝かしい勝利は古鷹型・青葉型のハイライトである。
しかし、この戦いの帰路に加古が潜水艦の奇襲によって撃沈され、続いてサボ島沖夜戦では古鷹が大破した第六戦隊旗艦青葉の身代わりとなって沈没している。
(※)ワシントン海軍軍縮条約では、巡洋艦の最大基準排水量は10,000トンに定められた。これは「8インチ砲6門を実装できる最低量」としたものだが、それを3割も下回る結果となった。ただし、あまりに革新的な設計故に、現場担当者が勝手に設計を変え、竣工時は7,850トンになっている。
丙型駆逐艦
高速・重雷装の次世代艦隊型として量産予定であった駆逐艦。
戦局や戦術の変更などにより計画は放棄され、建造されたのは島風のみ。
ボクカワウソ
Warspite役などの声優、内田秀が描いたカワウソっぽいもの。
「ズイパラ!」で着ぐるみが制作されたのち、サンリオに採用され「BOKU KAWAUSO」としてキャラクター化された。
Honoluluの期間限定グラフィックにも登場を果たしている。
ま行
三川艦隊
艦これでは「鳥海」「青葉」「加古」「古鷹」「天龍」が所属する艦隊を指す。さらに「衣笠」が所属すると新三川艦隊と呼ばれる。
どちらも任務として存在する。
史実では、三川軍一中将が司令長官として指揮を取り、水雷戦で圧倒的な戦術的勝利を挙げたことで有名である第一次ソロモン海戦での戦闘部隊(第八艦隊を中心とする)がモデルである。
ここには「鳥海」「衣笠」「青葉」「加古」「古鷹」「天龍」の他に「夕張」も実は参加しているのだが……。
「置いて行かないでー!」のセリフはここが由来ともされている(当時、夕張は故障で30ノットしか出せない状況だった)。
妙高型重巡洋艦(一部「那智型」とも呼ばれる場合も)
1929年に竣工した重巡洋艦である。「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」の4隻が建造された。
基本設計は平賀譲造船官だが、後述する軍令部との設計思想の軋轢により藤本喜久雄造船官が改設計を担当している。
当初は古鷹型・青葉型をベースに重武装化したものを予定していたが、ワシントン海軍軍縮条約の締結に伴い基準排水量10,000tをベースとしたものに変更となった。
条約の限界である20cm砲10門を連装砲塔5基に収め、速力は35ノット。14ノットで7,000海里を航行可能である。
魚雷については「8門以上必要」とする軍令部と「防御のため不要(半数削減説あり)」とする平賀との調整がつかず、
平賀造船官の不在時に藤本に改設計をさせ、12門の魚雷発射管を設置させた(そのため排水量は10%オーバーし条約違反となる)。
とはいえ、この重武装を1万tに収めるためにできる限り贅肉をそぎ落としたことは「餓えた狼」のエピソードで有名である。
開戦時には「妙高」「那智」「羽黒」が第二艦隊・第五戦隊に所属、「足柄」は第三艦隊・第十六戦隊(艦隊旗艦として)所属した。
第五戦隊は重巡洋艦戦隊のエースとして、北方から南方まで駆け回り多数の海戦に参加した。
レイテ沖海戦で「那智」が沈没、「妙高」が行動不能になり、残る「足柄」「羽黒」も終戦間際に武運が尽きた。
修理不能でシンガポールに繋留されていた「妙高」は終戦時にイギリス軍が接収、翌年にマラッカ海峡での自沈処分となった。
妙高型の成功により、以降の日本海軍の重巡洋艦は「排水量10,000t、35ノット、20cm砲10門、酸素魚雷」というコンセプトで建造されることとなり、
砲戦・水雷戦どちらでも他国を圧倒する性能を手に入れることとなったのである。
なお、ネームシップは妙高であるが、完成したのは那智が最も早かった(昭和天皇即位の大観艦式に間に合わせるため、突貫工事で完成された)。
また竣工直後の大観艦式で、那智は日本初の1万㌧級重巡として国内外に大きく喧伝された。
そのため、『那智型』と呼ばれる場合もある。
ゲームでは第四艦隊開放のための第一段階として4人揃える必要がある。
4人とも南西諸島海域で道中でも邂逅できるものの、妙高のみ銀背景のためレア度が少し高い。
睦月型駆逐艦
大正末期から昭和初期にかけて竣工した駆逐艦で、敵艦の防御力向上に対抗すべく初めて61cm魚雷を装備した。
