講談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。

演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇拍子木を併用する。

目次

[編集] 歴史

起源は戦国時代御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または町講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。

宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。他の芸能との交流も進み、講釈での人気演目が歌舞伎人形浄瑠璃化されることもあった。明治時代になって後、講釈は講談と呼ばれるようになった。

江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎えた。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達などに追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によりやはり衰退を続けた。

[編集] 東京の講談

現在、「講談協会」と「日本講談協会」があり、定席は本牧亭永谷商事の演芸場がある。

[編集] 上方講談

上方講談は「軍談」と「神道講釈」の二つの流れが融合したもので、大正時代に立川文庫の生みの親である玉田玉秀斎などの玉田派が上方講談界を席巻した。その後、玉田、松月堂などの一門は昭和初期で命脈がつきたが、本来は江戸の屋号である旭堂が二代目南陵の奮闘もあって、上方講談唯一の屋号として今日まで継承されている。戦後になると、上方落語同様に衰退著しく、二代目旭堂南陵と二代目旭堂小南陵(後の三代目旭堂南陵)父子のみの状態が続き、1965年に二代目が亡くなった後は三代目の孤軍奮闘が長く続いた。現在も数は多くはないが、三代目南陵の弟子たちにより地道な活動が続けられ当面の危機は脱した。「上方講談を聞く会」「天満講談席」「トリイ講談席」など定期講談席も続けられている。その後、三代目南陵の弟子間で訴訟にまで発展する内紛があり、四代目南陵(前名小南陵・元参議院議員)一門は上方講談協会を除名され大阪講談協会を結成した。

[編集] 題材

講談は題材に注釈を付けて語る話芸である。題材は歴史的事件が中心だったが、題材をわかりやすく解説し観衆の理解を深めるという点が再評価され、現在では国際的事件や経営理論など、歴史以外の題材を取り上げる試みもなされている。また現在は女流講談師の割合も増えている。決して盛んな芸能とは言えないが、新しい潮流も少しずつ生まれつつある。

[編集] 代表的な演目

上方

江戸

[編集] 著名な講談師

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語