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Saturday, August 12, 2023

日中平和友好条約締結45周年にむけて:日本はアジアに戻ろう -歴史と向き合い友好を築く- My speech to commemorate the 45th Anniversary of the Japan-China Peace and Friendship Treaty of 1978

8月10日、衆議院議員第一会館で開催された、日中平和友好条約締結45周年記念大集会で発言させていただいた原稿をここにアップします。(写真は済州島以外は筆者撮影です。)300人定員の会場は一杯になり、呉江浩中国大使、鳩山友紀夫元首相の挨拶をはじめ、元外交官で国際政治評論家の浅井基文氏の基調講演をはじめ多角的な視点からの貴重な発言がありました。映像はIWJがアップしていますのでぜひご覧ください。

追記:この発表をもとに中国のメディアが記事にしてくれました。

終戦から78年 「日本は加害の歴史を伝えよ」とジャーナリスト・乗松聡子さん(8月15日)

日本は「漠然とした平和教育」よりも加害の歴史を伝えよ~ジャーナリスト・乗松聡子さんに聞く(8月18日)

中国語版 乘松聪子:日本不应忘记“战争加害者”历史

香港フェニックスTV


日本はアジアに戻ろう -歴史と向き合い友好を築く-


乗松聡子

今日はお招きいただきありがとうございます。日中平和友好条約45周年おめでとうございます。私は日本出身ですが、カナダに30年ほど、人生の半分ぐらいを暮らしてきた乗松聡子と申します。きょうは、日本とアジア隣国との関係について、外から見て養ってきた視点や経験を、みなさんと分かち合いたいと思います。

私は日頃日本人の話し方を聞いていて、日本人は自分たちをアジア人と思っていないのではないかと思うことがあります。たとえば日本で「アジアン料理」と言うと、タイとかインドネシアなどのアジア他国のいわゆる「エスニック料理」を指すようですが、日本食だってアジアのエスニック料理の一つですよね。あと旅行会社のPRで「アジアに行こう!」というコピーを見るときもありますが、「え、日本ってアジアじゃないの?」って思ってしまいます。東京にいる人が「日本に行こう」と言っているようなものです。

このような現象から、なにか日本はいまだに福沢諭吉の脱亜入欧思想や、大東亜共栄圏思想を引きずっているのではないか、自分たちはアジアに位置しながら他国とは一線を画し、ときには優越感さえ感じているのではないかと思うことがあります。

自分たちをアジア諸国の中で格上の存在として見る思想が、中国をはじめアジア太平洋全体での日本軍の残虐行為や、日本人による他のアジア人への差別感情の温床となりました。亡くなった評論家の加藤周一さんは言っていました。「南京大虐殺は現代人と関係がないといえない。現代の日本社会に、南京大虐殺を生み出した一因である差別感情がまだ残ってはいないか、二度と起こさないためにそれを調べることが若い世代の責任であり、だから歴史を学ばなければいけないのだ」と。

しかし残念ながら日本の教育制度では、日本における原爆や空襲の被害を取り上げて「戦争はいけない」「平和を祈る」といった漠然とした「平和教育」が中心です。大日本帝国が行ってきた他国への侵略や植民地支配の事実やそれを支えてきた民衆の差別心を克服するような教育は皆無に近いと思います。

私は高2と高3をカナダの学校で学びましたが、そこで目を開くことができたと思っています。そこは国際学校で、70か国からきた200人の学生たちと寮生活をしながら学ぶ学校でしたが、自分が日本の学校で聞いたことなかった歴史をアジアの同胞から聞いたのです。たとえばシンガポールの友人からは日本占領時の華人虐殺について、日本軍が赤ん坊を銃剣で串刺しにしたとか、インドネシアの友人からはいまだに現地の人から「ロームシャ」という言葉で記憶されている、強制動員の歴史について聞きました。

この頃から今にいたるまで、中国や韓国やさまざまなアジア同胞と付き合うようになり、自分は日本人というより以上にアジア人というアイデンティティを持つようになりました。だからこそ日本人がその歴史認識においてもアイデンティティにおいてもアジアと乖離していることについての問題意識が深まり、日本は「アジアに戻るべきだ」と思うようになりました。これがきょうの発言のテーマです。

そのためには加藤周一さんが言ったように大日本帝国がアジア太平洋全般に甚大な加害を行った歴史を勉強し、現在の平和構築に生かすことは必須です。日中共同世論調査などを見ても、中国の人たちにとっての日本との関係の課題は、圧倒的に「歴史認識問題」です。日本の学校教育やメディアは、政治の右傾化に伴い年々酷くなるばかりとの印象ですが、それでも、市民が草の根でできる真の平和教育はあると思います。私はこの20年ほど「平和のための博物館」運動に関わってきています。日本では、学校では教えない日本の加害の歴史を伝える資料館や記念碑が各地にあることに希望を見出しています。

中帰連平和記念館

そのうちの一つが「中帰連平和記念館」です。日本敗戦にあたり、ソ連軍は約60万人の日本軍捕虜をシベリアに抑留しましたが、1950年に、969名が戦犯として中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されました。新生・中華人民共和国の寛大な政策により、戦犯たちはちゃんとした食事を与えられ、学習や文化活動などを許されました。それで「鬼から人間へ」戻り、自分たちの罪を認めるようになったのです。軍事法廷では結果的に一人の死刑や無期懲役もなく、禁固8-20年の有罪判決を受けた45人も、シベリアの5年と管理所の6年が刑期に含められ、全員が1964年までに帰国を許されました。被害国が加害国の戦犯を敢えて赦した「撫順の奇蹟」と言われる歴史です。

帰国した元戦犯たちは「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、自分たちの戦争犯罪や加害の事実を日本で伝えていく活動を行いました。当事者の高齢化にしたがい、より若い世代が「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」として引き継ぎ、そして2006年11月に「NPO中帰連平和記念館」が川越市に創設され、今も日本の中国侵略戦争の歴史を伝え続けています。

中帰連記念館は、世界の平和博物館を横につなぐ、「平和のための博物館国際ネットワーク」の団体会員でもあり、3年に一回の国際大会がこの4日後にスウェーデン・ウプサラで開催されますがそこでも英語でこの資料館の歴史と意義を発表します。

もうひとつの平和資料館を紹介します。長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」は長崎の朝鮮人や中国人の強制連行の被害者を記憶し、同時に、日本軍「慰安婦」、731部隊、南京大虐殺など、「史実にもとづいて日本の加害責任を訴えようと市民の手で設立された」(資料館パンフレット)平和資料館です。2013年米国の映画監督オリバー・ストーンさんをここにお連れしましたが監督はこの資料館を大変重要視し「このような資料館が東京にもあるべき」としきりに言っていました。

長崎の平和公園内にある「中国人原爆犠牲者追悼碑」はこう言います。「戦時中日本は約4万人の中国人を強制連行し、炭鉱や鉱山、港湾、土木工事などで過酷な労働を強いてわずか1年余りの間に6,830名もの死亡者を出しました。」長崎では三菱鉱業の高島炭鉱、いわゆる「軍艦島」と言われる端島炭鉱、崎戸炭鉱、日鉄鉱業の鹿町炭鉱に1042名が強制連行され、115名が死亡しました。このうち32名が長崎の浦上刑務所に勾留されて原爆の犠牲になりました。昨日の8月9日は長崎原爆の78周年でした。強制連行された上に原爆で殺された朝鮮や中国の人たちの無念に思いをはせなければいけない日です。

長崎の中国人強制連行被害者と三菱マテリアルの「和解」
で建立された「日中友好平和不戦の碑」

三菱の強制連行の被害者や遺族10人は2003年、国と長崎県、三菱マテリアルと三菱重工業を相手どって謝罪と賠償を求めて提訴し、結果的に敗訴をしたものの、三菱マテリアルとは2016年北京で、歴史的な和解にいたりました。被害者には謝罪の証として和解金10万人民元を支払い、記念碑の建立と「慰霊追悼事業」などの事業をおこなうことが約束されました。「日中友好平和不戦の碑」は長崎市蚊焼町の、高島を望む丘の「平和庭園」に建てられています。

長崎は、その大村飛行場が中国への渡洋爆撃の起点になった「加害」の場所でもあります。笠原十九司さんの本「南京事件」(岩波書店)にはこうあります。「南京を爆撃したのは、海軍木更津航空隊の新鋭機=96式陸上攻撃機20機だった。この日午前9時10分、長崎の大村基地を発進した爆撃機隊は、東支那海を横断し、台風による悪天候をおして南京まで、洋上600キロをふくむ960キロを4時間で飛翔、『南京渡洋爆撃』を敢行したのである。」この渡洋爆撃が始まったのが1937年8月15日だったのです。このちょうど8年後、大日本帝国は敗戦・崩壊しました。

済州島アルドゥル飛行場格納庫跡での
南京大虐殺追悼集会(2019)

長崎がこのように加害の地であったことをどれだけの人が意識しているでしょうか。同様に日本軍の渡洋爆撃の基地とされた韓国・済州島のアルドゥル飛行場では毎年南京大虐殺の追悼式が行われています。当時日本が植民地支配していた済州島の人たちには責任がないにもかかわらず、です。

広島も同様です。広島は日清戦争では大本営が置かれ天皇が直接指揮を取った軍都でした。G7が今年開催された宇品港は、日清戦争以来日本の侵略戦争の出撃起点、輸送拠点でしたし、朝鮮人と中国人を強制労働させていました。

G7とは、西側諸国が中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国敵視で一致する事実上の「戦争会議」でした。そのような問題意識で、私は仲間たちと広島でG7批判展示を行いました。これもひとつの臨時の「平和のための博物館」であったと認識しており、国際会議でも発表の予定です。

広島では昨年強制連行の歴史を学ぶフィールドワークに参加しました。太田川水系では日本の軍国化が進むにつれてダム建設が次々と行われ、多数の朝鮮人が動員されました。戦争終盤には安野発電所建設のために当時の西松組(今は西松建設)が360人の中国人を強制連行し奴隷労働に就かせました。帰国までの約1年間に、112人が負傷、269人が病気になり、29人が死亡(うち5名は原爆死)しました。西松建設の被害者と遺族は法廷での闘いの末2009年に西松建設と和解にいたりました。安野発電所横にある、和解事業の一環として建てられた「安野中国人受難之碑」にはこうあります。「・・・太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。」そう、広島の人々は今も強制連行で作られた発電所から電気を享受しているのです。

中国電力安野発電所(右側が「安野中国人受難之碑」

以上、8月6日と9日、「原爆」で日本の被害ばかりに注目がいく時期だからこそ、長崎と広島の加害性について強調しました。米国の原爆投下は許されませんが、日本人の被害ばかりを語るだけでは「日本を戦争の被害者として演出することだ」と隣国から言われるのも当然でしょう。原爆の被害を語るときも、被害者の約一割をしめる朝鮮人や、すでにお話した中国人の被害者を忘れてはいけないと思います。今年は1923年の関東大震災後大虐殺の100周年という大きな節目でもあります。6000人以上の朝鮮人、また、800人に及ぶといわれる中国人が惨殺されました。これは人類史上でも最大規模といえる日本人によるヘイトクライムであり、日本政府は責任を取る必要があります。

最後に:高校時代の留学から、カナダに移民して以来、中国や中華系の友人たちとの交流の中で感じたことは、中国の人たちは欧米列強や日本に侵略された「屈辱の100年」を決して忘れないということです。それは当然のこと。日本は、日清戦争時の旅順大虐殺、平頂山大虐殺、南京大虐殺、戦時性暴力、細菌戦、毒ガスをはじめ、何百年謝っても許されない犯罪を中国の人たちに対して犯しました。それでも、中国の人たちは日本人も日本文化も日本旅行も好きで、友好的な人たちが多いです。それなのに日本は、中国に侵略されたこともないのに中国に対して敵対的・差別的な人が多い。それは最初に触れたような明治以降の日本人の差別意識に加え、米国が主導する西側軍事同盟の中国敵視キャンペーンを日本メディアがそのまま垂れ流し続けるからだと思います。

中国の友人が私に話してくれたことがあります。日本と中国の間には2000年の歴史がある。近現代における日本の侵略戦争はこの長い歴史の中では僅かな期間であり、乗り越えることができると。有難い言葉だと思いました。しかしその友好も、日本人が過去の加害の事実を学び、それを記憶し継承し、「二度としない」という決意を更新し続けてこそのことです。

今年は、1953年の朝鮮戦争停戦協定の70周年の節目でもあります。この戦争は、日本から解放されたはずの朝鮮が分断され内戦状態となり、最後は米中戦争の様相も呈し、日本も加担しました。この戦争でさえまだ終結できていないのに今また、米国と日本を含む同盟国は、新たな戦争を中国にしかけようとしています。市民にできることは、政治参加することはもちろん、目の前に溢れる嫌中情報に踊らされず、批判的な目を養い、人と人との交流を大事にすることが、平和を促進し戦争を防ぐことであると信じています。

ご清聴をありがとうございました。



Saturday, July 08, 2023

「ファクトチェック」というフェイク:『歴史地理教育』より転載 Fake in the Name of "Fact Check" -- from July 2023 Edition of History and Geography Education Journal

