陸奥国
陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方区分である国の一つである。中国風に略して奥州(おうしゅう)とも呼ばれる。陸奥はもと道奥(みちのおく)で、平安時代まで「みちのく」とも呼ばれた。略称には陸州(りくしゅう・ろくしゅう)も用いられた。延喜式での格は大国、遠国。
畿内から見て山道(のちの東山道)と海道(のちの東海道)の奥に位置し、中央政権に新規に服従した地域を同国に含めていったため、時期によって範囲は変遷する。概ね本州の北東部にあたる今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県北東の鹿角市と小坂町にあたるが、戊辰戦争に敗戦した奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)に出羽国と共に分割され、青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に縮小された。
- 分割後の陸奥国については陸奥国 (1869-)を参照
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[編集] 国名の由来と変遷
『古事記』には道奥とあり、『日本書紀』は陸奥が多いが古い時代に道奥もみられ、ともに道奥を「みちのおく」と訓じる。和名抄は陸奥を「みちのおく」とする。道は古い時代には国と同義に使われており、道奥の語源は都からみて遠い奥にある国の意である。道を陸にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、陸道の意であてたものであろう。平安時代の和歌で陸奥は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。
「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が『古事記伝』で唱えた[1]。陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった[2]。もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則『新撰陸奥風土記』にある[3]。「みちのくに」は『伊勢物語』などに見える。
[編集] 沿革
[編集] 「道奥国」設置と当時の領域
初め道奥(みちのおく)といい『常陸国風土記』には孝徳天皇在位の末年(654年)、足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとの記述がありこの8国の中に道奥が含まれると解されている。現在の東北地方のうち徐々に律令国家日本に組み込まれた区域、すなわち宮城県南部までの広大な領域を暫定的に含む辺境の大国であった常陸国から分割される形で成立し、以後、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。7世紀の設置時の範囲は、おおよそ現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、および福島県のほぼ全域に相当し、太平洋側のみならず、奥羽山脈の西側、すなわち、日本海側に当たる現在の山形県内陸盆地群や福島県会津地方を含んだ。
6世紀の陸奥の国造は、道奥菊多(のちの菊多郡に相当)、石城(磐城郡)、染羽(締葉郡)、浮田(宇多郡)、思(日理の誤り)、白河(白河郡)石背(磐瀬郡)、阿尺(安積郡)、信夫(信夫郡)、伊久(伊具郡)の10国造である(「国造本紀」)。孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、国造制が評制へと変わり、道奥国(みちのおくくに)が設けられた。
[編集] 律令制下の陸奥国
和銅5年(712年)に、最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を越後国から分割されて新しく成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域のみになった。
養老2年(718年)に、陸奥国は、陸奥国・石城国・石背国の三つに分割された。このときの陸奥国の範囲は阿武隈川下流の北岸から宮城県中部までの狭い範囲であった。阿武隈川下流の南岸以南の浜通りは石城国、阿武隈川流域の盆地群、中通り、および会津で石背国とした。石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡をあわせた。しかし、養老4年(720年)年以降神亀元年(724年)以前のいつかの時点で、三国は合同して元の陸奥国に戻った。菊多郡はそのまま陸奥に属した。
蝦夷(えみし)の領域に接する陸奥国には、陸奥・出羽両国を統括する陸奥按察使が置かれた。陸奥国府には鎮守府が置かれ、他国から送られた鎮兵の統括を任務とし、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。大同3年(808年)以前には、陸奥・出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。延暦21年(802年)に胆沢城が造営されると、鎮守府はここに移された。この後鎮官[4]が国司と別に任じられるようになり、胆沢城の城司に鎮官を充てた。国府多賀城は胆沢城鎮守府を後方から守る役割になった。[5]
陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。版図の拡大には城柵を設置する政策がとられた。689年(持統3年)に優嗜曇評の柵(のち出羽国置賜郡)、724年(神亀元)に多賀城(宮城県多賀市)、737年(天平9年)に玉造柵(宮城県大崎市富沢遺跡か)、同年新田柵(宮城県大崎市大嶺八幡遺跡)、同年牡鹿柵(宮城県東松島市赤井遺跡か)、同年色麻柵、759年(天平宝字3年)に桃生城(宮城県石巻市)、767年(神護景雲元)に伊治城(宮城県栗原市)、780年(宝亀11年)に覚(上幣と下魚)城(未造営か)、804年(延暦23年)に中山柵(小田郡)、802年(延暦21年)に胆沢城(岩手県奥州市)、803年(延暦22年)に志波城(岩手県盛岡市)、812年(弘仁3年)に徳丹城(岩手県矢巾町)、遺跡として7世紀中頃の郡山遺跡(宮城県仙台市)、8世紀前半の城生柵遺跡(宮城県加美町)の15柵がつくられた。
和名類聚抄による田の面積は、5万1440町3反99歩。延喜式による租稲(租の税収)は158万2715束。都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布、薬草として甘草・秦膠・大黄・石斛・人参・附子・猪脂、筆、零羊の角。交易雑物には鹿の革、独犴(ラッコまたは犬)の皮、砂金、昆布・策昆布・細昆布があった。また、特産物の金、名馬、毛皮、羽根は都の貴族に珍重された。
名目 | 支出(束) |
---|---|
正税 | 60万3000 |
公廨 | 80万3715 |
うち国司料 | (64万1200) |
うち鎮官料 | (16万2515) |
国分寺料 | 4万0000 |
文殊会料 | 2000 |
救急料 | 12万0000 |
祭塩竃神料 | 1万0000 |
学生料 | 4000 |
計 | 158万2715 |
[編集] 平安時代
陸奥国南西部(後の岩代国)の会津地方では、807年(大同2年)年創建の伝承を持つ恵日寺が強大な勢力を持ち、11世紀から12世紀に最盛期を迎えて陸奥国から北陸地方北部まで影響力を持った。
平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長安倍氏が陸奥の北部(現在の岩手県・青森県)、奥六郡から下北半島、さらに十三湊[6]からの大陸交易に至る多大な権益に力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これにかわって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、南部となる現在の福島県域では、信夫佐藤氏が信夫郡を本拠地として宮城県南部、山形県南部、福島県中部、後に恵日寺衰退後の会津を支配した。福島県南東部(分国後の磐城国)では、前九年の役に従軍した後石川郡に定住した清和源氏の石川氏や、浜通り南部を支配した桓武平氏の岩城氏もあったが、いずれも藤原氏に服属していた。
奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年に源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。
[編集] 鎌倉時代
頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置した。奥州土着の武士は衰退し、鎌倉以来の武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。守護は置かれなかった。
なお、平安時代の陸奥国および出羽国は、北東北領域で境界不明瞭なことが多く、平安末期には、奥州藤原氏の勢力範囲の秋田県領域(仙北三郡など)も陸奥国と見なされていたようである(→出羽国)。
鎌倉時代後期には蝦夷大乱が起きた。
[編集] 南北朝・室町時代
後醍醐天皇の建武の新政期には一時期親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として赴任した。 その後室町幕府によって奥州探題が置かれた。 当初、陸奥国中部(現在の宮城県北部)を勢力圏とする足利氏一門で斯波氏の支族、大崎氏が奥州探題を世襲していたが、その権威は名目的なもので、権威が及ぶ範囲も限られていた。後に陸奥国南部(現在の福島県北部)の伊達氏が台頭し、伊達稙宗が陸奥国守護を任ぜられ、大崎氏が伊達氏の勢力下に組み込まれるに至って、奥州探題の地位も伊達氏に奪われた。
[編集] 江戸時代
[編集] 明治期の陸奥国
詳細は「陸奥国 (1869-)」を参照
1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。同日、陸奥国と出羽国は分割され、陸奥国(むつ)は、陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)・岩代国・磐城国の5国に分割された。陸奥国(りくおう)は、現在の青森県に岩手県西北の二戸郡を加えた範囲となり、初期の陸奥国(みちのく)から300kmも離れた土地を指すことになった。
陸奥国(りくおう)の領域にあった藩は下記のとおりである。
