憲法と、
岐路に立つ憲法。その60年余を見つめ直します
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【東京新聞フォーラム】「よみがえる古代の大和 古事記1300年のツボ」東京新聞と奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和 古事記1300年のツボ」が8月18日、東京都墨田区横網の江戸東京博物館で開かれた。和田萃(あつむ)京都教育大学名誉教授が基調講演で「古事記の楽しい読み方」や「魅力」などを紹介した後、菅谷文則・橿原考古学研究所所長の司会で、和田氏に加えマンガ家の里中満智子さん、今尾文昭・橿原考古学研究所附属博物館学芸課長の3人のパネリストが意見を交換。パネル討論では考古学からみた古事記や、歴史的背景、成り立ちから「原文が書かれたのは木簡、それとも紙?」など興味深い話も取り上げられ、400人を超す聴衆は熱心に聴き入っていた。 【主催者あいさつ】仙石誠・東京新聞代表「古事記」は、もともと口承で伝わってきた歴史を文字化したもので、極めて人間的な神様がいっぱい出てきます。古代国家が成立した千三百年前、当時の為政者がこの歴史書を編纂したこと自体、なかなかのものです。 東京新聞も、後世に残る時代の記録をつくるため、今の世の中の出来事、皆さんが考えていることを正確に伝える努力をしています。本日のフォーラムもその活動の一環です。 たっぷりと「古事記」の世界に浸ってください。 【基調講演】「現代語訳から 親しみやすく」和田萃氏ことしは「古事記」が撰録(せんろく)されて千三百年というおめでたい佳節(かせつ)に当たり、奈良県や各市町村では、いろんな特別展を計画されています。 最初に、「古事記」の読み方をお教えします。原文や読み下し文を読む前に、現代語訳を読む。一時間もかからずに内容が全部わかります。その後、日本神話の部分とか、八俣大蛇(やまたのおろち)の話とか、関心を持たれたところを深く読み込んだり、現地を訪ねたりされると、非常によくわかるのです。
元明天皇の命令で「古事記」を筆録した太安万侶(おおのやすまろ)さんは、多臣品治(おおのおみほむじ)の子どもで、安万侶さんとその後一、二代だけ「太」という字を使っています。品治は大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が信頼する家臣の一人で、壬申(じんしん)の乱の最大の功労者だったことが、後に安万侶さんの「古事記」の筆録に結びつきました。 「古事記」には偽書説もありましたが、安万侶さんのお墓が見つかり、墓誌も発見された。また、「古事記」では「万葉集」より古い万葉仮名を使っていることがわかり、現在は安万侶さんが「古事記」を筆録したことは確かとされています。 多氏(おおのし)は神武天皇の子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の直系子孫で、安万侶さんは十五代目に当たります。安万侶さんは文人だけでなく、武人としても名をはせた人でした。 次に、「古事記」と「日本書紀」を比べると、「古事記」は非常に完成度が高く、文学性も豊かです。「日本書紀」はいろんな史料を提示しているのですが、歴史研究者から見ると、素朴な形から複雑な物語へどう変わっていったかということがよく分析できます。 「古事記」と「日本書紀」は、帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)を共通して使用しています。帝紀は天皇の系譜、事蹟(じせき)を書いたもの、旧辞はいろんな伝承、物語、それに伴う歌謡です。「日本書紀」はそれに加えて、歴代天皇や各豪族、社寺の史料なども使っていますから、「古事記」は全三巻ですが、「日本書紀」は十倍の全三十巻あります。 また、「古事記」は推古天皇のところで終わっています。編纂(へんさん)された和銅五(七一二)年から見れば、百二十年前の古代史に当たる歴史書です。「日本書紀」は七二〇年に完成しましたが、その二十三年前の持統天皇が文武天皇に位を譲った日で終わっていますから、古代史から現代史まですべてを含んでいます。 「古事記」の序文には、壬申の乱の後、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)を相手に帝紀、旧辞の削偽定實(さくぎじょうじつ)(偽りを削り、真実を定める)を行ったという記事があります。