『歴史地理教育』7月号「FACT CHECK」特集に寄稿した記事を許可を得て転載します。「ファクトチェック」の名の下に体制側がファクトをフェイク扱いし闇に葬り去ろうとしている西側諸国に広がっている現象を扱いました。参考資料から、ネット上で見られるものはリンクで示しています。

「ファクトチェック」というフェイク

乗松聡子

 

 一九六〇年代から数々の戦争を取材してきたジャーナリスト、ジョン・ピルジャー氏は二二年七月、「サウスチャイナ・モーニングポスト」の取材に応え、ウクライナ戦争について「私は人生で今回ほど、西側メディアが情報を操作し好戦的になるのを見たことがない」と語った。ロシアの侵攻は支持しないが、西側報道には歴史的視点が全く欠落していると指摘した。

 戦争への反省に基づく日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」と謳う。市民が「政府の行為」を唯一知りうる媒体である報道機関が、大本営発表をそのまま報じ、「戦争の惨禍」に加担したことへの反省があった。しかし今回の戦争について日本メディアは、西側メディアの Unprovoked(いわれのない) という枕詞に倣い、「独裁者プーチンが突然侵略した」という言説をそのまま流している。それでは日本の戦前に逆戻りだ。

 

1 同調せず事実を伝える者たち 

 それでも英語の言論界には、主要メディアが報道しない事実や異なる視点を発信する数々の学者やジャーナリストがいる。その一人であるシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授は、ウクライナ紛争は「西側の責任」であると言い切る。「米国と欧州同盟国の狙いは、ウクライナをロシア影響圏から剥ぎ取り西側に編入すること」にあった。西側軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)は、米国の「東方拡大せず」との約束を破りロシアの目前まで拡大した。〇八年のNATOブカレストサミットでは「ジョージアとウクライナの加入を歓迎する」とし、ロシアが容認できないといくら表明しても米国は一顧だにせず、核兵器とミサイル防衛基地配備で威嚇を続けた。米国は、ニ◯一四年二月にはネオナチ勢力を使って政権転覆を行った。これに危機感を抱いたクリミアとセバストポリ市は住民投票を行い、双方八〇%以上の投票率で九五%以上の圧倒的多数でロシア再編入の道を選んだ。

コロンビア大学のジェフリー・サックス教授も、この戦争は「ニ〇二二年二月ではなく一四年二月に始まった」と強調している。ロシア系住民が多い東部ドンバスの市民は一四年クーデター以降、NATO諸国から支援を受けた自国政府による圧政と武力攻撃に晒された。ウクライナ政府勢力とドンバスの武装集団との八年の内戦では一万四千人が亡くなっている(国連報告)。サックス教授は、米国ネオコン(新保守主義)が起こした戦争について「米英のメディアは完全に一方的な報道しかせず、プロパガンダを先導した」と批判した。「ミンスク合意」という和平合意があったが、今やメルケル前ドイツ首相やオランド前フランス大統領が認めているように、ウクライナ再軍備のための時間稼ぎに過ぎなかった。一九年に就任したゼレンスキー大統領も遵守する気は毛頭なかった。サックス教授はこの合意が西側の「フェイク」であったと言った。

 

2 責任ある言論を「フェイク」と呼ぶフェイク 

「フェイク」とは「嘘」「偽物」「本物ではない」という意味だが、事実の伝達を妨害する言説全てが「フェイク」と言えよう。一九八〇年代「イラン・コントラ」事件報道などで知られたジャーナリスト、ロバート・パリー氏(二〇一八年死去)が、自らが設立した調査報道サイト「コンソーシアムニュース」でメッセージを遺している。氏が若い頃は取材において常に「別の意見」を報じることが期待されていたが、次第に「公式見解への疑問を封じることがジャーナリストの奇妙な義務になった」という。この傾向は二一世紀に悪化し、「欧米の主要な報道機関は、でっち上げの『フェイクニュース』や根拠のない『陰謀論』と、公式見解に異を唱える責任ある分析を混同するようになった。どちらも同じ釜に入れられ、軽蔑と嘲笑の対象になっている」と。ウクライナ戦争においてはまさしく、どれだけ客観的な調査や言論も西側のナラティブに沿わないものは「ロシアのプロパガンダ」と一蹴される現象が起こっている。これも一つのフェイクの手法だ。

 

3 真相究明を妨害するフェイク 

重要な例を紹介する。二〇二二年九月二六日の「ノルドストリーム・パイプライン爆破」は衝撃的なテロ事件であった。ドイツにロシアの安価な天然ガスを提供するパイプラインは、欧州経済に欠かせない存在であり、米国は目の敵にしていた。バイデン大統領はロシア侵攻前に「パイプラインに終止符を打つ」と公言していた。爆破後にブリンケン国務長官は、ロシアの替わりに米国がガスを提供する「素晴らしい機会だ」と繰り返した。ロシアのパイプラインなのにロシアのせいにする声さえあった。

そんな中、二〇二三年二月八日に、正確な調査報道で定評のあるシーモア・ハーシュ氏が「米国はいかにしてノルドストリーム・パイプラインを破壊したのか」という記事を出した。記事は、バイデン政権が舵を取り、海軍のダイバーが二二年六月NATOの演習を隠れ蓑にして爆発物を仕掛け、三ヶ月後、ノルウェー海軍機がソナーブイで爆破させたと報じた。これが本当なら、米国は同盟国の基幹インフラを攻撃したということになる。それなのにドイツをはじめ欧州全体で怒りが噴出することもなかった。EU議会の左派議員クレア・デイリー氏は「誰がやったのかを調べる関心が全くないことに呆れる!」(二〇二三年二月一五日)と怒りを露にした

調べるどころか、同年三月七日には米独が共同で火消しを図るかの如く同時に記事が出た。「ニューヨーク・タイムズ」は、「最新のインテリジェンスを検証した米国高官」の話として、民間の親ウクライナグループがやったという記事を出した。「ツァイト・オンライン」は、ポーランドの会社からレンタルしたヨットで「船長、潜水士二名、潜水助手二名、女医一名」のグループが「爆薬を事件現場に運び、仕掛けた」と報じた。このようなグループがどうやって水深八〇メートルにあるコンクリートに覆われたパイプラインを特定し、爆破できるのか。にわかには信じられない物語だ。

三月二七日、国連の安全保障委員会で、独立した国際的な調査委員会を設立するロシアの提案は否決された。これだけの重大事件の調査を米国は強硬に反対している。それはすでに答えを知っているからか、答えを出してほしくないか、あるいはその両方かしかないであろう。真相究明への妨害というフェイクである。

 

4 利益相反の「ファクトチェック」

このような動きにはSNSも加担している。二〇二三年四月一九日、フェイスブックがハーシュ記事を検閲していることが発覚した。記事をシェアしようとすると、「嘘のニュースを繰り返しシェアするページには制限がかかります」という脅しのような文句が出る。何よりも、現時点では最も論理的で詳細にわたるハーシュ氏の報道が「嘘」と決めつけられている。

フェイスブックが「ファクトチェック」として誘導するノルウェー語の「ファクティスク」というサイトには、事件へのノルウェーの関与を否定する記事が出てくる。しかしこのページには、国営メディアNRKが関与していた。ハーシュ記事で事件への関与を指摘されたノルウェー政府の息がかかったサイトには明らかに利益相反がある。客観的な「ファクトチェック」などできるはずがない。これは「ファクトチェック」という名のフェイクだ。昨年4月に米国政府が、ジョージ・オーウェルの「真実省」さながらの「偽情報統制委員会」を作ったことは記憶に新しい。これには批判が殺到して結局廃止された

フェイスブックは他にも、ネオナチのアゾフ運動を、そのヘイトクライムや暴力性により禁止処置にしていたのに、ロシア侵攻後解禁するなど、西側の戦争に協力している。米国政府は現代人の情報収集には欠かせないグーグル検索やユーチューブ等IT大手を使い、政府を批判するジャーナリストや、ロシアやイランなど、米国が敵視している国々のメディアを次々と検閲してきた。これらの会社は米国政府から巨額の事業を請け負っており、癒着関係にある。

 

5 独裁化しているのは西側「民主主義」国家

ラテンアメリカを拠点に活動するジャーナリスト、ベン・ノートン氏は、これらの動きに触れ、「米国は、自由や民主主義を標榜し、中国やロシアの国内での検閲を批判しておきながら自分たちは世界中で検閲を行い『情報戦争』を展開している」と言う。いまや表現や報道の自由の制限が加速しているのは西側なのだ。

フランスの人類学者エマニュエル・トッド氏は、近著『第三次世界大戦はもう始まっている』(文藝春秋、二〇二二年)で、金権政治と格差が加速する西側はもはや自由民主主義とは言えず、逆に専制国家と言われている中国やロシアでは、大衆の意見を反映する民主主義が存在すると指摘している。今の世界の対立関係は、西側が言うような「民主主義陣営VS専制主義陣営」ではなく、「リベラル寡頭制陣営VS権威的民主主義陣営」であるとの見方だ。

米国を中心とする西側諸国が「ルールに基づく国際秩序」というときの「ルール」とは、米国ルールのことである。西側諸国が「国際社会」というとき、自分たちのことだけを指している。世界でロシアを制裁しているのは主にこの西側連合の国々であり、人口にしたら世界の十五%程度だ。他の圧倒的多数派は歴史的に西側諸国から搾取され続けてきた「グローバルサウス」の国々であり、西側に必ずしも同調していない。日本の報道にも顕著な、西側の基準が正しい国際基準であるかの如くの言説自体にバイアスがあることを知る必要がある。世界の現実を反映していないという意味からも、一種のフェイクなのである。

 

6 マッカーシズム再来 

ノルドストリーム破壊事件について、バイデン政権が行ったという疑惑を追及していたのは米国メディアでは「フォックス・ニュース」のタッカー・カールソン氏であった。彼は右派であるが、米国のウクライナ戦争へ責任を問い、バイデン大統領の息子の汚職疑惑も追及し、巨大製薬会社がTVニュースを支配していると指摘した。事実を追求するという共通点で左派のゲストを招くことも多かった。二〇二三年四月二〇日には、民主党から大統領選出馬を表明したロバート・F・ケネディJr氏をゲストに呼び、大企業による政府の支配への痛烈な批判に耳を傾けた。そのカールソン氏が、四月二四日に突然解雇された。日本の安倍政権下で政府に批判的だったニュースキャスターが立て続けに降板させられたことを彷彿とさせる出来事だった。

米国憲法修正第一条」は表現、報道、集会、信教の自由を保障する憲法条項である。今、修正第一条をかなぐり捨てたような言論と事実の弾圧は止めを知らない。同年四月一八日、「アフリカ人民社会主義党」の指導者ら四人の米国人はその政府批判活動に対し、「ロシアのプロパガンダを広め、米国の選挙に干渉した」として米国司法省により起訴された。米国では黒人の政治活動家が体制の標的にされてきた歴史がある。体制に反対する声をすぐ敵国のスパイであると嫌疑をかける「マッカーシズム」再来を懸念する声も上がっている

中国敵視が強まっているカナダでも、中国政府が中華系カナダ人の政治家を利用して選挙に影響を与えているという報道が連日大きく扱われている。これもカナダの諜報機関筋の情報ということで、証拠も不十分なまま印象だけが肥大している。

 

7 戦争の最初の犠牲者は真実 

二〇二三年四月初頭、英米のメディアが、ウクライナ戦争の現状に関する国防総省の極秘文書を、マサチューセッツ州空軍に属するジャック・テシェイラ氏が漏洩したと報じ、FBIが逮捕した。これらの文書は、ウクライナ軍の窮状、米国の直接参戦、米国によるロシアと同盟国に対する広範なスパイ活動等を明らかにしている。

今回の出来事で大きな意味を持つのはメディアの変貌だ。かつては、ベトナム戦争の機密文書をリークさせたダニエル・エルズバーグ氏に協力し、「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」がスクープ記事を出した。イラク戦争における米軍の戦争犯罪等を暴いた「ウィキリークス」のジュリアン・アサンジ氏や、米国家安全保障局(NSA)による大量監視行為を内部告発したエドワード・スノーデン氏を、勇敢な発信者として位置づけるメディアも多かった。そのような西側の大手媒体がいまや率先して告発者を悪人として叩き、当局に引き渡すような行為をしている

「戦争の最初の犠牲者は真実である」という言葉がある。主要報道機関にジャーナリズムが存在しなくなっている今、市民が体制側のフェイクを見極める力を養い、抵抗していく必要がある。戦争を止めるために。

(のりまつ さとこ・ジャーナリスト)

Tuesday, May 28, 2019

元カナダ兵日本軍捕虜 ホラス(ジェリー)・ジェラード氏を偲ぶ Remembering Horace (Gerry) Gerrard (January 19, 1922 - May 22, 2019), a Canadian Hong Kong Veteran

日本が1941年12月8日未明、マレー半島上陸続いて真珠湾攻撃によって「太平洋戦争」を開始した、その数時間後に大陸側からの日本軍の攻撃で始まった香港における英国軍との戦い(現地時間8日午前7時開始)については知らない人が多いのではないだろうか。英国側は14,000人(植民地インド兵、現地兵を含む)に対し日本側はその3倍以上という、圧倒的な兵力の差と英国側の装備不足や戦略のまずさもあって、12月25日英国軍は降伏した。

