もはや公然の秘密となった日本の核武装計画と表裏一体をなす、アメリカ側の暗黒史が明かされた論説。
プルトニウムが世界平和にとって重大な不安定要因であることを熟知していたカーター大統領の手によって、核拡散の歯止めとなる法律が制定されたが、アメリカの増殖炉計画が資金的・技術的に頓挫したとき、これを丸ごと日本に移転して温存を図ろうとしたのは、レーガン政権の核エネルギー特使リチャード・ケネディーとその一派だった。一方の日本は、第二次大戦中の核兵器研究から連綿と続く研究者と、アメリカの核の傘を不安視する佐藤栄作らの政治家によって、核燃料サイクルと宇宙ロケット開発を隠れ蓑に、核兵器技術開発が着々と進められていた。この二つの思惑が絡み合って、危険極まりない核物質の海上輸送が正当化され、日本はプルトニウムの蓄積量を止めどなく増加させてしまった。軍事技術に情報公開の透明性など期待できるはずもなく、数々の事故と隠蔽が繰り返され、その行き着く先に福島原発事故が起きてしまった。
翻訳・前文:酒井泰幸
United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium
(源出典:リンク切れ)
http://www.dcbureau.org/201204097128/national-security-news-service/united-states-circumvented-laws-to-help-japan-accumulate-tons-of-plutonium.html
(ウェブアーカイブ:2017年1月7日時点)
ジョセフ・トレント(Joseph Trento)、2012年4月9日
国家安全保障通信社(National Security News Service: NSNS)
アメリカ合衆国は意図的に、日本がアメリカの最高機密である核兵器製造施設に立ち入ることを許し、何百億ドル(数兆円)もの税金を投じたアメリカの研究成果を日本に横流しして、日本が1980年代以降70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積することを可能にしたことを、米国の国家安全保障問題専門通信社の国家安全保障通信社(NSNS)の調査が明らかにした。日本で核兵器製造計画に転用される可能性のある機密核物質の管理に関して、これらの動きは繰り返し米国の法律に違反した。CIAの報告書により、日本で1960年代から秘密の核兵器計画があることをアメリカ合衆国は察知していたことが、NSNSの調査で判明した。
レーガン大統領とブッシュ副大統領
アメリカの機密技術の横流しは、レーガン政権下、百億ドルの原子炉を中国に輸出することを許可した後から始まった。日本は、機密技術が潜在的な核戦争の敵国に売却されようとしているとして抗議した。レーガン政権とジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)政権は、このような譲渡を禁じる法律や条約があるにもかかわらず、機密技術と核物質が日本に移転されるのを黙認した。米国エネルギー省のサバンナ・リバー・サイトとハンフォード核兵器工場群でのプルトニウム分離に関する高度な機密技術は、何百億ドルもの価値を持つ増殖炉の研究成果とともに、核拡散に対する歯止めがほとんど無いまま日本に引き渡された。この移転プロセスの一環として、日本の科学者と技術者たちはハンフォードとサバンナ・リバーの両施設へ立ち入りを許された。
日本が核兵器の配備を自粛し、アメリカの核の傘の下にとどまっている間にも、中国とインド、パキスタンを合わせたより大量の核兵器システムを作るのに十分な核物質を蓄積できるように、日本は電力会社を隠れ蓑として使っていたことが、NSNSの調査で分かった。
アメリカ合衆国によるこの意図的な核拡散は、従来の核兵器保有国が条約や国際法に反して核拡散に加担しているという、イランのような国による主張に油を注いでいる。アメリカ合衆国とともに、ロシア、フランス、イギリスは、世界中で核兵器工場から民間原子力産業を作り、それらを国有あるいは国の補助を受けた産業にした。イスラエルは、日本と同様に大口の顧客であると共に、こちらも日本と同様、1960年代から核兵器製造能力を有している。
一年前、自然災害と人災が組み合わさって日本北部で多くの人が犠牲になり、3千万都市の東京が居住不能になる寸前となった。日本の近代史には核災害が何度も爪痕を残している。日本は核兵器で攻撃された世界で唯一の国である。2011年3月に津波が襲来した後、福島第一原子力発電所での水素爆発とそれに続く原子炉3基のメルトダウンで、地域全体に放射能がまき散らされた。広島と長崎に投下された爆弾と同じように、日本は何世代にもわたってその影響と向き合っていかねばならない。原発の20キロ圏内は居住不能と見なされている。ここは国家の犠牲となった地区である。
2011年、東日本大震災と津波の後の福島第一原子力発電所
日本がどのように核の悪夢に至ったかは、NSNSが1991年から調査しているテーマである。日本の原子力計画には二重の目的があったことを我々NSNSは知った。表向きは日本に無限のエネルギー源を開発し供給するというものであった。しかしこれには裏があって、日本が十分な核物質と核技術を蓄積し、短期間で核兵器大国になることを可能にする、非公認の核兵器計画だった。
この秘密の活動は、原子力計画の裏に隠される一方、地震と津波が福島第一原発を襲った2011年3月11日の時点で、70トンのプルトニウムを蓄積してきた。民間原子力を秘密の原爆計画を隠すために利用したのと同じように、日本は平和的宇宙探査計画を、高性能の核兵器運搬手段を開発するための隠れ蓑にした。
原子力が生活の中に入ってくることを日本国民に納得させる唯一の方法は、歴代の政府と産業が一切の軍事利用を隠しておくことであると、日本の政治指導者たちは理解していた。この理由により、日本の歴代政府は結託して、原爆計画を無害なエネルギー計画と民間宇宙計画で偽装してきた。言うまでもなく、1941年に日本は将来のエネルギーを確保するため戦争を始めたのに、皮肉なことに核兵器で攻撃された唯一の国になっただけだった。
東京電力