これは「古事記」を考える一番のポイントです。 稗田阿礼は非常に聡明(そうめい)で、目で字を追っていくと、おのずからその読み方が口をついて出る。聞いたことはいつまでも記憶している。それで天武天皇がみずから語りかけて、帝紀と旧辞を誦習(しょうしゅう)(よみ習うこと)させた。これは丸暗記でなくて、既に記録にまとめられたものの読み方、時代背景などを習い覚えたという意味です。何が偽りで、何が真実か、天武天皇の高度な政治判断によって決められ、「古事記」が完成度の高い神話になったということが非常に重要です。
【冒頭スピーチ】「農耕 全て恵みのもと」里中満智子氏私は、小学校6年生のころ、少年少女向けの「古事記物語」を初めて読みました。おもしろかったんですが、排せつ物の話がたくさん出てくる。 戦いで負けたほうが苦し紛れに脱糞(だっぷん)するとか、豊穣(ほうじょう)の女神のような方が亡くなると、体のありとあらゆるところから、いろんな植物が生まれる。これがすべて食物のもととなるのですが、書かなくていい場所まで全部書いてある。子ども心に、農耕の中で捨てるものは何もない、すべてが恵みのもとであるということかなと思いました。 「日本書紀」は歴史書であり、「古事記」は民族の物語です。日本と百済(くだら)は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅(しらぎ)の連合軍に負け、百済は滅びました。日本は確固たる独立性を保たねばならなかった。それでつくったのが歴史書、律令制度、機能する都の3点セットです。物語性が豊かで、私たちのアイデンティティー(自己の存在を認知させること)となるのが「古事記」、外交文書・国の独立性の根拠を示すものが「日本書紀」だと思います。 【冒頭スピーチ】「本居宣長のころ流行」菅谷文則氏太安万侶の墓は、春日山の奥にあります。出てきた墓誌は橿原考古学研究所附属博物館で展示しています。邸跡は平城宮の東にありますが、具体的な位置はわかっていない。 稗田阿礼がどこにいたかは全くわかりません。奈良県大和郡山市に稗田という町があります。私は若いとき、そこをだいぶ発掘調査したんですが、わからなかった。 明治の後半から天岩戸(あまのいわと)神話は日食だと盛んに言われました。私は昭和32年の日食を覚えていて、そんなに真っ暗にならない、違うと言い続けていました。 鎌倉時代の神道では、伊勢神宮の外宮の山の頂上にある巨大な横穴式石室を、天岩屋だとしておりました。 「古事記」研究がブームになったのは、本居宣長(もとおりのりなが)のころが1回目で、現在の「古事記」研究の基本です。 2回目は明治20〜30年ごろ、市町村合併を強力にやって、新しい町名を記紀にある地名からとりました。3回目は昭和15年の紀元2600年の祝賀の時、現在が4回目です。
【パネル討論】「歴史源泉 いざなう」菅谷文則さん(奈良県立橿原考古学研究所所長) 最初に今尾さんから一言。 今尾文昭さん(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館学芸課長) 「古事記」は天地開闢(てんちかいびゃく)より始めて推古天皇の御世(みよ)に終わる、非常に歴史観の明確な書物です。 では、推古以前と以降でどのように変わるのか。推古の後は舒明(じょめい)天皇で、考古学から見て非常に新しい遺跡を提供しています。先年の発掘調査で明らかになった百済大寺は舒明みずからの勅願で、隣には宮殿をつくる。左右対称に整然とお寺と宮殿を配置するというのは、多分、舒明が最初でしょう。奈良県桜井市の段ノ塚古墳が舒明天皇陵とされていますが、何と平面形は八角形で、日本列島の古墳文化の中で最後に登場する墳形です。 菅谷さん 「古事記」の人物イメージは。 里中満智子さん(マンガ家) 「万葉集」に残された歌などを読んで、イメージしてくるものはあるのですが、基本的には私自身が描ける顔に限られます。四苦八苦しながら描いています。ただ、ビジュアル的にイメージがつかめると、流れがわかりやすくなります。人物配置とか出来事でも、こういう顔の人がこういう振る舞い方をしてとイメージすることで、理解が深まるような気がします。 菅谷さん 「古事記」は、天武天皇がこういうものをつくろうと思ったときにつくらずに、二代置いて三代目の元明天皇のときにできる。