大石倫治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の政治家
大石 倫治
おおいし りんじ
|
|
---|---|
生年月日 | 1877年(明治10年) |
出生地 | 宮城県 |
所属政党 | 立憲政友会→自由党→民主自由党→日本自由党 |
親族 | 大石武一(長男)、大石正光(孫) |
|
|
|
|
当選回数 | 4回 |
任期 | 1930年(昭和5年) - 1942年(昭和17年) |
衆議院議員
|
|
選挙区 | 宮城県第2区 |
当選回数 | 1回 |
任期 | 1946年(昭和21年) - 1948年(昭和23年) |
大石 倫治(おおいし りんじ、1877年 - 1948年3月20日)は、日本の政治家である。
[編集] 人物
宮城県生まれ。議員在職中には立憲政友会、自由党、民主自由党に所属した。
仙台市会議員を経て、1930年(昭和5年)に旧宮城県第2区から第17回衆議院議員総選挙に立候補し当選、衆議院議員に就任した。以後再選され、連続4回の当選となった。
1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては正統派に属した。1940年(昭和15年)、衆議院では全ての政党が自発的に解散して大政翼賛会に合流したが、大石は尾崎行雄とともに、最期まで政党政治と議会制民主主義の維持を訴えた[1] 。同年12月20日に発足した議員親睦団体、「衆議院議員倶楽部」にも、衆議院議員435名が参加するなか、尾崎など6名とともに不参加だった[2]。1942年(昭和17年)、翼賛政治体制協議会の推薦なく立候補した翼賛選挙において落選、議員失職した。
終戦後は、これらの経緯から公職追放を免れ、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から立候補して当選、衆議院議員に復帰した。同年5月に組閣された第1次吉田内閣において農林政務次官に就任したが、議員在任中だった1948年(昭和23年)春、長男・武一に「立派な政治家になって、私のやり残した仕事を仕上げてくれ」と遺言し、その2時間後に死亡した[1]。
[編集] 家族
長男は、大石武一。大石の死後、1948年(昭和23年)5月21日に行われた宮城2区の補欠選挙で初当選し[3]、議員在任中には環境庁長官、農林大臣を歴任した。
初め自由民主党衆議院議員、その後民主党参議院議員となった大石正光は孫。
[編集] 脚注
- ^ a b 花とヒューマニズム(大石武一) 『仙台二高卒業生のページ』 中島信吾、2010年5月7日閲覧
- ^ 翼賛体制と対米英開戦 『古屋哲夫の足跡』 古屋哲夫(元京都大学人文科学研究所教授) 1991年2月
- ^ 戦後の補欠選挙 佐藤令