大関

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大関(おおぜき)は、大相撲の階級。

「大関取」が語源とされ、かつては力士の最高位だったが、現在では横綱に次ぐ地位。一般に「三役(力士)」というと、「大関・関脇小結」を指す。三役の最上位であり、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。そのため三役を「関脇・小結」のみを指すこともある。

目次

[編集] 概要

東西に最低1名ずつ常設され、空位となる場合には横綱力士が「横綱大関」としてその座を兼ねる。それも適わない時には、関脇や小結から繰上げで昇進をさせることになるが、そのような例は近年はほとんどない[1]。江戸時代には大関に適した者が居ない時など看板大関といってただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。

番付編成会議で大関昇進が決定すると、日本相撲協会から使者が派遣され、横綱とほぼ同様な「昇進伝達式」が行われる。新大関は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われることになる。なお、大関昇進については、横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準があるわけではない。マスコミの報道によると、「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」というところが近年では大関昇進への基準の目安となっているといわれる[2]

なお、大関昇進後の特典としては、月給が三役より65万7000円昇給される(2010年現在)。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車する事も可能となる(ほか幕内・十両力士はタクシーのみ利用可能)。さらに、海外場所などの移動に使う飛行機の座席クラスは、幕内力士がビジネスクラスなのに対し、大関以上になるとファーストクラスに座る事が出来る。そして鉄道(新幹線)では、グリーン席に座る事も可能となっている。

[編集] 基準を満たさずも昇進した例

最近の例では、1999年平成11年)3月場所新大関・千代大海の直前3場所の成績は、9勝-10勝-13勝(優勝)の合計32勝13敗であった。当時は1994年(平成6年)3月の貴ノ浪武蔵丸の二人同時昇進以来、5年間新大関が誕生しておらず、また千秋楽で本割・決定戦と横綱若乃花に連勝して優勝した内容が、高く評価されたものと思われる。その前には、1985年昭和60年)9月場所新大関の大乃国の直前3場所は、9勝-10勝-12勝の合計31勝14敗だったが、それまで関脇の地位を連続6場所維持し成績も徐々に上回り、また将来性を期待されての昇進であった。さらに遡れば、1966年(昭和41年)9月場所新大関の北の冨士の直前3場所は、8勝-10勝-10勝の合計28勝17敗と、現在なら到底有り得ない甘過ぎる成績での昇進だったが、当時大関は豊山一人しかおらず、早く生きの良い大関誕生を願う相撲協会の思惑からでもあった(ただ、結果的に千代大海は大関昇進後に2度の幕内優勝を、大乃国は2度の幕内優勝を、北の富士は10度の幕内優勝を果たした。また、のちに千代大海は貴ノ花が持っていた大関在位場所数の記録を大幅に更新し、大乃国と北の富士は横綱に昇進した)。

[編集] 昇進を見送られた例

1972年(昭和47年)3月場所、関脇で優勝した長谷川は、直前3場所は8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝15敗の成績を挙げ、当時の基準では大関確実と思われていた。しかし同3月場所中に大関同士(前の山琴櫻)の対戦で、二人の大関に対し無気力相撲の指摘を受けたことなどにより、相撲協会は大関目前の長谷川に対し「もう1場所見てから」と慎重に判断、不運にも昇進は見送られることになった。次の長谷川の5月場所の成績は8勝7敗と勝ち越したが再度見送られ、翌7月場所は5勝10敗と負け越して平幕へ陥落、結局大関の地位を務めることなく引退となってしまった。

長谷川の例以降は、大関の資質が問題にされることはしばらくなかった。ところが、1999年(平成11年)9月場所からの1年間で大関に昇進した4力士のうち出島雅山は昇進後、優勝はおろか千秋楽まで優勝争いに絡むことすら1度もなく、いずれも2年以内に関脇の地位へ陥落したため「大関の大安売り」と皮肉られたことがあった[3]。それを機に、大関昇進は単なる星数だけではなく、相撲内容も問うこととなった。特にその煽りを受けてしまった力士が、1度目の大関昇進の機会を逃した琴光喜、2度目の大関昇進を目指した雅山、さらに把瑠都の3人である。

