清
- 清
- 大清
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←1636年 - 1912年 →
→(国旗) - 国歌: 鞏金甌
清の領域(1892年)-
公用語 満洲語
モンゴル語
漢語首都 盛京(ムクデン)(1636年-1644年)
北京(1644年-1912年)通貨 銀両
清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。
満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:Daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、漢語では大清(拼音: Dàqīng 、カタカナ転写:ダーチン)と号した。
目次 |
[編集] 国号について
諸説ある。
- 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。
- 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」を表す「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの[1]。
また、「しん」という読み方が、北京官話と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などに見られる程度である。
ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。
[編集] 歴史
元謀・藍田・北京原人 | |||
神話伝説(三皇五帝) | |||
黄河・長江文明 | |||
夏 | |||
殷 | |||
周 | 西周 | ||
東周 | 春秋 | ||
戦国 | |||
秦 | |||
漢 | 前漢 | ||
新 | |||
後漢 | |||
三国 | 魏 | 呉 | 蜀 |
晋 | 西晋 | ||
東晋 | 十六国 | ||
南北朝 | 宋 | 北魏 | |
斉 | |||
梁 | 西魏 | 東魏 | |
陳 | 北周 | 北斉 | |
隋 | |||
唐 | |||
五代十国 | |||
宋 | 北宋 | 遼 | 西夏 |
南宋 | 金 | ||
元 | |||
明 | 北元 | ||
後金 | |||
清 | |||
満洲 | 中華民国 | ||
中華人民共和国 | 中華民国 (台湾) |
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* 中国の歴史年表 * 朝鮮半島を中国とみなす記述 |
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[編集] 清の勃興
17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女直(以下「女真族」)の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始する等、満洲人が発展する為の基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(後に作られた偽物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。
[編集] 清の中国支配
順治帝のとき、中国では李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、初め摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。
異民族である満洲族の支配を漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐し、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備するなど、あくまで明の後を継いだことを前面に出していた事が考えられる。
[編集] 清の最盛期
順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代に清は最盛期を迎えた。
康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合し福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴル、チベットを服属させた。
また、この頃新疆を根拠地としてオイラト系のジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼしてバルハシ湖にまでおよぶ東トルキスタンを支配下に置いた。
これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。
こうして少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた南北モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治が引かれ、理藩院に管轄された。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢民族の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りをしモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持した。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。
清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲族の髪型である辮髪を漢民族にも強制し(ただし新疆では逆)、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧した。
しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェンは、清朝で最も堕落した官僚の一人であり、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた。
[編集] ヨーロッパ列強の進出と内乱
19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。
19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。
1793年、イギリスは、広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は最新の工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、清はヨーロッパの製品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。
この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。
林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する強硬策を取ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力でアヘン密貿易の維持と開国をさせる決意を固めて、翌1840年清国沿岸に侵入しアヘン戦争を起こした。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対しアヘンで堕落した清軍により敗北した清は、1842年イギリスと不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港島の割譲や上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。