なぜすぐに文字にしなかったのでしょうか。 和田萃さん(京都教育大学名誉教授) 天武紀十年三月に天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人の人々に(天皇の系図を中心とした)帝紀および、(神話や伝承などの古い時代の出来事を記した)旧辞を定めさせたという記事がある。このときの人たちは、天武十二、三年にほかのポストに移っているので、この事業は三年くらいの間のものと考えられます。恐らくその段階である程度まとめられたものをもとに、天武天皇が削偽定實し、稗田阿礼が誦習したのだろうと思います。 橿考研(奈良県立橿原考古学研究所)の飛鳥京跡の百四次調査で、天武十年のこの事業に符合した木簡が出土しています。将来的にはあの辺から天武朝にかかわる大量の木簡が出るのではないか、飛鳥での木簡の状況から、天武朝における歴史の編纂事業はかなりつかめるのではないか。
菅谷さん 推古朝につくられた国の歴史が「古事記」等に反映しているかどうか。大化の改新で焼けたことになっていますが、内容は皆さん知っていたわけですね。 今尾さん 歴史書は、出来事については前代から引き続いていますから、反映はしているんだろうと思います。壬申(じんしん)の乱という、皇統がどちらに傾いてしまうかもわからない状況を実体験した持統や天武は、皇統をしっかりと受け継がせていくために歴史編纂をした。また、自分の皇統につながる人を皇祖として整える作業が必要で、そのために時間がかかったと思います。 菅谷さん 「古事記」の理解を深めるためには、何を研究したらいいでしょうか。 和田さん 「古事記」の神話伝承を明治になって初めて絵に描いたのは青木繁です。日本神話を具体的に人々に知らしめた。功績は高く評価されると思います。 里中さん 私も、今、「古事記」を描いておりまして、来年一月一日発売予定ですが、本当に青木繁の絵はすばらしい。特に「わだつみのいろこの宮」はギリシャ神話のような描き方で、後で本を読んだときに、あっ、このシーンなんだと、すごく理解が深まるんです。 政治的なことや考古学的なことは諸説があるでしょうが、自分たちの民族の神話を持つことで、自分たちの先祖がこれをよしとしたという価値観を読み取れます。何が事実か調べようもない部分はあっても、真実はあると思います。 今尾さん 「古事記」の中に出てくる出来事を実際の考古遺物に置きかえることも必要だとは思いますが、「古事記」は編纂物ですから、編纂者の意図を念頭に置かないといけないだろうと思います。 菅谷さん 今、学校でも(古事記を)「こじき」と習いますが、本居宣長は「ふることふみ」と呼んでいます。 和田さん 正しくは「ふることふみ」で、古い時代のこと、あるいは歴史を編纂した書物という意味です。「日本書紀」も、最初完成したときは「日本紀」で、「日本書紀」とされたのは天平十(七三八)年ごろからです。日本の歴史書という意味で「やまとのふみ」です。 菅谷さん 「古事記」は最初、何に書かれていたのでしょうか。われわれは「古事記」ができてから四百年ほど後のものしか見てない。その間どんな形で伝わったかが大事だと思うのです。 里中さん 昔から竹簡とか木簡に字を書いて、それを正式なものにするときはきちんとした和紙に書いていた。正倉院に納められた物の中にも巻物はたくさんあります。最終的な完成品は巻物の形ではなかったかと思います。 和田さん 「古事記」は紙に書かれていたことは間違いないと思います。正倉院に大宝二(七〇二)年の美濃国の戸籍がありますが、それは全部紙に書いておりますし、その後に「古事記」(七一二年)が世に出たわけですから、紙に書かれていた。平安時代になると紙すきが非常に盛んになって、紙が大量に生産されるようになるのですが、奈良時代はどこで紙をつくっていたのか。正倉院文書あるいは東大寺文書は、経典の裏の白紙に書いております。 菅谷さん きょうのまとめとして、「日本書紀」「古事記」の二つの歴史書は、編纂の目標・目的が少し違うらしい。そして、「日本書紀」はともかく、「古事記」は紙に書かれて巻物の形であったらしい。そういうことを知るためにも、考古学の資料も見ていただいたら大変ありがたいと思います。 PR情報
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