琴光喜は、2001年(平成13年)9月場所から2002年(平成14年)1月場所までの3場所間、幕内上位の地位で34勝(13勝-9勝-12勝)したが、昇進を見送られた。それは、3場所前が前頭2枚目(13勝2敗で平幕優勝)だったこと、2場所前が9勝と1桁白星であったこと(平成以降に大関昇進の力士はを除き全て2場所前は10勝以上)、また当時大関陣が4人もいたことが引っ掛かった。さらに大関取りの2002年1月場所で、3敗目を喫した内容があまりにも悪かったほか、自分より遥かに地位の低い相手(前頭8枚目の武雄山)に敗れた理由もあったといわれる。その次の場所、2002年(平成14年)3月場所の琴光喜は勝ち越したが8勝7敗に終わり、またその場所中に顎を骨折し翌5月場所は全休(公傷適用されず)、7月場所は平幕へ陥落となり大関昇進は一旦振り出しとなった。それから5年後の2007年(平成19年)になって、琴光喜は3月場所から7月場所の間、関脇の地位で3場所35勝(10勝-12勝-13勝)を挙げ、年6場所制以降で史上最年長の大関昇進をようやく決めた。

雅山は、大関再昇進を目指した2006年(平成18年)7月場所で、3場所合計34勝(10勝-14勝-10勝)を全て三役(小結・関脇)の地位で挙げた。しかし、直前の場所が10勝だったこと(平成以降に大関昇進した力士の直前場所は、大関特例復帰者を除いて全て11勝以上)や、当時大関が既に5人いたことを理由に昇進を見送られている[4]。その後翌9月場所の雅山は勝ち越したが9勝6敗、11月場所は8勝7敗、翌2007年1月場所は5勝10敗と負け越し平幕へ陥落。結局大関再昇進はならなかった。

把瑠都は、2010年(平成22年)1月場所で合計33勝(12勝-9勝-12勝)を三役の地位で挙げたものの、2場所前が1桁勝ち星だった事や、上述の琴光喜や雅山のように、合計34勝を挙げながら昇進出来なかった例もあって見送られる。次の3月場所の直前、審判部から「大関昇進を決定づけるには13勝(3場所合計34勝)以上」という高い条件をつけていた。それでも把瑠都は、11日目に横綱・白鵬に敗れたのみで14勝1敗の優勝次点、3場所とも関脇の地位で合計35勝(9勝-12勝-14勝)を挙げ、3月場所後に文句無しの新大関となった。

[編集] 大関昇進前3場所成績(平成以降)

