南アフリカ共和国
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- 南アフリカ共和国
- Republiek van Suid-Afrika
Republic of South Africa
IRiphabliki yaseNingizimu Afrika -
(国旗) (国章) - 国の標語 : !ke e: ǀxarra ǁke
(ǀXam語: 様々な人々が一致協力する) - 国歌 : 神よ、アフリカに祝福を
南アフリカの呼び声 -
公用語 アフリカーンス語、英語、バントゥー諸語9言語[2] 首都 ケープタウン(立法)
プレトリア(行政)
ブルームフォンテーン(司法)最大の都市 ヨハネスブルグ(2006年)[3] - 政府
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大統領 カレマ・ モトランテ
(Kgalema Motlanthe)首相 なし - 面積
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総計 1,219,912km²(24位) 水面積率 極僅か - 人口
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総計(2004年) 42,718,530人(27位) 人口密度 35人/km² - GDP(自国通貨表示)
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合計(2005年) 1兆5,067億ランド - GDP(MER)
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合計(2005年) 2,264億ドル(29位) - GDP(PPP)
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合計(2005年) 5,408億ドル(21位) 1人当り 11,100ドル - 建国
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イギリスより 1910年5月31日 ウェストミンスター憲章 1931年12月11日 イギリス連邦脱退 [5] 1961年5月31日
通貨 ランド(ZAR) 時間帯 UTC +2(DST: なし) ccTLD ZA 国際電話番号 27
南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、英語: Republic of South Africa、アフリカーンス: Republiek van Suid-Afrika)は、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家。通称は、南アフリカ、略称は、南ア(なんア)。
首都はプレトリア(ツワネ市都市圏)[6]。イギリス連邦加盟国。
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概要
かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それらは1994年に至るまで、アパルトヘイトと呼ばれる合法的な政策によるものであった。鉱物資源に恵まれ、金やダイヤモンドの世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。従来のBRICs(ブラジル (Brazil) 、ロシア (Russia) 、インド (India) 、中国 (China) 、sは複数形)に加え、BRICSとしてSが南アフリカ (South Africa) を表す用法も定着しつつある。 また、BRICsからロシアを除いて南アフリカを加えたIBSAC(India, Brazil, South Africa, China) という用語が、G7でイギリスによって提唱されたこともあるが、エイズの蔓延、教育水準の低い非白人の貧困、治安の悪化など懸念材料も多い。
国名
11の公用語を採用しており、公用語で正式名称も異なる。
- アフリカーンス: Republiek van Suid-Afrika
- 英語: Republic of South Africa
- ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika
- 南ンデベレ語: IRiphabliki yeSewula Afrika
- ペディ語(北ソト語): Rephaboliki ya Afrika-Borwa
- ソト語(南ソト語): Rephaboliki ya Afrika Borwa
- スワジ語: IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika
- ツォンガ語: Riphabliki ra Afrika Dzonga
- ツワナ語: Rephaboliki ya Aforika Borwa
- ヴェンダ語: Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe
- コサ語: IRiphabliki yaseMzantsi Afrika
独立後、イギリス連邦を脱退する1961年迄は「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。
歴史
南アフリカ共和国年表も参照。
紀元前数千年ごろ、狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が住んでいた。また、300~900年代には、赤道に近い方に住んでいたバンツー系諸民族が南に移動し、現在の南アフリカに住むようになる。
15世紀末の1498年になると、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。
