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【東京新聞フォーラム】

「よみがえる古代の大和 平城遷都1300年」 基調講演

基調講演をする入倉徳裕氏

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左京の十条目が話題に 入倉 徳裕氏

 日本で最初にできた都城は、六九四年に遷都された藤原京ですが、わずか十六年後、平城京に移っています。

 藤原京と平城京は、きちんとした基準に基づいてつくられています。奈良盆地の南部をほぼ東西に横切っているのが横大路で、東寄りを南北に走っているのが、上ツ道、中ツ道、下ツ道です。七世紀後半までにこういう道路網がつくられています。この三本の道の間隔が約二・一キロで、当時でいう四里に当たります。

 平城京の内側の地割りは正方形で、日本の都城の特徴ですが、東西方向と南北方向に直線の道路を通して、碁盤の目状に町をつくっています。

 東西方向の大路で仕切られた横の並びを「条」、南北方向の大路で区切られた正方形の升を「坊」と呼んでいます。

 この街割りは、基本的に東西方向、南北方向とも、大路の道路心(センターライン)が約五百三十二メートル間隔で割りつけられています。こういう条坊のつくり方は、平城京と藤原京は全く同じです。

 さらに、大路の間に三本の道、坊間路、条間路、小路を等間隔に通して、一坊を十六に分割しています。分割された一つの区画を「坪」、ないしは「町」と呼んでいます。

 奈良時代の長さの規定では、尺には大と小があり、土地をはかるには大尺を用い、一大尺は一・二小尺、五大尺が一歩、三百歩が一里となっています。尺の実長は、一小尺が二九・四〜二九・七センチくらいなので、一大尺が三十五センチ強、一歩が一・八メートル弱、一里が約五百三十二メートルで、大路の間隔は当時の一里に設定されているわけです。

 平城京は南北九条、東西十一坊(外京含む)と考えられてきましたが、最近左京の南で十条目に相当する条坊遺構が検出されました。検出状況から左京の南側に十条目の条坊があったことは認めざるを得ないので、右京側にも十条目の条坊があるのか、平城京の南端は九条であったのか十条であったのかが問題になっています。

 この問題については、左京の南に京南辺条条里と呼ばれる特殊な条里区画があることが知られていて、今回の調査でこの条里区画が十条目の条坊の跡地であったことがわかりました。右京側には、そのような条里区画はないので、十条目の条坊は左京側だけではないかと思います。また、一例だけですが、九条大路の南側溝が想定位置から検出されなかった調査事実もあります。もともと平城京の南端が十条だったら、九条大路を大きくつくる理由はないので、平城京の南端は造営当初から九条だったと考えるべきでしょう。

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