エネルギー問題は常に日本のアキレス腱であった。アメリカの禁輸政策の前に、日本は石油を必要としたことから真珠湾攻撃に突き進み、その後も慢性的に続いた石油不足が敗戦の中心的問題だった。原子爆弾を誕生させた核分裂がなければ、日本の屈辱は無かったかもしれない。このとき日本は同じ原子を自国のために使おうとしていた。次の世紀にわたって安定的エネルギー源を確保するため、そして同じく重要なことに、祖国が二度と敗戦の辱めを受けないために。
日本は、電子産業や自動車産業を振興したのと同じ方法で、原子力の問題に取り組んだ。中心となる企業グループに長期的利益の望める主要課題が割り振られた。そして政府は、課題達成に必要とあれば、いかなる経済的・技術的・制度的な支援をも投入して、これらの企業を育成した。この戦略は輝かしい成功を収め、日本は戦後に忘却された国から経済大国へと、わずか一世代の間に引き上げられた。
1950年代、米国ドワイト・アイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」計画の下にあった日本では、軽水炉が定番となっていた。原子力技術開発を任された5社には、この従来型の軽水炉から大きく飛躍することが求められた。日本はアメリカ人やヨーロッパ人が失敗したことに挑戦しなければならない。それは実験的な増殖炉を経済的に成功させることであった。自惚れから、彼らはそれが可能であると確信してしまった。何といっても日本人はモノづくりの名人なのだから。日本人はアメリカ製よりも優れた自動車、テレビ、半導体を、より高品質・低コストで作り出してきた。原子力事故はほとんど全てヒューマン・エラーの結果である。適切な教育訓練を施されていない怠惰な操作員や、バックアップを設置しなかった人のせいだ。このようなことはアメリカ人やロシア人には起こるかも知れないが、日本人には起こらないのだ。
日本の佐藤栄作首相
中国、北朝鮮、インド、パキスタンが核兵器を開発したとき、日本と西側同盟諸国は、芽生えつつある脅威に対処するため結束を強めた。1960年代に行われたアメリカ大統領リンドン・ジョンソンと日本の佐藤栄作首相、その後何代かの日米指導者たちが参加した秘密会談の後、核技術を秘密裏に移転することは、いっそう激化しつつあった東アジアの軍拡競争に対抗して、日本を強化する国際戦略の一環であった。この政策は、レーガン政権がアメリカの政策を劇的に変化させた法律を制定したことで頂点に達した。アメリカ合衆国は、日本に送られるアメリカ起源の核物質に対するほぼ全ての規制を放棄した。
日本政府は、広く知られている日本人の核兵器に対する憎悪を、メディアや歴史学者に政府の核兵器活動を詮索させないために利用した。これは世界と人民に対する損害だった。その結果、2011年3月の惨事に至るまで、日本の原子力産業はほとんど批判の目に曝されることがなかった。およそ徹底しているとは言い難い国際原子力機関(IAEA)もまた、世界的な核拡散の監視機関であるにもかかわらず、見て見ぬふりをしてきた。
我々NSNSの調査は、何十年にもわたって最高機密であり続けてきた日本の原子力産業を垣間見て、日本と西側諸国の核政策とこの政策を冷戦下とその後の世界で形成した官僚たちに関して、重大な問題を提起する。国際企業と官僚たちは、この欺瞞を遂行するために、国民の安全と国家安全保障を犠牲にした。平和的原子力計画の隠れ蓑の下で、かれらは巨大な利益を上げた。
F号:日本初の核兵器計画
1940年代初頭、世界が人類史上最も血生臭い戦いで手一杯になっていたとき、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、日本の科学者たちは、想像も及ばない力を持った兵器を、原子の中から解き放つことに取り組んでいた。理論を破壊的な現実に変えるこの競争は、工業力戦争を使って何百万人もの命を奪ったこの戦争のサブテキスト(いわゆる行間の表現)を形成した。理論物理学の領域では、日本はヨーロッパとアメリカのライバルに対してリードしていた。日本はただ、原材料と、それを原子爆弾に変える工業力の余力が無かっただけだった。しかし日本の国家軍事力は極めて才能ある人材に恵まれていた。
仁科芳雄
1940年以降、日本人は核分裂連鎖反応の科学を積極的に研究してきた。仁科芳雄博士は、彼の戦前の原子核物理の研究に対してノーベル賞に推薦されていた。このとき彼と若い科学者のチームは理化学研究所(理研)で、アメリカ人を原子爆弾で倒すため精力的に研究していた。2年間の予備的研究の後、F号と呼ばれた原子爆弾計画が1942年に京都で開始された。(訳注:理研・仁科の「ニ号研究」、海軍・京都帝大の「F研究」が混同されている。)1943年の時点で、日本版のマンハッタン計画は原爆級ウランを分離できるサイクロトロンを作り出しただけでなく、原子の知られざる力を解き放つ知識を持った核科学者のチームをも生み出した。アメリカがワシントン州の砂漠に建設したウラン濃縮工場は、あまりの巨大さのためグランドクーリーダムで発電された電力を全部吸い取ってしまうほどだった。そのころ日本人は爆弾を作るのに十分な原料ウランを求めて帝国中を探し回ったが、成果はほとんど無かった。
日本はナチス・ドイツに助けを求めた。ナチスもまた原子爆弾を追い求めていた。しかし、1945年初頭の時点で連合国はライン川に到達しロシアはプロイセン地方を占領していた。窮余の一策として、ヒトラーは1200ポンド(544 kg)のウランを載せたUボートを日本に派遣した。この潜水艦が到着することはなかった。1945年5月にアメリカの軍艦がこれを拿捕した。潜水艦に乗船していた2名の日本人士官は自殺し、積み荷のウランはテネシー州オークリッジに運ばれ、アメリカのマンハッタン計画のために使われた。このウランが無くては、うまくいっても日本は1つか2つの小さな原子爆弾しか作れなかったであろう。
両国の原爆計画が完成に近づいた1944年、ダグラス・マッカーサー将軍のアイランド・ホッピング(飛び石)作戦は日本本土に迫っていた。B-29爆撃機の編隊が東京や他の大都市に焼夷弾の雨を降らせた。仁科は研究所を現在の北朝鮮にある興南(フンナム)という小さな村に移さざるを得なかった。この移動のため、日本の原爆研究は3ヶ月を失った。
