阪神・淡路大震災
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)は、1995年(平成7年)1月17日(火)に発生した兵庫県南部地震による大規模地震災害である。
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[編集] 概要
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、Mj7.3[注釈 1]の兵庫県南部地震が発生した。
近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害の様子は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。
1995年1月25日の政令により激甚災害法(激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律)に基づく激甚災害に指定。
- 特に甚大な被害があった地域
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- 甚大な被害があった地域
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など など
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- 地震の特徴
地震による揺れは、阪神間及び淡路島の一部に震度7の激震が適用されたほか、東は小名浜(福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。
戦後に発生した地震では、1946年(昭和21年)の南海地震や1948年(昭和23年)の福井地震を大きく上回り、当時の地震災害としては戦後最大規模の被害を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。日本での都市型震災としては、大都市を直撃した1944年(昭和19年)の昭和東南海地震以来となる。
福井地震を経緯に設立された震度7が適用された初めての事例であり、実地検分(担当者による現地調査)によって震度7が適用された最初で最後の事例でもある(2004年の新潟県中越地震や2011年の東北地方太平洋沖地震における震度7の観測は、震度計によって実測されたものである)。
強力な縦揺れを伴った地震動は、数値上でも当時最大級のものとして記録され、10秒以上続いた地域もあった。神戸海洋気象台では、最大加速度818ガル[1]、最大速度105カイン、最大変位27cmの地震動が襲ったと分析されている[要出典]。これらは、釧路沖地震(922ガル、67カイン、変位93cm)、ノースリッジ地震(約800ガル、128カイン)に匹敵するものである。六甲アイランドの地震計では縦揺れ507ガルが記録された(日本で過去最大は2008年(平成20年)6月に一関市で観測された4022ガルである[2])。
- その他
道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断されて広範囲において全く機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになった。
もともと日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも耐えられない構造であると分かり、1981年(昭和56年)には大幅な建築基準法の改正が行われた。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も多く、1982年(昭和57年)以前に建てられたビル・マンション・病院・鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多くみられた。
[編集] 名称
地震が発生した1月17日、気象庁はこの地震を「1995年(平成7年)兵庫県南部地震」(The Southern Hyogo prefecture earthquake in 1995)と命名した。
しかし、気象庁による正式名称に先立って毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。その一方で、朝日新聞や日刊スポーツでは「関西大震災」[3]、読売テレビでは「関西大地震」など、当初は様々な名称が入り混じっていた。
2月14日に政府は、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという見解に至った。淡路島地区の被害も大きかった点を踏まえ、「関東大震災」に準え、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称することが閣議で口頭了解された。
2月24日には、5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(1995年(平成7年)法律第12号)」が制定(即日施行)された。この時から「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになり、この名称が現在でも使用されている。
大阪府下では豊中市を除くとそれほど大きな被害が生じていないにもかかわらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「阪神」間(灘区・東灘区・芦屋市・尼崎市・西宮市近辺)における被害が甚大であったためである。なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出ており、死者9名が出たほか、避難所暮らしを余儀なくされた人も多い。
[編集] 名称の問題点
「阪神・淡路大震災」という名称については、「阪神」にも「淡路」にも該当しない明石市などの地域も同様に甚大な被害を受けているのに含まれないため、批判もある。「大阪市と神戸市および中間地域」「両市を含まない中間地域」どちらの意味においても、「阪神」という言葉は被害の実態に即していないからである(特に前者では、被害が軽微であった大阪を示す阪の字が名称の先頭に来ている)。なお、明石市が広報資料などで当該震災に言及するときは、「兵庫県南部地震」の名称を使用している。
単に「阪神大震災」と、現在でもマスメディアなどによって呼ばれることがある。これに対して疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現され、同様に甚大な被害を受けた淡路島北部のほか、阪神地区の周辺について考慮されていないからである。
[編集] 被害
死者の県内県外の比率から見て、県内の負傷者数は混乱の中、正確には数えることができなかったと推定される。
- 死者 : 6,434名 行方不明者 : 3名 負傷者 : 43,792名[4]
- 負傷者
- 避難人数(ピーク時) : 316,678人
- 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟[4]
- 火災被害 : 全焼7,036棟、焼損棟数7,574棟、罹災世帯8,969世帯[4]
- その他被害 : 道路7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖崩れ347箇所[4]
- 被害総額 : 約10兆円規模
死者は約6000人と2011年3月に東日本大震災が発生するまでは大地震では戦後最大の死者だったが、関東大震災の10万人に比べると約1/16である。これは被災地域が関東大震災より狭かったことや津波被害がなかったこともあるが、大正時代に比べると建築物の不燃化が進んでいること、住宅の耐震性が高くなったことも大きい。甚大な被害を伴った震災であったが、その中でもいくつかの被害軽減の要因となった事項が挙げられる。
- 発生時刻 : 冬季の早朝であったため、公共交通機関・道路の利用率が少なく(山陽新幹線の下り列車は新大阪発6時始発)、外出者も少ない夜間人口であったことで、市街地・自宅外での被害を抑えた。また、気温が日中10度前後の低温の季節だったことから、倒壊建屋に閉じ込められた生存者の熱中症、凍傷等の衰弱要因がなかった事も人的被害を抑えた。多くの市民が自宅での被災だった為帰宅困難者などが発生しづらく、安否確認が比較的容易な状況であった。火の使用も少なかった。
- 気象条件 : 風が穏やかで、延焼が最小限に抑えられた。降水が少なかった。
また、西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった[6]。
犠牲者の中には元西宮市長の辰馬龍雄[7]、浄土真宗本願寺派元総長の豊原大潤[7]、洋画家の津高和一とその妻[8]、大阪経済法科大学客員教授の宇佐美正[8]、元藤沢薬品工業副社長の高橋通明[9][10]、元川崎重工業副社長の大西胖[10]、元鐘紡常務の板橋義夫[10]、元ユニチカ常任監査役の杉山佐一[10]、元富士電機常任監査役の林政雄[10]、元ニチメン常務の正村建三[10]、元合同製鉄専務の金山千治の妻[10]、宝塚バウホール支配人の細川勝幸[11]、神戸大学名誉教授・神戸学院大学教授で経済学者の松田和久[12]、関西学院大学教授でフランス語学者の中川務[13]、大阪大学工学部教授で工学者の中尾嘉邦[14]、関西学院大学名誉教授で法哲学者の飛澤謙一[15]がいる。
[編集] 被災者の死因
死者の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死した。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。
2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残りやすく、死者は少なかった。
死者の10%相当、約600人は「室内家具の転倒による圧死」と推定する調査(山口大学・大田教授のグループ)があった。
また、死亡に至るまでの時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2221人と92%にものぼり、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた[16]。
[編集] 建造物
[編集] 病院・ビル・マンション
超高層建築物は概ね無事であった。さらに、1978年宮城県沖地震の被害を踏まえて1981年(昭和56年)に改正された建築基準法に従って建築されたビルは被害も少なかった。老朽化したビル・一階が駐車場のビル・マンションの物件では被害も多かったものの、幸いにも死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、隣戸に延焼することはなかった。
古いビルでは、日本ではありえないとされていた中層階のパンケーキクラッシュが多数起こり、低層ビルでは1階の崩壊や、今まで日本では見られなかった建物が土台から切り離されて倒壊したりなど、多数の被害があった。傾いた状態だった柏井ビルは、翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになった。そのほか兵庫区の「三菱銀行兵庫支店」(1968年(昭和43年)、鉄筋6階建て)、兵庫県薬剤師会館(1967年(昭和42年))、第一勧業銀行神戸支店(1926年(大正15年)、2階建て、長野宇平治)が崩壊した。
- 病院
兵庫県内の342病院のうち、全半壊焼失が13であった。診療所を合わせた2,926のうち、全壊239、半壊270、全半焼13、インフラの停止による診療停止973となり、約半数が機能を停止した。公式に数えられた負傷者だけでも35,000人である。神戸市内の災害医療機関3つのうち、西市民病院本館が全壊し、中央市民病院が孤立し機能を失った。県立西宮病院438人、明和病院658人、笹生病院1029人、西宮渡辺病院1200人など負傷者であふれかえった。逆に西宮市武庫川町の兵庫医科大学病院では救命救急センターの22人を含む274人の医師が待機したが、患者は平日の8%の約200人だけだった。
長田区にある神戸市立西市民病院は本館5階が圧壊して入院中の患者44人と看護婦3人が閉じ込められる状態になったが、生存空間があった為即死することは無かった。後に患者1名が死亡した。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送される事となり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、またはほかの病院に転院させるなどして病床をできるだけ確保した。しかしそれでも病床の数が全く足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。また、治療を行う医師の数も患者の数に対して圧倒的に不足していた事もあり、治療を待っている間に息絶えた人もいた[注釈 3]。
長田区海運町の高橋病院には87人の入院患者がいたが、熱風や爆発のため鷹取中学校に避難した。
- ビル
神戸発祥の竹中工務店建築では神戸国際会館7階、神戸市役所第2庁舎6階、神戸新聞会館、阪急三宮ビルが倒壊し、2,500のビルのうち倒壊17、大破25、解体56、補修217であった。大成建設施工の明治生命ビルは、フラワーロードに2.5mせり出した。
神戸新聞は本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年(平成8年)7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。
当時、須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し、敷地内の仮設スタジオに移転したのち1996年(平成8年)6月に現在のハーバーランドへと移転した。
- マンション
兵庫県芦屋市若葉町・高浜町に位置する、海岸沿いの高級高層マンション群「芦屋浜シーサイドタウン」[注釈 4]では、厚さ5cm、幅50cmの極厚ボックス骨が3cm程度の距離で全面破断し、52棟中25棟で57箇所の破断があった。これは、想定通りの被害であったが[17][注釈 5]、重量鉄骨造の脆性破壊の、日本での初めての例であった。マンションの鉄骨はむき出しとなっており、当時の気温(0°C程度)や使用鉄骨の低温特性、埋立地で増幅された地震動の高層ビルの固有周期との一致などにより、限界を超えたと考えられている。
[編集] 瓦屋根・木造・日本家屋の危険性