  • 関:関脇、小:小結
  • 四股名は、それぞれ大関昇進時に名乗っていた当時の名前である。
昇進場所 四股名 3場所前 2場所前 直前場所 3場所合計
1990年(平成2年)5月場所 霧島一博 小10勝5敗 小11勝4敗△ 関13勝2敗◯ 34勝11敗
1992年(平成4年)7月場所 曙太郎 小13勝2敗△ 関8勝7敗 関13勝2敗◎ 34勝11敗
1993年(平成5年)3月場所 貴ノ花光司 小14勝1敗◎ 関10勝5敗 関11勝4敗 35勝10敗
1993年(平成5年)9月場所 若ノ花勝 小14勝1敗◎ 関10勝5敗 関13勝2敗◯ 37勝8敗
1994年(平成6年)3月場所 貴ノ浪貞博 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関13勝2敗△ 35勝10敗
武蔵丸光洋 関8勝7敗 関13勝2敗◯ 関12勝3敗 33勝12敗
1999年(平成11年)3月場所 千代大海龍二 関9勝6敗 関10勝5敗 関13勝2敗◎ 32勝13敗
1999年(平成11年)9月場所 出島武春 小9勝6敗 関11勝4敗 関13勝2敗◎ 33勝12敗
2000年(平成12年)5月場所 武双山正士 小10勝5敗 関13勝2敗◎ 関12勝3敗△ 35勝10敗
2000年(平成12年)7月場所 雅山哲士 小12勝3敗△ 関11勝4敗 関11勝4敗 34勝11敗
2000年(平成12年)9月場所 魁皇博之 小8勝7敗 小14勝1敗◎ 関11勝4敗 33勝12敗
2002年(平成14年)1月場所 栃東大裕 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関12勝3敗△ 34勝11敗
2002年(平成14年)9月場所 朝青龍明徳 関11勝4敗 関11勝4敗△ 関12勝3敗△ 34勝11敗
2006年(平成18年)1月場所 琴欧州勝紀 小12勝3敗△ 関13勝2敗◯ 関11勝4敗△ 36勝9敗
2006年(平成18年)5月場所 白鵬翔 小9勝6敗 関13勝2敗△ 関13勝2敗◯ 35勝10敗
2007年(平成19年)9月場所 琴光喜啓司 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関13勝2敗△ 35勝10敗
2009年(平成21年)1月場所 日馬富士公平 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関13勝2敗◯ 35勝10敗
2010年(平成22年)5月場所 把瑠都凱斗 関9勝6敗 関12勝3敗△ 関14勝1敗△ 35勝10敗
2011年(平成23年)11月場所 琴奨菊和弘 関10勝5敗 関11勝4敗 関12勝3敗△ 33勝12敗
  • ☆はのちに横綱。◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点。
  • 貴ノ花は関脇まで「貴花田」、大関昇進時に改名。昇進後11場所目の1994年11月場所に「貴乃花」へ改名。
  • 若ノ花は大関昇進3場所前まで「若花田」、2場所前に改名。昇進後8場所目の1994年11月場所に「若乃花」へ改名。
  • 貴ノ浪、武双山、栃東は初めて大関に昇進した時の成績。
  • 琴欧州は、大関昇進後6場所目の2006年11月場所に「琴欧洲」へ改名。
  • 日馬富士は関脇まで「安馬」、大関昇進時に改名。

[編集] 陥落・大関特例復帰

かつては1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で転落した力士も存在する。2場所連続負け越しでの大関よりの降下は、1927年の東西合同以来の諸制度の確定の中で定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前には大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する(千葉ヶ嵜俊治参照)。

しかし、1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施されたときには、2場所では厳しすぎるということで、3場所連続の負け越しで関脇に陥落としていた。ところが、それでは甘すぎるという批判の声(琴ヶ濱貞雄参照)もあって、1969年(昭和44年)7月場所より、「2場所連続で負け越した場合、関脇へ降格する。しかし、降格直後の場所で、取り組み日数(現・15日)の三分の二(10)勝以上の勝ち星を挙げれば、大関に復帰できる[5]」という、現行の大関特例復帰の制度が施行された。

なお、公傷休場はこの場所数にはカウントされなかったが、本場所での負傷に対する公傷制度2003年(平成15年)11月場所をもって廃止された。

この大関特例復帰の制度で、関脇から大関に再昇進したのは4人(三重ノ海貴ノ浪武双山栃東)のみである。三重ノ海はのちに横綱昇進も果たしており、栃東は唯一二度の大関特例復帰を果たしている。貴ノ浪は一度大関特例復帰を果たしたが、そのわすか2場所後関脇に再陥落しており、二度の大関特例復帰はならなかった。なお特例復帰の場合は、新大関に昇進するのと同様に新番付発表を待たずに、大関復帰が決定した場所の直後から大関として扱われる。また、大関への再昇進伝達式は行われない。なお、魁傑は大関を陥落した翌場所に10勝を挙げられず、平幕に落ちた後はこの制度の恩典にあずからずに大関に復帰しており、その際には再昇進伝達式が行われている。

あと1場所負け越せば関脇に降格する場合、角番(かどばん)と呼ぶ。その場所で8勝をあげ勝ち越せば、角番脱出となり大関にとどまれる。また、2場所連続で負け越しても翌場所10勝以上をあげれば大関に復帰できるので、一旦大関になると2場所に1回の8勝で大関の地位を保つことができ、3場所に1回の10勝で関脇陥落後もすぐ大関特例復帰により返り咲くことができる。一方、関脇以下は勝ち越さないと番付が維持されず、勝ち越しても確実に昇格の保障がなく、とくに大関陣が不調の時期にはその厚遇ぶりが批判の的となることもあった。2000年代半ばのように大関昇進前の琴光喜、関脇陥落後の雅山、かつて大関候補者の若の里らのように、強い関脇が存在しているとなおさらである。