1945年8月6日、エノラ・ゲイが1発の原子爆弾を広島上空で投下した。その爆発は7万の人々を即座に死に至らしめ、その後数日から数週間でさらに数千人が亡くなった。
仁科に爆発の知らせが伝えられたとき、彼は直ちにアメリカ人にノーベル賞を奪われたことを悟った。しかし仁科は、彼自身の原子爆弾もまた成功するという暗黙の確証を得た。仁科と彼のチームは原爆実験の準備を整えるべく精力的に働いた。ロバート・ウィルコックスのような歴史学者や、アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション紙の記者であるデヴィッド・スネルは、仁科のチームが核実験に成功したと確信している。1945年8月12日、長崎原爆投下の3日後、日本がポツダム宣言受諾を発表する3日前、日本は興南で原爆を実験し、部分的な成功を収めたと、ウィルコックスは書いている。そのときまでは、仁科の研究は象徴的なものに過ぎなかった。ただ日本には、これに続く爆弾を生産する手段と、アメリカ合衆国へ正確に運搬する手段が欠けていた。
日本が戦後復興を遂げているとき、広島と長崎への原子爆弾投下は、日本人に対するアメリカの非人道性と並んで、日本の帝国主義がもたらした愚挙を象徴するものとなっていた。日本人は核兵器を憎悪した。日本の指導者たちはこの見方に同意したが、核攻撃を受けた側だったことから、原爆の戦略的価値への特別な評価も生まれてきた。
第二次大戦が終わったとき、何千人ものアメリカの兵士が日本を占領した。日本への核攻撃の後、アメリカ合衆国は核の力を作り出す欲求と能力が世界中に広がって行くことを恐れた。ワシントンがこのとき知ったのは、日本が自力で原子爆弾を作るところまで、以前に考えられていたよりずっと接近していたということだった。日本の核兵器製造能力を破壊することは優先事項になった。国際的な核不拡散を合意する交渉の他にも、アメリカの占領軍はサイクロトロンなどの日本の原子爆弾計画の痕跡を破壊し、日本が核兵器計画を再開できないようにした。占領軍はF号計画の物理的な遺物を壊すことは出来たかもしれないが、仁科と彼のチームが戦争中に蓄積した膨大な知識の集積を破壊することは出来なかった。
日本の核開発計画の始まり
その後、F号の背後にいた人々は、日本の原子力計画の指導者になった。彼らが最も優先したのは、日本で原子核研究が継続できるために十分なウランを蓄積することだった。
戦争とそれを終わらせた原爆は、強烈な印象を日本人に残し、それは根強いものとなった。日本人は広島と長崎の破壊を憎悪した。しかし日本の指導者層は、原子力が海外エネルギー依存への代替策になると認識した。エネルギーの海外依存は、工業時代に入って以来、日本の足かせになってきた。
日本の降伏で、アメリカ合衆国は太平洋での卓越した勢力となった。しかし、1949年に中国で共産党が勝利し、ソビエト連邦による核実験が成功すると、アメリカの地位は脅かされた。共産主義国は太平洋でアメリカに挑戦し、日本は突如として、敗れた敵国から価値ある同盟国へと転じることになった。
北朝鮮軍が1952年に南へ押し寄せてきたとき、アメリカは全く不意を突かれた。間もなく、軍備と訓練が不十分なアメリカ海兵隊は釜山で包囲され海まで追い詰められた。このとき初めてアメリカ軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は、トルーマン大統領に核兵器の使用を進言し、これは朝鮮戦争の間に何度も繰り返された。
その核兵器は日本の沖縄に貯蔵された。アメリカ軍が釜山で全滅の危機に瀕しているとき、アメリカのB-29は中国と朝鮮半島の目標を爆撃するためエンジンを回して待機していた。その後の朝鮮戦争で、中国軍が朝鮮半島に侵攻したとき、日本から飛んだ核兵器搭載の爆撃機が実際に中国と北朝鮮の空域に侵入した。ジェット戦闘爆撃機が1機撃墜された。
朝鮮戦争は日本にとって重要な一里塚となった。日本は3千年の歴史で最も屈辱的な敗戦からわずか7年後に、またしても日本を打ち負かしたのと同じ軍隊の舞台になったのだった。当時、日本には自前の軍隊は無いも同然だった。東京の売春宿に足繁く通ってくるアメリカ軍人と同じくらい屈辱的だったのは、日本の国防は完全にアメリカの手の内にあるという認識だった。トルーマンが中国と核の瀬戸際政策を繰り広げていたとき、第二次世界大戦の敗戦を決定づけたのと同じ原子爆弾に、日本の国防は依存していることが明らかとなった。
国際原子力機関、平和のための原子力
1950年代の初頭、アメリカ合衆国は、日本が原子力ビジネスに加わるよう積極的に促していた。核エネルギーの破壊力を目撃したアイゼンハワー大統領は、それを厳しい管理の下に置くことを心に決めていた。核分裂の技術をアメリカが完全に独占することを世界は容認しないであろうことも、彼は認識していたので、彼は代替案を提示した。「平和のための原子力」である。アイゼンハワーは、日本やインドのように資源の乏しい国々に、技術的、経済的、道義的支援の形で原子炉を供与した。日本は経済とインフラを再建するための国内資源が不足していた。このため、慢性的なエネルギー不足に陥っていた経済への解決策として、日本はすぐに原子力に向かった。
アメリカの「平和のための原子力」計画に乗って、日本は本格的な原子力産業の立ち上げを開始した。何十人もの日本の科学者を、核エネルギー開発のトレーニングを受けるためにアメリカに派遣した。国際政治の舞台で足場を築き、戦後の主権と国力を回復することを切望した日本政府は、進んで乏しい資金を研究施設と原子炉に注ぎ込んだ。
戦争での経験から、日本は原子力産業をゼロから作る準備をしてきたが、「平和のための原子力」の助けを借りれば、完成した原子炉を西側諸国から輸入する方が安く上がった。
「平和のための原子力」では、アメリカと並んでイギリスとカナダの核技術も輸出の対象になった。イギリスが先行し、マグノックス炉を日本に販売した。GEとウェスティングハウスは急速に残りの業界を押さえ、原子炉の設計図と部品を日本に途方もない値段で売った。日本の産業はすぐに他の「平和のための原子力」締約国のモデルとなった。才能に溢れた若い世代の日本の科学者たちは、この時期に働き盛りの年齢に達し、全員が核エネルギーを利用し尽くすことに夢中になっていた。