英国軍のうち1,975人は、英国の求めに応じてカナダ政府が派遣した二大隊であった。香港は実際に戦争になったら守り切れないということは明白であったが、駐屯軍を増強して蒋介石や米国に対し香港防衛の意思を示すといった、軍事よりも外交政治的動機による決定だった。宗主国の体裁や面子のために若きカナダ兵たちは太平洋を越えて絶望の待つ任務に就くことになる。

結果、1,975人のうち、290人が戦闘で死亡、生き残った者は捕虜として、3年8カ月の過酷な奴隷労働生活を強いられた。飢えと病気と暴行の日々の中で267人が死亡、合計死傷者は1,050と全体の半数を超え、第二次大戦におけるカナダ軍で最も高い死傷率だった。帰還した者も戦後心身の傷に苦しみ続けその影響は子や孫の世代にまで及ぶ。(カナダ政府退役軍人省のサイト  Canadians In Hong Kong を参照)

ジェリー・ジェラード氏(2016年10月6日、バンクーバー島のジェラード氏の自宅で。筆者撮影)

2016年10月6日、その時点で生存していた十数名の元カナダ香港戦参戦兵の一人、ジェリー・ジェラード氏(94歳)をバンクーバー島ビクトリア市郊外の自宅でインタビューし、『週刊金曜日』2017年2月10日、17日号にわたって掲載された。
(記事はここに転載してある。「知られざるカナダ兵日本軍捕虜の歴史」まだの人はぜひ読んでほしい。)

そのジェラード氏がさる5月22日に、ビクトリア市内のホスピスにて亡くなったという報せが届いた。享年97歳。Canadian Hong Kong Veterans (カナディアン・香港ヴェテランズ)と呼ばれる人たちで、2016年10月の時点で、生存していた18人のうち、証言できるほどの体力のある人はもう西海岸に一人、東部に一人しかいないと言われていた。ジェラード氏はその西海岸の人であった。

ジェラード氏のストーリーをここで読んで欲しいが、氏はは1941年12月25日の敗戦で捕虜になった後、最初の一年は香港の収容所で栄養失調や病気に悩まされながら強制労働させられ、1943年1月に船で日本に護送された500人の連合軍捕虜のうちの一人であった。横浜の、日本鋼管鶴見造船所東京第三派遣所に配置され、ここでも虐待と寒さ、脚気に耐えながらの奴隷労働の日々を送る。1945年3月10日未明の東京大空襲の際は、収容所内の防空壕で、閃光と爆音の中で一晩を過ごす。その後岩手県の釜石にあった日本製鐵大橋鉱業所(仙台俘虜収容所仙台第四分所)に移送、そこで8月の日本敗戦、つまり解放の時を迎える。かの地でもう一度冬を越すなど考えられなかったジェラード氏は「これで生きて帰れる」と実感したという。
体験を語るジェラード氏(右)。左は元捕虜2世で、
取材に同行したリー・ネイラー氏(左)。筆者撮影

氏は、横浜の収容所のとき、赤十字が来たとき一度だけ僅かばかりの給料をもらった(それも食事代を引かれた!)だけで強制労働に対する対価はなかった。日本政府は責任は取らず、1998年にカナダ政府が肩代わりという形で元捕虜一人に24000ドル(約200万円)支払った。

2011 年、民主党政権時代に、日本政府は、カナダ元捕虜たちにもうしわけ程度の謝罪をした。それも、この記事を読んでくれればわかるように、謝罪とはいえない屈辱的な形であった。なにが一番屈辱的だったかといえば、密室で行われ、総理が署名した正式文書もなく、日本メディアも一切取り上げなかったことだ。日本の人たちが知り得なかった「謝罪」だったのだ。

口先だけのお詫びの言葉や僅かばかりの見舞金などよりも、加害国の一般市民がその歴史を知り、後世に語り継ぎ、その国の子どもたちの教育に生かすことができてこその「謝罪」であると思う。それを日本政府は全くやっていない。

だからこそ、ジェラード氏の体験を、一市民として聴き取り、日本語で日本の媒体に届けることができたことは貴重であったし、この機会をくれた『週刊金曜日』と担当編集者の成澤宗男氏、そしてジェラード氏を紹介してくれたリー・ネイラー氏(彼も元カナダ兵捕虜の二世)に感謝している。ジェラード氏は、「あなたたちはこの歴史を明るみにしてくれて有難いと思う」と言ってくれた。できれば日本の製品は買いたくないと思っていた氏が、日本人の私に会ってくれたのも、決して気持ちのいい体験ではなかっただろうが、最後に一緒に写真も撮ってくれた。
ジェリー・ジェラード氏と筆者。(2016年10月6日、バンクーバー島のジェラード氏の自宅で。リー・ネイラー氏撮影)

特に最後、「日本政府には、あなたたちは自国の人たちに謝罪はしたのですか、と問いたかった」と言っていたのが心に残る。自分や仲間たちの苦しみを背負いながら、日本の戦争被害者にまで思いを馳せていたジェリーさん。それを思い出すと、ジェリーさん亡き今、この歴史を語り継ぐ責任を痛感する。

ジェリーさんに感謝と、追悼の気持ちを届けたく思います。

2019年5月28日 乗松聡子


バンクーバー島の新聞、Times Colonist に出たお悔み記事。

Horace (Gerry) Gerrard (January 19, 1922 - May 22, 2019)
https://www.legacy.com/obituaries/timescolonist/obituary.aspx?n=horace-gerrard-gerry&pid=192995245 

お薦めサイト:POW研究会 

お薦め映画:
ジョナサン・テプレツキ監督、コリン・ファース、ニコル・キッドマン主演レイルウェイ・マン」(2013年)

★アンジェリーナ・ジョリー監督アンブロークン」(2014年)

このサイト内の関連記事:

知られざるカナダ兵日本軍捕虜の歴史-『週刊金曜日』より An Interview with Gerry Gerrard, a Canadian Hong Kong veteran (Weekly Kinyobi) 

週間金曜日より―「アンブロークン」は、47日間の漂流と2年の過酷な捕虜生活を生き抜いた男の物語 From Shukan Kinyobi: Film/Book UNBROKEN


Saturday, December 30, 2017

2017年の終わりに-大日本帝国の被害者全てに花を捧げた「白いポピーの催し」の報告 End of 2017: Report of the White Poppies Event in Vancouver

日系カナダ人の月刊誌 『月報 Bulletin 』12月号に掲載された記事を許可を得て転載します(写真は『月報』に掲載されたものと異なり、すべて筆者によるもの)。これが今年最後の投稿となります。下の後記も読んでください。Here is Satoko Oka Norimatsu's report of the White Poppies event in Vancouver on November 11, Remembrance Day, for which my Peace Philosophy Centre dedicated a wreath that remembers all victims of the Empire of Japan.

白いポピーの催しー全ての戦争被害者の追悼
White Poppies - Remembering All Victims of War

乗松聡子
Satoko Oka Norimatsu

11月11日「リメンブランス・デイ」(記憶の日)は第一次世界大戦の停戦協定が結ばれた1918年の同日を記念する日だ。毎年11月は政治家やテレビキャスターから一般人まで、軍人の「尊い犠牲」を讃えるシンボルである赤いポピーをつけ「忘れてはいけない Lest We Forget」という言葉が広告や街角にも目立つ時期となる。特に今年は、カナダを含む連合軍とドイツ軍合わせ約50万もの死傷者を出した闘いであったにもかかわらず、戦略的には意味が薄かった(つまり無駄死にを大量に出した)と言われる1917年の「パッシェンデールの闘い」100周年を記念する式典やメディアの特集が目立っていた。
November 11, Remembrance Day in Canada, commemorates the Armistice of 11 November 1918 which ended fighting in WWI. Every November in Canada, a lot of people, from politicians to TV anchors, wear a red poppy pin as a symbol of "precious sacrifices" paid by fallen soldiers and veterans, and the "Lest We Forget" message is everywhere in street corners and in advertisement. Particularly notable this year were ceremonies and special articles to remember the 100th of the Battle of Passchendaele of 1917, which brought about approximately 500,000 casualties on both Allies, including Canada, and on Germany. The deaths were needless, as the battle was said to have little strategic significance.
準備中続々と集まる参加者

このような軍人の記憶が中心を占める記念日において異彩を放っていたのが同日、バンクーバーのバラード橋の南側のたもとにある「シーフォース・ピース・パーク」で開催された「平和によって記憶しよう -知られざる戦争被害者を追悼する」集会(「バンクーバー・ピース・ポピーズ」と「BCヒューマニスト協会」共催)であった。これは1926年、まだ第一次世界大戦の記憶が生々しく残る時代に、英国の平和主義者が、11月11日の停戦記念日を、非戦を訴える記念日にしようという意図で白いポピーを身につけることで始まった「ホワイト・ポピーズ」運動の流れを汲むものだ。
What was conspicuous on this day, mostly filled with military-oriented events, was the event called "Let Peace be Their Memorial -- Mourning Less-Recognized Victims of War," organized by Vancouver Peace Poppies and BC Humanist Association, held at Seaforth Peace Park at the Southern foot of Burrard Bridge in Vancouver, BC. This has its origin in the White Poppy movement, which was initiated by British pacifists who started wearing white poppies on November 11, to call for "no more war."

カナダにおける運動も、「軍人だけではなく民間人の戦争被害者も記憶し平和創造に役立てよう」という意図で始まった。これは決して軍人の犠牲を軽んじているわけではないとするが、カナダ軍の退役軍人会「ロイヤル・カナディアン・リジョン」から強い非難を受け、運動としてはあまり広がらないままでいる。今回の集会も、午前中に多い軍人関係の行事と重ならないように気をつかって午後2時半の開始としたという(終わりは4時頃)。
The Canadian movement also started with intention to "remember the fallen, including civilians, and work for peace." This does not intend at all to make light of the sacrifices of military members, but it has not had as much support as it wished to, as it received heavy criticism from the Royal Canadian Legion. The starting time of this ceremony was set at 2:30 P.M., in order not to overlap with the many military-related events that took place in the morning. The ceremony ended at about 4 P.M.

聴衆に語りかける
テレサ・ガニエさん

「ピース・ポピーズ」のウェブサイト(www.peacepoppies.ca)では、「退役軍人への尊敬と共感はいつも保ってきたが、赤いポピーを身にまとうことについて、退役軍人を支持するさまざまな催しの底流には現在と将来の戦争に向けての宣伝や新兵募集の意図があることを感じ取れるから、居心地の悪い思いをしてきた」との心情が綴られ、白いポピーを着ける理由は「全ての戦争被害者を記憶し、戦争が原因となる環境破壊を悲しみ、社会変化の手段としての戦争を拒み、対話と、紛争解決の平和的な手段を求め、よりよき将来をつくることへの決意を示す」としている。
The website of Vancouver Peace Poppies says that "I have always had respect and sympathy for veterans, who put their life, health and family on the line to serve. I believe they deserve recognition and support, but for years I was uncomfortable wearing a red poppy, because of the undercurrent of promotion and recruitment for current and future wars that I detect in many public events around the topic of  supporting veterans." It also says that the reason for wearing white poppies is "to commemorate all victims of war; to mourn the environmental devastation it causes; to reject war as a tool for social change; to call for dialog and peaceful conflict resolution; to show your commitment to building a better future."

今回の催しは昨年に続き第二回目。180名ほどが集まった(主催者発表)。バンクーバー市の公園課の後援を受けたこの式典で挨拶した主催者代表のテレサ・ガニエさんは、「戦争の被害者の90%は民間人である」と強調し、「戦争が安全や民主主義をもたらしたことなどない。戦争という手段は単純に言って紛争解決の“目的を達することはない”(It simply doesn’t work)」と主張していたことには同意できる。カナダ政府は今年、今後10年で7割もの軍事予算増加の計画を発表した。カナダの武器輸出の一番の得意先は世界一の戦争大国である米国、二番目はテロリズムを醸成する非民主国家のサウジアラビアである。この式典は過去の戦争被害者の記憶だけではなく、NATOの一員として世界の軍事的脅威に加担する現在のカナダに対する強い批判を含むと感じた。
This was the second annual event, following last year, sponsored by the Vancouver Park Board. It drew 180 people (according to the organizer). "90% of war victims are civilians," Teresa Gagné stressed, speaking on behalf of the organizer. "War has never brought security of democracy (photo above). It simply doesn't work." Earlier this year, the Canadian government announced its plan to increase the defense spending by 70% over the next 10 years. The No. 1 customer for Canadian arms export is the warring superpower the United States, and the No. 2 is Saudi Arabia, a non-democratic country that fosters terrorism. I understood that this ceremony implied a strong criticism against the present Canada, which takes part in the the military threat to the world as a member of NATO, not just remembrance of victims of past wars.
次々と置かれる花輪。左方、黄色と白の花のミックスの花輪がバンクーバー9条の会のもの。その左がピース・フィロソフィー・センターの花輪。

他にも、「イマジン」などの平和をテーマとした音楽の演奏やスピーチが続いた後で、この集会のハイライトである「平和のリース wreathの献花」が行われた。まずは「世界のリース」ということで、戦争被害者で見えにくい存在としての難民、女性、救援に携わる人たち、子ども、良心的兵役拒否者、戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患う民間人および軍人への献花があった。少年兵を記憶する花輪は実際にシエラレオネ内戦の元少年兵が、戦争で死亡したり負傷したり親を失った子どもたちには地元の小学生が花輪を捧げた。
原爆被害者を記憶する花輪
を捧げた被爆者ランメル幸さん
After a series of speeches and peace-themed music performances including "Imagine," the highlight of this gathering was the laying of peace wreaths. First of all, wreaths from the world were given to "overlooked victims of war" -- refugees, women, people engaged in aid work, children, conscientious objectors, and civilians and military members who suffer PTSD. A wreath for child soldiers was dedicated by a former child soldier of the civil war in Sierra Leone. Local school students dedicated one for children who were killed, injured, and orphaned by war.