また現行の制度の場合、大関が8勝したあと9・10勝に上積みするメリットは皆無であるために(持ち給金が1円増えるのみ。また、9勝と10勝では翌場所優勝して綱取りとなる場合に審判部の印象が異なる)、加えて負け越した場合には0〜7勝の番付面の扱いも同じである(翌場所の大関としての順位に影響が有る程度)。ここ最近ではとくに千秋楽の取組前、前日14日目まで7勝7敗の成績の大関は、対戦相手がすでに勝ち越しまたは負け越し決定や、かつ優勝争いに絡んでいない大関などと対戦すると、大多数は勝利して8勝7敗と勝ち越すケースが多くなっている(そのため、週刊誌『週刊ポスト』『週刊現代』などは、たびたび八百長疑惑を記事にしていた。その後、2010年に事件化した大相撲野球賭博問題の捜査の過程で、2011年初場所後には少なくとも十両力士の間における八百長の実在が公知のものになった)。それゆえ「大関互助会」[6]とも揶揄される。

[編集] 引退後

現役引退後、年寄として協会に残る場合は3年間、平年寄ではあるが委員待遇として扱われ、番付では「年寄」の上位に置かれる(序列は委員待遇の平年寄>持ち名跡で襲名した平年寄>借り名跡で襲名した平年寄)。また1997年5月1日以降は、年寄名跡を取得していなくても引退から3年間四股名のまま年寄として残ることができるようになった(この特典は、引退から3年以内に玉ノ井部屋継承を予定していた栃東が初めて利用)。

委員待遇の3年を経過すると主任(番付上は昇格となるが、収入は減る)になることが多いが、3年以内に審判委員に起用されるケース(魁傑、武双山、出島など)もある。

[編集] 記録

[編集] 大関在位記録

順位 四股名 在位数 在位期間 在位期間成績
1位 千代大海龍二 65場所 1999(平成11)年3月場所-2009(平成21)年11月場所↓ 515勝345敗115休 優勝2回
魁皇博之 2000(平成12)年9月場所-2011(平成23)年7月場所 524勝328敗119休 優勝4回
3位 貴ノ花利彰 50場所 1972(昭和47)年11月場所-1981(昭和56)年1月場所 422勝285敗49休 優勝2回
4位 北天佑勝彦 44場所 1983(昭和58)年7月場所-1990(平成2)年9月場所 378勝245敗29休 優勝1回
5位 小錦八十吉 (6代) 39場所 1987(昭和62)年7月場所-1993(平成5)年11月場所↓ 345勝197敗43休 優勝3回
6位 貴ノ浪貞博 37場所 1994(平成6)年3月場所-1999(平成11)年11月場所(35場所)↓ 340勝177敗8休 優勝2回
2000(平成12)年3月場所-2000(平成12)年5月場所(2場所)↓ 13勝17敗0休 優勝なし
7位 朝潮太郎 (4代) 36場所 1983(昭和58)年5月場所-1989(平成元)年3月場所 294勝203敗33休 優勝1回
8位 豊山勝男 34場所 1963(昭和38)年3月場所-1968(昭和43)年9月場所 301勝201敗8休 優勝なし
琴欧洲勝紀 2006(平成18)年1月場所-現役 290勝194敗26休 優勝1回
10位 琴櫻傑將 32場所 1967(昭和42)年11月場所-1973(昭和48)年1月場所↑ 287勝159敗34休 優勝4回
武蔵丸光洋 1994(平成6)年3月場所-1999(平成11)年5月場所↑ 353勝127敗0休 優勝5回
  • 在位期間の↑は横綱に昇進、↓は関脇に陥落。無印は大関の地位で引退。
  • 貴ノ花には大関在位中に「貴乃花」等への改名歴がある。
  • 貴ノ浪は在位35場所目の1999(平成11)年11月場所で1度目の陥落、翌2000(平成12)年1月場所に関脇で10勝を挙げ大関特例復帰を果たす。復帰後在位2場所目の2000年5月場所で2度目の陥落、大関在位合計は37場所。
  • 豊山の在位中と琴櫻の昇進時は当時「3場所連続負け越しで降格」の制度。1969(昭和44)年7月から現行制度。
  • 現役中の琴欧洲は、場所数・成績共に2011(平成23)年9月場所終了時点でのもの。