原子力産業が活性化されると、日本はアメリカ合衆国から独立した自前の原子核研究に戻った。アメリカ人に鼓舞されて、1956年に日本の官僚たちは完全な核燃料サイクルを利用する計画を描いた。当時、この概念は理論的なものでしかなく、それは1939年にアインシュタインが悪名高い手紙をルーズベルト大統領に書き送った当時の原子爆弾の考えよりも、現実からは遠いものであった。理論によれば、プルトニウムは従来の原子炉で燃やされた使用済み燃料から分離され、新しい「増殖炉」で使うことが出来る。それに成功した者はまだ誰もいなかったが、これは技術時代の夜明けであった。日本、アメリカ、ヨーロッパの科学者たちは、科学的進歩の可能性に夢中になっていた。日本の中央官僚と計画立案者たちは同様に熱心だった。増殖炉計画は、日本がアメリカ合衆国から輸入したウラン原料の最も効率的な利用を可能にする。これがあれば、日本がアメリカ産エネルギーへの依存から脱却し、最も強力で入手が困難な爆弾材料であるプルトニウムの膨大な備蓄を作り出すこともできる。
秘密の冷戦核政策
佐藤首相とジョンソン大統領
1964年の10月に、中国共産党は初の原子爆弾を起爆させて世界を驚愕させた。世界は驚きにとらわれたが、日本ほど強い感情が巻き起こった国は他になかった。3ヶ月後、日本の佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン大統領との秘密会談のためにワシントンに行った。佐藤はジョンソン大統領に思いもよらない最後通牒を伝えた。もしアメリカ合衆国が核攻撃に対する日本の安全を保障しないなら、日本は核兵器システムを開発する。この最後通牒で、ジョンソン大統領は日本にかざしたアメリカの「核の傘」を拡大させることを余儀なくされた。
皮肉にもこの保証は、後に佐藤が、核兵器を持たず、作らず、日本の領土に持ち込ませないという非核三原則を打ち立てることを可能にした。この政策により佐藤はノーベル賞平和賞を授与された。日本人と世界中の人々には、この三原則がけっして完全に実施されることはなかったとは知る由もなく、佐藤は秘密の核兵器計画を進めさせた。
その後の数年で、何千発ものアメリカの核兵器が日本の港と在日米軍基地を通過していった。佐藤のジョンソン大統領との歴史的会談の前でさえ、アメリカの核兵器が日本に貯蔵されることを日本は公式には無視することに、密かに同意した。日本政府の官僚は一切を紙に書き記さなかったという点で抜け目がなかったが、東京駐在のアメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーは、この密約を1981年の新聞でのインタビューで明らかにした。1960年に日本政府は、核武装したアメリカの軍艦が日本の港と領海に入ることに、口頭で同意していた。ワシントン駐在元日本大使の下田武三を含む、現職または引退した何人かのアメリカと日本の官僚たちは、ライシャワー大使の解釈を確認している。
1980年代にこれらの問題について質問された時、日本政府はそのような理解があることを頭から否定し、条約の条件にアメリカ合衆国とは異なる解釈があるなどとは「思いもよらない」と言った。それでもなお、鈴木善幸首相が外務省に命令して事実を調査させた後、この密約の文書による記録は発見できなかったと言うのが精一杯だった。
機密が解除されたアメリカ政府文書を見れば、非核三原則は嘲笑の的である。これらの文書は、アメリカ合衆国が日常的に核兵器を日本の港に持ち込んでいた証拠を、日本政府高官が無視したことを明らかにした。アメリカの軍事計画立案者は日本の沈黙を、核兵器を日本の港湾に持ち込むための暗黙の許可と受け取った。何十年にも渡って横浜を母港とするアメリカの航空母艦キティ・ホークは、日常的に小型の核兵器を運搬していた。
日本はアメリカ軍が核兵器の使用を模擬する合同軍事演習に参加しさえもした。暴露された内容は、日本政府の表向きの政策と核兵器に関する行動の間の分裂を、はっきりと示している。
1970年代初頭の日本での中心的論争の一つは、核不拡散条約に参加すべきかどうかというものであった。この条約は核兵器保有の現状を基本的に凍結する。5つの核兵器保有国は現在の核兵器を保持するが、その他の国々は核兵器を放棄することを誓った。100ヶ国以上がこの条約に署名した。特筆すべき例外は、核の選択肢を残しておきたいインド、パキスタン、イスラエル、日本であった。この議論は、日本でのこれらの問題に関する判断と同じく、公開の場では行われなかった。しかし、アメリカ人はこの議論を聞いていて、彼らが聞いたことは、日本の核兵器への野心に全く新しい光を当てた。
中曽根康弘は日本の防衛庁長官であった経歴を持ち、新しい世代の原子力推進政治家の一人であった。彼は即時の核武装に賛成しなかったが、日本が将来核兵器を開発する権利を制約するいかなる動きにも、彼は反対した。中曽根は1969年の外交政策大綱の中心的執筆者の一人で、国家安全保障に関する章では「当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、これに対する掣肘を受けないように配慮する」と書いている。
6年後、中曽根は再び核兵器論争に巻き込まれた。この論争にかかっていたものは、日本の核兵器保有の能力と、日本の政治で最大の褒美である首相の椅子だった。中曽根は、外面上は核不拡散条約を支持することで首相への道を確かなものにした。日本の協力への対価は、核兵器用に理想的な材料と技術が絡んでいるときでさえ、日本の核計画には干渉しないという、ジェラルド・フォード大統領の約束であった。フォードの確約によって、1976年に日本はついに核不拡散条約を批准した。日本の核物質取引は衰えることなく続いた。アメリカ合衆国は、引き続き濃縮ウランを日本の原子炉に供給し、使用済み燃料がヨーロッパで再処理され、プルトニウムが日本に返還され、将来の増殖炉で使うために貯蔵されることを容認した。
核分裂性物質の拡散を止める
スリーマイル島原発の制御室を視察するジミー・カーター
