富士信仰

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浅間大菩薩の御在所とされた人穴の上部にある石碑(人穴富士講遺跡

富士信仰(ふじしんこう)は、富士山の神に対する神祇信仰。山岳信仰の1つ。

目次

[編集] 概要

富士信仰は、富士山を神と見立て信仰・崇拝の対象とすることであり、代表的ものとして、浅間信仰富士浅間信仰)がある。富士山を何らかの形で信仰・崇拝の対象としており、著明なものに村山修験富士講などがある。

[編集] 富士信仰の成立

富士山が民衆の信仰を集めるに至るには、登山の大衆化が大きな要素としてある。富士山の登山として記録として古いものでは、役行者の登山がある。 『日本現報善悪霊異記』には 「夜往駿河、富岻嶺而修。」 とあり、役行者と富士山との関係が伺え、『富士山記』には 「昔役の居士といふもの有りて、其の頂きに登ることを得たりと。」 とあり、役行者と富士山を結びつける記述は多く見られる。

「富士山開山の祖」とされる人物に末代上人がいる。『本朝世紀』に

是即駿河国有一上人。號富士上人、其名稱末代、攀登富士山、已及数百度、山頂構佛閣、號之大日寺。

とあり、富士山頂に大日寺を建てたことが記されている。このような行為は信仰からなると考えられ、富士信仰の大きな機転であった。また末代は修験道を組織した人物とも考えられ、富士信仰の変移に大きく関わる人物である。

平安時代成立の『地蔵菩薩霊験記』によると

末代上人トゾ云ケル。彼の仙駿河富士ノ御岳ヲ拝シ玉フニ。(中略)ソノ身ハ猶モ彼ノ岳ニ執心シテ、麓ノ里村山ト白ス所ニ地ヲシメ …

とあり、末代上人と村山の関係が伺え、末代が村山修験を成立させたと考えられている[1]。村山修験は、民衆によるまとまった形の富士信仰の例として最も早い。 他にも平安時代末期の『梁塵秘抄』には

四方の霊験所は、(中略)駿河の富士の山、(中略)の道場と聞け…

とあり、少なくとも平安時代末期には既に富士山が信仰の対象となっていたことが分かっている[1]。『義経記』には

山伏の行逢ひて、一乗菩提の峯、釈迦嶽の有様、八大金剛童子のごしんさし、富士の峯、山伏の祈義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき…

とあり、富士山と修験道の関係が世に知られていたことが分かる[1]

[編集] 浅間信仰

富士山本宮浅間大社

浅間信仰(富士浅間信仰)の核となる浅間神社は、富士山の神霊として考えられている浅間大神を祀る神社である。静岡県および山梨県を中心として全国に約1300社の(富士神社)が分布する。富士山8合目以上の大半の境内(詳細は富士山本宮浅間大社にて)とする富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本宮としている[2]

[編集] 浅間大神の神階奉授

日本文徳天皇実録』に

以駿河國浅間神預於名神

とあり、仁寿3年(853年)に浅間神は名神に列した。また『日本三代実録』に

駿河国従三位浅間神正三位

とあり、貞観1年(859年)には正三位の位階を与えられ昇進している。 また同じく『日本三代実録』に

富士郡の正三位浅間大神の大山

とあり、これらの記録から噴火活動を抑えるために律令国家の手により「浅間神」が祭祀されるようになったと考えられている。これが現在の富士山本宮浅間大社である[3]。このように、先ず駿河国に富士山に関する神祠が成立したと考えられている[1]

『日本三代実録』の貞観6年(864年)8月の報告に

下知甲斐國司云、駿河國富士山火、彼国言上、決之蓍龜云、浅間名神禰宜祝等、不勤斎敬之所致也。

とある。このことから駿河国に既に「浅間明神」を祀る禰宜や祝が存在していたことが分かる。貞観7年(865年)12月の報告に

甲斐国八代郡立浅間明神祠、列於官社、即置祝禰宜、随時致祭。

とある。これを転機として甲斐国側にも浅間神社が建立されることとなる。このように噴火への危惧などから徐々に浅間信仰は拡大していくこととなる。「浅間神」・「浅間大神」・「浅間明神」など、呼び名には時代や記録により差異が認められる。

小室浅間神社。富士山を拝する形態がみられる。

[編集] 木花咲耶姫命

浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神がコノハナノサクヤビメとなった経緯としては、コノハナノサクヤビメの出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。浅間神社の中には、浅間造と呼ばれる特殊な複合社殿形式を持つものもある。浅間大神は神仏習合によって、浅間大菩薩と呼ばれることもある。

富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火を抑えるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。

富士山本宮浅間大社の元宮とされる富士山本宮山宮浅間神社は、神社としての社殿を持たない形式であり、神社として富士信仰の祭祀形態を持つ例として希少である。

[編集] 浅間の語源

浅間神社の語源については諸説ある[4]

  • 「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説。
  • 「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に集合した結果といわれている。
  • 「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
  • 坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の皇大神宮摂社である朝熊神社を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。

[編集] 富士山の宗教性

富士信仰とは、直接の関係はないが、日蓮宗富士門流(日興門流)も富士山に拠点を置いている。宗祖日蓮の「富士山に本門の戒壇を建立すべきものなり(要旨)」との遺命に基づき、富士山麓に大石寺が建立されている。その他にも、日蓮の高弟日興及びその弟子たちによって有力な寺院・宗派が開設されており、上条大石寺北山本門寺西山本門寺小泉久遠寺下条妙蓮寺を総称して富士五山と呼ばれる。

富士信仰とは直接の関わりはないが、やはり現在においても富士山は宗教的な聖地と見なされることが多い。創価学会白光真宏会オウム真理教法の華三法行のように、活動拠点を置くなどする新宗教教団が存在する。

[編集] トピック

  • 富士山が立地する地域周辺には千居遺跡(静岡県富士宮市)や牛石遺跡(山梨県都留市)など、縄文時代後晩期の祭祀遺跡が複数発掘されている。これらの遺跡には配石遺構(ストーンサークル)を伴う特徴があり、富士信仰に関わるものではないかと学術的に考える意見が存在する。これが正しいとすると、少なくとも縄文時代以前には富士信仰の原型があったこととなる。
  • 駒込富士神社(東京都文京区本駒込)は、最も古い富士講組織の1つがあり、町火消により組織された。初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、この駒込富士神社に由来する。神社周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事によるという。この言葉は縁起が良い初夢だとされる一方で、「仇討ち」を示す隠語であるとの説もある。まず「富士」の裾野での曾我兄弟の仇討ち、「鷹」は忠臣蔵での敵役・浅野長矩の定紋、「茄子」は鍵屋の辻の決闘の舞台、伊賀上野の名産物をそれぞれ表すといわれる。

[編集] 脚注

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  1. ^ a b c d 平野 栄次『富士浅間信仰』雄山閣出版
  2. ^ 東口本宮冨士浅間神社(静岡県駿東郡小山町)や、北口本宮富士浅間神社(山梨県富士吉田市)を総本社とする考えもある。神社天ホームページの浅間神社より
  3. ^ 久保田淳 『富士山 信仰と芸術の源』 小学館、2009年、24頁。
  4. ^ 宮地直一『浅間神社の歴史』名著出版

[編集] 関連項目

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