アヘンの密輸を含む対中輸出がこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結した。条約の批准が拒否されるとさらに北京を制圧し、批准のみならず天津ら11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これにより外国商品の中国市場流入が進んだ。また、このときロシアにより、まずアイグン条約(1858年)で黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸を、さらに北京条約(1860年)で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸を割譲させられ、ロシアはそこをアムール州(ru)、沿海州(ru)として編入し、プリアムール総督府を設置した(外満洲)。これは現在の中露国境線を形作るものである。なお新疆についても1864年タルバガタイ条約が結ばれイシク・クル、ザイサン湖以西をうしなった。
この戦争と同時期には、国内でも洪秀全率いる異端のキリスト教の信仰を紐帯とした組織・太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。太平天国の乱の末、即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、清朝の根幹の制度を維持したまま西洋の技術を導入する洋務運動を開始するに至った。
ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻したムスリムとむすび東トルキスタンを占領した(ヤクブ・ベクの乱)。その混乱の中で、ロシアがカザフ族の完全な支配をねらい1871年東トルキスタンに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結した。条約にもとづきイリ界約でイリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。さらにカシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。これに対し清は1884年新疆省を設置し、そこは旗人のイリ将軍らのみならず漢人の陝甘総督、甘粛新疆巡撫もが管轄することとなり内地化された。なお、さらにロシアは1892年にパミール高原に進攻しサリコル山以西を条約無しで併合している。
[編集] 半植民地化・滅亡
まず1854年、冊封国暹羅が朝貢を廃止し勝手に開国した。1872年、日本の琉球処分により冊封国琉球を失った。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南を失い、東アジアの覇者の地位が激しく揺らいだ。1886年、緬甸はイギリスにより英緬戦争で併合された。清に対する従属を疑う者が擡頭した朝鮮に対しては宗主国として内政に干渉し、壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を武力で粉砕したが、1894年に日本が起こしたクーデター、甲午改革をもつぶそうとしたものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって福建台湾省割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来もっていた冊封国朝鮮に対する影響力も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。
「眠れる獅子」と畏れられた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけて、1896年から1898年にかけて勢力分割(いわゆる「瓜分」)を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)(関東州、極東総督管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。
これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新に倣って清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃に遭って打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃しつつ北京に進撃した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進んだ。
その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、1905年科挙を廃止し、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判され清朝は求心力を失い、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げていた。10月、漢民族による武昌での武装蜂起をきっかけに中国で辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古のなかから独立運動がおこった(モンゴル国)。ただしチベットにおいては英印軍の侵入と、独自の行動を見せたダライ・ラマ13世に対し、趙爾豊に命じてラサに駐留させ、チベットを確保している。清は完全な内部崩壊を迎えた。
翌1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立された。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。
[編集] 政治
[編集] 官制
清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。
それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。
その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。
中央には軍機処の他に六部・内務府(宮廷諸事)・宗人府(皇族・宗族の事務)・理藩院(藩部の統括。藩部については後述)・都察院(官僚の監察)・通政使司(上奏分の検閲)・大理寺(最高裁判所)がある。
地方は皇帝直属である省と藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。
藩部はホンタイジが最初に南モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院と改名し、北モンゴル・新疆・チベット・青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。
省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省・安徽省・山西省・山東省・河南省・陝西省・甘粛省・浙江省・江西省・湖北省・湖南省・四川省・福建省・広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省・貴州省の18である(いわゆる「一十八省」)。しかし清末になるとその数が増えることになる。省の下に府・州・県がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府・知州・知県と呼ぶ。省の長官は巡撫と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。