次に地元のグループによる先住民、パレスチナ、イエメン、シリアの戦争被害者、今年80周年を迎える南京大虐殺の被害者などへの献花があった。日系人としては、バンクーバー9条の会を代表し、8歳のときに広島で被爆したランメル幸さんが「1945年米国が広島に8月6日、長崎に8月9日投下した原子爆弾による何十万もの被害者―日本人、朝鮮人、その他の国の市民や連合国の捕虜-に捧げる」との文言とともに献花した。私は、自分が主宰するピース・フィロソフィー・センターとして、1868年から1945年まで続いた大日本帝国の植民地支配と侵略戦争がもたらした、アジア太平洋全域(日本を含む)の全ての被害者に花輪を捧げた。日本出身者としては、戦争被害者を記憶する催しで、「広島・長崎の原爆」の記憶だけを代表するのではおかしいと思ったこともある。
Next, local groups dedicated wreaths to remember indigenous, Palestinian, Yemeni, and Syrian war victims, and victims of the Nanjinc Massacre, as it commemorated the 80th year. As for Japanese Canadians, Rummel Sachi (above photo), dedicated a wreath on behalf of Vancouver Save Article 9, with wording:

This wreath is dedicated to the hundreds of thousands of victims of the United States' atomic bombing of Hiroshima on August 6, and Nagasaki on August 9, 1945: Japanese, Koreans, citizens of other nations and POWs of Allied nations.                             -- Vancouver Save Article 9.  
I represented my own organization Peace Philosophy Centre and gave a wreath with wording:
This wreath is dedicated to the millions and millions of civilian victims of the colonial rule, aggressive wars, oppression, and exploitation by the Empire of Japan throughout its duration from 1868 to 1945. These atrocities include killings -- large and small --, rape, looting, sexual slavery, forced labour, conscription, forced suicides, displacement, forced assimilation, discrimination, impoverishment, medical experimentation, vivisection, unlawful arrests, imprisonment, torture, execution, and other violence, abuses and deprivation of human rights. The victims include people of Ainu, Ryukyus, Korean Peninsula, China, Taiwan, Sakhalin, Kurils, Hong Kong, the Philippines, Malaysia, Singapore, Indochina, Thailand, Burma, India, Indonesia, Timor, New Guinea, Guam, Northern Mariana Islands, Marshall Islands, other Pacific islands, and Japan. This wreath also remembers POWs who were abused and killed, and all resistance fighters against the Empire of Japan, including war resisters within Japan. 
Remembrance Day, 2017   Peace Philosophy Centre

会場には日系人・日本からの移民は15人程度来ていたと思う。今回、主催者からは日系カナダ人強制収容被害者に献花する人はいないかと促されたが、手配することができなかった。来年以降の課題としたいと思う。
I think there were approximately 10 to 15 people with Japanese ancestry at the event. We (Vancouver Save Article 9) were asked by the organizer whether anybody could arrange a wreath for Japanese Canadians who were incarcerated during WWII, but were unable to make any arrangement. It is something to consider for next year.


Satoko Oka Norimatsu is Director of Vancouver-based Peace Philosophy Centre, Director of Vancouver Save Article 9, and Editor of Asia-Pacific Journal: Japan Focus. She is co-author of Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States (Rowman and Littlefield, 2012). The updated and expanded 2nd edition will be published in April 2018. She is a regular contributor to Okinawan newspaper Ryukyu Shimpo.

☆1月7日追記:
実際に掲載された記事のイメージをいただきましたのでここに転載します。


(記事転載以上)

参考:

★ピース・フィロソフィー・センターの花輪の文言は:

This wreath is dedicated to the millions and millions of civilian victims of the colonial rule, aggressive wars, oppression, and exploitation by the Empire of Japan throughout its duration from 1868 to 1945. These atrocities include killings -- large and small --, rape, looting, sexual slavery, forced labour, conscription, forced suicides, displacement, forced assimilation, discrimination, impoverishment, medical experimentation, vivisection, unlawful arrests, imprisonment, torture, execution, and other violence, abuses and deprivation of human rights. The victims include people of Ainu, Ryukyus, Korean Peninsula, China, Taiwan, Sakhalin, Kurils, Hong Kong, the Philippines, Malaysia, Singapore, Indochina, Thailand, Burma, India, Indonesia, Timor, New Guinea, Guam, Northern Mariana Islands, Marshall Islands, other Pacific islands, and Japan. This wreath also remembers POWs who were abused and killed, and all resistance fighters against the Empire of Japan, including war resisters within Japan.

Remembrance Day, 2017   Peace Philosophy Centre

日本語訳
この花輪は、大日本帝国(1868-1945)の植民地支配、侵略戦争、弾圧、搾取による何百万、いや何千万かそれ以上(millions of millions)の民間人の被害者に捧げます。これらの残虐行為には、殺害(大規模のものから小規模のものまで)、強姦、略奪、性奴隷、強制労働、徴兵、強制自殺、追放、強制同化、差別、貧困、医学実験、生体解剖、不法な逮捕、投獄、拷問、処刑、他の暴力、虐待や人権侵害などが含まれます。被害者は、アイヌ、琉球諸島、朝鮮半島、中国、台湾、樺太、千島列島、香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドシナ、タイ、ビルマ、インド、インドネシア、ティモール、ニューギニア、グアム、北マリアナ諸島、マーシャル諸島、他の太平洋の島々、そして日本の人々などです。この花輪はまた、捕虜として虐待されたり殺されたりした人たち、また、日本国内で戦争に反対した人たちを含む大日本帝国に抵抗し闘った人たちも記憶します。

2017年11月11日 
ピース・フィロソフィー・センター

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2017年度は、これで最後の投稿となります。最後にこの記事を紹介したのは、この催しに参加した問題意識こそ来年以降の自分の活動を下支えするものになるからです。日本人として、大日本帝国70年余の植民地支配と侵略戦争とそれがもたらしたものについて学び、伝えていくことこそが、戦争や戦争準備をさせず、命と環境を大事にする世界をつくることに貢献する道と信じるからです。いま、歴史を否定し被害者を傷つける者たちが日本に蔓延し、国外にまで出てきて、日本軍「慰安婦」という性奴隷制度に「強制がなかった」とか、「南京大虐殺がなかった」とか、日本国外では到底通用し得ない、加害国としてはあまりにも恥ずかしい歴史観を流布しようとしています。このような歴史否定の動きは、日本がアジアで孤立し、軍拡を強め、米国と結託した戦争への道を突き進む動きと直結しているのです。このような動きに、歴史を知らない多くの日本人が影響されてしまっている事態を憂慮し、同じような問題意識を持つ日本内外の人たちと連携し、日本がアジアの、世界の、信頼される一員となれるよう、日本人の責任として努力していきたいと思っています。最後に、今年亡くなられた、私にとってかけがえのない恩師といえる方だった、高實康稔さん大田昌秀さんに心からの感謝の気持ちを表したいと思います。来年もよろしくお願いします。

乗松聡子 @PeacePhilosophy

Saturday, December 12, 2015

内海愛子講演録: アジアから見る日本―「戦後」70年と私たち

日本の降伏による第二次世界大戦終結から70周年の最後の月、12月は南京大虐殺を記憶する月でもあります。今日は1937年12月13日の南京陥落から78周年の日(「南京」関連の投稿も今準備中です)。今日の投稿として、日本の戦争責任研究の第一人者である内海愛子氏による、東京都歴史教育者協議会の第48回研究集会(2015年2月22日)における記念講演の記録を許可を得て転載します。前の高嶋道氏の投稿に続き、の『東京の歴史教育』第44号(2015年8月)に収録されました。
内海愛子氏

……私たちは戦後、植民地支配の清算をどこまで考えてきたのでしょうか。被害体験は、はじめにお話ししたように自分をふくめて実体験がありますから、わかります。しかし、隣に暮らす在日朝鮮人や台湾人の人びとの処遇をどこまで考えてきたのだろうか。私たちの無関心のなかで、政府は、戦後、国籍と戸籍を上手く利用しながら旧植民地出身者の人たちをこのように排除してきたのです。
……今、最大の問題として、いわゆる「慰安婦」の問題が出ています。私たちはアジアとの関係でどのような戦後処理をしてきたのか、被害者として、加害者としての視点から、あの戦争を考えることができるようになりました。加害の責任と同時に、被害を受けたことをふまえてアジア太平洋戦争とは何だったのかを考える、戦後70年というのは、それが可能な地点だと思います。

……サンフランシスコ条約の枠組みの中でおこなわれてきた韓国、中国との日本の戦後処理の問題点があきらかになる中で、日本は改めて植民地主義をどう清算し、植民地支配の責任を背負っていくのかが問われている、それが現在だと思います。

これら、内海氏が年の初めに提起した戦後70年の責任を日本人はどれだけ果たしてきたいるでしょうか。今、政府の右傾化に勢いづけられるかの如く、日本には、そして海外にいる日本人の間にまで歴史否定、歪曲、日本の隣国を憎しみ蔑むヘイト的言説が席捲しているように見えます。そして、「平和を願う」と言っておきながら、戦争を振り返ることイコール日本人が被った被害だけを語ることだとの勘違いが蔓延しているように見えます。

加害、すなわち日本の植民地主義と侵略戦争とそれらに伴うおびただしい戦争犯罪、残虐行為、人権侵害の中でよく話題にのぼるのが日本軍「慰安婦」や南京大虐殺であり、それは歴史修正主義者たちがこれら特定の歴史を歪曲や否定の対象にしてきたことと関連があります。しかし、今年このブログでたびたび特集してきた東南アジアにおける日本軍の組織的虐殺行為をはじめ、アジア太平洋全域でのおびただしい加害の事実全体に目を向けていかなければなりません。この内海氏の講演録を読むと、あらためて日本の植民地支配と侵略がもたらした傷と未解決の問題の深さを認識します。@PeacePhilosophy


(転載ここから)

【東京歴教協・第48回研究集会】

記念講演

アジアからみる日本――「戦後」70年と私たち

                                     内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)

Ⅰ.はじめに

 私の高校生の頃の夢は社会科の教員になることでした。ところが、教師から女が働くには英語をやりなさいといわれて英文科に入り、英語教員になりましたが、やはり自分にはあっていない。一年でやめて、社会科教員の免許を取るために早稲田大学文学部の社会学専攻に入り直しました。
 社会科の教員になりたかったのは、当時、教員たちが熱く社会のこと、平和のことを語っている姿にふれ、その話に影響を受けたからです。中学時代の歴史や社会の試験問題の一部は今も持っています。先生がどんな問題をだしたのかがわかっておもしろいものです。
 そういう先生たちが活躍していたころ、敗戦後の混乱期でしたが、社会が活発に動いていました。だれもが生きるのに必死でした。サツマイモやカボチャが食べられると「幸せ――っ!」という時代です。サンフランシスコ平和条約が発効して日本が独立、少したったころ、世の中が落ち着いてきた小学校6年の時に、米国がビキニ環礁で水爆実験を行い、第五福竜丸が被爆する事件がありました(195431日)。
 第五福竜丸の船員だった久保山愛吉さんの重体のニュースが、ラジオから流れていました。中学1年になっていましたが、先生の提案だったと思います。「久保山さんにお見舞いの手紙を書こう――」と。何人かの生徒が手紙を書きました。
 そうした手紙が、全国から3000通も久保山さんに寄せられたそうです。それをご家族が保存されており、後年、夢の島にある第五福竜丸記念館に寄贈されました。その中に私の手紙も混ざっていたようで、数年前に学芸員の方からご連絡をいただきました。何十年ぶりかで見た、下手な字で硬直した文章をつづった手紙は、まさに私が書いたものでした。中学1年生なりのアメリカへの怒りをこめた内容でした。
 なぜそんな手紙になったかというと、都心にあった我が家は焼け残ったので、小学生の頃は占領軍の兵隊さんを目にして育ちました。それでよけいにアメリカへの怒りが強かったのかもしれません。占領は決して住民には歓迎されないことを、子供なりの体験としてもっています。
 沖縄、中国、韓国、朝鮮をはじめ、かつて日本が占領した地域の住民が日本へ向けるまなざしは、もっと複雑です。心の底に燃えるような怒りの炎を燃やしている人もいます。決して声高には語らないかれらの怒り、時には悲しみへの想像力をどこまで私たち自身が持てるのか。それを可能にするのが勉強であり、研究であり、日々の活動だと思います。