1976年にジミー・カーターが大統領選に勝利した後、彼は核分裂性物質の拡散を管理する積極的な政策を策定した。海軍原子力潜水艦の元原子炉技術者として、カーターは、プルトニウムと高濃縮ウランに閉じ込められている莫大な力のことを、世界中のどの指導者よりもよく知っていた。彼は、日本を含む最も親しい非核同盟国にさえも、これらの核物質を渡さないと決意していた。
カーターのこの政策にはもっともな理由があった。1976年に日本が核不拡散条約を批准したにもかかわらず、翌年にCIAのために行った研究では、1980年の時点で核兵器を保有する可能性が最も高い3ヶ国の一つに日本を挙げた。核兵器に対する日本人の歴史的反対だけが、日本の核兵器配備に反対する主張となっていた。その他の全ての要因は、日本の核軍備能力を支持する主張をしていた。この時点で、CIAとその秘密の姉妹機関であった国家安全保障局(NSA)は、日本の中枢権力の立場を知っていた。
カーターは、プルトニウムが世界の安定に及ぼす信じられないほど不安定な影響を知っていた。プルトニウムは唯一最も入手困難な原子爆弾の材料である。比較的遅れた国や、一部のテロ組織でさえ、今ではプルトニウムや高濃縮ウランから核兵器を作る技術を持っている。しかしプルトニウムの精製やウランの濃縮は極めて困難でコストがかかる作業である。カーターは、プルトニウムとウランの拡散を制限することで、核兵器の拡散を管理できることを知っていた。彼はプルトニウムの拡散防止を核不拡散政策の基本理念に据えた。
カーターが政権に就いてすぐ、1978年の核不拡散法を議会で成立させたとき、日本人は驚いた。この結果、全てのウランとプルトニウムの輸送に議会の承認を求め、多くの機密核技術を日本から遮断することになるからである。カーターは、日本が核兵器製造に使う可能性のある核技術や核物質を移転しないと決意していた。この決断はアメリカの核政策の指導層にも極めて不評であった。アメリカの核科学者たちは、核エネルギーの知識と理解を持つ同胞として、カーターに期待していた。
カーターの努力はアメリカの使用済み核燃料再処理計画を終わらせた。カーターは韓国や台湾でプルトニウムが蓄積される影響を恐れたので、再処理を止めた。彼はこれが、韓国や台湾だけでなく日本と中国を巻き込んだアジア軍拡競争につながると信じた。
カーターのアメリカ核ドクトリンは、プルトニウムに基づく核燃料サイクルを核エネルギーの未来と見るアメリカの核科学エリート層に極めて不評だった。石炭による酸性雨や石油不足、石油ショックといった、アメリカ経済の景気にブレーキをかけている諸問題への解決策として、彼らは原子力を見ていた。安くてクリーンで、ほぼ無尽蔵の核エネルギー源があれば、アメリカは疑う余地のない世界経済のリーダーとしての地位を回復できる。しかし多くの人にはそれ以上の意味があった。もしアメリカが核燃料サイクルを完成できれば、全人類が核の恩恵に浴することができる。アメリカ各地の研究センターやワシントンのインディペンデンス・アベニューにあるエネルギー省のフォレスタル・ビルディングでは、増殖炉研究計画への熱狂はほとんど宗教的な盛り上がりを見せていた。
もし増殖炉が世界の原子力経済に革命をもたらすなら、アメリカ合衆国はそれをヨーロッパと日本の同盟国とも共有しなければならないと、アメリカの核政策指導層は考えた。科学の基本理念はまさに自由な情報交換であり、アメリカの科学者たちはヨーロッパや日本の同僚たちと手放しに情報共有していた。この協力関係は双方向だった。増殖炉は途方もない技術的困難であることが明らかになりつつあり、アメリカ合衆国と同じくらい長期にわたってこの問題に取り組んできたドイツ、イギリス、フランスの失敗から学ぼうと、エネルギー省は躍起になっていた。カーターの政策は、プルトニウムに基づく核エネルギーサイクルを開発し共有するための、アメリカの努力を妨げるものだった。
強い権力をふるう核兵器・原子力ロビイストにとっては無念なことに、カーターは新しい原子力ルネサンスの考えを放棄した。カーター政権が導いたのは、核技術・物質の取引が制限され、科学者の間での自由な情報交換が阻害される時代だった。原子力規制委員会のリチャード・T・ケネディーとベン・ラッシュ、米国エネルギー省のハリー・ベンゲルスドーフのような人々にとって、このような自粛は到底受け入れがたいものであった。ジミー・カーターが再選されなかったことで、核政策指導層に新たなチャンスがもたらされた。
進路反転:カーターの政策を堀り崩したレーガン
情熱的な原子力信奉者の一人に、リチャード・ケネディーという名のキャリア官僚がいた。彼は元陸軍の事務官で、世に知られることなく原子力規制委員会で働いたが、カーター大統領の核政策に猛烈に反対したので、彼のキャリアは危うくなっていた。1980年にロナルド・レーガンが大統領に選ばれると、全てが変わった。レーガンが大統領になって最初に行ったことのひとつは、カーターの核ドクトリンを反故にすることだった。それはアメリカ合衆国がプルトニウムを友好国あるいは敵国での民間発電計画に利用することを禁じていたからだ。
レーガンは核問題の右腕としてケネディーを使った。核エネルギー特使という地位から、嫌いだったカーターの政策が解体されるのをケネディーは監督した。新政権は、アメリカと世界がプルトニウムに依存する道を再び活発化させた。
しかし、カーター時代の遺産の一つがアメリカの国際的な核取引への突入を束縛していた。カーターは1978年に原子エネルギー法を成立させていた。アメリカ合衆国で作られた核物質を外国がどのように輸入し利用するかを厳しく制限する包括的な法律である。この法律の下、議会は国境を越える原子炉用核燃料一つ一つの輸送に承認を与えなければならなかった。束縛されない核取引というケネディーのビジョンにとって、この法律は我慢ならない障害物であった。そこで彼は抜け道を考え出すことにした。
レーガン政権が勢いを増していく初期の頃、アメリカの通常兵器と核兵器を含む兵器産業への巨額の資金注入が劇的に増加していったとき、この政権は新型核弾頭の設計や、増殖炉の難問に取り組んでいる核科学者たちに、無理やり資金を注ぎ込んだ。