第四艦隊事件で「睦月」「菊月」が損害を受けたが、設計に余裕があったことから大幅な改修は不要であった。
艦齢15年を超える状況ではあったが、小型・高速の能力を活かして太平洋戦争では機動部隊護衛や水雷戦隊の一員として第一線で活躍した。
残念ながら終戦まで健在だった艦はなかった。
睦月型(12隻):睦月・如月・弥生・卯月・皐月・水無月・文月・長月・菊月・三日月・望月・夕月
(※)開戦時の所属
第三艦隊・第五水雷戦隊(旗艦:名取)麾下
第二十二駆逐隊:皐月・水無月・文月・長月
第四艦隊・第六水雷戦隊(旗艦:夕張)麾下
第三十駆逐隊:睦月・如月・弥生・望月
第一航空艦隊・第二航空戦隊(旗艦:飛龍)麾下
第二十三駆逐隊:菊月・夕月・卯月
第一艦隊・第三航空戦隊(旗艦:鳳翔)麾下
戦隊直属:三日月・(夕月)
最上型重巡洋艦
1937年に竣工した重巡洋艦である。「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」の4隻が建造された。
元々は「天龍」「龍田」「球磨」「多摩」の代艦として建造予定であり、さらにロンドン海軍軍縮条約下での建造のため、条約型軽巡洋艦(主砲サイズ15.5cm以下、排水量10,000t以下)という扱いになり、最後まで書類上では軽巡洋艦として扱われた。
最上型の特徴は、15.5cm三連装主砲とコンパクトな艦橋である。どちらも条約の制限を守るための措置であった。
砲身が短くなったことにより、前部主砲の並べ方が変わり、三番砲塔も前方射撃が可能となっている。
後に当初の計画通り20.3cm連装砲に取り替えることとはなるが、この砲は単位時間あたりの投射砲弾重量で20.3cmを上回る高性能を誇り、後に「大淀」や「大和」「武蔵」に移設されるほど、用兵側の評判は良かった。
一方船体設計には当時の悪癖である復元力・船体強度不足があり、友鶴事件後「鈴谷」「熊野」は船体設計を変更して建造*21されている。
さらに「最上」公試時に露呈した船体のひずみや第四艦隊事件の影響で補強工事を行うこととなった。
開戦時には第二艦隊・第七戦隊に所属し、主に南方戦線で活躍後ミッドウェー海戦に臨む。
しかし、この海戦で「最上」が「三隈」に衝突、艦首を潰し落伍、さらに護衛に回った「三隈」共々艦載機の大空襲を受け、「三隈」が直撃弾による魚雷誘爆で撃沈、最上も大破する。*22
「最上」は修理の際に主砲2基を取り外し航空巡洋艦として復活、再び3隻となった第七戦隊はトラックを中心に主に輸送任務の護衛などに活躍する。
そして、レイテ沖海戦では「熊野」「鈴谷」は栗田艦隊、「最上」は西村艦隊で出撃する。「最上」はスリガオ海峡海戦で舵を損傷し離脱漂流中に「那智」に衝突。
最後は空襲で航行不能となり、「曙」によって雷撃処分となった。
一方「熊野」「鈴谷」も戦場離脱中のサマール沖海戦において「鈴谷」が空襲による魚雷誘爆で沈没し「熊野」も潜水艦の雷撃で致命傷を負う。
しかし「熊野」は必死の応急修理で航行能力を回復、本土への帰還を始める。
帰還中の一ヶ月、度重なる敵の攻撃に繰り返し損傷を受けながらも必死の修理を繰り返し這うように進んだ「熊野」も、11月25日の空襲には耐えられず転覆・沈没した。
模様替え(もようがえ)
所持している家具を提督室内の所定位置に配置、変更して行う模様替えを指す。ドレスアップ要素であり攻略には関与しない。
気に入った家具を家具屋さんで購入し、提督室メニュー中央上の模様替えアイコンを選択して行える。
季節に合わせた家具が不定期に追加される事が有る。季節に合わせたりお気に入りの秘書艦娘の雰囲気に合わせたりと楽しみ方は様々。
一部の家具は課金要素の特注家具職人が必要。
なお、攻略そのものには関与しないものの、過去に実施された一部の期間限定海域の攻略結果が、特定家具に変化として反映されるものがある。
詳しくは家具のページへ。
や行
夜戦
そこのエロ提督、変なこと考えるな。
夜戦とは、文字通り夜間行われる戦闘のこと。
特に帝国海軍では漸減邀撃作戦において、夜間の肉迫水雷攻撃(急接近しての魚雷攻撃)を大変重視した。