[編集] 短命大関

現行の制度上考えられる通算大関在位の最短は2場所だが、年6場所制となってからは下記の通りとなっている。

順位 四股名 在位数 在位期間 在位期間成績
1位 大受久晃 5場所 1973(昭和48)年9月場所-1974(昭和49)年5月場所↓ 30勝32敗13休
2位 増位山太志郎 7場所 1980(昭和55)年3月場所-1981(昭和56)年3月場所 44勝44敗7休
3位 雅山哲士 8場所 2000(平成12)年7月場所-2001(平成13)年9月場所↓ 57勝58敗5休
4位 魁傑將晃 9場所 1975(昭和50)年3月場所-1975(昭和50)年11月場所(5場所)↓ 43勝32敗0休
1977(昭和52)年3月場所-1977(昭和52)年9月場所(4場所)↓ 27勝33敗0休
5位 前の山太郎 10場所 1970(昭和45)年9月場所-1972(昭和47)年3月場所↓ 67勝56敗27休
6位 出島武春 12場所 1999(平成11)年9月場所-2001(平成13)年7月場所↓ 100勝71敗9休
7位 若羽黒朋明 13場所 1959(昭和34)年11月場所-1961(昭和36)年11月場所↓ 102勝78敗15休 優勝1回
8位 霧島一博 16場所 1990(平成2)年5月場所-1992(平成4)年11月場所↓ 139勝76敗25休 優勝1回
9位 琴光喜啓司 17場所 2007(平成19)年9月場所-2010(平成22)年5月場所※ 141勝104敗10休
10位 旭國斗雄 21場所 1976(昭和51)年5月場所-1979(昭和54)年9月場所 168勝122敗20休
  • 年6場所制の1958(昭和33)年以降の記録(現役大関を除く)。それ以前では、五ッ嶋の2場所(12勝13敗5休、関脇陥落)が昭和以降での最短記録であった。
  • 在位期間の↓は関脇に陥落、無印は大関の地位で引退(※印の琴光喜は大関の地位で解雇)。
  • 雅山は、現在も関脇以下の地位で現役中。
  • 魁傑は在位5場所目の1975(昭和50)年11月場所で1度目の陥落。その後1977(昭和52)年1月場所後に再昇進が決定。復帰後在位4場所目の1977年9月場所で2度目の陥落、大関在位合計は9場所。
  • 前の山には大関在位中に「前乃山」からの改名歴がある。
  • 若羽黒の昇進・在位中は当時「3場所連続負け越しで降格」の制度。1969(昭和44)年7月から現行制度。
  • 琴光喜は2010(平成22)年5月場所後、不祥事により解雇された。なお、番付上では2010年7月場所も含めると、18場所となる。

連続大関在位場所数の見方をすれば、貴ノ浪・武双山・栃東の3人が、2場所で関脇陥落の最短記録を作っている。貴ノ浪は大関復活後に再陥落、武双山は陥落後直ぐに返り咲き、栃東は再大関で陥落するも直ぐ再々昇進を果たし、通算大関在位場所数ではそれぞれ貴ノ浪37場所、武双山27場所、栃東30場所(番付上は31場所)となっている。なお貴ノ浪は、連続大関在位場所数の長期でも短期でも、歴代ランキングに顔を出す珍記録も持っている。

横綱に昇進した力士の大関通過場所数については、こちらを参照。

[編集] 大関(最高位)力士の通算幕内優勝回数記録

順位 四股名 優勝回数 大関在位中
1位 魁皇博之 5回 4回
2位 清水川元吉 3回 2回
小錦八十吉 3回
千代大海龍二 2回
栃東大裕 3回
5位 豊國福馬 2回 2回
増位山大志郎 1回
貴ノ花健士 2回
魁傑将晃 なし
琴風豪規 1回
若嶋津六夫 2回
北天佑勝彦 1回
貴ノ浪貞博 2回
日馬富士公平 2回
  • 平成23年7月場所終了現在