日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで、筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、神戸地域においては新築の瓦屋根はほとんどみられなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」ことにも拘らず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解されている。[18][19]
古い木造住宅は年月の経過によって乾燥している点や、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅は、地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、尚且つ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また、同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる構法の住宅が耐震性を示している。3階建住宅の被害も殆どなかった。
[編集] 生存空間
日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法で多くの死者が出た原因は、大破した場合、瓦屋根の瓦・土・柱の重みで生存空間が無くなり、体が潰れるためである。建造物が破壊されても、人が生きていくために必要な空間がある場合は体が潰れることが少ない、鉄筋コンクリート造りの場合は、大破しても天井が低くなるだけで即死することが少ない。それは、構造的に生存空間が残るためである。
[編集] 建築基準法改正前の住宅
耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1982年(昭和57年)以降に建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年(昭和57年)以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年(平成8年)・2000年(平成12年)・2006年(平成18年)に建築基準法は改正されている。
- 危険な合法住宅の問題点
古い住宅の場合は耐震性が無く危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後老朽化し危険になっても違法ではない(既存不適格と呼ぶ)。たとえば、建築基準法が無い江戸時代の建造物は危険であっても合法である。
3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは1988年(昭和63年)に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていた為、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかった為である。また、日本では耐震性が不十分な住宅が国土交通省の推計より2003年(平成15年)時点で約1150万戸(日本の住宅総数の約25%に当たる)あるといわれている。[20]。
[編集] 交通
道路では、中国自動車道や国道43号・国道2号において、復旧のための車線規制による渋滞が発生。特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線(第二神明道路や姫路バイパスなども通じ、大阪 - 姫路間の連絡道路となっている)は、長らくの間不通となった。このため、復旧までの期間には、国道9号や国道372号に、長距離トラックや長距離バスが殺到した。
鉄道では、兵庫県などを走る阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道などが、震災による甚大な被害を受けた。(高架構造の駅舎である)ホームに、地震発生時に電車を留置した状態だった阪急伊丹線伊丹駅や東海道本線(JR神戸線)六甲道駅の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像と共に、この震災を象徴することとなった。
地下の神戸高速鉄道東西線の大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行われなかったため、国道43号・国道2号・山手幹線などの神戸方面に至る主要幹線道路において、大規模な渋滞が発生した(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が「倒壊家屋などからの人命救助」を優先していたためである)。
震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は、不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。
不通時の鉄道代替バスに関しては、「バス代行#阪神・淡路大震災時の事例」を参照
収益源である神戸港も被害を受けて、多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区のポートアイランド・東灘区の六甲アイランド・芦屋市の芦屋浜・尼崎市の築地地区など埋立地を中心に、地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。
当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、フランス革命200周年記念事業として日仏友好モニュメントが建設予定であったが、休止されている。
大阪府の関西国際空港(震災発生前年の1994年に開港)も、被害を受けた。
[編集] 道路
- 「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と、かろうじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと考えられている[21]。
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- 中国自動車道
- 中国自動車道では、吹田JCTと西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、亀山(東海道沿線)や米原(中山道沿線)から姫路(山陽道沿線)まで行くには、北近畿の敦賀から和田山までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい道州制においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべきだ」という意見が出されている。
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- 交通規制
- 震災直後、被災地の幹線道路で大規模な交通規制が実施された。当初は警察署が通行許可標章を発行していたが偽造が出回り渋滞の改善が見込めないため、その後コピーのできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は阪神高速3号神戸線の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年(平成8年)8月には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通りである。
[編集] JR
東海道・山陽本線については「JR神戸線#阪神・淡路大震災からの復旧」を、播但線については「播但線#阪神・淡路大震災の迂回路として」を、福知山線については「福知山線#阪神・淡路大震災の迂回路として」を参照
西日本旅客鉄道(JR西日本)も私鉄各社同様の被害を受けたが、どの私鉄よりも先に急速な復旧を遂げて、最初に運行を再開した。「資本力の違い」「旧国鉄線だったため、線路脇に比較的余裕があり作業が行いやすかったこと」「物流の大動脈でもある路線でもあったこと」「全国のJRグループから応援を呼んだこと」などが要因とされる。
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- 被害
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- 不通区間の解消状況
- 東海道・山陽本線(JR神戸線) : 複々線であったため、地震発生翌日から姫路駅 - 西明石駅間、大阪駅 - 甲子園口駅間(複線)で順次、運転を再開した。駅舎の半壊した鷹取駅は、JR鷹取工場(2000年(平成12年)に廃止)の操車場に仮設ホームを設置して営業を再開した。また駅舎が全壊した新長田駅は当分の間、通過扱いをすることになった。配線変更などにより部分的に開通し、地震発生から74日後の4月1日に最後の不通区間である灘駅 - 住吉駅間を復旧して、複々線での運転を再開し、新快速を朝夕に臨時扱いで増発した[注釈 6]。
- 山陽新幹線 : 震災が起こった直後に8箇所の橋脚が倒壊して、新大阪駅と姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の4月8日に不通区間を解消した。
- そのほかの対応・影響
- 復旧に至るまでの間、関西から東海道本線と山陽本線を経由して九州地方へ向かう寝台特急「なは」・「あかつき」は、大阪駅 - 姫路駅間を福知山線 - 山陰本線 - 播但線のルートに迂回して運転されたほか、新大阪駅 - 姫路駅間を同様のルートで運行する「直通快速」が運行された。また、不通区間の迂回乗車客への対応として、加古川線では普通列車(1時間間隔)の増発、播但線では「ノンストップ快速」などの臨時列車の運行がなされた。
- 東海道・山陽本線が分断されたために、電車列車(電車のパンタグラフを下ろした状態で運行する)をディーゼル機関車を使って、当時は電化されていなかった播但線・山陰本線を経由して福知山駅まで回送した。震災後は緊急時の迂回ルートとしての必要性があることから後の早期電化を求める結果となり、震災から10年後の2004年(平成16年)12月に完成した。新幹線は、JR東海・JR西日本ともに車両が他社区間に閉じ込められたために、復旧するまでお互いの車両を使用することとした。
[編集] 私鉄
被災地区を運行する鉄道路線のうち、最も南を走行する阪神電気鉄道本線は主に、東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。特に大きな被害を挙げると、御影駅西方の留置線の車両が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊し、地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車両が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年(昭和42年)に竣工した物件であり、耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。また、この区間においては、数箇所におよんで道路をまたぐ鉄橋が落下して南北にいたる道路が遮断された。
その後、日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。三宮付近の地下区間で運行中に被災した車両と合わせて、41両の車両が一挙に廃車され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。
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- 被害
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- 復旧が早かった路線
[編集] 海上
神戸港には、フェリーなどが四国・九州方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的には大阪南港などに発着地を変更して運航されていた。
陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして、その後機能した。
また、ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間など短距離の臨時航路も設けられ、代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行った。
残された海岸部分を利用して、医療物資などの搬入も優先的に行っていた。多くの手助けのもと、2年後の1997年(平成9年)3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に「神戸港復興宣言」が発表された。
[編集] 消火・救助活動
[編集] 火災
特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大で、地震直後に発生した火災に伴う「火災旋風」が確認されている。これにより、近隣の建物に次々と延焼して須磨区東部から兵庫区にかけても6,000棟を越す建物が焼失した。
これら火災の原因は、いったん止まった送電が一時的に再開された(すぐに止まったが)ことにより、倒壊した家屋などで漏電・損壊した送電機器や家電品が発火の火種になったといわれている。
消火活動では上水道が断水したため、わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。断水により消防水が出ないホースを持って炎の近くに立ち尽くす消防士の姿が、報道映像として残されている。火の手が大きすぎて消火が困難と判断した場合は火勢に任せるまま消防員の判断で罹災者らの安全誘導を優先する「放任火災」と呼ばれる消防活動に切り替わられる。本震災でもこの放任火災が行われ、この放任火災活動は明石空襲以来であった。
- 問題点
当時の消防局には、進出路の瓦礫を除去して消防車を現場へ急行する車両・消防ヘリコプターが十分に配備されておらず、現場への到着が遅れて重要な初期消火に失敗している。そして、各地の消防車が応援に来ても消火栓とホースの規格が合わず消火出来なかった事が、問題になった。
走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれたため、破損送水不能になる現象も多発した。震災後、兵庫県・神戸市においては、防火貯水槽の整備、消防へのヘリコプターの活用が検討されている。
[編集] 消防・自衛隊による救助活動
地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っているが、幾つかの問題点も指摘された。