満洲族の故地である満洲地方については省は置かずに、黒竜江将軍・吉林将軍・盛京将軍らに軍政を行わせて満洲族の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢民族の移住を禁止して、満洲族が漢民族に同化してしまわないようにした。しかし日露戦争後の1907年には黒竜江将軍を黒竜江行省、吉林将軍を吉林省、盛京将軍を奉天省とし、東三省総督を新設、しかも華北から大量の漢民族農民を移民させている。
[編集] 満漢偶数官制
清の政治は圧倒的多数である漢民族を少数派である満洲族がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。中央の諸官のポストをそれぞれ満洲族・漢民族が同数になるように配置していく制度である。
清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲族だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。
[編集] 兵制
兵制は満洲族の軍制である八旗制度を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、物の役には立たなくなっていた。
その後白蓮教徒の乱・苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。
その後の太平天国の乱に際しては湘軍・淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を始めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。
[編集] 清の経済
清の社会は基本的に明を引き継いでおり、明清帝国と呼ばれる事もある。
明代後期から出現した郷紳層による地方支配、外国産の銀の流通による経済の発達、東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。
[編集] 農業の発展と人口爆発
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、康熙帝期の1700年に1億5000万、乾隆帝期の1770年から1780年にかけて2億8000万、19世紀前半に4億を突破した(数字は全て推定)。
この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシ・サツマイモ・落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢民族が進出できるようになった。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢民族の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。
これらの漢民族の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル族・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲族の保護の意味から漢民族の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢民族の農地が広がることになる。
[編集] 税制
清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。
[編集] 商業
明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。
そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。
[編集] 文化
順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。
上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があった。
清の文化は越南に多大な影響を与えている。
[編集] 思想
厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。
これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学や陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが漢代のものである。
考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。
また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名である。
しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。
[編集] 中国文学
清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必ずしも必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛び抜けた天才・名作は無い。
一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。
現代中国で普通話のもととなる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と東北部の語彙が混じり合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。
[編集] 美術
絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネによってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。
陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。
瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。
[編集] 国際関係
[編集] 前期
清朝はすでに満洲時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、中国商船の長崎貿易は許されていた。欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。
北辺ではシベリアに進出したロシアがアムール川左岸に到達すると、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって清露国境が定められ、ロシアは満洲から追放された。しかし後にロシアはアムール川開発を目指して満洲に進攻することとなる。
[編集] 後期
19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、アロー戦争によって不平等条約を結ばされ、外国商品の流入によって勃興しつつあった工場制手工業に大きな被害を受けた。
さらに清仏戦争、日清戦争、と相次ぐ戦争によって次々と冊封国を失い、冊封体制に基づく東アジアの伝統的な国際秩序は崩れた。また義和団の乱が起こり、列強による勢力分割や主要な港湾の租借が行なわれ、半植民地化が進んだ。
その一方で朝鮮に対しては、1882年に壬午事変が起こると、漢城を占領したうえで、不平等条約である中朝商民水陸貿易章程をむすばせ、租界をもうけている。下関条約後には中韓通商条約で対等条約がむすばれたものの、租界は手放さなかった。
[編集] 清の皇帝
[編集] 帝室の姓氏
