夏目漱石はイギリス留学から帰った明治36年3月3日雛の節句に本郷区駒込千駄木町57番地に妻鏡子と長女筆子、次女恒子と引っ越した。そして一高で英語を、東京帝国大学で英文学を教える。この間、漱石はロンドンから持ち越した神経衰弱ぎみであって、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを書くことによって、精神の危機を乗り越え、英語教師から国民的作家となった。子どもも二人増え、若い友人たちと遊び、上野の山に展覧会を見、自ら水彩画を描き、日露戦争を経験した千駄木での暮しを追う。漱石は明治39年12月27日に千駄木から西片町に越していった。