この計画の中心には、テネシー州の風光明媚なクリンチ・リバー渓谷にあるエネルギー省のオークリッジ国立研究所の実験施設があった。ここアパラチア山脈の麓では、アメリカで最も才能溢れる科学者たちが増殖炉を組み立てていた。この技術には信じられないような未来が約束されていた。発電をしながら、従来の使用済み核燃料を純粋なプルトニウムに転換するのだ。増殖炉は核科学の聖杯(訳注:聖なる探求の対象物)となり、核燃料サイクルを完結させることができれば、ほとんど無限のエネルギー源を開拓することができる。クリンチ・リバー増殖炉計画は最先端の技術で、レーガン政権下でエネルギー省は溢れる資金をここに注ぎ込んだ。1980年から1987年の間に、この計画には160億ドルが費やされた。そしてその後、始まったときと同じく唐突に、議会はこの計画を凍結した。
アメリカで最も優秀な頭脳とほぼ無限の予算をもってしても、増殖炉計画は成功しなかった。失敗したのはクリンチ・リバーのチームだけではなかった。ドイツ、フランス、イギリスの増殖炉計画も、実験段階から商用炉に飛躍することはできなかった。レーガンの新型核兵器への傾倒は揺らがなかったが、80年代中盤の不況が長引くにつれ、軍産複合体のあらゆる面を議会での経費削減から守ることができなくなった。1987年、議会はクリンチ・リバーへの予算を廃止した。増殖炉をライフワークにしてきた科学者とエネルギー省官僚の幹部にとって、これは大きな災難だった。しかし、技術的な失敗やアメリカの支持が無くなってもなお、彼らは核燃料サイクルの構想に忠実であり続けた。
その間も、まだ頑固に増殖炉技術を追求している国があった。日本である。1987年、天井知らずに成長していた日本経済には、無限の資金があるように見えた。増殖炉を経済的に成立させることができる国があるとすれば、それは日本だった。しかし、もし日本の科学者たちが成功しようとするなら、アメリカ人が中断した所から始める必要があった。
次に起きたことを理解するためには、アメリカ政府が本当はどのように働いているのかを理解する必要がある。政権と議会、とりわけ下院は4年か8年で交代して定期的に構成人員が入れ替わるが、官僚機構はほとんど一枚岩ともいえる連続性をもって進み続ける。官僚機構の中では、キャリア官僚は子飼いのプロジェクトの陰で政権が変わるまで身を隠して待つことができる。議会が増殖炉計画を打ち切る前に、レーガンはその将来をリチャード・T・ケネディーの手に託した。
ケネディーは、ハリウッド映画の配役担当責任者をワシントンのインサイダーにしたようなものだったと、長年の政敵であるデーモン・モグレンは語る。「ケネディーは、たばこの煙が立ちこめる裏工作の部屋で一生を過ごしてきた男らしく醜い赤ら顔で、彼の態度には斡旋収賄の臭いがぷんぷんしていた。彼がタマニー・ホール(訳注:1800年代後半から1900年代前半、汚職とボス政治で政治的に支配しようとした民主党内の政治組織)から出て来るのを見ても不思議ではなかったろう。」ケネディーの友人たちはもう少し肯定的だった。原子力規制委員の同僚だったベン・ラシュは、ケネディーの政治的本能を賞賛した。「おそらく同業者の誰よりも、彼は内外の政治的現実に良く順応していた。」友人も政敵も同様に、ケネディーは彼の行く手を遮る官僚たちを踏みにじることは少なかったと同意する。アメリカの増殖炉計画を、重要部分を日本に移転することによって救済するという動きを組織するという目的のために、彼は完璧な男だった。
この計画には、ワシントンの複雑に入り組んだ官僚手続きを巧妙に操作することが必要だった。この規模の技術移転ともなると、数十の省庁、数百人の官僚からの承認を必要とする。しかしまさに、あまりにも巨大で複雑であるが故に、抜け目のないインサイダーは子分にしている少数の幹部の助けを借りて、狭い隙間をすり抜けることができる。日本との8年間の共同増殖炉開発は、大義のために情熱的に身を捧げる若い科学者と官僚たちの集団を養っていた。さらに、ケネディーはありそうもない勝利を手にしようとしていた。1985年、彼は原子炉を中国共産党に輸出することを議会に許可させることに成功した。
両面作戦:中国と日本への核取引
中国のウェスティングハウスAP1000型原子炉
1984年、ウェスティングハウス社は100億ドルにのぼる原子炉を中国に供給する契約を結んだ。この契約はアメリカの原子力産業にとって信じられないような「たなぼた」であり、アメリカ合衆国が世界の核取引で主導権を握るためにケネディーが払った努力の要となるものだった。唯一の問題は、中国が金さえ出せば核機密を誰にでも漏らすという、とんでもない前科であった。
民主党の多数党院内総務補佐だったアラン・クランストンは、上院議事堂での重苦しい会議で次のように糾弾した。ケネディー在任期間中のレーガン政権は「行政部門に広く知れ渡っているように、組織的に情報を秘匿、隠蔽してきた。議会がこれを知ったら困惑するであろう」と。核の無法国家5ヶ国、つまりパキスタン、イラン、南アフリカ、ブラジル、アルゼンチンに、中国は核技術を売り渡したことが知られていた。1984年の時点で、クランストンとアメリカ政府の大部分は、中国が高性能の核兵器の設計図をパキスタンに与えたことを知っていた。北京は南アフリカの原子爆弾の材料となった濃縮ウランも売っていた。中国はアルゼンチンの原爆計画で使う重水を売り渡し、同時に最大のライバルであるブラジルにも核物質を売り、イランとも核交渉を進めていた。中国の核拡散の実績は、これより悪いものはない程ひどいものだった。しかし完全無欠の予防策を要求する代わりに、両者が好きなように解釈できるほど曖昧な合意文書を携えて、ケネディーは北京から戻った。中国は、核不拡散条約に署名することを拒否し、また中国が原子炉で燃やした燃料を再処理して核兵器用プルトニウムにすることを禁止する権利をアメリカ合衆国に与えることも拒否していた。
ケネディーは核不拡散条約交渉でアメリカ側を指揮するため、1985年6月に北京に戻った。彼は最初の合意とほとんど同一の文書を持参した。しかし100億ドルの計画はワシントンでしぶとく生き残り、中国が鄧小平のワシントン訪問をキャンセルすると脅したので、ケネディーは求めていた突破口を手に入れることになった。中国の核の脅威を封じ込める最良の方法は、中国への最大の売り手になることであるという主張をレーガン政権は展開していたので、ウェスティングハウス社は政治家の人気を取れるように多くの下請け契約を出した。