■見えなかったビキニの被爆者
 原爆投下後の被爆の状況を、敗戦直後からみんなが知っていたわけではありません。1952年、『アサヒグラフ』に被爆者の写真が公開されました。それで、息をのむ惨状を初めて知ったのです。
 写真が公開されたのはサ条約によって、日本が独立したあとです。もちろん広島、長崎の人は知っていました。しかし、東京にいる私たちは、空襲や疎開などの体験で、少しは戦争の被害を見ていましたが、原爆の被害はまったくわかっていなかったのです。その原爆の惨状を知らされた直後に、今度はビキニ環礁での被爆です。私は拙い言葉でアメリカに対する怒りを久保山さんへの手紙の中に書きました。アメリカは広島長崎の被害者に賠償もしていないのに、今度はビキニ環礁で日本人が被爆したことに、私は怒っていたのです。これは当時の私たち小学生、中学生が共通して持っていた認識だったと思います。
 戦争に対する被害者としての意識は、非常に強くありました。占領者への怒りもありました。しかし、第五福竜丸の船員である久保山さんたちのことは見えていても、マーシャル群島の住民が被爆していることについては、ほとんど視野に入っていなかったのです。
 同じようなことが引揚げの問題にもあります。当時、NHKラジオで、毎日夕方になると「尋ね人の時間」がありました。「もと満州の○○にいた○○さん……」という放送をしていました。私は、だれも知り合いはいなかったのですが、その番組をよく聞いていました。日本人がこのように戦争の被害を受けている事は、私の年代の人たちは時代の認識としてもっていたと思います。その中でまったく見えていなかったのが、日本に占領され支配された側の人たちでした。
 アジアの被害者のことが視野に入ってきたのはいつごろからだったのか。アメリカだけでなくアジアとの関係も視野にいれながら、日本の「戦後」70年を考えてみたいと思います。

Ⅱ.「日本国民」とはだれか――国籍法と戸籍

■日本国憲法に内包された差別
 はじめに日本国憲法(1946113日公布、4753日施行)のことに少しふれます。憲法前文は次の文章からはじまります。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……」

 私たちはこれをサラッと読んでいましたが、あらためて「日本国民」とはだれか、こう問いなおして国籍法を読んでみました。日本国民を決めるのが国籍法です。195054日に公布され、71日に施行されました。
国籍法第一条には「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる」とあります。第二条に「出生の時に父が日本国民であるとき」とありました。日本人男性の子供が日本国民であるという父系血統主義です。
 これが現在の「父または母が……」と改正されたのは1984年です。戦後35年もの間、国民を決める基本的な要件に、女性と子供への差別が記載された法律が施行されていたのです。
 もう一つのポイントは「正当に選挙された」の文言ですが、だれが選挙権を持っているのかという問題です。

■日本人をわけた三つの戸籍
 194512月に衆議院議員選挙法が改正され、女性は参政権(選挙権と被選挙権)を手にしました。この附則33項には、「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は当分の間、停止する。」とあります。「戸籍法の適用を受けない者」とはだれをさすのか。ここでいう戸籍法とは「内地戸籍」を意味しています。
 選挙法や憲法が公布された当時、まだ日本は、朝鮮や台湾に対する「権利、権限」を持っていました。これを放棄したのは「サ条約」の発効の時(52428日)です。ですから占領下の日本に暮らしている朝鮮人や台湾人は「日本国籍」をもっている日本人です。
 これら日本人を、政府は「内地戸籍の日本人」「台湾戸籍の日本人」「朝鮮戸籍の日本人」とにわけていました。いいかえれば「日本人」が朝鮮、台湾、内地という3つの戸籍にわかれて登録されていたのです。そして、この戸籍間の移動は原則として許可されていません。すなわち本籍を自分の意志で、朝鮮や日本内地に移すということは出来ませんでした。
日本国内に本籍がある人は「内地戸籍」、すなわち戸籍法にもとづく戸籍に、朝鮮に本籍がある人は朝鮮戸籍に、台湾の場合は台湾戸籍に登録されました。「戸籍法の適用を受けない者」との目立たない一文が、在日朝鮮人、台湾人男子がこれまで持っていた選挙権、被選挙権を奪うことになったのです。戸籍による排除です。  
 さきほど「原則」といいました。例外は「身分行為」です。たとえば日本国籍の父から生まれたA子さんが、朝鮮人と結婚して婚姻届を出したとします。A子さんの戸籍は「内地戸籍」から「朝鮮戸籍」に移ります。

■「内鮮結婚」によって戸籍を失う
 このように、婚姻や養子縁組で戸籍は移動します。日本政府は「血による内鮮一体化」を図るために「内鮮結婚」を進めていました。「内地」の日本人女性と朝鮮戸籍の「日本」男性(朝鮮人)の婚姻というのが基本的な形でしたから、A子さんのようなケースはたくさんあります。当時、内鮮結婚をした女性の話を聞くと「同じ日本人だから」と、町会などの人に勧められたといいます。自分の戸籍が「朝鮮戸籍」に移動していることなど、もちろんわかっていなかったようです。
 敗戦とともに、戸籍による区分け、分類が威力を持ちます。私がお話をうかがった人に、次のような人がいました。
 彼女は恋愛の末に朝鮮人と結婚し、戦中は平壌に住んでいました。結局、離婚したのですが、戸籍はそのままにしていました。戦後、両親のいる日本に戻ろうと、引揚げの面倒を見ている釜山の世話課を訪ねたところ「あなたは朝鮮人です。引揚げたかったら戸籍を戻しなさい」と突っぱねられたそうです。婚姻届を出したので、彼女の戸籍は朝鮮戸籍に移っていたのです。
朝鮮戸籍に登録されている人が朝鮮人です。占領下で玄界灘の移動は原則禁止されていましたが、朝鮮人は朝鮮へ帰国することができました。日本人が日本へ戻ることは出来ましたが、その逆は禁止されていました。
彼女は復籍して、子どもを連れて日本に戻ってきました。しかし、子どもは夫の朝鮮戸籍に入ったままでしたので、内地戸籍がないまま戦後を生きてきました。当時、戦災孤児も多く、また戦災で書類が焼失したところもあり戸籍がない人も珍しくなかったのです。
成人し婚姻届をだす段になって戸籍謄本が必要になった彼は、母親の戸籍を探しだしました。母親の戸籍謄本には、婚姻により朝鮮戸籍へ転籍したことも記録されていました。そして、彼の戸籍も父親の「朝鮮戸籍」に記載されていることを意味します。
ようやく探しだした戸籍によって朝鮮人であることがあきらかになると、就籍どころか、彼は不法入国、不法滞在の朝鮮人ということで、戸籍係から入国管理局に通報され収容されたのです。
3歳の子どもが日本人の母親と一緒に帰国しても、入国手続きをして在留資格を取得しないと不法入国、不法滞在になります。
 そうやって彼は入管局に収容され、退去強制手続きがはじまりました。「送還先は南か、北か」といわれて、それこそ爆弾でも投げてやりたいぐらい怒りましたが、収容されているのでどうにもなりません。
 連れ合いが日本人で子どももいたので仮釈放になり、一カ月の滞在許可が出ました。それを何度かくり返し、彼は日本に帰化しようとしました。しかし、不法滞在者で仮釈放の人には帰化は認められません。その後、特別在留が認められたので、ようやく日本国籍取得の手続きができるようになりました。今では日本国籍を取っていると思います。

■外国人と見なされた旧「日本人」
 このように植民地を持つ日本は、日本人と朝鮮人、台湾人を戸籍で分類していました。これは戦後の補償の問題にもかかわってきます。
 すでに触れたように、敗戦後すぐに選挙法が改正され、在日朝鮮人と台湾人の選挙権が奪われました。そして、昭和天皇最後の勅令が、憲法施行の前日194752日に出されます。「外国人登録法」です。これには「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、外国人と見なす」とあります。「見なす」のです。
 「サ条約」が発効するまで朝鮮人も台湾人も日本国籍を持っています。その彼らを「外国人」として登録させようというのです。「外国人と見なされた日本人」という処遇です。
敗戦から1952年まで、日本政府の在日朝鮮人の処遇には、このように多くの問題が残りました。「日本の中のアジア」という時、在日の外国籍の人をどのように処遇してきたのか、また、現在、どのように遇しているのかという問題を一緒に考える必要があります。
「平和憲法」もジェンダーや旧植民地の人々の視点から見た時、はじめの一行からこのような問題を抱えています。憲法を守るのには、こうした問題点も合わせてとりあげ、時には国籍法や戸籍法を改正することで、さらに憲法の理念が豊かなものにしていくことができると思います。
それでは、彼らマイノリティの視点もふまえながら戦後の日本を見てきたいと思います。

 Ⅲ.戦争裁判と植民地支配

A.「ポツダム宣言」の受諾

■捕虜虐待と賠償問題
 英米中は「カイロ宣言」(19431127日)で、「やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」と宣言し、それを「ポツダム宣言」に盛り込み、その「ポツダム宣言」を日本が受諾(1945814日)しています。ポツダム宣言には、このカイロ宣言の履行、日本の主権と領土、戦争犯罪を厳しく裁くこと、賠償の支払いなどの条項がありました。
 ポツダム宣言が日本に通告されたのは726日です。鈴木貫太郎首相は記者会見で「無視する」と発言しますが、これが黙殺「ignore」と訳され海外に発信されました。米英のメディアは「reject」と翻訳して報道しています。これが、「日本は戦争を続行する意志がある」と解釈され、ソ連は宣戦を布告し、アメリカは原爆を投下しました。
 この「ポツダム宣言」には、戦争犯罪を厳しく裁くことと賠償の支払い条項があります。
10項は「われらの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えらるべし」という条文です。
東京裁判やBC級戦争裁判で何が裁かれたのか、この条文はそれをあきらかにしています。捕虜虐待が重視されています。
 もちろんその他の戦争犯罪も裁かれていますが、「ポツダム宣言」に特記するほど、日本の捕虜のあつかいはひどかったのです。
 捕虜を虐待した日本は絶対に許さないという連合国の強い決意が裁判に反映されています。英米捕虜の27%、オーストラリアの場合は30%を超す捕虜が死亡しました。
映画「戦場にかける橋」は小説をもとに映画化されたものですが、日本の鉄道聯隊が連合国の捕虜を使用して建設した泰緬鉄道を舞台としています。13000人もの捕虜が栄養失調と医薬品の不足のなかで重労働を強いられ、死亡した現場です。
 別名「死の鉄路」と言われ、イギリス、オーストラリアでは有名です。北ボルネオでは2000人を超す捕虜が死亡、殺害された「サンダカン死の行進」があり、オーストラリアでは日本軍の残虐さを物語る話としてよく知られています。アメリカで有名なのがフィリピンの「バターン死の行進」です。
 ポツダム宣言でもう一つ見ておかなければならない点は、賠償の支払い(第11項)です。日清戦争で勝った日本は、当時の国家予算の4年分程の賠償を清国から取りましたから、負けた国が勝った国に賠償を支払うことは認められていました。そのため、日本は、再軍備をするための産業は許されませんでしたが、経済を支えかつ公正な実物賠償の取り立てを可能にする産業を維持することが許されました。
 こうして日本は賠償を支払う条項をふくむ「ポツダム宣言」を受諾しました。

B.極東国際軍事裁判(東京裁判)

占領下で戦犯容疑者の逮捕が続きました。最終的に28人の被告が選定され、1946年4月29日に起訴状が提出され、53日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷しました。東京市ヶ谷台の旧陸軍士官学校大講堂が法廷です。裁判席には11カ国の裁判官が居並び、その対面には28名の被告が着席しました。
 この被告28名の中に朝鮮総督が2人、南次郎(在位1936.842.5)とその後任の小磯国昭(同1942.544.7)そして元朝鮮軍司令官板垣征四郎(同1941.745.8)がいました。当然、朝鮮植民地支配を裁いていると思っていましたが、訴因に植民地の犯罪はありません。
 もっと皮肉なのは、朝鮮人から名前を奪い、言葉を奪い、内鮮一体化政策を強力に推し進めた一人、朝鮮総督府学務局長だった塩原時三郎が弁護人席に座っています。南次郎総督から懇望されて秘書官に就任し、19378月に学務局長に昇進し、「皇国臣民の誓詞」を制定(193710月)した責任者です。さらに、大野緑一郎朝鮮総督府政務総監、田中武雄政務総監、井原潤次郎軍参謀長など、植民地支配を中枢で担った人たちが証人で出廷しています。あくまで証人であり、被告ではありません。
 極東国際軍事裁判では、朝鮮・台湾での植民地犯罪は審理の対象から外されています。天皇の戦争責任、治安維持法などによる自国民に対する日本政府・軍部の犯罪も裁かれていません。連合国の戦争犯罪ももちろん対象外です。
 裁判は連合国に対する日本の戦争犯罪を裁いています。英米蘭仏の植民地における日本の戦争犯罪も一部ですが取り上げています。
 被告は「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」の三つの「罪」で起訴されました。