このため水雷部隊が「月月火水木金金」の異常に熱心な訓練を重ねた結果、
まさに得意中の得意ともいえる領域に達し、帝国海軍の伝統であり誇りとも称されるお家芸となった。
だがアメリカ海軍がガダルカナル戦あたりからレーダーを使った夜戦を繰り広げると、
電波機器分野が弱い日本の優位性は徐々に崩れていくことになる。
山口提督(山口多聞)
やまぐち・たもん/1892.8.17 - 1942.6.6
飛龍にとって大切な存在であり、五十鈴も胸を張って言及する、山口多聞中将のことである。
飛龍が「丸」をつけて呼ぶのは、名前由来が楠木正成の幼名「多聞丸」であることによる。
1936年12月から1年間五十鈴艦長、その後は戦艦伊勢艦長も歴任。
開戦時は第二航空戦隊司令官として蒼龍に、後に飛龍に将旗を掲げることとなる。
海軍きっての航空専門家にして、勇敢な猛将である。
ただし、あまりの猛訓練と、味方の人命よりも戦果を重視する苛烈な攻撃思想と実際の作戦指揮から「気違い多聞」「人殺し多聞(丸)」と揶揄もされている。
もっとも、何事にも本格派という性格の現れとも言われ、伊勢艦長時代に後甲板へホンモノの土の土俵(普通はダメコン用の防水マットを敷いていた)を作らせた逸話などがある。
また奥様はもちろんお手伝いさんの分のお土産も忘れず買って帰っていたりと、まめな方であったそうである。
ミッドウェーでは唯一残った飛龍を使って一矢報いるも飛龍も航行不能となり、最期は退艦を拒み艦と運命を共にした。
アメリカからも山本五十六の後継指導者として真っ先に上がるほど恐れられていた……と言われているが、当時の米軍側の記録にこのような言及は確認されておらず、戦後日本側による創作の可能性が非常に強い。
山本提督(山本五十六)
やまもと・いそろく/1884.4.4 - 1943.4.18
五十鈴が胸を張って直接言及している。言わずと知れた「山本五十六元帥」のことである。名前は五十六とかいて「いそろく」と読む。
1928年8月~12月に五十鈴艦長に任じられている。彼の艦長経験は五十鈴と航空母艦赤城の2隻だけ。
しかも航空母艦は当時は戦艦の随伴艦扱いであり、提督を約束されたエリートは戦艦・重巡の艦長になっていたため、エリート街道を約束された道筋ではなかった。
実際、山本の同期で大将になった他の3人は皆戦艦・重巡の艦長になっているので、ハンモックナンバーからすると冷遇されていたと言っても良い。
その後の活躍は皆さんご存知の通り。
海軍の「条約派」として開戦に反対するも開戦止む無しと決まると真珠湾攻撃を立案し、開戦から連合艦隊司令長官として海軍の指揮を執り続けた。
先見性には優れているが、指揮官としての腕は微妙なところがあるともっぱらの評判。
1943年4月にブーゲンビル島で搭乗した一式陸上攻撃機が撃墜され戦死した(海軍甲事件)。死後に元帥の称号を賜る。
夕雲型駆逐艦
1939年に陽炎型駆逐艦の改良型として設計された駆逐艦である。
予算計画の書類上は後期4隻の陽炎型と同じ甲型駆逐艦となる。が、艦艇類別等級表では最初から最後まで独立した艦型として記載されている。
陽炎型の一部において諸元の速度35ノットが達成できない艦がいたこともあり、船体設計の一部変更や新型砲塔の搭載などが変更点である。
夕雲を除いて戦時中に次々と就役し最終的には19隻が建造されたが、訓練を行う時間などもないまま主に戦没艦の補充として最前線に投入され、
最終的には坊ノ岬沖海戦までに全てが戦没した。
夕雲型(19隻):夕雲・巻雲・風雲・長波・巻波・高波・大波・清波・玉波・涼波
藤波・早波・浜波・朝霜・岸波・沖波・早霜・秋霜・清霜
(※)就役直後の配属先
- 第10戦隊
- 第10駆逐隊 (秋雲※)・夕雲・巻雲・風雲 ※秋雲は陽炎型
- 第2水雷戦隊
- 第31駆逐隊 長波・巻波・高波・大波・清波・朝霜・岸波・沖波
- 第32駆逐隊 玉波・涼波・藤波・早波・浜波
- 第 2駆逐隊 早霜・秋霜・清霜
遊弋
ゆうよく。
元の意味は単に動き回ることだが、軍事用語では特に艦船が戦闘に備えて周回することを意味する。
用例はデイリー出撃任務「敵艦隊を10回邀撃せよ!」の説明文
艦隊全力出撃! 遊弋する敵艦隊を10回邀撃せよ!