また、この災害で、それ以前はあまり知られていなかった「挫滅症候群(クラッシュ症候群)」が、全国的に有名になった。
- 消防・警察
消防庁や警察庁が調整を行って全国から消防部隊や機動隊員が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着した人はほとんどいなかった。到着出来ても、大規模災害に対する技術・知識・装備・機材どれも満足とは言えない状況だったため、活動は難航した。
都市部の消防・警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助などの活動は円滑とはいえなかった。一方、淡路島においては、「地元の消防団および近隣住民が中心となった救助活動」が行われた。特に、北淡町においては発生から約11時間で捜索救助活動および遺体収容が完了している[24]。建造物や人口の密度を勘案すれば、神戸市街地とは救助に要する時間を単純に比較はできないが、地震発生直後における近隣住民などの地域コミュニティーによる救助活動の重要性を示している。
瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))[25]。ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。
消防はこの地震での失敗を教訓とし、後の特別高度救助隊・高度救助隊の創設のきっかけとなる「消防機動救助部隊(通称:ハイパーレスキュー)」と「緊急消防援助隊」を創設し、さらに警察も「広域緊急援助隊」を創設することになる。
- 自衛隊と県知事
自衛隊については、地震発生数分後には行動を始めたものの、阪急伊丹駅へ近傍派遣(災害派遣)を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。
貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかった。これは、「貝原知事が情報を座して待っていたこと」「(各所轄の警察署単位で調査した被害情報を取りまとめる立場の)兵庫県警本部の警備部から貝原知事への報告も少なかったこと」が原因だった。
例えば、兵庫県警東灘署だけでも午前8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、兵庫県警警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行なわなかったため、午前10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった[26]。
貝原知事は「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と答えている[26]。逆に、知事が即座に派遣要請を出していれば、建物の下敷きとなり圧死した犠牲者の数は更に減っていたという意見もある。また、知事以外の首長が要請を出すことは許されないという、当時の法制の不備も原因している。
こうした状況把握の混乱の中、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然つながった野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった[注釈 7]。
これを教訓に、自衛隊への派遣要請を都道府県知事のほか市町村長または警察署長などからも行えるよう、後に制度が改められた。
[編集] 防衛庁・自衛隊による一部マスコミ報道への反論
発生から数ヶ月の間の自衛隊報道については様々な内容のものが存在する。批判もあれば過度の期待を滲ませた内容もあるが、一部については事実と異なるとして、広報誌『セキュリタリアン』にて反論が行われている。下記に、同誌で否定された項目を列挙する。カッコ内は同誌が批判した報道(同誌は紙誌名の特定をしていないため、全て「某〜」と言った表記になっている)。
- 自衛隊のヘリによる消火活動が出来たのではないか(各紙・テレビ・複数週刊誌等)[注釈 8]
- 自衛隊のヘリが、被災地上空を戦争気分で飛びまわっている(某週刊誌)
- 初動の段階でヘリコプターにより人員を(実際より)もっと被災地に投入できた(各紙)
- 複数ヘリの撮影したビデオカメラを机の上に置きっぱなしにした、現地情報が東京六本木の防衛庁中央に全く上がってこなかった(某月刊誌)
- E-2C早期警戒機を出動させるべきだ(某月刊誌)
- 地震発生後、現地部隊が出動できる体制をとりながら、出動命令がついに出ず、防衛庁(及び官邸)に部隊の出動命令発出の許可を求めても、「待て」の言葉しか帰って来なかった(某週刊誌)
- 災害時に自衛隊の「自己完結性」が仇にもなりうる(某月刊誌、筆者は憲法学者)
- 松島総監が、初動態勢が遅れたとされたことについて釈明会見(某人気キャスター)
- 約20年前に、消防飛行艇の計画が省庁間の「縄張り争い」によって実現しなかった(某紙)
- (RF-4Eについて)偵察した情報をリアルタイムで電送により伝えられる(某週刊誌他)
なお、「指摘した事項はほんの一部」と記事は結ばれている[27]。
[編集] 復興
全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義捐金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。
[編集] 街の復興
復興事業では、ライフラインの復旧が最優先とされた。電気は殆どの地域で3日から1週間程度で復旧が可能だったが、地下に埋まっている水道・ガスの復旧に長期間を要した。また神戸市では、当時水道局があった神戸市役所2号館6階が7・8階に押し潰されて被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要するなど復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階〜8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。
復興支援物資の輸送も全国各地において受け付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と大阪市を結んでいた。
神戸近郊の道路でも、「神戸市に行く」と言えば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けられた。
建造物の本格的な復興事業が開始されたのは、翌月に入ってからである。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた[注釈 9][注釈 10]。
[編集] 避難所・仮設住宅・復興住宅
家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。
被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。
震災発生後1ヶ月を経て、プレハブ工法による仮設住宅が建設されて、入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始に合わせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられたり、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。
その後、復興支援住宅(災害復興住宅)と呼ばれる高層の恒久住宅の建設が、兵庫県によって行われた。仮設住宅よりもプライバシーが守られる反面、近所付き合いのコミュニティが形成しづらいこともあり、孤独死の問題も増えた。水道が長時間使われない場合に自動で警告を知らせるシステムなどで、防ごうと対応しているところもある[28]。
これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。
[編集] 民間企業・組織による支援活動
政府側の対応が遅れる一方で、民間企業からの支援活動が目立った。
- 神戸市に本社を構えていたスーパーマーケット大手のダイエー以下、当時のダイエーグループ企業(ローソンなど)は、震災の一報を東京都内の自宅で知った中内功社長(当時)の指揮により、建物が半壊状態であっても兵庫県内を中心に関西圏の営業可能な状態の店をすぐに開け、在庫のある商品、空輸で届いた商品(食料品以外の毛布、懐炉なども含む)などを破格(菓子パンやおにぎり一個10円等)で提供した。
- セブン-イレブン・ジャパンも、地震発生3時間以内に救援物資や食料などを他地域からヘリ空輸するなど、非常に早い対応を行った。地震当時神戸市内に店舗がなかったセブン-イレブンは震災後素早くヘリコプター6機を自社で借り、京都府の弁当製造工場で緊急製造した弁当・おにぎり等約6000人分を神戸市へ空輸し無償で提供した。
- 生協(生活協同組合コープこうべ)は、「災害時に食料等を放出する」という契約に基づき、食料の配給を行った。
- 任天堂はゲームボーイを5000台とヘッドホン、トランプ3000個を、セガはリコーダー20000本を被災児童に提供した[29]。
企業以外の団体による支援活動としては、一番乗りの救世軍、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織・山口組、阪神地域で強い影響力を有する宗教団体のPL教団・天理教・創価学会・金光教・2ヶ月後に地下鉄サリン事件を起こすオウム真理教といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・便所・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行った[注釈 11]。
その他、渡哲也・渡瀬恒彦兄弟や、河島英五・嘉門達夫・ジャイアント馬場と言った関西にゆかりがある芸能人・タレント・文化人も現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行っている。
[編集] メディア等による復興支援
- テレビ・ラジオ
NHKや民間放送各局は、震災発生1週間前後の時期から、全国の視聴者に募金を呼びかけるようになった。NHKと在阪民放局の毎日放送などは、日本赤十字社の義援金受付口座を震災報道番組の中で連日紹介し、募金を呼びかけた。そして、その集積を地元自治体に寄付するなどして、被災者支援を側面から支えた。
- 東京のTBS - ダイヤルQ2の技術を使った指定の電話番号に通話すると1通話=100円が自動的に寄付される「100円募金」を実施。
- テレビ朝日 - 「ドラえもん募金」を実施。
- 関西テレビ - 番組発足直後だった『とんねるずのハンマープライス』(全国ネット)が、番組のコンセプトである落札で得た収益を「震災復興支援資金」として日本赤十字社等を通じて寄贈した。チャリティーオークションの盛んな欧米の著名人からも出品の協力を得、日本にチャリティーオークションが広く知られる機会にもなった。
- 音楽
3月7日には、東京の日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄附された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組での募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本のジャズ教育が活発化する拠点ともなっている(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)。
- スポーツ
中央競馬では6月3日、4日の京都競馬(1月21日、22日中止分の代替開催。4日にはGI宝塚記念が行われた)、翌1996年(平成8年)7月7日の中山、阪神(前年同様宝塚記念が組み入れられた)、札幌競馬が復興支援開催として催されて馬券の売り上げの一部が寄付された。
- 寄付金付切手
- 日本国郵政省(現在の日本郵便)が、1995年(平成7年)4月20日に阪神・淡路大震災寄附金付切手を発売した。これは額面80円の切手を100円で販売し、差額の20円を震災支援の寄付金としたもので額面は「80+20」と表記されていた。ただしデザインは準備が間に合わなかった為、例年発行されている「切手趣味週間」の切手に便乗する形になった。そのため、デザインは金島桂華の絵画『画室の客』[30]であり、被災地に全く関係ないものとなった。印刷数5000万枚のうち約4728万8000枚が販売され、諸経費を除いた9億4000万円が地元に配分された。
- その後、郵政省は2000年(平成12年)12月22日発行の「20世紀デザイン切手」の17集のなかで、同震災の事を題材にした切手[31]を発行している。デザインは復興のシンボルとされた手塚治虫の「火の鳥」と阪神・淡路地区の地図と倒壊した高速高架道路をイメージしたものであった。
[編集] ボランティア活動
地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血・義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。
このために、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。
この震災で、ボランティアに関わった人々の中には、精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの心のケアも、とても重要なことであることが明らかになった初めてのケースになった。
[編集] 復興組織
関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織となる「阪神・淡路復興対策本部」(初代本部長は当時の首相・村山富市)が、2000年(平成12年)までの5年間総理府に置かれた。
また、「阪神・淡路復興委員会」(委員長は下河辺淳)も設置され、前述の対策本部への提言などで連携した。
戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた[32]。復興に当たっては、1976年(昭和51年)10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。
- 単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定する事
- その実施に当たっては、単なる上意下達ではなくアウトラインのみを地元に提示して細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変える事