魁皇の幕内優勝5回は、最高位が大関以下の力士の中では史上1位である。なお一昔前なら優勝を5回も経験すれば、皆全員横綱に昇進していた(中には照國北尾(のち双羽黒)など、優勝無しで横綱昇進した力士もいる)。しかし、現在横綱昇進基準では大関の地位で「連続優勝」が絶対条件となり、魁皇は大関時代に連続優勝を果たせなかった為、惜しくも横綱にはなれなかった。

また若嶋津の優勝2回のうち1回は全勝優勝である。最高位大関以下の力士で全勝優勝を達成は、15日制のもとでは、他に時津山玉乃海(ともに最高位は関脇)。

横綱に昇進した力士で大関以下での優勝が多かったのは貴乃花で7回、うち5回が大関での優勝。他に武蔵丸が大関で5回優勝の最多タイ。彼ら以前では、玉錦が大関以下で5回、大関で4回の優勝、現在と番付編成の制度が違ったことなどにもよるが、大関で3連覇でも横綱を見送られるなど、約60年に渡って「大関以下」「大関」ともに最多記録保持者だった(大関での優勝については琴櫻に並ばれ、のちに魁皇もこれに続く)。

[編集] 大関不在

番付面で「横綱」の地位が現れて以降で、「大関不在」となったことが2回ある。

1回目は、1903年(明治36年)1月場所に常陸山2代目梅ヶ谷の横綱同時昇進によるもので、1905年(明治38年)5月場所に国見山荒岩が同時昇進するまで5場所続いた。

2回目は1981年(昭和56年)9月場所。同年3月場所に増位山が引退、7月場所終了後に千代の富士も横綱に昇進したために生じたもの。同年9月場所で琴風が優勝、場所後大関昇進を果たして、1場所で解消された。

どちらの時も、横綱力士が大関を兼ねる「横綱大関」が置かれ、厳密な意味で「大関」の地位が番付から消えたことは、これまでにない。

[編集] 5大関

翻って、番付上に大関が最も多く出揃ったのは5大関までで、2009年(平成21年)11月場所まででは13通りの例がある。

1947年(昭和22年)6月場所、汐ノ海の昇進で、前田山名寄岩佐賀ノ花東富士とともに、史上初めての5大関が実現した。小結で8勝2敗、関脇で11勝2敗と続けての昇進だったので、甘い昇進だったとは言えないが、過去の例に倣えば関脇に据え置かれただろう。優勝決定戦三賞制度等が導入された場所でもあり、戦後の荒廃期にどうにか客を呼ぼうとした興行政策であった一面は否めない。同場所で前田山が横綱に昇進し、この時は1場所限りで解消された。

昭和において同じ顔触れで最も長く続いた5大関時代は、北葉山佐田の山栃ノ海栃光豊山による6場所。1963年(昭和38年)3月場所に豊山が昇進してから翌年1月まで栃ノ海が横綱に昇進するまで続いた。

1986年(昭和61年)1月場所から1987年(昭和62年)7月場所までは、若嶋津朝潮北天佑大乃国北尾北勝海小錦という7人によって、10場所にわたって5大関時代が続いた。

この間、「6大関」が誕生する可能性もあったが、北勝海(昇進前は保志)が大関になると同時に北尾が横綱へ(横綱昇進後は双羽黒)、小錦が大関になると同時に北勝海が横綱へ、というように、結果的にところてん式の同時昇進が続いた事もあって「6大関」は実現しなかった。ここに名を連ねた7人のうち3人が横綱に昇進、残る4人も大関在位中に優勝を経験し、横綱寸前まで行った力士である(但し、5大関時代には引退間近で、成績が芳しくなかった力士もいる)。「大関の大安売り」と揶揄されることも多い5大関時代だが、この7人はいずれも大関の名にふさわしい成績を残している。