1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがやってきて喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたからである。以後、オランダ移民は増え、ケープ植民地となった。この植民地に形成されたボーア人(Boer アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、以下ボーア人で統一)の領地拡大とともに原住民との争いも起きた。一方、彼らや奴隷との混血も進んだ。
18世紀の終わり頃になると金やダイヤモンドの鉱脈を狙って、イギリス人がやってくる。ボーア人とイギリス人が対立、1795年イギリスがケープタウンを占領する。
19世紀に入ってオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人の移民が大量に行われる。英語が公用語になる、イギリスの司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まる。それとともに、英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになる(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。奴隷労働が廃止されると、それに頼っていたアフリカーナーの農業主は反発、奥地へ大移動を開始する(グレートトレック)。バンツー系民族と戦いながら内陸部へと進みトランスヴァール共和国やオレンジ自由国を建設する。イギリスとの対立から2回にわたるボーア戦争に発展、第一次ボーア戦争では両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争では敗北し、それらも全てイギリスの手に落ちる。
1910年5月31日に、4州からなる南アフリカ連邦(Union of South Africa)として統合独立し、大英帝国内の主権国家としてアフリカーナーの自治を確立する。その一年後の1911年に、鉱山における白人・黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で一般化する、白人労働者保護のための最初の人種差別法、鉱山・労働法制定される。それからも人種差別法はいくつも制定される。
そして、1948年に政権を握った国民党(アフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする政党)は、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に進めていくようになる。国連の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗などがあるもののアパルトヘイト政策をやめることはなく、むしろ反発した。(この背景には、ボーア戦争トラウマとも言うべき諸外国への根強い不信感が指摘されている。)
1961年イギリスの人種差別に対する非難を受け英連邦から脱退して国名を「南アフリカ共和国」に変え、共和国になる。一方で、日本は白人ではないにも関わらず白人として扱うという名誉白人とされ、南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになる。
1980年代、反体制運動は激しくなり、国際的に経済制裁を受け、南アフリカ各地で反アパルトヘイト運動が高まる。1990年代になってようやくアパルトヘイト関連法の廃止、人種差別の法律の全廃を決定する。
1970年代から1980年代にかけて6発の核兵器を密かに製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前に全て破棄していたことを1993年に発表した。
1994年4月に、全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議(ANC)が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領に、ANCのターボ・ムベキと国民党党首のデクラーク元大統領が就任。イギリス連邦と国連に復帰。新しい憲法を作るための制憲議会が始まる。1996年に新憲法を採択。国民党は政権から離脱した。
アパルトヘイトが撤廃されて21世紀になっても、依然として人種間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが最も大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって、即日、雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層は既に教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに鉱山は商品市況によって、炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあって、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果がでてしまうのである。しかし撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、人種間失業率格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。
地理
アフリカ大陸の最南端に位置し、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、スワジランドと国境を接し、レソトを囲んでいる。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面している。
気候
夏期は10月から3月、冬期は5月から8月である。地域による差はあるのだが、一年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。
しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0度から15度、夏が20から40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているために暖かい。西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。
雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側に行くにしたがって少なくなる。
南半球なので北に行くほど暑くなりそうだが、内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。
動植物
地方行政区画
詳細は南アフリカ共和国の州、南アフリカ共和国の地方自治体をそれぞれ参照
人口
政治
アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家の1つである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成され、元首となる大統領は国民議会の議決により選出される(現在はタボ・ムベキが大統領に就任している)。
複都制を採用しており、立法府はケープタウン市都市圏、行政府はツワネ都市圏(プレトリア)、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。
立法
アパルトヘイト撤廃後に3度の選挙が実施され、いずれもアパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が7割近い得票で圧勝している。アフリカーナーやリベラル派に支持基盤を持つ民主同盟(UA)、クワズールー・ナタール州を地盤とするインカタ自由党(IFP)、かつての政権与党・国民党とANCの離党者で組織された統一民主運動(UDM)が続くが、全議席の7割以上をANCが占めている。
政党名 | 全国州評議会 (上院) |
国民議会 (下院) |
---|---|---|
アフリカ民族会議(ANC) | 36 | 279 |
民主同盟(UA) | 10 | 50 |
インカタ自由党(IFP) | 3 | 28 |
統一民主運動(UDM) | 1 | 9 |
諸派 | 4 | 34 |
その他(特別議員) | 36 | - |
計 | 90 | 400 |
行政
行政の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。大統領は行政府の首長を兼務し、内閣を組織する。
司法
1994年に設置された憲法裁判所のほか、最高裁判所を筆頭とする三審制の司法制度である。
経済
主要産業
農業は畜業、とうもろこし、柑橘類、その他の果物、小麦、砂糖、羊毛、皮革類。
鉱業は金、ダイヤモンド、プラチナ、ウラン、鉄鉱石、石炭、銅、クロム、マンガン、石綿。 石油の産出は無い。
工業は食品、製鉄、化学、繊維、自動車等。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景にクルーガーランド金貨を発行していたが、現在は限定品としてのみ僅かに販売されている。
近年、ダイムラー・クライスラー社が、ダーバン市内に自動車製造工場を建設。メルセデス・ベンツ Cクラスの右ハンドル車の製造・出荷を開始した。これらの車両は主に、日本やイギリスに輸出している。またBMW、フォルクスワーゲンや日産自動車なども輸出拠点として同国に工場を置いている。なお、これらの拠点は東海岸のポートエリザベスに多く存在している
GDP成長率は2005年5.1%、06年5.0%[7]と堅調な成長が続いている。現在日本国内で南アフリカランド建ての外貨預金を商品化しているのは香港上海銀行、広島銀行とスタンダードチャータード銀行とイーバンク銀行の4行。
交通
国民
言語
公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、ペディー語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語。国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。アフリカーンス語はオランダ植民地時代にオランダ語と現地の言葉が融合した言語で西部の広い地域で話されている。大多数の部族によって話されている言語というものがなく、各部族によって言語が異なっているため、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会でも英語が使われている。
人種・宗教
人種の割合は黒人 (77%)、白人 (9.5%)、カラード(混血、9%)、インド系(印僑) (3%)。白人の多くは、イギリス系とアフリカーナーに二分される。
宗教は8割の国民がキリスト教で、残りはヒンドゥー教、イスラム教などである。ユダヤ教の信者や無宗教者も少数存在する。
南アフリカ共和国におけるエイズの状況
HIVの陽性率は異常に高く、15~49歳のHIV感染率が21.5%(2004 Report on the Global AIDS Epidemic (UNAIDS/WHO))、妊産婦HIV感染率が29.5%(2005 Report on the Global AIDS Epidemic (UNAIDS/WHO))となっており、国民の約4~5人に1人の割合でHIVに感染している。エイズの蔓延によって、2010年までに国民全体の平均寿命は40歳以下に低下すると予想されている。感染経路として成人は性交渉による感染が多く(異常な犯罪率の為に強姦での感染も少なくない)、子供は母親から胎児の時にうつされていることが多い。
またHIV感染患者が爆発的の増加した80年代、「処女とコンドームを使わずに性交をすれば完治できる」といった悪質なデマが流布したため、非白色人種、特にまだ10代前半の黒人少女がHIV感染患者から強姦され感染するケースが多発した。
南アフリカ共和国における犯罪問題
ヨハネスブルグをはじめとして南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、強盗殺人、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。殺人に限っては未遂を含め111.30件/10万人と日本の約110倍となっている。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