に見られる。
これを平語に直すと「うろついている敵を迎え撃て」となる。
邀撃
ようげき。
攻撃してくる敵を待ち伏せして叩くこと。
「迎撃」とは同義とされる例も区別される例もある。
現代において「邀」の字は非常用漢字になっており、現代漢字に直すと「要撃」となる。
「漸減邀撃作戦」の解説で本wikiにしばしば登場するほか、単独ではゲーム開始直後のチュートリアルや
デイリー出撃任務「敵艦隊を10回邀撃せよ!」に見られる。
予備艦
一線の艦隊や鎮守府に所属し任務に就いていたものを「在役艦船」と呼んでいたが、それに対して任務下にないものを「予備艦船」と呼んだ。
第一から第四、特別の5種類があり、それぞれ状態によって分けられている。
- 第一予備艦…短期間の整備で出動可能
- 第二予備艦…保存整備中や小規模の修理、改造中
- 第三予備艦…大規模の修理、改造中
- 第四予備艦…廃艦間近
- 特別予備艦…外国から購入などで回航後、待機中
(wikipediaより引用)
19年7月2日、運営元であるC2機関のツイッターに、佐世保鎮守府開庁/佐世保港開港130周年記念ということで佐世保第三予備艦時代の赤城さん*23が公開されたが、
これは佐世保海軍工廠で飛行甲板を三段腹から全通一段に改装していた時期にあたる。
クラシックなセーラー服姿ではあるものの、残念ながら就役前の学生時代ということではない。
ちなみに同じ頃、一足先に全通一段改装を終えていた加賀は、支那事変に出動中であり、日々航空隊を送り出しての戦闘真っ只中であった。
ら行
レーダー射撃
レーダー(電探)から得た敵の距離や方向を元に行う射撃。電探盲従射撃ともいう。
レーダーは電波を用いるため、測距儀よりも距離精度が高く、視界が効かない闇夜や濃霧、煙幕の中でも敵を捕捉して射撃を行うことができる。
その反面、当時のレーダーの分解能では正確な弾着観測が難しかったことなどもあり、命中率自体は測距儀を用いた射撃よりもかなり低かったという。
史実において、帝国海軍は米海軍のレーダー射撃や雷撃により、ビラ・スタンモーア夜戦(村雨の小ネタ参照)やベラ湾夜戦(江風の小ネタ参照)、セント・ジョージ岬沖海戦(卯月の小ネタ参照)などの夜戦で大損害を被った。
一方、クラ湾夜戦(涼風の小ネタ参照)やコロンバンガラ島沖海戦(神通の小ネタ参照)のように、レーダー射撃を受けたものの味方一隻(新月や神通)に被害が集中したためその隙に僚艦が接近して反撃に成功した夜戦もある。
結局米海軍が夜戦で帝国海軍を制することができたのは、レーダー射撃そのもの以上に、航空機や艦載の索敵レーダーを巧みに活用した夜戦戦法(待ち伏せなど)によるところが大きい。
ちなみに帝国海軍側の艦でこれらの夜戦に参加した当時電波兵器を装備していたのは、クラ湾夜戦で沈没した新月(電探)や、コロンバンガラ島沖海戦に参加した雪風(逆探)くらいであった。
艦これにおいては、元々一部の電探の装備説明や艦娘のセリフで言及されていた程度で、特にその脅威が意識されることはなかった。
しかし2019年の冬イベント「邀撃!ブイン防衛作戦」にて、ついにレーダー射撃が(よりによって敵側に)実装されてしまった。
新たに登場した「レーダー射撃」マスでは陣形の選択を飛ばしていきなり夜戦が始まり、こちらの艦隊は一切攻撃できないまま一方的に敵艦隊からの攻撃を受けることになる(空襲マスに似ているがさらに不利な状況である)。
完全に敵の待ち伏せの罠に嵌った形であるが、幸いにも2019年冬イベントでは一定数以上の艦に対水上電探を積むことで「レーダー射撃」マスを回避するルートへ進むことが可能であった。
連合艦隊
(以下では、史実における帝国海軍の連合艦隊について述べる。ゲームシステムとしての連合艦隊は、「連合艦隊」ページを参照のこと。)
複数の艦隊で編成された日本海軍の一番大きい単位の艦隊である。連合艦隊司令長官が指揮する。
多少語弊はあるが「日本海軍の主力艦全てで構成された艦隊」であり、麾下に各常備艦隊が配される臨時の艦隊。
連合艦隊として海戦に挑むことは少なく(※)、有名どころでは「日本海海戦」、太平洋戦争中では「ミッドウェー海戦」のみであった。