[編集] 政府・県の対応
当時、首相官邸をはじめとする政府および国の機関が、直接に被災地域の情報を収集する手段は整備されておらず、地方自治体や各省庁の地方支分部局、自衛隊の部隊などから本省等へ上げられた情報を迅速に集約する体制も、収集した情報を内閣総理大臣等へ通報する体制も整っていなかった。そのため、テレビやラジオなどの報道機関が最大の情報源となり、集約整理されていない情報をもとに、各機関が行動する体制となっていた。災害対策の所管官庁とされていた国土庁にも独自の情報収集手段はなく、関係省庁に上げられた情報を集約することも十分にはできなかった[33]。
「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源であった。国土庁が独自に情報収集手段を持たず、また関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから情報が官邸に十分伝わらなかったという制度上の問題点が指摘された。」
— 阪神・淡路大震災教訓情報資料集[34]
内閣総理大臣であった村山富市には地震の一報がかなり早い時点で入ったものの、これは村山が地震発生直後にテレビでニュースをたまたま見ていたこと(午前6時のNHKニュース)によるもので、秘書官等から詳細な情報を上げることは遅くなった(首相への第一報は7時30分とされる)。村山は総理公邸[注釈 12]におり、8時26分に首相官邸に歩いて様子を見に行き待機したが、誰もおらず特に情報も入らず、また公邸に戻った[35]。その後、不完全ながらも随時上げられる情報により未曾有の大災害であることが明らかになりつつある中でも、村山首相は開会が差し迫った通常国会への対応や懸案となっていた新党問題、財界首脳との食事会など予定通りの公務をこなす傍ら災害対応を行ったため、十分な対応を行わなかったのではないかという疑念を生んだ。
兵庫県庁の屋上にある衛星通信設備[注釈 13]が十分に作動しなかったこと、最大震度(震度6、818ガル)を記録した神戸海洋気象台[注釈 14]の記録が送信されなかった[注釈 15]ということがあったが、この「震度空白域」への対応は十分なものではなかった[注釈 16]。震度6の情報が国土庁や消防庁に入ったのは6時19分であった。
二階俊博衆議院議員「(略)最初にお尋ねしますが、国家の最高責任者である村山総理は、17日の午前5時46分ごろ兵庫県南部で発生した震災を、いつごろ、どこで、だれから報告を受けられ、どのような対策を指示されたのかをお伺いいたします。なお、災害発生当日の総理御自身の御日程についても明らかにしていただきたいのであります。この際、この最初の総理への報告内容がいかなるものであったのかが重大な問題であります。当初これほど大きな災害に及ぶという認識に欠けていたのではないかとの疑問を抱くものであります(後略)。」
村山富市内閣総理大臣「(略)私は、この地震災害の発生直後の午前6時過ぎのテレビでまず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして国土庁等からの情報収集を命じながら、午前7時30分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展をする可能性があるということを承りました。この報告を受けまして、さらにその被害状況の的確な把握をして連絡をしてほしいということを要請するとともに、何よりも人命救助を最優先に取り組んでくれ、同時に、火災も起こっておりますから、消火に全力を尽くせということも指示をいたしたところでございます。午前10時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりでございます。(後略)」— 1995年(平成7年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)
さらに、村山は、地震発生3日後に開かれた衆議院本会議の代表質問に対する答弁の中で、政府の情報収集の遅れと危機管理体制の不備を問われ、「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまする」と答えたため、強く批判された。
二階俊博衆議院議員「(略)災害発生時の事態の掌握のおくれが自衛隊の出動に大きな影響を及ぼしていると考えますが、県からの要請があろうがなかろうが、国土と国民の安全を守る崇高な任務を持つ自衛隊の出動について、タイミングや規模等について判断に重大な誤りがなかったのか、大いに反省の必要があります。と申し上げるのは、生き埋めの人が200名ばかりおるので直ちに自衛隊の出動をという新進党の国会議員の要請に対し、地震当日の朝、…の段階においては防衛庁幹部はこの事態を承知していなかったという重大な事実があるからであります。自衛隊の最高指揮官としての村山総理は、救援の初動活動において、人命救助最優先の立場からもう少し積極的なしかも迅速な指揮がとれなかったのか、悔やまれてならないのであります。(拍手)政治責任もあわせて、この際、総理の御見解を伺いたいのであります。高秀横浜市長は、…大都市の首長の立場から政府の危機管理体制の不備を指摘しておられますが、国民のだれもが同じ思いであります。村山総理はこれらの声をどのように受けとめ、みずからの責任の重大さをいかに感じておられるか、重ねてお尋ねをいたします。(後略)」
村山富市内閣総理大臣「(略)次に、政府の危機管理体制についての御質問でありますが、災害発生時におきましては、関係機関に対する迅速かつ的確な指示が実施できるよう政府の防災体制をとっているところでございまして、自衛隊等の対応につきましても、発生後直ちに伊丹で第36普通科連隊が災害派遣を実施してきたところでございます。また、災害対策を円滑に実施するため、地方公共団体に対しましても必要な指示や要請を行ってきたところでございます。しかし、今から振り返って考えてみますると、何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまするけれども、いずれにいたしましても、防災上の危機管理体制の充実は極めて重要な課題であると認識をしておりまして、今回の経験にかんがみながら、今後見直すべき点は見直すこととして、危機管理体制の強化に努力をしてまいりたいと考えているところでございます。(後略)」— 平成7年(1995年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)
出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で、部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLO(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握してから大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。
最も早く救援体制を敷いた米海軍第7艦隊(横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備・政治的理由・接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態を発生することとなった。しかし、この対応が特別であったわけではなく、当初から、各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。アメリカ政府は空母インディペンデンスの提供を申し出たが、「あの時点では毛布であり水であり、そういうものが緊急である」との判断から日本政府はこの申し出を拒否した[36]。
日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったこと、危機管理体制の欠如・縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた。
兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述の通りであるが、地元選出衆議院議員・高見裕一(新党さきがけ議員)も神戸市東灘区住吉山手にいて、JR住吉駅まで歩いていき被災状況を直接目にしていた。県知事からの派遣要請がなされていない事を知った高見は、携帯電話で東京の議員会館にいる秘書を通じ、午前8時40分に防衛庁に緊急要請を行ったが、東京では「“大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった[37]。高見は、さきがけ代表・大蔵大臣の武村正義、社会党の衆議院議員・五島正規にも8時30分に電話で連絡し、社会党の土井たか子衆議院議長に連絡をとろうとしたが、不在で秘書に連絡した。折り返しの連絡はなかった。
初動対処が遅れた原因として左翼的思想の影響も指摘された。批判で指摘されたのは、社会党の反自衛隊思想、被災地である兵庫県をはじめ京阪神地域が革新勢力の票田であること、社会党を支持している全日本自治団体労働組合の影響などである[38][39]。自治体組織の緩慢な初動の背景としてもこれらは指摘されている[40]。産経新聞は1月28日、1面コラムにて社会党が野党時代に自衛隊の廃止を誓ったことを挙げて批判した。国内の批判は日系資本の英字紙[41]や海外メディアも伝えられている[42]。政治的スタンスと関連した形でも、村山にも批判の矛先が向いた。内容的には初動期を通り越して復旧に着手するまでの期間全体を対象としたもの[43]もあれば、自衛隊への出動命令や発生から数日のリーダーシップの問題に重きを置いた内容もある[44]。しかし、その後に発生した地下鉄サリン事件も踏まえ、5月頃には産経は首相官邸の当時の危機管理体制の不備として総括、結論付ける社説も掲載することとなった[45]。ただし地震発生当時の内閣は自社さ連立政権下にあり、日本社会党は自衛隊を合憲と認めていた。また国土庁長官の小沢潔と後に震災対策担当相に任命された小里貞利はいずれも自由民主党所属の国会議員であった。
一方、村山は1997年(平成9年)8月に行われたインタビューにて次のように述べている。
山川「たとえばアメリカの市会議員や神戸市の市会議員の場合、私たちの調査によると、かれらが選挙のことをかなり強く意識して行動したことが明らかになっています。それは政治家としては当然だと言えようかと思いますが、先生の場合は、いかがでしたか?」
村山「私は選挙のことを全く考えなかった。また考えるべきではないと考えていた。首相としての仕事に全力を投入するべきだと信じていました」
山川「(中略)たしかに危機管理の目的は、第一義的には、たしかに住民・市民を救済することで、政治的な目的とは区別されなければならないでしょう。しかし、言葉は熟しませんが、シンボリック・ユース・オブ・パワーといったようなことがあるのではないでしょうか。つまり、首相のような、権力を持った高い地位の人の行動が、国民に印象深い、象徴的で暗示的な作用をおよぼすということ。その行動から、被災者のことを親身に心配してくれているのだな、と国民が直感的に理解するような行動。そこから生まれる首相と政府への信頼感。その信頼感が首相をささえる与党の選挙における支持につながり、得票数を増やす、ということがあっても構わない、と思うのですが……」
村山「まあ、そういうこともあったかも知れません……。被災地での両陛下のお見舞いの態度のご立派なことに本当に感服しましたが、私の場合は、現地に行って被災者をお見舞いしたとき、どうもマスコミ関係者たちの雰囲気がよくなくて、なんだか苛々した感じを味わったことを思い出します……。訪れた避難所が板敷きで、被災者の皆さんが椅子に腰をかけておられたので、中腰でお見舞いの言葉をかけたところが、新聞などで『高い姿勢だった』と報道されたりして、難しいものだと感じた、というようなこともありました……」— 山川雄巳「阪神・淡路大震災における村山首相の危機管理リーダーシップ」『関西大学法学論集』47巻5号 1997年12月
また、2006年(平成18年)に大分合同新聞が大分大学と共同で行った連載企画「明日を守る―防災立県めざして―」では責任について次のように語っている。
被災地との通信網が途絶え、誰も情報をつかめなかった。当時、官邸には二十四時間体制で、災害や事故に対応する機能もシステムもなかった。米国のように、人口や地形、産業の分布などからコンピューターで地震被害を想定し、対応する仕組みもなかった。
国の行政としては人命の救助が第一。官邸がいち早く被害を把握し、手を打っていかねばならないが、あのような大地震が起きることは想定してもいなかった。突発的な大災害に、緊急対応できる行政の仕組みそのものがなかった。初動対応が遅れた、と責められても弁明の余地がない— 「明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く」『大分合同新聞』2006年[46]
厚生省(当時)は、2月上旬から、国立病院の医師、看護師、ケースワーカーなどを現地に派遣し、災害地の医療を側面から支援する対策を行なった。ただし、これについては、各地の国立病院職員(医師、看護師、他)たちが、震災直後からボランティアとして現地に急行する希望を出していたにも関わらず、厚生省が直ちにはこれを認めず、派遣が大幅に遅れた事への批判がある。
[編集] 震災の影響
[編集] 報道・ネット・通信
- テレビ・ラジオ
震災の情報は報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが全日にわたって震災関連の特別番組となり、コマーシャル (CM) も殆ど放送されなかった。近畿広域圏以外のテレビにおいては、顕著な被害が明らかになった17日午後以降になってより大きく扱われた傾向が見られ、報道特別番組が放送された。
- NHK教育テレビジョンとNHK-FM放送では、数日間にわたって(特に、近畿圏向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。これらは現在でも、各地域で災害が起きたさいに放送されている。
- 筑紫哲也が上空からヘリコプターでリポートし、火事の煙を「箱根の温泉街のようだ」と発言し、批判を浴びた。
- 大阪市に本社を置く近畿広域圏の民放テレビ各局は自身も被害を受けたが[注釈 17]、地震発生から数日間は完全にCM枠を抜いて震災報道を全国に発信し続け、近畿圏以外でCMの放送が復活してからも近畿圏では一定期間CMを流さず、他地域でCMを放送している時間はライフライン情報を静止画で放送していた。独立UHF放送局であるサンテレビジョン[注釈 18]は、1月17日から1月22日まで106時間28分、独立ラジオ局であるラジオ関西は[47]、1月17日から1月20日まで69時間連続で放送を続けた。