中国での合意はケネディーの一派を行政の絶対権力に押し上げた。ロビー団体と日本資本のシンクタンクの中心人物になれば巨額の報酬が約束されているにも関わらず、ケネディー一派の核心人物たちは政府に残った。このとき日本の増殖炉計画が検討対象になったので、国務省でのケネディーの右腕であるフレッド・マゴールドリックと、エネルギー省契約業者のハロルド・ベンゲルスドーフは、政府内の増殖炉信奉者の一門を説いて回った。彼らの目的は、アメリカの納税者の160億ドルを注ぎ込んだクリンチ・リバー計画の技術を、日本の大手電力会社に、千分の一の値段で移転することであった。この計画は、日本の5大企業に雇われている日米のコンサルタントが、主として承認したものであった。
彼らの前には2つの大きな障害が横たわっていた。アメリカの法律と国際法は、クリンチ・リバー計画で開発された技術、特に使用済み燃料からプルトニウムを分離するために使われる再処理技術を、厳しく規制していた。そしてこの計画には、核兵器級プルトニウムと高レベル核廃棄物を何百回も船で国際輸送することが必要になる。
1986年の始め、ケネディーは毎日のように軍備管理軍縮庁(ACDA)の中級職員のルイス・ダンと面会していた。ACDAは核拡散脅威評価書を作成する契約をしており、これが日本との取引が生き残れるかどうかをほとんど決定づけるものだった。
ダンは核兵器の拡散に反対するために彼のキャリアを捧げていた。しかしケネディーと同じく、核技術を管理する最良の方法は世界で指導的な核技術の供給者になることであると、彼は信じていた。物静かで決意に満ちた態度で、ダンはケネディーと同様に日本との合意を力強く主張していた。ダンがケネディーと頻繁に持った会合の記録は未だに公開されていないが、ケネディーのスケジュール帳はこの二人の並外れた蜜月関係を示している。
ダンは、フォギー・ボトムの国務省の中にある半独立の政府機関、ACDAで働いた。一年近くの間に少なくとも週3回、ダンは3階のACDA事務所から長い距離を歩いてケネディーの事務室まで通った。議会が日本への技術移転を許可するかどうか決定するために使う脅威評価について、二人は何時間も話し合った。
ダンが起草した報告書は1986年半ばに年次報告にまとめられたが、すぐさまペンタゴン、CIA、原子力規制委員会から疑いの目で見られた。日本には核武装する技術と、そしておそらく意図があることを、CIAは何年も前から警告していた。アメリカ政府内での通説に反して、日本は核武装する法的権利を放棄したことはなかった。事実、1950年代初頭にさかのぼる一連の政策文書と政府内部の議論では、日本の政策決定者はきっぱりと核オプションを確保していた。最も説得力があるのは、日本政府の最高レベルで1969年に配布された内部向けの政策大綱で、日本は核兵器を開発する技術的・経済的手段を保持し、必要なら開発すると記されている。不吉な付言には、「いかなる外圧がかけられようとも」そうするのだと宣誓している。
CIAはこの1969年版政策大綱のことを知っており、日本がもし脅威を受けたなら核武装の意図と手段を持っていたことを示す他の証拠を突き止めていた。1960年代以来CIAが歴代大統領に送ったこの問題に関する報告書は、1965年にリンドン・ジョンソン大統領が佐藤栄作首相に約束した核の傘を、さらに強化することにつながった。ジョンソン大統領以降のすべての大統領は、日本の核ポテンシャルについて知っていたことをCIAは確認した。しかしこの警告は、クリンチ・リバーの実験装置や研究結果の移転といった基本的な判断を日本側と共に行う、官僚組織の担当者レベルまで届くことはほとんど無かった。
国防省の迂回
CIAは日本の原子力計画に対し何十年も前から疑いの目で見てきた。CIAとNSAはアメリカの敵国のみならず同盟国をも日常的に盗聴した。日本は核武装する潜在能力と、状況によっては核武装する意思を持っていることを、CIAは何年にもわたり一貫して報告していた。
しかし1987年、日本との核機密と核物質の取引を加速させようとケネディーが精力を傾けていた頃、CIAは締め出しを食っていた。皮肉にも、日本の核武装潜在能力について最もよく知っていた官庁が、日本への核技術移転についてアメリカ合衆国内部でどのような検討がなされていたかについて、ほとんど知っていなかったのだ。CIAには外国政府を監視する任務が課されていた。ライバル省庁に対する諜報活動を完全に自粛していたわけではないが、この件では日本にクリンチ・リバー計画を移転しようとするケネディーの国内での動きについて、CIAはほとんど何も知らなかった。最終的には、CIAは意志決定から排除されてしまった。ケネディーの敵役はペンタゴンということになった。
州政府、エネルギー省、ACDAは日本との全面的な協力関係を支持した。しかしペンタゴンは、ヨーロッパと日本の間を海上輸送される原爆級プルトニウムをテロリストが強奪する可能性を恐れた。ペンタゴンの論陣を主導したのは、レーガン政権の核兵器計画担当国防次官、フレッド・アイクルであった。アイクルのテロ攻撃についての懸念は本物だったが、公には議論されない水面下に、はるかに大きな懸念が潜んでいた。その問題はあまりにも政治的に不評なため、ペンタゴンの外部で取り上げられることはほとんど無かった。何年にも渡り国防省とCIAの敵国情報に関するアナリストたちは、日本が恐るべき核兵器システムを開発する能力を持っていると信じていた。政権内で日本の技術的能力を疑う者はほとんど無かったが、日本が核武装の政治的ポテンシャルを持つと信じたアイクル他数名は少数派だった。
ジェームズ・アワー大佐
ペンタゴンにはケネディーの味方が一人いた。ジェームズ・アワー大佐はアメリカ国防長官官房の日本担当職だった。彼はペンタゴンで日本の全てにかんする一番のオーソリティーだった。アワーは海軍での20年間のキャリアのほぼ半分を日本で過ごした。最初は、横浜を母港とする誘導ミサイル・フリゲート艦の指揮官を務め、その後は日本版の海軍兵学校(訳注:海上自衛隊幹部学校)で学んだ。日本文化に親しんだ多くの西洋人と同じように、アワーは宗旨替えをした。彼は日本語を話し、文学を読み、日本の古典舞踊である歌舞伎の通となった。