C.BC級戦犯裁判

戦犯裁判の法廷は、日本が占領していた「大東亜共栄圏」の各地でも開かれました。捕虜虐待、殺害、住民虐待、略奪、強かんなど戦時性暴力、民間人抑留など「通例の戦争犯罪」が裁かれました。
 日本が描いた大東亜共栄圏の構想には、オーストラリアやインドまでふくまれています。開戦直後に日本軍はオーストラリアのダーウィンを爆撃し、シドニー湾を特殊潜航艇が攻撃しています。インドにも攻め入ろうとインパール作戦を強行しました。
 この大東亜共栄圏の中にはアメリカ、イギリス、オランダ、フランスなどの植民地があります。その植民地に日本軍が攻め込み、占領しましたが、日本が負けると宗主国が植民地に戻り、そこで戦争裁判を開いています。日本の敗戦と旧宗主国の再占領の間隙をぬって、アジアは独立へと動きはじめます。
インドネシアの例をあげます。オランダは300年以上インドネシアを支配していました。日本の敗戦後、そのインドネシアに戻ってきたオランダは、12カ所で戦争裁判をおこなっています。
大島渚の映画「戦場のメリークリスマス」は、ジャワ俘虜収容所が舞台です。その所長がミュージシャンの坂本龍一が演じたキャプテン・ヨノイ(曽根憲一)です。収容されていたオランダ人にとっては、名前を聞くだけで背筋が寒くなるといわれるほど「虐待」をしたといわれています。ビートたけしの役は森正雄軍曹。あだ名はバンブー森です。この人も捕虜を籐の杖でたたいたので有名な人で、それで「バンブー森」というあだ名がついています。
オランダが植民地にしていた蘭領東インド、いまのインドネシアですが、そこにはジャワで捕虜になったオランダ人やオーストラリア人、イギリス人たちが収容されていました。彼らへの虐待が裁かれました。
 もう一つは、蘭印にはオランダの民間人(女性、子ども、老人)が9万人ほどいましたが、彼らが「敵国人」として収容されています。戦争は戦場でドンパチだけが戦争ではない。このような銃後の戦争もありました。
 ここでまた「国籍」が問題になりますが、宣戦布告した敵国の国籍を持つ民間人が「敵国人」として抑留されました。日本人、日系人もアメリカやオーストラリアで強制収用されています。

■日本人の戦犯となった「外国人」
 では、日本は何カ国を敵国としたのか、外務省条約局の資料を見ると34カ国があがっています。この中に中華民国政府ははいっていません。中国は交戦国ではなかった、「事変」ではあっても宣戦布告した戦争ではなかった、日本はこう主張しています。一番最後がソ連であるのはご存じのとおりです。これらの敵国・断交国に暮らしている日本人は、国によっては強制収容されます。
 日本が占領した地域で暮らしている宣戦布告した国の国民は、敵国人として抑留されました。
 先ほどふれたようにジャワにはオランダ人やオランダとインドネシアのダブル、いわゆる「混血」のオランダ人がいました。戦局が思わしくなくなると軍部は、この人たちを軍抑留所に強制収容します。
 その抑留所から一部若いオランダ人女性を連行して作ったのがスマラン慰安所です。しかし、連合国の女性への性暴力、強制売春をさせるのは国際法上の捕虜の取扱に関する条約に違反していますから、この慰安所は数カ月で閉鎖され、戦後、その責任者が戦争裁判で裁かれています。

 「大東亜共栄圏」49ヶ所で戦争裁判が行われました。

裁判件数  2244
 起訴人員  5700

 内無罪   1018人(日本人・朝鮮人・台湾人を含む)
死刑    984人(死刑執行された者937人)
その他    279人(獄中死台湾人5人を含む)
有罪者数  4403人 

戦犯者のうち植民地出身者
朝鮮人148人 (うち死刑23人) うち129人捕虜収容所の監視員。
                     1人 フィリピン俘虜収容所長
台湾人173人 (うち死刑21人 獄中死5人)
  *有罪者にしめる旧植民地出身者 7.29


BC級戦犯裁判で起訴された人と有罪となった人の数です。東京裁判の28人は有名ですが、じつは5700人もが起訴され、そして937人が死刑になっています。
戦犯の中に朝鮮人148人、台湾人171人(獄中死5人を含む)がいます。日本人として戦争に動員されて、戦後は戦争犯罪人になったのです。

■植民地を巻き込んだ太平洋戦争の戦火拡大
 ここで先ほどの植民地の問題にもどりますが、日本はアジア太平洋戦争を日本人だけで戦ったのではありません。また日本がフィリピンで戦ったのは米比軍。マレー、シンガポールで戦ったのは英印軍。インドネシアで戦ったのは蘭印軍。このように、日本が交戦していたのは、植民地の人たちをまき込んだ連合国の軍隊でした。人数的には本国兵より植民地出身者の方が多かったことが捕虜の数から推定されます。その軍隊と戦った日本軍にも朝鮮人・台湾人兵士がいます。アジア太平洋戦争は植民地の人々を巻き込んだ戦争だったのです。
 その戦争で日本軍は30万人ちかい捕虜を獲得しました。しかし、これだけ大量の捕虜を抱えられないので、白人のみを捕虜とし、アジア人は「解放」しました。
 米比軍の場合は、フィリピン兵は捕虜にしていません。当時の『写真週報』を見ていただくと、「解放に喜ぶフィリピン人」などという写真が掲載されています。インドネシアでは蘭印兵のインドネシア人を宣誓させて釈放しています。そして残った13万余の白人捕虜を収容します。それでも13万人からの捕虜を三食食わせなければならないわけです。

■ジュネーブ条約で定められた捕虜の待遇
 日本はジュネーブ条約という、「1929年7月27日の捕虜の待遇に関する条約」を批准しなかったのですが、開戦直後に「準用」をアメリカやイギリスなどに回答しています。これをアメリカなどは「批准」と同じようにとらえました。
 ところが、東条英機は東京裁判への尋問調書の中で「準用とは、必要なところは修正を加えて適用することだ」と答えています。都合がいいように変えるといいながらも、実際には何もしていません。
 現場では、捕虜はジュネーブ条約をもとに権利を主張します。ところが、日本兵や朝鮮人監視員などは、そんなものは知らない。教えられていないわけです。将校は強制的に労働させてはいけないことくらいは、日本の将校も知っているでしょうが、現場では捕虜将校に労働を強制せざるを得ないくらい追いつめられていました。「タダ飯」を食わせる余裕がなかったのです。抵抗する捕虜を日本兵や朝鮮人監視員たちがぶん殴ることもありました。
 もっと重要なのは、条約が適用される捕虜の場合、食べるもの、着るもの、労働のあり方がすべて条約で決まっています。たとえば、軍需産業に捕虜は使ってはいけないとか、さきほどお話しした、将校に労働させてはいけないことなどです。では、どうしたら働かせることができるのでしょうか。
 「みずから望む時」、すなわち、捕虜自らが志願したら働かせてよろしいと定められています。どのように「志願」させるのかですが、志願せざるを得ない状況を作るのです。フィリピンで投降したウェインライトの日記には、食事が減らされ、これ以上は生存できないところまで体重が減少した後で、彼が労働を志願したことが書かれています。その間、減少する体重を俘虜郵便で家族へ暗号のような形で送っていました。ちなみに、捕虜は俘虜郵便が出せるということも、定められています。

■死刑が求刑された捕虜虐待の罪
 日本国内には3万人以上の捕虜が連行されていました。強制連行、強制動員というと、朝鮮人や中国人の場合があげられますが、その中に連合国の捕虜もいました。日本全国135カ所の収容所に収容されています。例えば九州の三井三池炭鉱、北海道の夕張炭鉱、それから秋田県花岡の鹿島組花岡事業所など全国各地で捕虜が労働させられていました。
 東京裁判がはじまる前に、アメリカ第8軍が開いた横浜法廷で福岡俘虜収容所第17分所(大牟田捕虜収容所)所長の由利敬中尉に絞首刑の判決がでました。スガモプリズンで執行されています。彼は三池炭鉱に捕虜を出す収容所の所長でした。日本国内にいた連合国の捕虜に対する虐待が、横浜で行われた裁判の中心です。横浜では331件が起訴されました。大多数は俘虜関係です。俘虜収容所の関係者は31人が死刑になっていますが、それは横浜裁判の死刑(51人・執行)の過半数を占めています。

■裁かれない強制連行
 連合国の捕虜を虐待することは戦争犯罪として厳しく裁かれましたが、朝鮮人や中国人の強制動員、強制労働は、どのような責任が問われたのでしょうか?
 中国は日本に宣戦布告をした国と見なされていなかったので、中国人を正式な捕虜と見なしていません。これが日本の立場です。しかし、中華民国は連合国の一員ですから、東京裁判に判事・検事を送っていますし、中国で戦争犯罪の裁く法廷を開いています。日本国内の中国人虐待について調査し、二件だけ裁判をしています。鹿島組の花岡鉱業所と大阪築港で働いていた中国人捕虜・労働者への虐待です。
しかし、朝鮮人の動員、虐待では戦争裁判になった事例は一件もありません。

■多国籍軍だった日本の軍隊
 東南アジア各地に13万人を超す白人捕虜を収容する俘虜収容所が開設されます。この俘虜収容所の監視のために集めたのが、朝鮮と台湾の青年です。日本は中国侵略以降、この戦争が日本人、いわゆるヤマト民族だけでは戦えないという兵力計算をして、朝鮮と台湾に志願兵制度を導入します。志願兵として集めた植民地出身者を軍隊に編入し、そのあと徴兵制を実施しています。敗戦までに40万をこす朝鮮人・台湾人が日本軍に編入されたのです。
 日本は南方の占領地を確保していくのに、アジア人の軍隊を作らないと維持できないことも計算しています。インドネシアの場合「郷土防衛義勇軍」を作ります。インドネシア人を訓練して、彼らを日本軍と共同で戦えるような軍隊として養成します。この「郷土防衛義勇軍」は、戦後、オランダが再侵略した時に独立運動の中核になります。
もう一つ忘れてはいけないのは、補充兵として日本の軍隊に編入された兵補です。
このように日本の軍隊もまた、朝鮮人や台湾人やインドネシア人兵補などを編入した多国籍の軍隊でした。数は日本兵に比べて少ないですが……。
 俘虜収容所の監視員になる朝鮮人、台湾人を軍属として集めています。収容所は人数の上からほとんど朝鮮人と台湾人が動かしていました。事務などの管理部門に日本人将校や下士官がいましたが捕虜と接触する現場には朝鮮人、台湾人軍属が配置されていました。

■捕虜虐待の実行者と見なされた植民地の青年たち
 ここでポツダム宣言「われらの捕虜を虐待せる者は……」を思い出してください。捕虜虐待が日本の戦争犯罪の中心として追求される、その現場に置かれたのは朝鮮人、台湾人です。連合国はこの朝鮮人・台湾人を日本人と見なし、「日本人」として裁いていきます。それが前述の数字です。死刑になった朝鮮人は23人、台湾人は21人います。
 日本の戦争犯罪が裁かれた裁判、その中に旧植民地出身の人たちがいました。計算したら有罪者の7.3%が旧植民地の人でした。どういう戦争犯罪を裁かれて、だれがそれを担ったのかが、この数字から見えてきます。

■弛緩した高級参謀たち
東京裁判の被告にならなかった旧軍の高級参謀たちは、いったい、戦後何をしていたのしょう。印象に残っている映像があります。NHKが放送した一枚の写真です。
GHQのウィロビーが真ん中に座り、その横に河辺虎四郎いました。熱海かなにかの温泉で肩を組み、お互いに酒を飲ませあっているふざけた集合写真です。職業軍人として戦争を中枢で担った人物が、かつての「敵」である反共主義者のウィロビーの下で、労働組合や共産党の集会などに潜り込んで、情報を集めていたといわれています。この写真には弛緩した旧軍の将校たちの顔がありました。
 戦争裁判で処刑が行われている時です。公職追放もありました。その中でGHQに協力した高級参謀たちは、あの物のない時代に「いい思い」をしているのです。
  東京裁判の被告は28人です。481223日、7人が処刑されます。その翌24日は、岸信介たちが無罪放免された日です。第2次東京裁判としてスガモプリズンに拘留されていた17人、病院にいた2人、19人が今後、訴追されることがないと釈放されました。19481224日です。
その後、戦後一貫してあった東京裁判を否定する論調に、これらA級戦犯容疑者たちがどうかかわっていたのか、ぜひ調べてみてください。一部の人は「戦犯受刑者世話会」に名前を連ねています。
 A級戦犯が処刑されたあと、まだスガモにはBC級の人たちが残っていました。まだ、かれらの裁判が続いていました。海を越えてオーストラリアのマヌス島でもまだ続いていました。

Ⅳ.サンフランシスコ平和条約

A.冷戦の中の賠償
 連合国軍の中心となったアメリカは、当初、賠償の厳しい取り立てを考えていました。アメリカは「初期対日方針」(1945922日)で、平和的日本経済、占領軍への補給のために必要でない物資や資本設備・施設を引き渡すよう指示しました。それは日本の戦争能力を将来にわたって徹底的に除去するための厳しい賠償の取り立てであり、外務省が「制裁、復習、懲罰の色合いの濃い、戦争中の反日感情を反映した厳しいものであった」と嘆くほどでした。もしこれが全面的に実施されていたら、日本の工業生産力は192833年程度の水準にまで引き下げられていたといわれます。 
 しかし、この賠償が変質していきます。その理由は冷戦です。アジアの冷戦激化のなかで、アメリカの対日管理政策は、日本の非武装化から経済の自立へと転換していきました。決定的になったのは朝鮮戦争です。
 19495月、極東委員会は中間賠償の取り立中止を声明しています。そして1950622日に朝鮮戦争が勃発すると、日本は再軍備、警察予備隊の発足、旧軍の軍人の追放解除、そして経済復興へと進んでいきます。
 朝鮮戦争のさ中、国連軍がピョンヤンを占領した19501124日、アメリカ国務省は「対日講和7原則」を出します。これは、「日本に賠償を払わせない」というアメリカの方針です。無賠償で日本を国際社会に復帰させる、これがアメリカの政策として出されてきます。何よりもアメリカが重視したのは日米安保と講和です。
 アジアの冷戦の中で最も恩恵に浴したのは日本だ、といわれるのは、こういうかたちで賠償が変質していったこともあげられます。そして「賠償支払いの4原則」(存立可能な経済の維持、他の債務の履行、連合国の追加負担を避ける、外国為替の負担を日本に課すことを避ける)が定められます。