- 当時独立FM局であったKiss-FM KOBE[注釈 18]は、1月17日から3月頃までCMを抜いて震災放送を行い、英語の話せるサウンドクルー (DJ) による外国人被災者向けの情報発信や、地域の被災情報発信する 臨時災害放送局としてFM796 フェニックスも設けられた。震災は外国人向けの情報の必要性が認識されたことでFM CO-CO-LOをはじめとする外国語放送設立のきっかけとなり、また市町村単位の情報が課題とされ、3年前に制度が整備されていたコミュニティ放送制度が全国的に脚光を浴びることとなった。
- 近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は放送されなかった。例外として発生3日後の1月20日の夜に、『探偵!ナイトスクープ』(ABC)が放送された(詳しくは、探偵!ナイトスクープ#その他を参照)。また『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)では、震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく、笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎による、2人が実際に見聞きした震災に関する話題や救助活動を妨げかねないマスコミの報道姿勢に対する疑問を呈したトークを行った(詳しくは、鶴瓶上岡パペポTV#無観客による放送を参照)。
- 一方で、キー局となる関東広域圏各局の対応は、上記の時間が過ぎてから概ね通常の放送体制に戻っていったが、それでも、ニュースやワイドショーといった多くの生放送番組など日常の番組や、「地震から2週間」「1ヶ月」「2ヶ月」といった節目では、被災地の状況を伝えるルポを数多く伝え、被災者への応援や義援金の呼びかけなどを行っていた。しかし、それ以外の局面では地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに徐々に絞られていき、特に、約2ヶ月後の地下鉄サリン事件が発生して以降はこの傾向が顕著となった。
- 新聞
- 神戸新聞社は地震により本社社屋が全壊。新聞編集用コンピュータシステム(CTS、社では「ホストコンピュータ」と呼んでいた)の機器および専用高圧電源が損傷し、新聞編集が不可能になったものの、前年に京都新聞社と締結していた災害時相互援助協定を発動。午前8時半にようやくつながった電話(同日夕方に途絶)で情報を送ったほか社員を京都へ派遣[48]し、同社社員とともに見開き4ページの夕刊を編集し制作した。印刷用原版のフィルムは京都新聞の下請け運送会社の社員がオートバイで6時間かけて神戸市西区の印刷工場まで輸送し、当日午後7時31分、夕刊発行に成功した(午後8時頃に刷了[48])。その後、暫くは京都へ社員を派遣しての制作が続いたが、全国の新聞社からの機材支援や取引先の全面協力により、10日後に一部のシステム再稼働に成功している[49]。
- デイリースポーツは日本経済新聞および関連会社の全面協力を受けて東京で紙面を作成し発行を継続した。
- ネット・パソコン通信・携帯電話
震災当時、日本のインターネットにおいて商用利用、個人利用はまだ始まったばかりであったが、パソコン通信ネットワーク(「NIFTY-Serve」(現在の@nifty)など)の掲示板や電子会議室が、被災者情報や大学の休講状況などの情報交換に役立った。以後、コンピュータネットワークの商用利用、個人利用に、マニア以外からも目が向けられるようになっていくこととなった。
普及期で、サービス内容機能の少なかった携帯電話は一部で輻輳状態となった。
- 暴力団関連の報道
行政による救援、救助活動が後手に回った一方、前述の組織・団体、特に宗教団体や暴力団などによる現場での救助・支援活動は、日本のマスメディアで報道されることは少なかった。諸団体の宣伝につながりかねないとの懸念からであった。その中で、JNN(TBS)系が、地震から3日目の1月19日に放送したJNNニュースの中で、神戸市内に本拠を置く日本最大の広域指定暴力団である山口組の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出する様子を、「住民の苦渋の選択」として報道した。このとき山口組は石油暖房機を積んだトラックを用意し毎日手際よく食事を提供するなどの援助を行っていたため、多くの被災者が集まっていた。
報道機関としては、山口組の宣伝にならないよう決して与しない慎重な扱いであったが(大谷昭宏が『こちら大阪社会部 阪神大震災編』の中で触れ、大谷とデスクが採り上げるべきか否かで議論する様子を描写している)、無数のヤクザに頭を下げながら一般市民が列をなして食料をもらう姿は、震災の過酷な現実の一断面を描くものであった。
英・米など日本国外のマスメディアも追随し、BBCは「政府の救助活動は遅々として進まないのに、現地のマフィア(ここでは山口組を指す)が救助活動を行っている」と報道した。なお、一部雑誌[50]に掲載された「外国メディアの方が日本のメディアに先んじて報じた」という指摘は、誤報ないしは虚報である。
[編集] 文化・スポーツ
宝塚歌劇団の本拠地・宝塚市の宝塚大劇場も大きな被害を受けた。竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ2ヶ月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、「国境のない地図」において公演を再開。
神戸国際会館も全壊し、予定されていた公演を中止や会場を移しての公演になった。1995年(平成7年)12月に神戸ハーバーランドの空き地を借用して建設した仮設公演施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザホール」が完成し、神戸での公演が本格的に再開された。
阪神競馬場や阪神甲子園球場の一部が損壊。この年の「大阪国際女子マラソン」も中止を余儀なくされた。また、4月にTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催予定だったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。この年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった。
六甲アイランドで1月21日に開催予定だった日本陸上競技選手権大会男子20キロ 女子20キロ競歩が中止され、翌2月に千葉市で代替開催された。2007年(平成19年)4月、このときの恩返しとして、同年3月の能登半島地震で被災した石川県輪島市で行なわれる予定だった別の競歩大会を六甲アイランドにて代替開催した。
第67回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、吹奏楽などによる鳴り物演奏を自粛して予定通りに実施された。
プロ野球・オリックスブルーウェーブは『がんばろうKOBE』をスローガンに1995年(平成7年)、1996年(平成8年)とパ・リーグ連覇(1996年(平成8年)は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。また、毎年恒例だった正月映画・男はつらいよシリーズの、12月に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』では、神戸市側から松竹へロケの要請があったことや、山田洋次監督の元に、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで、当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。
JFL・ヴィッセル神戸は1995年(平成7年)1月1日に正式にヴィッセル神戸として始動。日本プロサッカーリーグ昇格を目指し、1月17日に初練習をする予定だった。だが、震災により岡山県倉敷市での練習開始を余儀なくされ、神戸では練習場の確保が困難であるため、練習場を転々とせざるを得なかった。また、このように震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合ではサポーター達により、試合前に「神戸讃歌」(「愛の讃歌」の替え歌)が歌われ続けている。
[編集] デパート
そごう神戸店も本館が半壊した部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末、1996年(平成8年)4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。大丸神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊して新館として再建。西館についても全面改装を施して1997年(平成9年)3月に復興グランドオープンした。
三宮阪急は、入居していた神戸阪急ビル東館の上層階が崩落する全壊のため解体撤去することとなり震災5日後に閉店した(ただし、震災前の1992年(平成4年)に神戸ハーバーランドに神戸阪急が開店している)。神戸デパートも、被災をきっかけに閉店した。
やや離れた大阪市でも北浜の三越大阪店の本館が被災して解体され、売場面積を大きく減らした。これが10年後の2005年(平成17年)に閉店する一因となった[51]。
[編集] 震災景気
土建業、土木機械製造業など、一部の業界はその後、約10年間にわたり好景気が続いた。[要出典]但し、これらは悲惨な大震災であった為、一般に報道されることがなかった。この様な報道は、視聴者の反発が予想され、視聴率が取れないためといわれている。[要出典]しかし、被災者の大半は倒壊した家屋を再建する財力はなかったことから復興需要による景気浮揚効果は低く、むしろ平成不況を長期化する要因となった。被災によって財産を失い、復興需要で景気回復しなかった例としては関東大震災もある。
[編集] 人口
神戸市は、震災直前の1995年(平成7年)1月1日の推計人口が152万0365人だった[52]。同年10月1日に実施された震災後初の国勢調査では142万3792人となり、震災による市内の死亡者数4571人を大幅に超える、約10万人もの人口が減少した[52]。2004年(平成16年)11月1日に推計人口が152万0581人となり、震災前の人口を9年10ヶ月ぶりに超えた[52]。しかし、区ごとにみると、震災前より人口が増えたのは六甲山地2区(北区・西区)と沿岸東部3区(東灘区・灘区・中央区)だけであり、沿岸西部4区(兵庫区・長田区・須磨区・垂水区)では現在でも震災前の人口に戻っていない[52][53]。特に長田区は3万人近く少ないままであり[53]、地域によって復興に格差が生じていることが見受けられる。
また、加古川市などの東播磨地域に転居した人も多い。
[編集] アスベスト・がれき
震災で被害を受けた建物に使用されていたアスベストを、住民・作業員・ボランティアなど作業に当たった多数の人が吸い込んでいるため、影響が懸念されている[54]。
解体を要した損壊建物は約11.6万棟、生じたがれきの量は約1450万トン(1995(平成7)年12月31日時)となった[55]。
1987年から「大阪湾フェニックス計画」(海面埋め立て)が始まっており、その海面に造成していた広域処分場では、約262万トン分の災害廃棄物を受け入れた[56]。
[編集] 犯罪・問題行為
暴力団が救援活動に当たっていた一方で、震災に乗じて災害援護資金を不正に受けたり、建設会社に対し工事の受注を要求する等の触法行為を犯していた事も事実である。警察は暴力団のこういった問題行為を見越して、移動暴力相談車を利用した「巡回暴力相談所」を開設するなどの臨時対策を採っていた[57]。また、暴力団関係者による手抜き工事も存在もしたという[58]。
デマとしては、「性犯罪が増加した」などが流れたが、兵庫県内の強姦の事件数自体は前年と変わらず、逆に強制わいせつ事件は減少していた。また、窃盗・強盗の件数も同様に減っていた[59]。
また、震災発生直後の1月19日前後及び1ケ月半後の2月26日、関西で京都府亀岡市の亀岡断層を震源地とする震度7の余震が起こるとの噂が発生した。2度目の噂では、亀岡市周辺の企業で臨時休業や食品スーパーで商品の買い占めが発生した。
問題発言としては、井戸敏三兵庫県知事が2008年(平成20年)11月11日に行われた近畿ブロックの知事会議において「東京一極集中を打破するための旗を揚げなければならない。関東で震災が起きれば東京は相当なダメージを受ける。これはチャンスですね」と発言したものがある。当初は謝罪を渋ったものの、猛抗議を受けた後謝罪した。
[編集] 報道倫理に関わる問題
- 過剰な取材
報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。地震発生直後、マスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、地震直後から始まった航空映像によって首相官邸など被災地外の人々が地震の被害状況を素早くつかむことが出来た反面、このヘリコプターの騒音によって、家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなったとする指摘がある。
1995年(平成7年)2月7日、衆議院地方行政委員会において、伝聞情報をもとに、この問題が取り上げられている。その後、関西の放送局間では、大災害発生時にはヘリコプターの飛行数を相互制限し、映像を各社で共有する方法(一種の代表取材)などが検討されている。ただし、震災で具体的にどの程度の騒音被害があったのかは明確でない。騒音の元が自衛隊や消防のヘリでないのか(どうやって上空のヘリを見分けたのか)、自衛隊・消防のヘリならば音は問題ないのかなど、主張に曖昧な点も多い。
- 被災者への配慮
東京をキー局とする報道局では「東京で同様の地震が起きたらどうなるか」「東京でなくて良かった」というような報道も一部でなされ、被災地からの苦情が相次いだ。また震災直後、一部マスメディアは震災で崩れ去ったがれきの山と、数十メートル先で震災で崩れず問題なく震災直後も営業しているパチンコ店の映像を放送した[60]。
[編集] その他
- 日本銀行神戸支店は震災による金融パニックを防止の為、大蔵省神戸財務事務所長と神戸支店で緊急協議し、大蔵省及び日本銀行本店に対して金融特別措置発令を要請。本人確認が取れれば、通帳や印鑑なしでの預金引き出しを可能にしたほか、支店の2階に被災した銀行窓口を開設し、破損したり燃えた紙幣の交換等の業務を行い、パニックを防止した。この際神戸支店長はNHKラジオに生出演し、これらの措置に関して説明した。
