遷宮記念シンポジウムin東京 伊勢神宮と出雲大社 〜平成の遷宮に神々を見つめる〜

伊勢神宮の式年遷宮と出雲大社の大遷宮が重なる2013年(平成25年)を前に、神事と現代の暮らしとのつながりを考えるシンポジウム「伊勢神宮と出雲大社〜平成の遷宮に神々を見つめる〜」が11月13日、東京都千代田区丸の内の東京商工会議所で開かれた。国立歴史民俗博物館名誉教授で國學院大學文学部教授の新谷尚紀氏が講演し、両宮の成り立ちと関係について独自の視点から紹介。その後、新谷氏と女優で國學院大學客員教授の浅野温子さん、櫻井治男・皇學館大学社会福祉学部教授、錦田剛志・島根県神社庁主事・万九千神社祢宜を迎え、元NHKアナウンサーで現在熊野神社宮司を務める宮田修氏の司会のもとパネルディスカッションを行った。会場では、浅野さんのよみ語り「神々のものがたり」も披露され、約450名の参加者は、熱心に聴き入っていた。

主  催/
東京新聞・中日新聞 山陰中央新報社
後  援/
神々の国しまね実行委員会 三重県観光連盟
特別協力/
神宮司庁、神社本庁、伊勢神宮式年遷宮広報本部、出雲大社御遷宮奉賛会、島根県神社庁
協  賛/
國學院大學 皇學館大学 近畿日本鉄道

基調講演

『伊勢神宮と出雲大社 〜天つ神と国つ神、朝日と夕日の聖地をめぐって〜』

講師
新谷 尚紀(しんたにたかのり)
(国立歴史民俗博物館名誉教授・國學院大學文学部教授)
早稲田大学第一文学部史学科卒業。社会学博士(慶應義塾大学)。総合研究大学院大学名誉教授。『お葬式ー死と慰霊の日本史ー』『伊勢神宮と出雲大社ー「日本」と「天皇」の誕生ー』など著書多数。

 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)を作った井上光貞先生がこんな言葉を遺しています。

 「これまであまり積極的な研究が成されなかったが、日本の文化にとって神社というものは非常に重要だ。それを特別なイデオロギーによって推進していく研究だけではなくて歴史学、考古学、民俗学といった学際的なテーマとして研究する必要がある」

 本日は、柳田國男、折口信夫という先生方が築かれた日本の民俗学を専門とする立場から、伊勢神宮と出雲大社について話してみます。

 まず、天つ神を祀る伊勢神宮はいつどうやってできたのか。日本書紀を読むと、崇神天皇のときに大殿の中で祀っていた天照大神を、このままでは恐れ多いので豊鍬入姫命につけて大和の笠縫邑でお祀りするようになったと書かれています。次に、息子である垂仁天皇のときに倭姫命につけて、大和から近江、美濃を迂回して南に向かい伊勢に鎮座したとあります。

 日本書紀の用明天皇のことを書いた「用明紀」を読むと、酢香手姫が日の神を祀り、その奉祀は推古朝まで長期に及んだと記されています。ところが、「推古紀」には何も書かれていません。ということは、日本書紀は途中で書き替えられた可能性があります。言語学者でとくに古代の中国語と日本語の研究に詳しい森博達さん(京都産業大学教授)は、一番古い雄略天皇から天智天皇までの記述をα群、天武天皇つまり壬申の乱以降をβ群と位置づけています。書き方が変わっていて、α群は正調の漢文だが、β群は日本人的な文章になっていると。とすれば、本来α群にあった推古紀がいまの日本書紀ではβ群に書き替えられていることが推定されます。

 なぜそうなのか。実は推古朝は古代史の大きな画期で、国史の編纂、天皇記、国記が作られた時代なのです。遣隋使を送り「日出ずるところの天子」と名乗るのですが、隋からはその説明を求められ、ふさわしい歴史書を作ったわけです。

 では、確実に伊勢神宮ができたのはいつか。672年の壬申の乱を経て673年に、天武天皇が信頼していた大伯皇女が泊瀬の斎宮に籠り、674年に皇女がいよいよ伊勢に出発しています。この時点では確実にできていたことになります。702年に亡くなる持統天皇は692年に伊勢へ行幸されます。この持統天皇が天照大神と伊勢神宮と深い関係があったことを示すのが、律令国家成立のまさにそのときに、都城と神宮が造られていくことです。

 そして、新益京(後の藤原京)と伊勢神宮は北緯34度線上にぴったり並ぶのです。これは驚くべき事実だと思います。

 大和の王権にとって伊勢の地は、聖なる海辺の清らかな太陽の宮だったのではないかと想像します。そして大陸に向かう出雲は日本海です。「斉明紀」の659年に、出雲の国造に命じて厳(いつく)しき神之宮を修造したとあります。すでに国つ神を祀る出雲大社は存在していて造り直す段階だったことがこの記事でわかります。

 出雲は大和王権の守り神という位置づけです。出雲神話は徹頭徹尾、大和王権を守ると言っているのです。国造りもそうですし国譲りもそうです。また出雲には毎年龍蛇様と呼ばれるセグロウミヘビが寄ってきて、新しい生命力を出雲の王たちに授けたと考えられます。その後10世紀になる頃、日本の律令制は解体し、摂関制という新しいシステムができます。元来、祭祀性と武力性を持つ天皇という存在が、現実の政事を摂政関白に任せ、自らは祭祀王に純化していくわけです。そこにあったのが鎮魂祭の整備でした。出雲を通じて外来魂の魂結び、つまり外来魂の受容を行ってそれを内在魂とし、その霊威力を天皇の分霊としてあらためて臣民に付与していく、そういう循環のシステムを持っていたのですが、それが新たな鎮魂祭の整備によって出雲を必要としなくなったのです。それは祭祀王として純化した天皇の永続性を保証する一方で、出雲の役割の変更を意味しました。和歌の始祖としてのスサノオ、神々の故郷としての出雲、「神無月」に全国の神々が参集する出雲という考えが11世紀以降に語られるようになったのです。

伊勢神宮 『式年遷宮』
 式年遷宮の儀式は天武天皇が創意し、続く持統天皇の御代から国家最大の重儀として、千三百年にわたり連綿と続けられています。二十年に一度新しい神殿を造営し、装束・神宝を整え神さまにお遷り願うものです。第六十二回神宮式年遷宮は、平成十七年春に準備が始まり、平成二十五年に遷御の儀が予定されています。
出雲大社 『平成の大遷宮』
 古代においては高さ十六丈(48㍍)と伝えられる出雲大社御本殿。高さ八丈(24㍍)の現在の御本殿は延享元年(1744)に造営され、以来文化六年(1809)、明治十四年(1881)、昭和二十八年(1953)の三度の御屋根替えと修理を経て今日に至っています。現在進められている遷宮では平成二十五年に本殿遷座祭が執り行われる予定です。