平成時代に入ってからは、最初が2000年(平成12年)11月場所から2001年(平成13年)7月場所までの千代大海出島武双山雅山魁皇による5場所。2番目が2002年(平成14年)9月場所から2003年(平成15年)1月場所までの千代大海、武双山、魁皇、栃東朝青龍による3場所。3番目が2006年(平成18年)5月場所から2007年(平成19年)5月場所までの、千代大海、魁皇、栃東、琴欧洲白鵬による7場所(同じ顔ぶれによる5大関としては現在史上最長)。4番目が2009年(平成19年)1月場所から同年11月場所までの、千代大海、魁皇、琴欧洲、琴光喜日馬富士(昇進前は安馬)による6場所、5番目が2010年(平成22年)5月場所の魁皇、琴欧洲、琴光喜、日馬富士、把瑠都による1場所の5例がある。

平成時代の最初の例は、2001年9月場所に出島が、翌11月場所に雅山が相次いで関脇に陥落し、一気に3大関になる。2番目の例は、2003年1月場所後に朝青龍が第68代横綱に昇進したことで解消された。3番目の例は、2007年5月場所直前に栃東が引退したこと(そのため、実質的には6場所の5大関となる)、同場所後に白鵬が横綱に昇進したことで3大関となった。4番目の例は、2009年11月場所後に千代大海が関脇に陥落が決定したため、4大関となる。5番目の例は、7月場所直前に琴光喜が野球賭博問題によって解雇され、わずか1場所(番付上では2場所)で終わった。

[編集] 新大関の優勝

四股名 新大関場所 成 績 備 考
鳳谷五郎 1913年(大正2年)1月場所 7勝1分1預1休 1休は相手力士休場
栃木山守也 1917年(大正6年)5月場所 9勝1預(大潮 ()は優勝同点者(決定戦制度なし)
双葉山定次 1937年(昭和12年)1月場所 11戦全勝 当時は1場所11日制
千代の山雅信 1949年(昭和24年)10月場所 13勝2敗
若羽黒朋明 1959年(昭和34年)11月場所 13勝2敗
清國勝雄 1969年(昭和44年)7月場所 12勝3敗(○藤ノ川 ()は優勝決定戦
栃東大裕 2002年(平成14年)1月場所 13勝2敗(○千代大海 ()は優勝決定戦
白鵬翔 2006年(平成18年)5月場所 14勝1敗(○雅山 ()は優勝決定戦
  • ☆はのちに横綱。

[編集] 代数

横綱のそれほど知られてはいないが、記録をたどれる最初の大関である雪見山を初代として、昇進順に代数がふられる場合もある(同時昇進の場合は先に引退または横綱に昇進または関脇に陥落した方が先代になる)。例えば寛政の無類力士雷電は76代大関、最近の大関昇進力士である琴奨菊は242代大関となる。しかしこの中には、横綱に昇進した者(例えば白鵬は238代大関)や、実際に相撲を取らなかった看板大関も含まれていて、一般にはあまり用いられない。また、番付等が現存しないので確かめようがないものの、初代 谷風梶之助など、雪見山以前にも大関がいたことは確実であるため、こういったカウントに疑問を持つ者もいる。

[編集] 関連

[編集] 脚注

  1. ^ 過去の例では、大関が一人や二人になると昇進基準が甘くなるという傾向はある。
  2. ^ 相撲協会は目安の存在を否定しており、過去の例では条件を満たさずに昇進した大関、条件を満たしながら昇進を見送られた力士が存在する。
  3. ^ 但し、雅山の場合は大関昇進を決める番付編成会議の段階で慎重な意見が出ており、これまでで唯一話し合いでは結論が出ず多数決により昇進が決定した
  4. ^ この7月場所は、大関(当時)白鵬が横綱に昇進してもおかしくない成績(直前2場所が14勝で優勝と13勝で優勝次点)だったが、見送られたため大関の枠が空かず、巻き添えを喰う形となっている
  5. ^ 国家的な行事、突発的な災害、などにより日数に増減があった場合でも、その三分の二で計算する。(一例として、13日に短縮された場合は9勝で条件を満たす。)
  6. ^ 『週刊現代』がこの表現を用いている。2011年2月19日号「I これが角界の「八百長」ネットワークだ 八百長力士はまだいくらでもいる」p35
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