- 前日本社会党委員長山花貞夫、前社会党書記長赤松広隆、日本新党を離党して無所属の海江田万里、民社党から新進党の結党に参加した川端達夫らは、1月17日に新党の結成を予定していたが断念せざるを得なくなった。
- 当初4月9日と4月23日に行われる予定であった統一地方選挙が、震災の影響により6月10日に延期された。
- 当時阪神タイガースに所属していた新庄剛志は震災を目の当たりにしたほか、ニューヨーク・メッツに移籍した2001年(平成13年)にもアメリカ同時多発テロ事件を目の当たりにすることとなった。
- 神田うのは雑誌『uno!』(1997年11月号)での対談にて番組スタッフの誘いで震災での死者数を賭けにしていたと語っている。しかしながら本人は「悲しすぎるネット被害」として2011年3月23日のブログにて否定している。
- 桃太郎電鉄シリーズに登場していた「大地震カード」が、本震災の影響でスーパー桃太郎電鉄DXから廃止された。
[編集] 震災の教訓と変化
[編集] 消防・レスキュー・医療
この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波や、緊急消防援助隊、広域緊急援助隊、消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)、救助機動中隊の発足と整備につながる。
これらの組織は、後の新潟県中越地震(2004年(平成16年)10月)やJR福知山線脱線事故(2005年(平成17年)4月)においても大きく貢献することとなった。また、消防組織はもともと市町村単位であり、この震災によって、消防の広域動員における指揮・通信・装備などで多くの問題が露呈し、改善が進められている。
しかし2009年(平成21年)現在、道州レベルの広域大災害の消防・救命活動指揮組織がようやく作られつつあるものの、これはあくまでも事が起こってから臨時で設置される組織であって、常設組織を設けて平時から大規模災害対処計画を研究立案する段階にはなっていない。
2005年4月には、阪神・淡路大震災を教訓・反省として、災害派遣医療チーム(DMAT)が発足した。
[編集] 自衛隊
一方、1995年(平成7年)3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の危機管理における機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が震災以前と比べて格段に高まり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった。
しかし、防衛省はもともと平時にあって有事に備える広域危機管理官庁であり、震災対処計画機能はあるものの、道州レベルでの協議における消防側の対応相手が消防庁しか存在しないのが実情であるなど、災害援助においては装備や組織の問題によって充分に機能し得ないので、「大規模災害に十分対応するためには、装備のほとんどが武器・兵器で占められる自衛隊を用いるのではなく、充実した専門装備を持つ災害救助隊を別に設立すべきだ」とする意見がある。これについては、「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争と別建てで設立するのは予算の無駄であり、自衛隊の災害救助に関する装備・機能をもっと充実させて当たるべきだ」という意見も出されている。
道路が寸断されている場合、消防車両が現地に容易に近づけない場合も多いので、ヘリによる瓦礫除去車・消防車の吊下空輸が手法としては有効である。また、消火水道断裂に備え数億円する防火水槽を全国各自治体に数千基整備することは予算面から進んでいないが、既にある自衛隊の重輸送ヘリ約40機で水コンテナを校庭に吊下空輸すれば大幅に補完する事ができる。
しかし、CH-47などの重輸送ヘリは1機で数十億円と高価なため、自衛隊のCH-47が重輸送ヘリを購入できない途上国の震災等の災害救援にも派遣されて役立っている一方、市町村消防局で重複購入するのは財政難のため困難である。消防側は、自衛隊にヘリ空輸を依頼せず、瓦礫除去車/重機で進路の瓦礫/土砂を除去しながら数時間かけて現場に到着する計画である平成21年(2009年)現在)。
- 自治体と自衛隊の連係
報道陣に(関東大震災等の前例があるのに)震災を杞憂扱いして危機管理計画を定めていなかった怠慢を指摘された自治体[注釈 19]等が、「まさか、関西で大地震が起こるとは思わなかった」という(「まさかの大災害」への平時からの準備が重要という危機管理の初歩を理解していない)釈明を行なったため、マスコミによって激しく批判された。
これは災害対策基本法の制定された1961年(昭和36年)が安保条約更新の直後であり、反自衛隊感情を刺激しないように立法されたからだとされる[61]。そうした背景もあり当時の自治省の指導にも不備があり、現在においても自治体の防災規定に対する総務省の指導は不徹底で、同様の事態が別の自治体でも起こりうるとの指摘もある。
首相の村山は上述のように、自衛隊出動命令の遅れを責められて「なにぶん初めての事ですので」と釈明したため、一部から「前例ある有事を杞憂扱いして備えを怠り、危機管理官庁の自衛隊を感情的に毛嫌いして有効活用せず国民被害を拡大した」といった批判も受けたが、竹下内閣から村山内閣まで7人の首相に仕えた元内閣官房副長官・石原信雄の「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外の誰が内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった」[62]という証言に代表されるように行政機構全般の危機管理の不備が明らかになり、その後も村山は首相職を担うこととなったが、7月の参議院選挙で社会党の議席は激減した。
震災から12年経過した2007年(平成19年)の政府・官房長官の記者会見においても「多くの犠牲になられた方々に改めてご冥福をお祈りしたい。防災体制はあれ以来、強化を図っているが、改善に改善を重ねていかなければならない」と述べた。当時、大きな問題点として指摘された政府の危機管理体制については一定の改善が行われたとの認識を示したうえで「十分ということはないのでいつも反省をしながら改善していく」と語った。
政府による支援が遅れた一方で、前述の通り民間による支援活動は積極的に行われた。
[編集] 耐震補強・既存不適格
この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、近畿地方の瀬戸内海岸では他の地方に比べて地震の発生が少なかった事が挙げられる。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、エネルギー(ひずみ)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいる事を述べていた。
しかし、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による過信から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤解の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。実際には近畿地方は幾度も大地震に襲われている(地震の年表を参照のこと)。歌舞伎「地震加藤」は、豊臣秀吉の不興を買っていた加藤清正が、慶長元年(1596年)9月の慶長伏見地震で、伏見城から秀吉をおぶって逃げる話となっている。神戸は地震予知連絡会の「観測強化地域」にも指定されていた。
地震対策は震度5を想定しており、防災については地震対策よりもむしろ「阪神大水害」の教訓から水害を重視した防災計画が作成されていたとみられる。
それまでの大地震の発生する構造については、太平洋プレートやフィリピン海プレートが日本海溝や南海トラフにおいてユーラシアプレートの下に滑り込み、そのプレートの跳ね返りによって発生するもの(海溝型地震)ばかりが注目されて活断層のずれによる大地震の発生はさほど注目されていなかった。
実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する関東地方と東海地方と紀伊半島においては、大地震(関東地震・東海地震・東南海地震・南海地震など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が実施されて来た。ところが、近畿地方(紀伊半島)でも、太平洋岸である三重県と和歌山県とは対照的に、瀬戸内海岸である大阪府と兵庫県は無警戒に近い状態であった。
北海道・東北地方・北陸地方などの豪雪地帯であれば、地震の多発地帯以外でも、「雪」という重量物が屋根の上に積み重なる前提に家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることが指摘されている。ただし、2004年(平成16年)の新潟県中越地震において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊した事で、耐雪構造と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。
その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上に最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。また、前述の「高架構造」になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、行政主導のもとで補強工事[注釈 20]が施工されていった。
この地震の原因である活断層は、全国に広く分布している。しかし、現在においても、大地震を正確かつ厳密に予知することは不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建築であっても、地震発生の際の被害予測は非常に難しい。
- 建築基準法
最も重要な問題、すなわち古い住宅の耐震性がなくても違法とならない問題は変更されなかった。老朽化した木造の瓦屋根に死者が集中したのを受け、建築基準法を改正した。
また耐震性の小さな建造物にも被害が多く発生したことを受け、消防庁では公共施設の耐震改修を指導している。
しかし、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ、公共施設の耐震化率は48.3%にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れている。さらに、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低い。
さらに、ほとんど犠牲者が出なかった公共施設の耐震化は進んでいるが、犠牲者の80%以上を出した民間の耐震性のない木造住宅の耐震補強はほとんどなされていない。
また、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大・大田教授のグループ)があったことから、震災発生後しばらくは「家具転倒防止金具」を購入する人が多く見られたが、今では普及が鈍化している。
[編集] カセットコンロ・ガスボンベの規格
同震災で、被災者らが避難生活中にどこでも使えるカセット式のガスコンロを調理などに利用していたが、当時のカセットコンロ・ガスボンベの規格は1991年(平成3年)7月1日にJIS規格(JIS S 2147 / JIS S 2148)によって制定[63]されていたもので、ボンベのサイズや構成部品が厳密には規定されておらず、メーカーの異なるカセットコンロ・ボンベの互換性は完全ではなく数種類あった。
そのため、被災者間においてカセットボンベの貸し借りができない場合があり、メーカー側に疑問が呈されたり、規格統一の必要性が認識された[64]。
これを教訓として、1998年(平成10年)2月20日に日本工業規格「カセットこんろ(JIS S 2147)」「カセットこんろ用燃料容器(JIS S 2148)」の改正が行われ[63]、ボンベの形状が一種類に規定された。[64]。
[編集] その他の対応・問題点
前述・後述の諸問題も含めて、この大震災は日本の災害対策上、重要な位置を占めている。
- 「阪神・淡路大震災を契機とした災害医療体制のあり方に関する研究会」が発足し、全国の都道府県ごとに「災害拠点病院」が設置・整備されることとなった。
- 地震に起因する火災(特にもらい火)などは、多くの「火災保険」では天災として填補除外条項(保険金を支払わない場合)とされているケース[注釈 21]が多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に「地震保険」への注目が集まるようになった(この震災で支払われた地震保険の支払額は、約783億円[65])。
- 自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定するかを審査する委員会が置かれた。ただし、失明・失聴・四肢の喪失・重度精神障害など死亡に準ずる重度障害の統計は発表されていない(統計が行われたかも不明)。
[編集] 追悼行事
震災の記録・記憶を残すため、以下の施設が作られた。
- 「人と防災未来センター」 - 神戸市中央区(新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中)
- 「北淡震災記念公園」 - 津名郡北淡町(現在の淡路市北部)(兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存)
- 「神戸港震災メモリアルパーク」 - 神戸市中央区のメリケンパーク(崩壊したメリケン波止場を保存)
毎年1月17日は、各地で追悼式典が行われている。
- 東遊園地(神戸市中央区三宮) - 発生時刻の午前5時46分と、その12時間前と12時間後の午後5時46分に黙祷を行う。広場には、6,000本の灯篭で模った「1.17」を北側の神戸市役所庁舎を正面に掲示される(この灯篭が消えた場合は、式典開催者は手をつけずに、訪れた人々にろうそくを渡して点火してもらっている)。灯篭は毎年若干の違いがあるものの、16日夕方から17日21時まで点火されている。
また、1995年(平成7年)より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して「神戸ルミナリエ」が開催されているが、近年は開催当初の意義から乖離する傾向にあり、その開催目的に疑問を抱く市民も増えつつある。中には「形だけの心の通わない“鎮魂”は死者に対しても恥ずかしいし、この際、ルミナリエは廃止してほしい」といった声も挙がっている[66]。