明治政府の地方支配体制は、その後の廃藩置県や鎮台などによって実現されたため、明治元年の陸奥国分割は、政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。ただし、分割後の国名は、鉄道の駅名や陸前高田市などの地名に利用されている。また、陸奥・陸中・陸前の三国を総称した「三陸」の呼称は三陸海岸を始め現在も定着している。
[編集] 国府・国分寺・安国寺など
当初の国府は郡山遺跡と推定されており、名取郡(現・宮城県仙台市太白区、地図)にあった。神亀元年(724年)、宮城郡多賀(現・宮城県多賀城市、地図)に多賀城が建設されると同時に国府もここに移った。遺跡調査からこの国府が10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府が鎌倉時代、南北朝時代に存在したことがわかっている。場所がやや西の岩切(現在の仙台市北東部)付近に移ったと推測されている[7]。
過去には、多賀城・多賀国府が岩切や利府にあったとする説もあり、多賀城の位置が定まったのは明治に入ってからである[8]。その後も、歌枕の武隈の松から武隈(現在の岩沼市)に一時期の国府があったとする説や、現在の福島県に国府が置かれた時期もあったはずだとする推定もなされた[9]。いずれも発掘調査の進展により否定された。
国分寺も宮城郡(現・宮城県仙台市若林区木の下、地図)にあった。1189年に奥州合戦で焼失したが、同じ位置に慶長12年(1607年)、伊達政宗が陸奥国分寺を再建し、真言宗智山派の護国山医王院陸奥国分寺(本尊:薬師如来)として今日に至る。後に古い国分寺の遺跡が発掘され、国の史跡に指定された。
国分尼寺も宮城郡(現・宮城県仙台市若林区白萩町、地図[10])にあった。現在は隣接地に曹洞宗の護国山国分尼寺(本尊:聖観世音菩薩)があって、その法燈を伝承する。
安国寺は、現・宮城県大崎市古川柏崎(地図)に位置する臨済宗妙心寺派の興聖山安国寺(本尊:阿弥陀如来)と、かつては伊達郡、その後伊達氏と共に移転して現・宮城県仙台市青葉区青葉町(地図)に位置する臨済宗東福寺派の無為山安国東昌禅寺(本尊:釈迦如来)がある。なお、利生塔は未詳である。
[編集] 神社
延喜式神名帳には大社15座15社・小社85座85社の計100座100社が記載されている。大社15社は以下の通りで、全て名神大社である。
- 信夫郡 東屋沼神社
- 会津郡 伊佐須美神社
- 安積郡 宇奈己呂和気神社
- 白河郡 都都古和気神社
- 苅田郡 苅田嶺神社
- 行方郡 多珂神社
- 宇多郡 子負嶺神社
- 宮城郡 志波彦神社
- 宮城郡 鼻節神社
- 牡鹿郡 拝幣志神社
- 牡鹿郡 零羊埼神社
- 桃生郡 計仙麻大島神社
- 栗原郡 志波姫神社
- 色麻郡 伊達神社
- 柴田郡 大高山神社
中世以降鹽竈神社(宮城県塩竈市、地図)が一宮とされるようになった。戦国時代ごろから都都古和気神社(福島県棚倉町棚倉・同町八槻、地図)も一宮を名乗るようになり、以降、両社が一宮とされた。近世以降、石都々古和気神社(福島県石川町、地図)も一宮を主張している。二宮は伊佐須美神社(福島県会津美里町宮林、地図)であるが、これに対する一宮は鹽竈神社であるとしている。
総社は陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川、地図)であるとされるが、鹽竈神社が惣社を兼ねていたとする説もある。
[編集] 国司
[編集] 陸奥守
定員は1名。従五位上相当。ただし、伊達氏の陸奥守は武家官位であり、京都には別に任官した陸奥守が存在した。
※日付=旧暦
- 平維扶
- 平貞盛
- 藤原実方(995年〈正暦6年〉~)
- 源満政
- 源忠重
- 藤原登任
- 源頼義
- 藤原良経
- 源信雅
- 源義家
- 藤原基家
- 藤原秀衡(1181年〈養和元年〉8月15日~
- 大江広元(1216年〈建保4年〉1月27日~1216年〈建保4年〉11月10日)
- 北条義時(1217年〈建保5年〉12月12日~1223年〈貞応元年〉8月16日)従四位下
- 足利義氏(1224年〈貞応2年〉~
- 北条重時(1249年〈建長元年〉6月14日~1256年〈康元元年〉3月11日)従四位上
- 北条政村(1256年〈康元元年〉4月5日~1257年〈正嘉元年〉6月12日)従四位下
- 足利泰氏
- 北条時茂(1267年〈文永4年〉10月23日~1270年〈文永7年〉1月27日)従五位下
- 北条時村(1270年〈文永7年〉7月8日~1282年〈弘安5年〉7月14日)従五位下
- 安達泰盛(1282年〈弘安5年〉7月14日~1284年〈弘安7年〉4月4日)秋田城介兼務。
- 北条業時(1284年〈弘安7年〉8月8日~1287年〈弘安10年〉6月18日)正五位下
- 北条(大仏)宣時(1289年〈正応2年〉6月23日~1301年〈正安3年〉9月4日)
- 北条宗宣(1301年〈正安3年〉9月27日~1312年〈正和元年〉5月29日)従四位下
- 北条(大仏)維貞(1314年〈正和3年〉10月21日~1326年〈嘉暦元年〉10月10日)正五位下
- 北条(大仏)貞直( ~1333年〈元弘3年〉5月22日)
- 北畠顕家( 1334年~)従三位
- 島津立久(1470年から1474年〈文明6年〉4月まで)
- 三浦義同従四位下
- 武田信虎従五位下
- 大舘晴光
- 毛利元就(1560年〈永禄3年〉2月15日~1571年〈元亀2年〉6月14日)従四位下→従四位上
- 北条氏照