連合艦隊直属の戦隊が存在し、第一戦隊旗艦が連合艦隊旗艦であった。艦これ実装艦で旗艦経験があるのは「金剛」「山城」「長門」「陸奥」「大和」「武蔵」「大淀」。
なお、開戦するまで、連合艦隊司令長官は第一艦隊司令長官が兼任することになっていた。
(※)本来、連合艦隊司令部は海軍全体の指揮を執るために本土にいなければならない。
そのため、必然的に直属の第一戦隊も本土にいる形になり、主力となる戦艦は温存され続けた。
最前線に長門や大和が出るのは軽巡洋艦「大淀」に旗艦を移し、連合艦隊直卒から離れてからとなる。
なお、司令部は大淀に移されたあと更に「日吉台地下壕」に移ることになる。
わ行
アルファベット
DAU
Daily Active Users(1日にゲームを遊んだユーザー)の略。
艦これ正式サービス開始当初は2万を目標にしていたらしいが、今や数十万人に達している。
…が、当初は公開していたものの2015年辺りから公開しなくなり、現状のDAUは不明となっている。
数字
5分前行動
艦これ運営がメンテナンス前にいつもする告知に含まれる言葉。
旧日本海軍(と海上自衛隊)には「5分前精神」と呼ばれる、「何か始める前の準備や集合は必ずその5分前までに済ませろ」という行動原則が存在する。
「5分前に行動を開始せよ」という意味ではなく、「5分前に行動準備を完了せよ」という意味なので
メンテナンス5分前にはページを閉じておこう。5分前に遠征や入渠を始めても間に合わないかもしれないぞ。
また普段のゲーム内活動でもお互い余裕を持ってやりたいものだ。何事も心が焦ると事を仕損じるものである。
残念ながら艦これ運営自身は、月日が経つに連れメンテナンス終了時間をまるで守れなくなってしまったが…
5500トン級軽巡洋艦
大正時代に建造された日本海軍の軽巡洋艦「球磨型」「長良型」「川内型」14隻の通称。球磨の計画常備排水量からこう呼ばれる。
巡洋艦本来の「何でも屋」的性格を一番まっとうに示したタイプで、当時日本は有名な八八艦隊計画に合わせて大量産を図っており、完成した14隻以外にもさらに4隻を計画し、次のタイプも構想中だった。
ワシントン条約締結に伴い計画は中止され、以後の巡洋艦整備は重巡に移行する。
当時アメリカでさえこれほど次々と巡洋艦を作ってはおらず(対抗馬的なオマハ級は10隻)、完成した14隻は日本海軍の中核戦力として水雷戦隊旗艦や潜水戦隊旗艦、さらには海外派兵の主力艦や戦艦の護衛など、それこそありとあらゆる任務に従事しながら条約時代を過ごす。
短期間で一気に数が揃った反動で後継艦(阿賀野型)が遅れに遅れ、旧式艦ながら太平洋戦争でも第一線で活躍することとなったが、その理由は軍縮条約前の余裕のある設計がかなりの近代化改修を許容できたためである。
もっとも一部の艦では排水量が1,000トン近くも増え、速力も30ノットがやっとの有様だったという。
敗戦時には北上が航行不能ながらも生き残り、工作艦として復員輸送の支援に従事した。
球磨型(5隻):球磨、多摩、北上、大井、木曾
長良型(6隻):長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈
川内型(3隻):川内、神通、那珂
コメント
- 用語集1に長門、いい? いくわよ! 主砲一斉射ッ!を追加しました -- 2019-02-27 (水) 21:22:57
- 装備ボーナスって用語集になるのか俗称になるのかどっちなんだろ?まあページ作るほどか?と言われれば別にそこまでじゃないとは思うけど。 -- 2019-06-13 (木) 03:33:57
- キリン改二追加して欲しいなぁ。公式ツイッターで出てきた時「?」ってなったの自分だけじゃないと思うんだ。 -- 2019-07-15 (月) 13:35:42
- 「母港拡張」の記述において,艦娘の最大保有数について『最大で【艦430隻(装備1850)】まで拡張できる』とありますが,当方現在の「戦績表示画面」においては「最大保有可能 艦娘数400隻,残り母港拡張 可能枠+40隻」と表示されているのですが,最大は”440隻”が正しいのしょうか,それとも当方表示のバグでしょうか? -- 2020-04-14 (火) 16:51:05