被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったため、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物によって示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味を込めて新潟県中越地震やスマトラ島沖地震の時はどこよりも早く、多くの人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。
神戸市立小学校の音楽教諭である臼井真作曲・作詞の『しあわせはこべるように』という歌が復興の歌として取り上げられることが多く、各種学校団体をはじめ多くの追悼行事で歌われている(今では『しあわせ運べるように』として、Cooley High Harmonyや川嶋あいが歌っている)。
2011年に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では、「神戸」という歌詞の一部を各地域の名称に変えて歌われる動きがある。7月25日には作詞作曲者である臼井氏自身がCDブックを刊行。このCDには「しあわせ運べるように〜ふるさとver.〜」が収録される。「神戸」を「ふるさと」に変えて、一部編曲をしたものである。臼井氏いわく、「『ふるさと』とは被災地の地名の総称」とのことである[67]。このヴァージョンは2011年7月8日にニッポン放送「上柳昌彦・山瀬まみ ごごばん!フライデースペシャル」で流された。公式サイト
[編集] その他の追悼イベント・モニュメント
- インフィオラータ神戸
- ポンテ・ペルレ
- 神戸学院大学 大時計(震災によって損傷した明石市立天文科学館大時計)
- 弓弦羽神社
[編集] 復興・防災キャンペーン
- 阪神・淡路大震災10周年「いのちを守るためにキャンペーン」(NHKの震災10周年キャンペーン)
- ラジオ災害情報交差点(在京ラジオ7局共同制作による災害情報番組)
- ネットワーク1・17(毎日放送ラジオの震災情報番組)
- オリックス・ブルーウェーブ(がんばろう神戸)
- See阪神・淡路キャンペーン(兵庫県)
[編集] 阪神・淡路大震災を題材にした作品
[編集] 小説・詩
- 貴志祐介 『十三番目の人格 ISOLA』(1996年)
- 藤尾潔 『大震災名言録』(1997年)
- 村上春樹 『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)
- 山田真哉 『女子大生会計士の事件簿』シリーズ(2002年) - 主人公は阪神・淡路大震災で亡くなった姉の遺志を継いで会計士になる。著者の山田真哉自身が震災時に自宅の全壊を経験している。
- 東野圭吾 『幻夜』(2004年)
- 横山秀夫 『震度0』(2005年) - 阪神・淡路大震災が起こった同じ日に起きたある事件が県警内部を揺るがす。刻々と伝えられる被災地の惨状をよそに、警察内部は権力闘争に明け暮れる。『このミステリーがすごい!』の平成18年(2006年)版で、国内歴代第3位に選ばれた。
- 平山譲 『ありがとう』(2006年)
- あしだかおる 『1.17』(2006年) - 女性向け月刊雑誌デザートの体験談手記を元に漫画にした作品。全2巻あり、上巻は体験談手記投稿者の地震発生当時、下巻はその10年後を描いた作品である。
- 柴田哲孝 『GEQ』(2010年)
[編集] 漫画
- 高橋しん 『いいひと。』(1993年 - 1999年) - 阪神・淡路大震災を背景としたエピソードが収録されている。
- 大谷昭宏、大島やすいち 『こちら大阪社会部(阪神大震災編)』(1995年)
- 郷田マモラ 『きらきらひかる』(1995年 - 2000年)
- 木村紺 『神戸在住』(1998年 - 2006年) - 主人公自身は震災を体験していないが、知人・友人に被災者がいる。うち一人は震災ボランティアとしても参加しており、その立場からのエピソードも描かれている。
- 山本航暉 『ゴッドハンド輝』(2001年 - 、連載中) - 阪神・淡路大震災を背景としたエピソードが収録されている。
- サラ・イイネス 『大阪豆ゴハン』(1992年 - 1998年) - 主人公の友人が被災した、というストーリーがある。
- かわぐちかいじ 『ジパング』(2000年 - 2009年) - 番外編「守るべきもの」にて、本編のストーリーが開始される約10年前の平成7年(1995年)という設定で、主人公の自衛隊員が阪神・淡路大震災の被災地へ災害派遣で出動するストーリーがある。
- 七三太朗、川三番地 『Dreams(ドリームス)』(1996年 - 、連載中) - 兵庫県代表神戸翼成高校のエース・生田庸兵選手の家が阪神・淡路大震災で被災、両親を失ったために仮設住宅で弟、妹と一緒に暮らしているエピソードがある。
[編集] 映画
- 山田洋次 『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995年)
- 菅原浩志 『マグニチュード 明日への架け橋』(1997年)
- 万田邦敏 『ありがとう』(2006年) - 平山譲の同名小説を映画化。
- 渡辺あや 『その街のこども 劇場版』(2010年) - 同名テレビドラマを再編集した劇場公開版。
[編集] ドラマ
- 笠井健夫 『異人館通りの聖夜』(1995年) - 毎日放送「エリアコードドラマ06」で放映。
- 野沢尚 『恋人よ』(1995年) - フジテレビ系で放映。主人公が神戸出身で、実家が被災したという設定。
- 宮村優子・長川千佳子 『甘辛しゃん』(1997年 - 1998年) - NHK「連続テレビ小説」で放映(NHK大阪放送局制作)。
- 小池康生 『LouLou〜被災地のDJ』(1997年) - ラジオドラマ。NHK-FM「FMシアター」で放映(NHK大阪放送局制作)。
- 井上由美子 『きらきらひかる』(1998年) - フジテレビ系で放映。郷田マモラの同名漫画をドラマ化。
- 大石静 『終のすみか』(1999年) - NHK「NHKドラマ館」で放映(NHK大阪放送局制作)。
- 尾西兼一 『わかば』(2004年 - 2005年) - NHK「連続テレビ小説」で放映(NHK大阪放送局制作)。
- 渡邉睦月 『震度0』(2007年) - WOWOWで放映。横山秀夫の同名小説をドラマ化。
- 水田伸生 『252 生存者あり episode.ZERO』 (2008年) - 映画『252 生存者あり』の2年前を舞台としたスペシャルドラマ。映画公開の前日に、日本テレビ系で放映。主人公が阪神・淡路大震災で両親を失う設定。
- 井上剛 『未来は今 10years old, 14years after』(2009年) - NHKで放映(NHK大阪放送局制作)。ドキュメンタリーを組み込んだ構成。
- 田辺満 『神戸新聞の7日間』(2010年) - フジテレビ系「土曜プレミアム」で放映。ドキュメンタリーを組み込んだ構成。
- 渡辺あや 『その街のこども』(2010年) - NHKで放映(NHK大阪放送局制作)。放送当日に東遊園地で行われた追悼のつどいが、ラストシーンとして撮影された。同年に再編集版が劇場公開。
[編集] 音楽
第46回NHK紅白歌合戦(1995年12月31日)では、由紀さおり・安田祥子、前川清、田村直美、南こうせつの4組が、被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画枠で出場した(審査の対象外)。
- 平松愛理 『美し都 〜がんばろや We Love KOBE〜』(1995年)
- 嘉門達夫、泉谷しげる、大江千里 『怒りのグルーヴ 〜震災篇〜』(1995年) - 泉谷と大江はバックコーラスとして参加。
- ソウル・フラワー・ユニオン、ヒートウェイヴ 『満月の夕』(1995年) - ガガガSPや沢知恵らがカバーしている。
- ロイヤル・ハント『Far Away』(1995年)
- 浜田省吾 『我が心のマリア/恋は魔法さ』(1995年) - 印税・原盤収入をすべて被災者に寄付。
- 河島英五 『森へ帰ろう』(1995年) - 震災復興コンサート『復興の詩』のテーマソング。
- 谷村新司 『メシアふたたび』(1995年)
- 池辺晋一郎 『阪神大震災鎮魂組曲 1995年1月17日 混声合唱とピアノのために』(1996年) - 原詩は森村誠一。
- 渡辺貞夫 『I'm with you』(1996年、アルバム『Go Straight Ahead 'n Make a Left』所収) - 1周年の犠牲者追悼終夜ジャズコンサートのために作曲されたレクイエム。
- J-FRIENDS(1997年-2003年 TOKIO、V6、KinKi Kidsによるスペシャルユニット) 『People Of The World』1997年、『Children's Holiday』1998年 作詞・作曲・編曲:マイケル・ジャクソン
- 角松敏生 『崩壊の前日』(1999年)
- くるり 『虹』(1999年)
- 天野正道 『おほなゐ 〜1995.1.17 阪神淡路大震災へのオマージュ〜』(2001年) - 吹奏楽曲
- ガガガSP 『問題はない』(2003年) - シングル『満月の夕』に収録。
- 森本ケンタ 『震えた朝に』(2005年)
- 1000人のチェロ・コンサート - 阪神・淡路大震災の追悼のために始まったコンサート。神戸では第1回から第3回が開催された。
[編集] 児童文学
- 舟崎克彦 作・絵『それでも夜は明ける』(秋書房)(1995年) - 動物の国で起こった架空の大震災の話だが、阪神大震災をテーマにしたことが、あとがきで明記されている。
- 肥田美代子 作・石倉欣二 絵『ゆずちゃん』(ポプラ社)(1995年)
- 長谷川集平 作・絵『明日は月ようび』(文研出版)(1997年)
- 松谷みよ子 作・ささめやゆき 絵『おさじさんのたび』(にっけん教育出版)(1997年)
- 高科正信 作・荒井良二 絵『さよなら地底人』(フレーベル館)(2005年)
- 畑中弘子 作・三枝三七子 絵『ワルルルさん』(くもん出版)(2008年)
[編集] 前兆報告
- 元大阪大学弘原海清教授の『前兆証言1519! - 阪神淡路大震災1995年1月17日午前5時46分』 東京出版、1996年、ISBN 4-924644-53-6。
- 戴峰著書『大地震は予知できる』 (グリーンアロー出版社刊)1996年 ISBN4-7663-3187-7
- 大阪大学池谷元伺教授編『地震の前、なぜ動物は騒ぐのか』NHKブックス1998年
[編集] その他
- 与那原恵 『物語の海、揺れる島』(小学館)(1997年) - ルポルタージュ。「作られた伝説」(『諸君!』1996年8月号初出「被災地神戸『レイプ多発』伝説の作られ方」) - 震災後に広まった噂を検証。
- 岡本貴也 『舞台|阪神淡路大震災』(2005年)演劇。
- 尾西兼一 『わかば』(2005年) - 同名テレビドラマの舞台化。
[編集] 参考文献
- 『阪神大震災』読売新聞大阪本社編、1995年6月(読売新聞大阪本社夕刊1995年2月20日-7月15日)ISBN4-643-95090-0
- 『阪神大震災の教訓』日経アーキテクチャ編、1995年、ISBN4-8222-0411-1
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ 古いモニュメントや資料の中にはM7.2とするものもあるが、これは、2001年(平成13年)4月23日に気象庁がマグニチュードの算出方法の変更により7.3に修正したためである。
- ^ 地震発生直後の放送各局が被害報道したのが、亀岡市内の住宅全壊・半壊だった。読売テレビでは同市内に住居していた辛坊治郎に電話取材を試みた。
- ^ トリアージの重要性が意識されることとなった。
- ^ 設計はASTM(アステム)(芦屋浜・新日本製鐵・竹中工務店・高砂熱学工業・松下電工〈現:パナソニック電工〉・松下興産)。管理は日本住宅公団・兵庫県住宅供給公社・兵庫県・民間。14〜29階建て、総戸数3,381。1979年(昭和54年)竣工。階段室と5階毎の共用部分の鉄骨によるラーメン構造。
- ^ 限界以上の力がかかった時の破壊順序が決められており、中核になる部分が最後に壊れるようになっている。その後の余震でも大きな変化は無かった。
- ^ この臨時列車は利用の定着に伴い、1996年(平成8年)3月16日の改正で定期列車に格上げされた。
- ^ 課長からの連絡に対して「この電話を災害派遣要請と看做してよろしいですね」「お願いします」、報告を受けた知事が「よし、それで行け」のやり取りがあったという。
- ^ 山火事の様な事態と違い、都市部の消化活動時はピンポイントでの消火剤散布が要求される為、低空飛行が求められるが、火災旋風の中でヘリを低空飛行させる事は完全な自殺行為(気流が不安定な上に、高温下では空気の密度が低く、ヘリが飛ぶのに必要な揚力が得られない)であり二次災害を引き起こす可能性が非常に高い。
- ^ 神戸市などは、2ヶ月間は住民が無秩序に建物を建てないよう、建築基準法84条の建築規制をかけていた。 読売新聞 2011年4月12日
- ^ 後に、「被災市街地復興特別措置法」も作られた。 被災地、建築制限8カ月に 特例法案を閣議決定 - 毎日新聞 2011年4月23日
- ^ これらの団体の対応が、政府・警察・自衛隊よりも迅速であったため、海外メディアからは「日本では、大地震が起きると、政府や警察よりも先に、マフィアやカルト宗教が手を差し伸べてくれる」と、皮肉られた。
- ^ 官邸とは渡り廊下でつながっていた。
- ^ 「兵庫衛星通信ネットワーク」平成3年(1991年)に82億円を使い構築された。県内全域や国土庁、消防庁などと「スパーバードB」衛星で通信できたはずだったが、非常用発電機の停止、送水管の破損に加え、担当専門家4人全員が出勤できなかったため情報を発信・受信できなかった。
- ^ 当時は兵庫区山手通に位置。
- ^ 原因は「L-アデス」と呼ばれる大阪管区気象台と結ぶNTT専用回線の故障である。洲本測候所の記録も送信されなかった。
- ^ 震度空白域の発生による初期対応の遅れは新潟県中越地震でも起こり、その後比較的大きな余震の度に自衛隊のヘリコプターで通信途絶地域の被害状況の確認が行われた。
- ^ 毎日放送ではニューススタジオにあったセットが倒壊、ABCでは『おはよう天気です』冒頭に地震に襲われた。関西テレビではスタジオの天井にあったスポットライトが転落し、読売テレビではエレベーターが止まる被害を受けた。
- ^ a b 社屋内が「ぐちゃぐちゃになるほどの被害」を受けた。