南アフリカ犯罪統計(2007年7月3日南アフリカ警察当局発表)によると、2006年3月~2007年3月までで約1万9200件の殺人事件が発生した(前年統計に比べ2.4%増加)。1日に約53人が犯罪により殺害された計算で、1日の強盗発生数は約350件に上った。その中で7割以上で拳銃などの銃器が使用されたと発表されている。中には、全員が自動小銃で武装した強盗グループといった、現場の警察官では対応が困難なケースもある。さらに犯罪者は発砲を全く躊躇しないケースもあり、極めて危険である。強姦発生率についても123.85件/10万人(国連薬物犯罪オフィス(UNODC))となっており、世界最悪の発生率(日本の約123倍)である。強姦については、未発覚案件も多数存在する事が予想され、潜在的な発生率は更に高いと思われる。
過激派による組織犯罪・テロも懸念される。
- アザニア人民機構 - 極左過激派組織
- パンアフリカニスト会議 - 極左過激派組織
- インカタ自由党 - ズールー人の政治組織。コサ人と対立し、武力抗争を続ける。
- アフリカーナー抵抗運動 - 白人至上主義者組織。1995年4月にヤン・スマッツ国際空港(ヨハネスブルグ国際空港)で車爆弾を爆発させた。
- ボーア・アーンバルス部隊 - アフリカーナー過激派組織。1997年1月、ルステンブルグのイスラム寺院を爆破した。
- パガド - イスラム過激派組織。ケープタウンを本拠地とする。パガド(PAGAD)は「ギャングとドラッグに反対する市民」の意であり、1996年より麻薬業者、乱用者の処刑を始めた。Gフォースと呼ばれる処刑部隊を持つ。ハマスやヒズボラとの関連が疑われている。
文化
食文化
文学
ノーベル文学賞受賞作家としてナディン・ゴーディマー、J・M・クッツェーが挙げられる。
音楽
世界遺産
南アフリカ共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件、複合遺産が1件ある。詳細は、南アフリカ共和国の世界遺産を参照。
イシマンガリソ湿地公園 - (1999年、自然遺産) |
スタークフォンテン、スワートクランズ、クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群 - (1999年、文化遺産) |
ロベン島 - (1999年、文化遺産) |
ウクハランバ/ドラケンスベアク自然公園 - (2000年、複合遺産) |
マプングブエの文化的景観 - (2003年、文化遺産) |
ケープ植物区系地方の保護地区群 - (2004年、自然遺産) |
フレデフォート・ドーム - (2005年、自然遺産) |
リフタスフェルトの文化的・植物的景観 - (2007年、文化遺産) |
祝祭日
祝祭日 | ||||||
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日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 | |||
1月1日 | 元日 | New Year's Day | ||||
3月21日 | 人権の日 | Human Rights Day | ||||
移動祝日 | 聖金曜日 | Good Friday | ||||
移動祝日 | 復活祭月曜日 | Easter Monday | ||||
4月12日 | 家族の日 | Family Day | ||||
4月27日 | 自由の日 | Freedom Day | ||||
5月1日 | メーデー | Workers' Day | ||||
6月16日 | 青年の日 | Youth Day | ||||
8月9日 | 女性の日 | National Women's Day | ||||
9月24日 | 伝統文化継承の日 | Heritage Day | ||||
12月16日 | 和解の日 | Day of Reconciliation | ||||
12月25日 | クリスマス | Christmas Day | ||||
12月26日 | 親善の日 | Day of Goodwill |
スポーツ
詳細は南アフリカ共和国のスポーツを参照
イギリス統治時代にもたらされたラグビー、サッカーに人気があり、ヨーロッパ系を中心にゴルフやテニスの愛好者も多い。なかでもラグビーは1995年にラグビーワールドカップの開催国となり、自国代表チーム(スプリングボクス)が見事開催国優勝を果たした。ラグビーワールドカップでは2007年のフランス大会でも優勝している。
2010年に、FIFAワールドカップが開催されることが決定し、これはアフリカで初めての開催となるが、1995年のラグビーワールドカップ開催時に比べると極度に治安が悪化しているため、無事に開催されるのか疑問視されている。
脚注
- ^ 現在の国歌は、元々は2つの曲だった『神よ、アフリカに祝福を (Nkosi Sikelel iAfrica)』と『南アフリカの叫び (Die Stem van Suid Afrika)』のそれぞれ一部をつなげたもの。
- ^ バントゥー諸語9言語とは、ズールー語、コサ語、スワジ語、南ンデベレ語、南部ソト語、北部ソト語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語をさす。
- ^ CityPopulation参照。2000年以降の自治体再編によりそれまで最大都市であったダーバンの人口を超えたことから。
- ^ インド洋のプリンス・エドワード諸島を含む。
- ^ 1994年に再加盟。
- ^ 行政府はプレトリア、立法府はケープタウン、司法府はブルームフォンテーンと首都機能を分散させている。各国の大使館はプレトリアに置いていることから、国を代表する首都はプレトリアと認知されている。
- ^ http://www.jetro.go.jp/biz/world/africa/za/stat_01/
関連項目
外部リンク
- 政府
- 南アフリカ共和国政府 (英語)
- 駐日南アフリカ共和国大使館 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - 南アフリカ共和国 (日本語)
- 在南アフリカ共和国日本国大使館 (日本語)
- 観光
- 南アフリカ - ウィキトラベル
- 南アフリカ政府観光局 (日本語)
- その他
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