- 島津貴久(1564年から1571年まで)
- 穴山信君
- 佐々成政(1536年〈天文5年〉2月6日(1月15日?) - 1588年〈天正16年〉7月7日(閏5月14日)までの間のいずれか)
- 島津家久(1604年〈慶長9年〉6月~1617年〈元和3年〉7月18日)正四位下左近衛少将兼任。
- 伊達政宗(1608年〈慶長13年〉1月~1615年(元和元>6月19日)従四位下右近衛権少将兼任。
- 伊達忠宗(1639年〈寛永16年〉4月14日~1658年〈万治元年〉7月12日)従四位下右近衛権少将兼任。
- 伊達綱宗(1658年〈万治元年〉閏12月27日~1669年〈寛文9年〉12月20日)従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達綱村(1669年〈寛文9年〉~1703年〈元禄16年〉8月29日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将兼任。
- 伊達吉村(1703年〈元禄16年〉8月29日~1743年〈寛保3年〉7月25日)従四位下侍従兼任→従四位上左近衛権中将兼任。
- 伊達宗村(1743年〈寛保3年〉7月25日~1756年〈宝暦6年〉5月26日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将
- 伊達重村(1756年〈宝暦6年〉7月18日~1790年〈寛政2年〉)従四位下侍従兼任→従四位上左近衛権中将兼任。
- 伊達斉村(1790年〈寛政2年〉6月25日~1796年〈寛政8年〉8月12日)従四位下侍従兼任→従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達斉宗(1812年〈文化9年〉3月15日~1819年〈文政2年〉5月24日)従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達斉義(1819年〈文政2年〉8月11日~1827年〈文政10年〉11月27日)従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達斉邦(1828年〈文政11年〉2月~1841年〈天保12年〉7月24日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将
- 伊達慶邦(1841年〈天保12年〉9月15日~1868年〈慶応4年〉)従四位下侍従兼任→正四位下左近衛権中将
[編集] 陸奥介
[編集] 郡
平安期と近代の分国後の郡を挙げる。
[編集] 古代の郡
[編集] 4国分立後の郡
[編集] 人口
- 1721年(享保6年) - 196万2836人
- 1750年(寛延3年) - 183万6134人
- 1756年(宝暦6年) - 180万6192人
- 1786年(天明6年) - 156万3719人
- 1792年(寛政4年) - 156万8218人
- 1798年(寛政10年)- 158万9108人
- 1804年(文化元年)- 160万2948人
- 1822年(文政5年) - 165万0629人
- 1828年(文政11年)- 168万0102人
- 1834年(天保5年) - 169万0509人
- 1840年(天保11年)- 150万6193人
- 1846年(弘化3年) - 160万7881人
- 1872年(明治5年) - 229万4915人(旧陸奥国5国合計)
- ※分国後の明治5年、陸奥国の人口は人口47万3244人であった。
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 本居宣長『古事記伝』20巻(筑摩書房『本居宣長全集』第10巻449-450頁)。
- ^ 高橋富雄『蝦夷』190頁。
- ^ 保田光則『新撰陸奥風土記』歴史図書社、1頁。
- ^ (ちんかん)鎮守府の鎮守将軍・副将軍・軍監・軍曹などの官職
- ^ 今泉隆雄「律令国と蝦夷」55ページ(渡辺信夫・今泉隆雄・大石直正・難波信雄『宮城県の歴史』山川出版社 1999年3月)
- ^ 後に十三湊の支配者となる安東氏は安倍氏を出自として持つが、12世紀にはすでに遺構が存在することが国立歴史民俗博物館などの調査によって知られている
- ^ 『みちのくの都 多賀城・松島』、『中世陸奥国府の研究』所収の諸論文による。
- ^ 豊田武・編『東北の歴史』上巻91頁(工藤雅樹・執筆「多賀城」)。
- ^ 大塚徳郎「古代および中世の宮城県」、『宮城県の地理と歴史』第2巻71頁。
- ^ 陸奥国分尼寺跡(宮城県)
[編集] 参考文献
- 大塚徳郎「古代および中世の宮城県」、東北大学教育教養学部歴史研究室地域社会研究会『宮城県の地理と歴史』第2巻、東北大学教育教養学部歴史研究室地域社会研究会、1956年。
- 入間田宣夫・大石直正・編『みちのくの都 多賀城・松島』、平凡社、1992年。
- 入間田宣夫・大石直正等『中世陸奥国府の研究』、ヨークベニマル、1994年。
- 高橋富雄『蝦夷』、吉川弘文館、1963年。
- 豊田武『東北の歴史』上巻第4版、吉川弘文館、1973年。
- 本居宣長『古事記伝』。大野晋・編『本居宣長全集』第10巻(古事記伝にあてるのは9から11巻)、筑摩書房、1968年。
- 保田光則『新撰陸奥風土記』万延元年(1860年)。歴史図書社、1980年(1913年の刊本の復刻版)。