- ^ たとえば、大阪府は1971年(昭和46年)までは自衛隊と共同して防災訓練を行っていたが、黒田了一の知事就任以降、「自衛隊に頼らない防災訓練」を目指した。その理由には「関西には地震が来ない」ということも挙げられていた。また、淀川の水害で自衛隊が出動した際には自衛隊に抗議を行っていた。黒田の退任後も、阪神大震災までそのままの関係であった。震災後、大阪府でも自衛隊との連携が再度模索され始め、大阪市も1995年(平成7年)、22年振りに防災訓練を自衛隊と共同実施することを決定した。(田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月)
- ^ 柱に、鉄板または炭素繊維を巻きつけるのが主流。
- ^ 損害保険では「オールリスク」タイプが一般向け保険であるが、「戦争」「自然災害」「自損」は入らない。
[編集] 出典
- ^ 阪神・淡路大震災の概要、内閣府
- ^ “宮城県栗原市で2933ガル=強い揺れ2分強続く-気象庁”. 時事ドットコム. (2011年3月11日) 平成23年3月12日閲覧。
- ^ 1995年(平成7年)1月18日各紙朝刊
- ^ a b c d e f g 兵庫県/阪神・淡路大震災の被害確定について(平成18年5月19日消防庁確定)
- ^ 避難の15人死亡、ストレスや疲労原因か - 読売新聞 2011年3月17日
- ^ 埋もれた記憶 西宮・仁川の地滑り(神戸新聞)
- ^ a b 朝日新聞大阪版 1995年1月18日 27面。
- ^ a b 朝日新聞大阪版 1995年1月18日 13面。
- ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月19日 27面。
- ^ a b c d e f g 朝日新聞大阪版 1995年1月20日 11面。
- ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月20日 29面。
- ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月20日 17面。
- ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月21日 29面。
- ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月22日 27面。
- ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月26日 13面。
- ^ 連載<「圧死」を追う>被災地発・問わずにいられない(2)検案書は語る(神戸新聞)
- ^ 日経アーキテクチュア
- ^ 阪神大震災における木造建築物の被害と対策〈その1〉横浜茂之 平成23年1月17日閲覧http://www.tetras.uitec.ehdo.go.jp/download/GinouGijutu/199504/19950409/19950409_main.html
- ^ 阪神大震災における木造建築物の被害と対策〈その2〉 横浜茂之 平成23年1月17日閲覧http://www.tetras.uitec.ehdo.go.jp/document/GinouGijutu/199505/19950507/19950507_index.html
- ^ 「建築物の耐震改修の促進に関する法律の一部を改正する法律」の施行について(P9)(国土交通省)2011年(平成23年)1月13日閲覧 (PDF)
- ^ 2008年(平成20年)8月放送「衝撃の瞬間〜神戸を襲った大震災」(ナショナルジオグラフィックチャンネル)より
- ^ a b c d 兵庫県/阪神・淡路大震災の支援・復旧状況
- ^ 神戸鉄道資料館~神戸電鉄~車両とダイヤの歴史
- ^ 神戸新聞 連載<「圧死」を追う>被災地発・問わずにいられない(4)地域の力/高めたか淡路の救命率
- ^ HEM-Net
- ^ a b JNN報道特別番組「失われた街で〜阪神大震災から1ヵ月」=1995年(平成7年)2月17日放送。
- ^ 自衛隊サイドからのマスコミ報道批判の出典は 長官官房広報課報道室「マスコミ報道を糾す」『セキュリタリアン』1995年3月号
- ^ 〈伝えたい―阪神から〉孤独死防ぐ「つながり」を - asahi.com 2011年4月4日
- ^ さよならファミコン通信 199503
- ^ 切手趣味週間「阪神・淡路大震災」(1995年) - キッテコム
- ^ 2000年(平成12年)12月22日発行切手「20世紀デザイン切手」シリーズ第17集(最終)の発行 〜20世紀最後に発行する郵便切手〜(日本郵便)
- ^ 一卵性双生児/「戦後」と重なる神戸復興(神戸新聞)
- ^ 2011年(平成23年)現在は、防災担当大臣と内閣危機管理監が対応することになっている。
- ^ 阪神・淡路大震災教訓情報資料集『内閣府・(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構』より
- ^ 麻生 幾『情報、官邸に達せず』新潮社(現在は文庫) ISBN-10:4101219311、ISBN-13: 978-4101219318 文庫発売日: 2001/07
- ^ 衆議院会議録情報 第134回国会 災害対策特別委員会 第4号より
- ^ 『官邸応答せよ』から「クビを賭ける、自衛隊を呼べ!」より
- ^ 『Asahi Evening News』1995年1月25日
「社会党は伝統的に自衛隊の存在を違憲なものとしてきた。(中略)自治体側から要請が出されない限り、(実際重要な役割と責任を負う自衛隊の地域防災訓練への参加は認められてこなかった」などと書かれている。 - ^ 田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月
「(関西地区の自治体の中には)面会を断る対象者リストを作り、そこに自衛隊の名前を挙げている所さえある」「5300名を超える死亡者の中で、「焼死」した人々が10%にも達した(2月16日現在)陰には、計画的、組織的救援活動の遅れがある」「一般に、戦後における災害観や災害文化 (Disaster Culture) の形成には、「進歩的」知識人が唱えた太平洋戦争観が大きく影響してたといえないであろうか。その結果、「イデオロギー」を優先させるあまり、国民のかけがえのない歴史的遺産の数々が忘れ去られ、人命をかした貴重な(地政学的・外交的教訓ばかりか)戦災「体験」を風化させてしまったのではあるまいか」「社会党や共産党などの革新政党の強い阪神地区では、実際に災害訓練においても自衛隊の参加は、政治的理由により拒まれ続けてきた。」などと述べられ、自治労の存在を背景に挙げている。さらに、自治労大阪が震災後自衛艦の入港に反対するため街宣車を埠頭に派遣し、著者が災害のとき位は入港を認めるべきではないかという疑問を投げかけたところ、誰もこの質問に答えることは出来なかったエピソードや、『週刊現代』1996年4月6日号で神戸大学名誉教授早川和男等が仮設住宅設置の問題点や、避難所の強行閉鎖などを挙げて、復旧過程での神戸市の対応が冷淡であると批判していたことも引用して、批判的に書かれている。 - ^ 「鼎談 危機管理と自衛隊」『セキュリタリアン』1995年3月
岡本行夫は対談内で「私も、地方自治体といろいろ折衝した経験がありますけど、そのとき感じたのは、「緊急事態」ということを考えること自体が反平和である。ましてや米軍や自衛隊が関わってきたら、途端にそれが反動的軍国主義になる」という自治体側の認識です。これは、下の行政単位にいけばいくほどその感覚が強いですね。(中略)住民に聞こえのいいように、おどろおどろしいことは一切やらない。したがって、緊急事態の研究など、けんもほろろの応対をされてきたわけです」と述べている。 - ^ 『デイリーヨミウリ』1995年1月28日での読売新聞調査研究本部主任研究員、高浜賛による社会・共産・革新系政党からの支持を受けた自治体首長への批判など
- ^ 例:ポール・ブルスタイン「対策の混乱は反自衛隊感情」『ワシントン・ポスト』1995年1月27日
ホバート・ローエン「地震が日本に関して示したこと」『ワシントン・ポスト』1995年2月2日
ホバート・ローエンを例にとると、救援の遅れについて官僚機構の硬直性と並んで、村山政権の「左翼的政治体質」を理由に挙げている。 - ^ 山崎太喜男「国民の安全忘れた村山政権」『自由』1995年5月
「「自衛隊を違憲」と決めつける勢力が「反自衛隊闘争」を繰り広げてきた」「災害救助に出動しても「自衛隊帰れ」の叫びが被災地に充満することもあった」「そうした反自衛隊闘争の先頭に立っていたのが社会党」「社会党が過去に行った誤った政策による影響力の責任は極めて重大」などと書かれている。 - ^ 「記者の目」『毎日新聞』1995年5月9日朝刊4面
大下英治「戦慄。総理官邸の一○○時間」『潮』1995年4月
佐々淳行「村山政府『危機管理』の無策を告発する」『文芸春秋』1995年8月
田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月 - ^ 産経新聞 1995年(平成7年)5月4日付 (日本財団 図書館への転載) http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01257/contents/531.htm
- ^ 「明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く」『大分合同新聞』2006年
- ^ 放送が6時まで停止したあげく、社屋そのものも全壊する被害を受けた。詳細はシェルタースタジオ117を参照。
- ^ a b 『「阪神大震災」全記録』収録「余震のまちに新聞を」p.173 神戸新聞社 1995年3月発行 ISBN4-87521-089-2
- ^ ドラマ「神戸新聞の7日間」
- ^ 三和出版『実話時代』2008年2月号
- ^ 三越大阪店、5日閉店…315年の歴史に幕
- ^ a b c d 神戸市統計報告 特別号 (PDF)(神戸市 2004年11月9日)
- ^ a b 人口統計(神戸市)
- ^ 『終わりなきアスベスト』岩波ブックレット
- ^ 厚生白書(平成8年版)
- ^ 97/03/31 大阪湾フェニックス計画の変更の認可について
- ^ 平成7年 警察白書 阪神・淡路大震災に便乗し、暴力団員が違法、不当な行為によって資金の獲得を図っている実態が明らかとなったため、警察では、暴力団対策法を活用するなどして、これら違法行為に対する取締りを徹底している。
- ^ 宮城県、復興工事からの暴力団排除を要請 - 日刊スポーツ 2011年3月31日
- ^ ネットに震災デマ許すな 警察が対策強化 - デイリースポーツ 2011年4月2日
- ^ おはようナイスディ1995年(平成7年)1月19放送分
- ^ 「鼎談 危機管理と自衛隊」『セキュリタリアン』1995年3月
田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月等
セキュリタリアンの鼎談では佐々淳行により災害対策基本法と共に、自衛隊法83条の問題点なども挙げられている。 - ^ 『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』より
- ^ a b いろいろつないで活用できる、接続性の高いアイテムをピックアップ - マイコミジャーナル 2004年10月22日
- ^ a b カセットガスボンベの消費期限と互換性 - 備える.jp 2010年1月28日
- ^ 地震保険の支払い4781億円に 大震災、阪神の6倍超 - 共同通信 2011年5月6日
- ^ ルミナリエのこれからは【読者の声】(2007/08/04 神戸新聞)
- ^ 響け、ふるさと再生の歌 「しあわせ運べるように」CDブックで出版 - 毎日.jp 2011年6月30日
[編集] 関連項目
[編集] 救助
[編集] 近畿地方で起こった地震
[編集] その他の地震
- 地震の年表
- 新潟県中越地震 - 兵庫県南部地震と同様に震度7を観測した地震。観測史上初めて機械により震度7を観測した。
- 関東大震災 - 正確な記録として、日本の震災では最大の被害をもたらした。
- 東日本大震災 - 阪神・淡路大震災と同様に震度7を観測した震災。地震、大津波、原発事故で戦後最大の被害をもたらした。
[編集] その他の関連項目
- 自衛消防組織
- 孤独死
- 震災復興再開発事業
- おはよう天気です - 大阪のABCでは、地震発生当時に生放送が行われていたため、地震の発生の瞬間が捉えられている。地震の規模を伝える貴重な情報としてテレビ朝日系列の放送局ではこの番組内で地震が発生した様子を収めた録画テープが地震から1週間ほど頻繁に報道特別番組内で流された。これをきっかけに2008年(平成20年)に完成した新社屋には免震構造が取り入れられた。
- おはよう川村龍一です - 大阪のMBSラジオ(毎日放送)で当時放送されていた、「三菱ふそう全国縦断・榎さんのおはようさん〜!」(東京放送現:TBSラジオ〈現・TBSラジオ〉制作)のネット受け直後の生放送番組。番組パーソナリティの川村龍一は芦屋市に住んでおり、MBSへタクシーで向かいながら、現場をレポート。その中での「阪神高速(3号神戸線)は、落ちました」という発言は、非常に重い意味を持つこととなった。余談だが、このレポートはどのメディアよりも早く高速道路の橋脚倒壊を伝えたものである(NHKのニュースでは、午前8:49にヘリコプターで上空からの神戸の現状が映し出された)。おはよう川村龍一です#阪神・淡路大震災当日の放送も参照。
- ナショナルジオグラフィックチャンネル - 「衝撃の瞬間3」の第6話で「神戸を襲った大震災」を放送した。
- 河島英五 - 約10年間にわたってチャリティコンサート「復興の詩」を開いた。河島が平成13年(2001年)に死去後も、桂南光ら友人らによって同コンサートが続けられた。
- 嘉門達夫
[編集] 外部リンク
- 阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)
- 神戸大学附属図書館震災文庫
- 人と防災未来センター
- 阪神・淡路大震災10周年事業(兵庫県)
- 神戸新聞 阪神・淡路大震災特集
- AMK・AM KOBE(現在のCRK・ラジオ関西)震災報道の記録
- サンテレビ 震災報道の記録
- 阪神・淡路大震災 メディアからの証言
- 阪神大震災の記憶
- 被災地自治体・ライフライン・マスコミ関係者による災害時報道の検証
- 松葉博雄の社長研究室「神戸大震災復興奮闘物語」
- 阪神大震災を記録しつづける会
- 阪神淡路大震災を語り継ぐための若者が知りたいプロジェクト
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