帝室の姓氏を満洲語でᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ(ᡥᠠᠯᠠ)(ローマ字転写)Aisin gioro (hala) (アイシンギョロ(ハラ))といい、これを漢語に音写したものが愛新覚羅(哈拉)である。アイシンは「金」、ギョロは父祖の出身地の地名(halaは漢語に翻訳すると「姓氏」)。
[編集] 歴代皇帝
廟号 | 諡号 | 姓名 | 在位時期 | 年号 | 陵墓 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
太祖 | 承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝 (追尊) | 愛新覚羅弩爾哈赤 アイシンギョロ・ヌルハチ |
1616年 - 1626年 | 天命 | 福陵 | |
太宗 | 応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝 | 愛新覚羅皇太極 アイシンギョロ・ホンタイジ |
1627年 - 1643年 | 天聡[2] 崇徳 |
昭陵 | ヌルハチの第8子 |
世祖 | 体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章皇帝 | 愛新覚羅福臨 | 1644年 - 1661年 | 順治 | 孝陵 | ホンタイジの第9子 |
聖祖 | 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝 | 愛新覚羅玄燁 | 1662年 - 1722年 | 康熙 | 景陵 | 順治帝の第3子 |
世宗 | 敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅睿聖大孝至誠憲皇帝 | 愛新覚羅胤禛 | 1723年 - 1735年 | 雍正 | 泰陵 | 康熙帝の第4子 |
高宗 | 法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝 | 愛新覚羅弘暦 | 1736年 - 1795年 | 乾隆 | 裕陵 | 雍正帝の第4子 |
仁宗 | 受天興運敷化綏猷崇文経武孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝 | 愛新覚羅顒琰 | 1796年 - 1820年 | 嘉慶 | 昌陵 | 乾隆帝の第15子 |
宣宗 | 效天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏寛定成皇帝 | 愛新覚羅旻寧 | 1821年 - 1850年 | 道光 | 慕陵 | 嘉慶帝の第2子 |
文宗 | 協天翊運執中垂謨懋徳振武聖孝渊恭端仁寛敏顕皇帝 | 愛新覚羅奕詝 | 1851年 - 1861年 | 咸豊 | 定陵 | 道光帝の第4子 |
穆宗 | 継天開運受中居正保大定功聖智誠孝信敏恭寛毅皇帝 | 愛新覚羅載淳 | 1862年 - 1874年 | (祺祥)[3] 同治 |
恵陵 | 咸豊帝の長子 |
徳宗 | 同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寛勤景皇帝 | 愛新覚羅載湉 | 1875年 - 1908年 | 光緒 | 崇陵 | 醇親王奕譞の第2子 道光帝の孫 同治帝の従弟 |
[4] | [5] | 愛新覚羅溥儀[6] | 1908年 - 1912年 | 宣統[7] | 献陵 | 醇親王載灃の長子 道光帝の曾孫 光緒帝の甥 |
[編集] 清の后妃
順位 | 称号 | 人数 | 主な人物 |
---|---|---|---|
1 | 皇后 | 1人 | 東太后(咸豊帝の皇后) 隆裕皇太后(光緒帝の皇后) |
2 | 皇貴妃 | 1人 | |
3 | 貴妃 | 2人まで | 西太后(咸豊帝の貴妃) |
4 | 妃 | 4人まで | 孝荘文皇后(ホンタイジの妃) 珍妃(光緒帝の妃) |
5 | 嬪 | 6人まで | |
6 | 貴人 | 制限なし | |
7 | 常在 | 制限なし | |
8 | 答應 | 制限なし |
[編集] 元号
清は、一世一元の制と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 五行相克では、
- 木徳→土徳→水徳→火徳→金徳→(木徳に戻る)
- ^ 大清皇帝に即位し崇徳と改元。
- ^ 一旦「祺祥」と公布されたが、辛酉政変のため改元前に同治と変更された。
- ^ 廟号はなく、諡号を遜帝・末皇帝(末帝)などと呼んでいたが、1967年、清皇室の子孫(台湾)たちが協議して廟号を憲宗とし、諡号を配天同運法古紹統粹文敬孚寬睿正穆體仁立孝襄皇帝(襄皇帝)と追尊した。しかし、公式に認められたものではない、2004年、清皇室の子孫(北京)たちが協議して廟号を恭宗とし、諡号を配天同運法古紹統粹文敬孚寬睿正穆體仁立孝愍皇帝(襄皇帝)と追尊した。しかし、公式に認められたものではない。また1995年、遺灰を八宝山革命公墓から清西陵付近の華龍皇家陵園に新たに作った献陵に移している。
- ^ 廟号はなく、諡号を遜帝・末皇帝(末帝)などと呼んでいたが、1967年、清皇室の子孫(台湾)たちが協議して廟号を憲宗とし、諡号を配天同運法古紹統粹文敬孚寬睿正穆體仁立孝襄皇帝(襄皇帝)と追尊した。しかし、公式に認められたものではない、2004年、清皇室の子孫(北京)たちが協議して廟号を恭宗とし、諡号を配天同運法古紹統粹文敬孚寬睿正穆體仁立孝愍皇帝(襄皇帝)と追尊した。しかし、公式に認められたものではない。また1995年、遺灰を八宝山革命公墓から清西陵付近の華龍皇家陵園に新たに作った献陵に移している。
- ^ 廟号はなく、諡号を遜帝・末皇帝(末帝)などと呼んでいたが、1967年、清皇室の子孫(台湾)たちが協議して廟号を憲宗とし、諡号を配天同運法古紹統粹文敬孚寬睿正穆體仁立孝襄皇帝(襄皇帝)と追尊した。しかし、公式に認められたものではない、2004年、清皇室の子孫(北京)たちが協議して廟号を恭宗とし、諡号を配天同運法古紹統粹文敬孚寬睿正穆體仁立孝愍皇帝(襄皇帝)と追尊した。しかし、公式に認められたものではない。また1995年、遺灰を八宝山革命公墓から清西陵付近の華龍皇家陵園に新たに作った献陵に移している。
- ^ 清朝の滅亡後は、1924年の優待条件修正案公布まで紫禁城内でのみ使用。
[編集] 参考文献
- 増井経夫 『大清帝国』 講談社学術文庫、2002年、ISBN 406-1595261
- 『中国の歴史 第7巻 清帝国』 (講談社、1974年)を、改題文庫化。
- 宮崎市定 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』 中公文庫、2000年
元版 『東洋の歴史 第9巻 清帝国の繁栄』 (人物往来社、1967年)
『宮崎市定全集13.明清』(岩波書店、1992年)に、所収。
[編集] 関連文献(近年刊行)
- 上田信 『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』 各.講談社、2005年
- 菊池秀明 『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国 清末中華民国』
- 平野聡 『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』 講談社、2007年
- 岡田英弘編 『別冊環16.清朝とは何か』 藤原書店、2009年
- 吉澤誠一郎 『清朝と近代世界 シリーズ中国近現代史①』 岩波新書、2010年-「清」の後半期。
- 並木頼寿・井上裕正 『世界の歴史(19) 中華帝国の危機』 中央公論社、1997年/中公文庫、2008年-「清」の後半期
- 石橋崇雄 『大清帝国』 講談社選書メチエ、2000年-主に「清」の前半期。
- 寺田隆信 『紫禁城史話-中国皇帝政治の桧舞台』 中公新書、1999年-明清両王朝の皇帝の歴史
[編集] 外部リンク