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【社会】

川崎の郷土史研究家ら 謎の難読碑文

碑文の解読に挑んだ平林さん(左)と山口さん=川崎市多摩区の広福寺で(栗原淳撮影)

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 江戸末期、「桜田門外の変」の惨劇から逃れた彦根藩士が、現在の川崎市に残した碑文を、地元の郷土史研究団体が解読した。小説「桜田門外ノ変」の著者吉村昭氏が「ひどい崩し字で判読できず」と嘆くほど難読字が多く、謎だった内容。巧みな修辞から浮かび上がったのは、俗世の未練を断ち切れない隠士の苦悶(くもん)だった。 (栗原淳)

 碑は小田急線向ケ丘遊園駅近くの広福寺(同市多摩区)にあり、高さ約百十センチ、幅約五十センチ。裏面に「彦城隠士 畑権助」と刻まれている。

 市教育委員会は一九七六年に調べたが、表面は判読を断念。寺への聞き取りで、大老井伊直弼(なおすけ)の家臣「畑権助(はたごんすけ)」が変の現場から逃げ、寺男となって寺子屋を開き、文久三(一八六三)年に七十五歳で没した、との伝承を記録した。

 その後も郷土史家らが成果を上げられなかった判読に成功したのは、稲田郷土史会(同区)の平林勤さん(67)。印面に古い書体の文字を刻む篆刻(てんこく)の講師を務めている。「江戸時代の公式書体『御家流』から解き放たれ、中国の書の影響も感じさせる」と独特の「くせ」に着目、書道の知識を生かして五行、全四十六字を判別した。

 冒頭の五文字は雅号とみられる。二行の序言に続き、最後の二行は俳句の構成。石造物に詳しい市市民ミュージアムの望月一樹学芸員は「別の読み方ができる箇所もあるが、払いの書き方などを他の碑文と比べたところ、全体としては妥当な判読では」と評価する。

藩士の辞世の句が刻まれた石碑

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 坊主頭で布袋腹の風体を瓢(=ひょうたん)に見立てた句に読める。が、同会の郷土史家、山口醇さん(78)は「障る」は「触る」と「解脱に差し障る」、「は撫で」は「離(はな)で」と「撫でる」の掛け言葉で「頭と体はつながっていて良いのだろうか」の意味があると見抜いた。

 主君を守れず、彦根藩邸に戻った家臣ら七人は斬首刑になった。山口さんは、これを伝え聞いた権助が生き永らえているわが身を恥じ、句を詠むにいたったと考える。ただ、碑に刻んだ人物は特定できていないという。

 権助が没して今年で百五十年。彦根城博物館(滋賀県彦根市)の渡辺恒一学芸員によると、直弼一行に畑権助を名乗る武士は史料で確認できず、彦根藩士なら偽名の可能性が高いという。「世間では事件の記憶が新しく、本名を名乗れなかったのだろう」と渡辺さん。事件に関係した彦根藩士の心情を直接知る文書史料はないといい「隠士の思いが伝わってきて、意義深い発見だ」と喜んでいる。

◆平林さんらの解釈

 順当な時機に彦根藩に仕官し、(桜田門外の変で)鬨(かちどき)の声を聞いて逃亡した。それから寺の食事にありつき、剃髪(ていはつ)しただけだが、世俗を離れた気分である。

 坊主頭と太鼓腹は、ひょうたんみたいで、なでると気持ちがよい。だが、その頭と体は、つながっていてよいのだろうか。

 <桜田門外の変> 安政7(1860)年3月3日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が水戸脱藩士と薩摩藩士に暗殺された事件。直弼が攘夷(じょうい)派に加えた激しい処罰(安政の大獄)に憤慨した浪士18人が、登城中の大老を襲撃した。直弼の周りを彦根藩士や足軽、馬夫ら総勢100人近くが警護していたが、藩士4人が闘死、深手を負って4人が後に死亡したほか、十数人が負傷した。

 

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