■アメリカの無賠償方針に反対したアジアと捕虜たち
 日本が現金で被害を受けた国にお金を払っていたのでは、アメリカの占領経費がかさんでしようがない――それで、日本を経済的に復興させてアメリカの占領経費を抑えたい、これはアメリカの要求でもありました。そこで原則、無賠償の方針を出しました。
 しかし、フィリピンなどアジアの被害国が強硬に反対しました。さらに、もう一つの反対勢力は、連合国の捕虜たちです。あんなひどい目にあって、補償ももらわずに日本を国際社会に復帰させることはできないと激しく反対しました。
 私たちは捕虜の虐待といっても、想像力がおよばないわけです。泰緬鉄道の話も、多少労働力として酷使したくらいのイメージしかありませんが、被害者は忘れていません。恨み骨髄です。その語り伝えられている体験は本当にすごいものです。
 こんなエピソードがあります。昭和天皇の重体報道があった時に、イギリスで「ヒロヒトが死んだら墓の上でダンスを踊ってやる」というような記事が大衆紙に出て、日本の大使館が抗議したことがありました。すると、それに対して逆に、怒った元捕虜たちから激しい反論がありました。
 「労働がきつかったのではない、そんな言葉ではおいつかない。食うものがない。」「骸骨が靴を履いている」と、日本鉄道小隊長の記録に出てくるくらいの餓死寸前の状態での労働です。さらに医薬品がありません。6万からの捕虜をジャングルに投入したのに、野戦病院一つ作らなかったのです。いや作ったのですが遅すぎたのです。手を伸ばせば届くような黒雲に覆われたジャングルの雨期、しかも労働がきつく、食糧も医薬品も何もかも不足していた最悪の時に、間に合わなかったのです。
 私が話を聞いた元捕虜の人は、自分から志願して病院で働いたといいます。病院といってもただ死ぬのを待つだけの隔離小屋で、自分の仲間がコレラ、熱帯性潰瘍――ちょっとした傷口から肉が腐り、ひどくなると骨まで見えてくる――、マラリア、コレラなど、もう手の施しようがない状態の捕虜が死ぬのを待つだけの場所です。彼はそうした仲間の面倒を見たのです。
 連合国の捕虜の人たちがよくいうのは、POW( Prisoner of war 戦時俘虜)は人間らしい扱いをされなかった、ということです。ちょっとした薬、ちょっとした食べ物があったら助かった命が失われていったといいます。私がインタビューしたトム・モリスという人は、「日本人を見ると、その絶望の中で死んでいった仲間を思い出す。竹の小屋のなかで、垂れ流しで糞尿にまみれ、竹の床の上に身を横たえて、自分の方を絶望的なまなざしで見ていた、あの仲間を思い出して、どうしても日本人を許せなかった」といっていました。その体験をはきだし、記録することで、ようやく過去から解放されたので、私にも話してくれたのです。
 日本ではあまり知られていませんが、北ボルネオのサンダカン死の行進があります。北ボルネオの捕虜収容所にいたオーストラリア人、イギリス人捕虜2434人のうち、サンダカンからラナウまでの行軍で1047人、収容所で 1381人が殺されています。生き残ったのは逃亡した6人のみというすさまじい殺戮がありました。
 こういう現場が東南アジアにあります。そこに朝鮮人や台湾人の監視員が働いていました。さきほどのトム・モリスではないですが、どうしても許せない日本――その現場にいた人たちが戦争犯罪を追求されたのです。それが朝鮮人、台湾人戦犯の数になって出てきました。かれらはシンガポールやジャカルタ、中国などで、絞首刑や銃殺刑になっています。問題はそのあとにも残ります。

■賠償だったODA
 サンフランシスコ平和条約を日本は結びました。賠償は先ほどいったようにほとんど無賠償です。支払ったのは「生産物」と「役務」による賠償です。ゼロではフィリピンなどアジアの参加国が署名しない、批准しないと困るので、新たな賠償支払いの方法を考え出していきます。現金は直接払わないで、相手が要求するものを日本の会社が作る。道路を作ったりダムを作ったり、工場を建設したり……という支払いです。
フィリピンには日比友好道路もあります。インドネシアにもホテル・インドネシアなどが作られています。製紙会社もありました。これは日本企業が作り、金は賠償で決まった額から日本政府が企業に払う。なお、原材料が必要なときには求償国が準備することになっています。こうした支払いなので日本は外貨を使う必要がない。そして日本に工業生産力がついていく。アジアの要求をある程度満たし、日本の生産力を高め、そしてアメリカのアジアにおける安全保障の強化策という一石三鳥――これが日本の賠償のあり方で、今の経済協力です。ODA(政府開発援助)はビルマ賠償からはじまりました。
 このあとの中国との国交回復で中国は賠償を放棄しています。韓国とは経済協力方式での支払いです。「サ条約」で枠組みが決められたアジアに対する賠償支払いは、お金ではなく生産物と役務という経済協力方式でやられたのです。

B.平和条約発効・11条で判決を承認

 1951年サンフランシスコ講和会議に、中華人民共和国と中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が招かれなかったということは、ご存じの通りです。日本が占領、植民地支配をした国が排除されたまま、49カ国が講和条約に調印しました(195198日調印、52428日発効)。
 そして、講和条約11条で日本は戦争裁判の判決を承認しました。
「センテンス(判決)を承認しただけで、裁判を承認したのではない」などという人がいますが、裁判があり判決がだされたのです。日本は侵略戦争の戦争犯罪を裁かれ、その判決を承認して、国際社会に復帰していきます。これは日本政府の公式見解です。 
  そうして、戦争裁判で有罪になった日本国民の刑の執行を引き継ぎました。それがスガモプリズンです。今の池袋サンシャインビルのあるところがスガモプリズンでしたが、独立後は、日本の政府が管理する巣鴨刑務所に看板をかけ替えました。
 これを管理する日本の法務総裁は、占領中は、戦犯は「犯罪人である」との見解を出していました。
戦争犯罪人として、連合国の軍事裁判により刑に処せられた者の国内法の取扱いについては、昭和251950)年7月連合国総司令部当局と法務総裁と会談の結果、「軍事裁判により刑に処せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相当する刑に処せられた者と同様に取り扱うべきものとする。」これが占領中の日本の考え方です。ところが独立した3日後、195251日に法務総裁見解が変わります。

「この解釈はもともと総司令部当局の要請に基づいたものであり、平和条約の発効 とともに撤回されたものとするのが相当と思料され、昭和271952)年51日その旨法務総裁から通牒して各省庁関係機関に徹底をはかった。」(『本邦戦争犯罪人関係雑件第一巻』外務省外交史料館所蔵。法務大臣官房司法法制調査局『戦争犯罪裁判概史要』1973 年)

日本が独立したのでこの解釈、通牒は撤回される。つまりスガモにいる戦争犯罪人は国内法の刑に処せられた人と同様にはあつかわない、犯罪人ではない、という通牒です。
 この通牒によって、まずスガモプリズンに収容された人たちの選挙権が回復します。スガモプリズンで101日の衆議院選挙に際し、925日に在所者約300人が不在者投票をしました。
 また、同時期にA級戦犯やBC級戦犯の靖国合祀が問題になりますが、犯罪人だったら合祀されません。巣鴨刑務所の戦犯はもう国内法の犯罪人ではないとの解釈です。そのため「刑死」という表現は「公務死」ないしは「法務死」にかわり、援護の対象になり、靖国神社にも合祀されるようになったのです。

Ⅴ.アジア侵略・植民地支配の清算に向けて

A.援護法と戸籍法

 「サ条約」が発行した翌年538月に、軍人恩給が復活します。遺族年金は、サ条約発効の2日後の430日、戦傷病者戦没者遺族等援護法が公布されました。最初に戸籍にこだわったのはここが問題になるからです。
 くり返しますが、40万からの朝鮮人、台湾人が日本の戦争に動員され、軍隊の編成の一部を担った彼らでしたが、日本が独立すると戸籍法の適用を受けないことを理由に援護の対象から除外されます。大島渚の「忘れられた皇軍」は、この問題をあつかっています。
 鉄砲の弾は「あなた、朝鮮人ですか。日本人ですか」と選んであたるのではない。空襲の爆弾は軍人と民間人をわけてあたるのではない。戦争被害は、等しく被害をうけるのです。
 にもかかわらず、日本の援護法は、空襲の被害を受けた民間人に何の補償もしない。朝鮮人の傷痍軍人・軍属を遺族年金や傷病者年金から排除しています。本人の国籍選択の権利を認めてもいません。戸籍と国籍をうまく組み合わせながら、政府は援護の体制から日本国籍・戸籍を持たない人を排除したのです。
 戦傷病者戦没者遺族等援護法は、戸籍法の適用を受けない者を排除します。国籍ではありません。援護法は41日にさかのぼって適用されています。朝鮮人の日本国籍の正式な離脱は「サ条約」発効後ですから、41日から428日まで朝鮮人、台湾人は日本国籍を持っています。彼らを排除するのは国籍法ではなく戸籍でした。先ほども話したように「戸籍法」ということをひとこと入れると、朝鮮人・台湾人は排除される。こういう極めて巧妙なかたちになっています。

■日本人から排除され、日本人として裁かれる:ダブルスタンダード
 傷痍軍人・軍属をふくめて戦争に動員された朝鮮人、台湾人たちは恩給や年金からも排除されました。どこにも自分の意思を表明する機会はなく、一方的に押し付けられ、一方的に奪われたのです。
 しかし、朝鮮人戦犯の刑の執行は続きました。日本国民の刑の執行を日本政府は引き継いだからです(「サ条約」第11条)。くり返しお話ししたように、朝鮮人も台湾人ももはや日本人ではありません。当然釈放してくれると期待しましたが、釈放はありませんでした。「あなたたちは罪を犯した時日本国民だったので、その刑の執行は続く」。これが日本政府の見解でした。
 釈放請求の裁判もおこしましたが、最高裁でも負けました。罪を犯したとき日本人であった、その後の国籍の変更は刑の執行に関係ないというのです。それで朝鮮人戦犯の中には1957年くらいまで巣鴨刑務所にいた人もいます。
 巣鴨刑務所を出ると、今度は外国人ですから外国人登録をしなくてはなりません。最寄りの役所に出頭して指紋を押捺して顔写真を貼った登録証を常時携帯する義務があります。
 しかも、彼らは家族が日本にいません。出所しても行き先がない――。満期で早く出所した人は友人もいませんから、上野の地下道で寝たといいます。交番に行き朝鮮人がたくさん住んでいるところを教えてもらって川崎にたどり着いた人もいました。
 日本人軍人・軍属には、遺族年金だ、弔慰金だと、いろいろな名目で国からお金がでます。しかし、外国人になった彼らには、こうした政府からのお金は一切出ません。こういう仕組みが、平和憲法の下で行われてきました。
 私たちは戦後、植民地支配の清算をどこまで考えてきたのでしょうか。被害体験は、はじめにお話ししたように自分をふくめて実体験がありますから、よくわかります。しかし、隣に暮らす在日朝鮮人や台湾人の人びとへの処遇をどこまで考えてきたのだろうか。私たちの無関心のなかで、政府は、戦後、国籍と戸籍を上手く利用しながら旧植民地出身者の人たちをこのように排除してきたのです。