- 先月枠の追加がありましたので、440隻(装備1890)に更新しました。ご指摘ありがとうございます。 -- 2020-04-14 (火) 17:00:36
- 目についた2期で変わったところなどを反映してみた。梯形陣も変えた方がいいと思うけどどう書くか思いつかないので誰かお願いします。 -- 2020-04-14 (火) 18:37:45
- 詳細は陣形のページ見ればいいんだから現状に合わない説明消してしまえばいいと思うが。簡単な説明だけあればいい。 -- 2020-04-14 (火) 19:05:30
- 装備1900個、艦娘保有数440隻に更新しました。 -- 2020-04-24 (金) 18:12:53
- アイアンボトムサウンドの項目、ここに眠る艦船の連合国海軍で、「ジャービス」が艦これ実装済みの英国J級駆逐艦Jervisにリンクが張られていますが、ここで沈んだのは米国海軍バッグレイ級駆逐艦のJarvis(スペルも違う)のようです。ちょっと誤解を招くかな、と。リンクを張らない場合でも英国のJervisだと勘違いする人は居そうですし、むしろリンクがあるおかげでリンク先の艦歴を見ればJervisは沈んでないと分かるのでリンクがあること自体は良いかもしれませんが、(こちらのジャービスではない)みたいな一言があった方がより良いかな…と。 -- 2020-06-03 (水) 15:08:03
- リンクはずして脚注加えときました -- 2020-06-03 (水) 15:34:23
- ありがとうございます。 -- 木? 2020-06-03 (水) 17:01:53
- リンクはずして脚注加えときました -- 2020-06-03 (水) 15:34:23
- 「模様替え(もようがえ)」は攻略に関係しない用語なので用語集1から用語集2へ移動しました。 -- 2020-08-30 (日) 17:16:15
- 敵艦個別ページがある現在ではここで記述する必要がないためPT小鬼群をPTボートに差し替えました。 -- 2020-10-29 (木) 06:10:05
- 乙。詳しく見たい人のために該当ページへとリンクしておいた。不要だったら差し戻して頂ければと -- 2020-10-29 (木) 06:21:25
- 鎮守府正面海域に「地域のモデルは不明。」とあるけど相模湾沖ではないでしょうか。 -- 2021-04-25 (日) 15:36:24
- 1期の古い情報のままですね更新しときました。 -- 2021-04-25 (日) 16:14:01
- 艦娘保有数ですが、現在は520か530くらいになってるはずです ただいつのメンテからなのか全くわかりませんが わかる方修正お願いします -- 2022-02-28 (月) 00:58:22
- 今は520ですねー。更新しました -- 2022-03-04 (金) 18:41:12
- 4月1日のメンテで530になったことの記事修正できる方お願いします -- 2022-04-30 (土) 21:40:37
- リリースって言葉を聞いたんですが解体って意味ですか?轟沈って意味ですか?教えてください! -- 2022-07-08 (金) 15:32:12
- 釣り用語だな、釣った魚を生きたまま戻すこと、殺して捨てる場合は撒き餌って言う。 -- 2022-12-02 (金) 10:08:41
- 艦娘保有数 本日のメンテで550になりました ・・・540になった日をご存じの方 合わせて追記お願いします -- 2022-08-04 (木) 21:53:07
- 11/09メンテナンスで艦娘保有数最大【560隻】になりました 修正できる方お願いします -- 2022-11-13 (日) 00:36:11
- 「アレ」編集してみた。 -- 2023-05-31 (水) 10:27:38
- 用語集1の趣旨から外れてるしスラングの方に既にあるんでいらないような。アレ -- 2023-05-31 (水) 10:49:37
- 雑学#Kaitenの方にも項目あり、重複してますのでどちらかに加筆するかたちの方がいいかと -- 2023-05-31 (水) 22:47:52
- 夕雲型駆逐艦の部分に就役当初の所属を追記しました -- 2023-09-18 (月) 09:07:45