■「忘れられた皇軍」の元軍人たち
 戦争で怪我をした日本人には、等級によっても違いますが、生涯に4000万も5000万もの年金がでています。しかし、朝鮮人、台湾人傷痍軍人には一銭も出なかったのです。
 それで彼らは運動をはじめました。あのころ、街頭でアコーディオンを弾いて募金している傷病兵をよく見かけました。「異国の丘」というのは、シベリア抑留の人たちの歌ですが、私は街頭で聞いた記憶があります。街頭募金をしている傷痍軍人のいる光景は戦後風景です。その時に、「あの人たちには国から金が出ているんだから、お金は出さなくてもいいんだよ」といわれた記憶があります。しかし、朝鮮人、台湾人たちには出ていなかったわけです。
 占領下では戸籍に関係なくでていた傷病年金が、サ条約の発効と同時に一方的に切られました。働けない彼らは生活保護をもらって生きるしかありません。その中で運動に立ち上がった人たちがいて、国会に日参していました。これを記録したのが大島渚の「忘れられた皇軍」です。
 その中の一人に、マーシャル群島で怪我をして目が見えない、左手がない朝鮮人軍属がいます。彼の連れ合いは日本人ですが、東京大空襲で失明しました。二人には政府からの援護が届かないのです。
 朝鮮人傷痍軍人たちに対して、日本政府は法律は変えずに、まるで当人たちの責任とばかりに「帰化しなさい、日本国籍を取りなさい」と、日本国籍取得をさせます。特別に簡易帰化をさせたのです。
 難しい書類を山のように書かなければ日本国籍は取得できないのですが、私がインタビューした人は「ぼくたちは何もやらなかった。法務省の役人が来て、自分たちに聞きながら書類を書いてくれた」といっていました。それによって、彼らは日本人と同じ傷病年金をもらえるようになりました。しかし、これも1965年日韓条約が締結されるまでに帰化した人に限ります。それ以後に帰化した人たちには一銭も出ません。
 私がお話を聞いた人は、そうやって日本国籍を取得して、補償のお金をもらえるようになった人もいます。しかし、川崎にいた陳石一さん、石成基さんは、帰化を拒否したので、お金が一銭も出ませんでした。そして、1992年に裁判に訴えますが棄却されました。最高裁まで争いますが20014月、その訴えはしりぞけられています。しかし、東京高裁は「傷痍軍属たちを日本国籍をもっている者に準じて処遇することがより適切であり、在日韓国朝鮮人にも援護法の適用の道を開くなどの立法処置をとることなどが強く望まれる」と述べています。大阪高裁でも国に差別的な処遇を速やかに改善するように、国に対して厳しい注文を付けています。
 そうして200067日に「平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族に対する弔慰金等の支給に関する法律」が公布されました。時限立法で、弔慰金の支給を定めた法律です。

B.「戦犯」たちの平和運動

 朝鮮人戦犯の人たちは日本国民として、巣鴨刑務所に収容されていました。
 巣鴨の戦犯にも未帰還者に手当が出るようになると、当時、日本人戦犯には月に1000円程が支給されました。ところが、これには国籍条項があり、同じ刑務所にいても朝鮮人、台湾人には一銭も出ません。そんなのおかしいとだれもが思います。巣鴨にいた日本人戦犯の人たちが朝鮮人の運動を支えました。
 巣鴨刑務所は「三食付のホテルといわれるような状態になっていましたから、外にいるよりも楽だった」、冗談でこういう人がいます。たとえば、米軍管理の時代から、スガモでは国会図書館から本を借りだして読めるようになっています。日本に管理が移ると巣鴨から働きに出たり、所内で職業訓練も受けています。戦犯の人たちは当時珍しい自動車の免許を持っている人も少なくありません。生活に困るからと職業訓練の一環として巣鴨で自動車免許を取れるようにしたのです。

■死刑囚となって
 李鶴来(イ・ハンネ)さんという泰緬鉄道で働く捕虜の監視をしていて、死刑の判決を受けた人がいます。彼はシンガポール・チャンギー刑務所のPホールという死刑房で8ヶ月、いつ死刑かと死におびえながら暮らした人です。
 20年に減刑されて日本に戻ってきました。小学校は卒業しましたが勉強も十分に出来なかったので、スガモの中で猛勉強をします。「なぜ日本の戦争に協力してしまったのか」、自分の過去を考えていたのです。巣鴨の中には彼と同じように考える日本人戦犯たちがいました。彼らがあつまって、あの戦争は何だったのか、自分たちがなぜ、侵略戦争に加担したのか、アジアへの加害者であった自分たちのやったことを手記に書きはじめました。
 ジャワで憲兵だった人は、オランダの戦犯裁判で死刑(銃殺刑)になった友人の遺体を埋めようとしたところ、住民から石をぶつけられたそうです。インドネシアのアンボンでは親オランダ感情が強い地域ですが、それでも「ビナタン(けだもの)を埋めるな!」と罵声を浴びせられたといいます。ショックを受けると共に、そのとき、彼ははじめて疑問を持ちました。「あの戦争は本当にアジア解放の戦争だったのか」と。
 若い戦犯たちの中には労働もない、本も自由に読める巣鴨の中で、初めて社会科学の本を読んだ人も少なくありません。宮川実(マルクス経済学者)も読まれています。中国革命の本も読んだといいます。勉強会に集まる人たちを共産党のオルグの人が緩やかな形で指導し、巣鴨の中に共産党細胞ができています。
 懸命に勉強し、自分の体験を記録したのが『壁あつき部屋――巣鴨BC級戦犯の人生記』です。『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』も似たような記録集です。刑務所の外に収容者の手記を密かに持ちだして刊行したのです。これを読んでショックを受けた安部公房や亀井勝一郎は巣鴨刑務所を訪問しています。
 「ここに真に平和考えている人たちがいる」――安部公房はそのような感想を書いています。それを元に作った映像が「壁あつき部屋」と「私は貝になりたい」とです。
 「アジア解放の聖戦」という戦争中のイデオロギー、国民に散々宣伝されたこの大義名分の虚構に、巣鴨の若い戦犯たちは早くから気づいて、塀の外に訴えはじめました。「わだつみの会」にもメッセージを送っています。沖縄の伊江島闘争には、なけなしの金を集めてカンパを送っています。新聞や雑誌にも投稿しています。

■罪の自覚をうながした戦争裁判――中華人民共和国
 戦争裁判でもう一つ有名なのが中華人民共和国の裁判です。この裁判では「認罪」、一方的に裁くのではなくて、自らがなぜあの侵略戦争に協力したのかを自覚していくプロセスに丁寧に寄り添っていきます。裁くのではなく罪に自覚の過程に付き合っていったのです。
 そうやって、中国における戦争犯罪、すなわち「アジアに対する加害責任」――言葉でいうとこういうかたちになりますが――、それを戦犯たちは自身の行為、体験から考え、「アジア解放」のスローガンの虚偽を見抜いていきました。中華人民共和国の裁判を受けた人たち(中国帰還者連絡会)の一連の手記、巣鴨の戦犯の手記は、最も早い段階で日本の侵略戦争を自らの体験から告発したものでした。
 しかし「塀の外」の私たちは、スローガンに惑わされて「アジア解放の聖戦」の「実態」が見えていませんでした。自分たちがアジアの人たちの加害者であることが、実感としてとらえられなかったのです。そうした視点が定着していくのは1960年代後半からでしょう。そのきっかけの一つはベトナム戦争、もう一つは賠償を橋頭堡にした日本企業のアジア進出の中で、アジアの人たちの声が日本に届きはじめたからです。
 
Ⅵ.おわりに

■「赤い死体」から考える
 先日、立花隆がやっていたテレビ番組で、「黒い死体と赤い死体、これが戦後日本を語る時の二つのキーワードだ」といっていました。
 「赤い死体」はシベリア抑留の画家香月泰男が描いた絵です。彼が目にした「赤い死体」とは、中国人が憎しみのあまりに日本人の死体の皮を剥いだ赤い死体です。
 もう一つは、被爆や空襲で黒焦げになった「黒い死体」です。日本の戦争・戦後を考えるにはこの「黒い死体」と「赤い死体」の二つの死体がある。香月は、我々はあの戦争を「赤い死体」から考えなければいけないといいます。何を意味するか、「アジアに対する加害」、なぜ中国人がここまで日本を憎むのか、というのが彼の提起でした。

■東南アジアへの経済進出
 賠償によって日本企業がアジアに出向くようになると、アジア情報がマスコミにも増えてきます。ある商社マンが「日本はフィリピンを支配してたんですか?」と尋ねたといいます。笑い話でもなんでもなく私が75年にインドネシアに行った時も似かよった認識でした。
 日本のインドネシア軍政について書いた本は、当時まだ23冊しかありませんでした。ほとんど何も知らずに出かけた私に、インドネシア人が時には、親しみを込めて時には皮肉に「皇居に向かってヨウハイ(遙拝)」とか「ジャワホウコクカイ(報国会)」「ケンペイタイ」などいろんな言葉を投げかけてきました。日本占領下で日本語教育をしていたのでみんな少し話せるわけです。そこで暮らす中で、ようやく私は、ジャワ、インドネシアで日本が何をしたのかを教えられ、少しずつ考えはじめました。
 70年代に入ると日本でもアジアの情報が増えはじめ、「昔、軍隊。今、市民服を着た軍隊」といわれはじめました。これはレナード・コンスタンティーノというフィリピンの歴史学者の言葉ですが、「昔は軍服を着て日本軍がやってきたけど、今は市民服(背広)を着て日本が再びやってくる。侵略しにくる」、こういうとらえ方です。
 この中で私たちは、アジアに対する日本の支配、占領を考えていきました。もちろん在日朝鮮人という隣人がいますが。アジアの被害者を日本にお招きして話をしていただいたのが「アジア太平洋戦争の犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」の活動です。被害者の証言にふれて日本の戦争を被害だけでなくて加害者の視点から捉えられるようになったのが70年代後半からではないでしょうか。70年代には、もう日本人のキーセン観光、アジアへの買春観光がはじまり、女性たちが反対運動をはじめました。そういう時代です。
 80年代後半、90年代になるとアジアの被害者たちが日本に対して具体的に被害を訴え、謝罪と補償を要求する戦後補償裁判がはじまります。2008年ぐらいまでに80件をこす裁判が起こされましたが、ほとんど全部負けています。しかし、その過程で多くの被害者証言が出てきました。

■戦後100年に向かって
 戦後70年、今、多くの資料が開いています。それと同時に、被害者の証言もまだまだ私たちは聞くことができるし、記録も残っています。その今最大の問題として、いわゆる「慰安婦」の問題が出ています。私たちはアジアとの関係でどのような戦後処理をしてきたのか、被害者として、加害者としての視点から、あの戦争を考えることができるようになりました。加害の責任と同時に、被害を受けたことをふまえてアジア太平洋戦争とは何だったのかを考える、戦後70年というのは、それが可能な地点だと思います。
 最後になりますが、今から30年くらい前に鶴見俊輔さんに「戦争は100年たたないときちっとした歴史は書けない」といわれたことがあります。「何、悠長なことをいってるんだろう」と思ったことがありましたが、あと30年で100年です。今、資料も情報公開法によりどんどん公開されています。日本でも海外でも資料が公開されはじめています。これからの30年、アジア太平洋戦争の歴史を植民地支配をふまえて描いていくために一緒に努力していきたいと思います。

 なお、日韓関係がぎくしゃくしているので最後に朝鮮植民地のことでひとことつけ加えさせていただきます。
 韓国は、1945年米軍による直接統治(軍政)の下に置かれました。マッカーサー元帥の名前で「朝鮮の住民に告ぐ」(7日付布告)が出され、「北緯38度以南の行政権は同元帥の権力軍政下」に置かれました。軍政から3年、1948815日に大韓民国政府樹立が宣言されました。朝鮮民主主義人民共和国は99日樹立しています。
 大韓民国はサンフランシスコ講和会議に参加を希望していましたが、195179日、ダレスは駐米韓国大使に「日本と戦争状態にあり、19421月連合国宣言に署名した国だけが講和条約に署名」できると伝え、韓国は署名国になれないことを通告しています。じつは日本、具体的には吉田茂首相が強硬に反対していたのです。
 韓国は連合国とともに「闘ってきた」ことを強調し、講和会議への参加を強く要望したが、招請状は届きませんでした。19511020日から日韓会談がはじまります。交渉は難航し、1965622日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が調印されました(同年1218日発効)。
  14年にわたる交渉のなかで会談はたびたび中断し、ようやく国交が回復しましたが多くの問題が残りました。その一つに韓国併合条約が有効か無効かの問題があります。韓国は、条約は過去の日本の侵略主義の所産であり、不義不当な条約は当初より不法無効であったと解釈していました。日本の見解は一貫して「合法」です。解釈の相違が埋まらないまま、条約が結ばれました。
 「請求権・経済協力協定」では、韓国は請求権を放棄、日本は10年間に1080億円(3億ドル)の無償供与、720億円(2億ドル)の借款、1080億円(3億ドル)以上の民間信用の供与という形で結ばれました。この有償無償5億ドルは賠償ではなく、植民地支配への謝罪の性格をもつものでもありませんでした。
 この条約で個人の請求権が消えたのか。日本は個人の請求権もふくめて日韓条約で「解決済み」という立場でした。2012524日、韓国大法院(最高裁)は、三菱重工、新日鐵(旧日鉄)の朝鮮人労働者のうち生存者8人に「個人の請求権」が残るとの判決を下しています。
 「請求権協定は日本の植民支配賠償を請求するためのものではなく、……韓日両国間の財政的・民事的債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのもの」であり、「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為と植民支配に直結した不法行為による損害賠償請求権が請求権協定の適用対象にふくめられていたと見がたい」
このように韓国大法院は、個人の請求権は残ると明言しています。
被害者から賠償請求という形で、日本のいまだ清算されない、継続する植民地支配が問われたのです。日本政府も企業も「解決済み」との答えをくりかえすだけで、被害者からの訴えに何の対応もしないまま今日に至っています。
「サ条約」の枠組みの中でおこなわれてきた韓国、中国との日本の戦後処理の問題点があきらかになる中で、日本は改めて植民地主義をどう清算し、植民地支配の責任を背負っていくのかが問われている、それが現在だと思います。


※本稿は、東京歴教協第48回研究集会(2015222日)において行われた講演記録をもとに、内海愛子氏から加筆・校正していただきました。(編集部)