日本をめぐってアメリカの軍事官僚が国務省とエネルギー省に対立していた1986年に、彼の才能はペンタゴンで大いに役立つものだった。文民官僚たちは、特に核エネルギー分野で、日本を国際関係における躍動的で有能なパートナーと見ていた。これに対し、ペンタゴンの武将たちはずっと暗い展望を持っていた。朝鮮戦争以来、アメリカ軍は日本をほとんど居候と見なしていた。ソビエト、中国、北朝鮮を追い詰めていたアメリカ兵士たちの背に乗って、日本は経済を構築し、怪物的な成功を収めたのだ。証拠を検証するまでもなく、ワシントンの他の主要省庁に比べ、国防省が日本の主張に同調する可能性は極めて低かった。
この最大の例外がアワーだった。熱心な親日派である彼は、日米協定をペンタゴンに認めさせるために打って付けの地位にいた。1986年始め、アワーの名前がケネディーのスケジュール帳に現れるようになる。日本担当の防衛事務官として、提案されたプルトニウム取引に関するほぼ全ての書類と首脳会談に、アワーは内々に関与していた。彼は、日本大使館だけでなく、陰の日本在外公館として機能した五大日本企業のオフィスで、多くの友人や同僚とも毎週のように接触していた。ペンタゴンでの議論や戦略を、アワーがケネディーや日本人に漏らしたかどうかは定かでない。日米協定に関するペンタゴンの最大の関心事は、膨大な量の核兵器級プルトニウムと核廃棄物を、適切に防衛することは不可能な海路で輸送するということだった。
ペンタゴンは安全保障問題でケネディーと対立した。国防省はいくつもの報告書で、少なくとも駆逐艦を護衛に付けなければプルトニウム輸送を適切に防衛することはできないと結論した。海軍で20年の指揮経験を持つリチャード・スピアーのような男たちは、自らの警告をケネディーと同僚たちがルイス・ダンのACDA分析報告書に基づいて覆すのを目の当たりにした。日米協定が発効する前にパナマ運河を通った唯一のプルトニウム輸送で、海軍は運河通過の安全を確保するため小艦隊を配備した。この作戦はイラン・コントラで名高いオリバー・ノース中佐が立案したものだった。アメリカ合衆国はこのとき、フォギー・ボトムの国務省の密室でほぼケネディーとダンだけの手で作られた分析報告書のみを根拠に、何百トンものプルトニウムその他の核分裂性物質を、数人の警察官だけで警備された貨物船に載せて、公海上を輸送することを許可する準備が進んでいた。
当時の防衛副次官補だったフランク・ガフニーは、この輸送計画に対するペンタゴンの反応が、ほとんど全面的な反対だったと回想する。「そのような輸送を護衛できる方法など全く存在しなかった。これではまったく譲歩のしすぎだった。もし世界を回る輸送の途中で敵に決然と攻撃されたなら、日本人にはこれを止める意思も能力もない。」
アイクルとガフニーは、足が遅くて武装もほとんど無く、一隻の沿岸警備艇さえ撃ち払うことができない核物質輸送船のことを憂慮していた。第二次大戦時代の駆逐艦や武装モーターボートでも手に入れた国家やテロ組織なら、プルトニウムを積載した船をなすがままにできたはずだ。
ペンタゴンはプルトニウムの空輸を支持したが、墜落に耐えるはずのキャスクが試験で壊れ、この選択肢は行き詰まっていた。グリーンピースがその試験結果を入手し、メディアに公表した。これでプルトニウムと高レベル核廃棄物の空輸というペンタゴン好みの選択肢は潰えた。国防省は、日本人がプルトニウムを自国の核兵器計画に使うのではないかという懸念も持っていた。CIAを除けば、アメリカ政府のどの省庁も日本が将来核武装するとは確信していなかった。しかし他の省庁にとって核武装した日本が想像もできない掟破りであったのに比べれば、国防省は違和感を持っていなかった。そのとき継続していた産業・経済・イデオロギー的な反共産主義キャンペーンの中で、日本はおそらくアメリカの最も強力な冷戦同盟国だった。日本の軍隊は専守防衛で、1986年当時は軍事力を行使する意志を持っていなかったが、国防省の長い記憶には、かつて日本が極めて強大な軍事力を持っていたことが刻まれていた。多くのトップクラスの士官たちは保守的な軍人家系の出身で、第二次世界大戦で日本人と戦った軍人を父親や伯父に持っていた。国務省は日本を巨大な平和主義経済マシンになぞらえ、エネルギー省は日本を愛しい増殖炉の代用子宮になぞらえたのだとすれば、国防省はいまだに日本を眠れる巨人と見ていた。しかし今回は、その眠れる巨人はアメリカ同盟国だった。
日本が核武装すればアメリカの軍事負担は軽減される。中央ヨーロッパ平原での全面戦争に備えることがペンタゴンの主要任務だった。しかし韓国に2個師団を維持するとともに、中国やソビエト極東のミサイル基地に対する防壁とするため、核兵器を搭載した艦船と航空機を太平洋に配備する必要のあることが、ペンタゴンを悩ませていた。レーガン政権の戦略は、ソビエトの国家軍事力を崩壊まで押しやり、ソビエト連邦と衛星国を共倒れにさせようとするものだった。より攻撃的で核武装した日本は、アメリカのこの戦略にとってすばらしい財産になるはずだ。したがって国防省が戦術的観点からプルトニウムの海上輸送に反対して争ってはいても、プルトニウムと核技術の日本への移転に対する国防省の反対は、単に形だけのものだった。
アワーは舞台裏でのこのような感情を利用することができた。1986年の末、プルトニウムの海上輸送は重大な核拡散リスクとはならないとしたダンの報告書に、ペンタゴンは不承不承ながら署名した。この問題でペンタゴンは筆頭の官庁ではなかったと、ガフニーは説明する。したがってペンタゴンが本気で争ったとしても、国務省とエネルギー省はおそらく、ペンタゴンの反対意見や重要人物たちの昇進の野望を挫くために、支持を取り付けることができただろう。
米国サウス・カロライナ州の、サバンナ・リバー・サイト
サバンナ・リバーとハンフォードの秘密
クリンチ・リバーの技術が核兵器用に理想的なものだということを、ペンタゴンは知っていた。この計画での理論的な研究のほとんどは、オークリッジ国立研究所で行われていた。しかし装置開発と実地研究の多くは、他の2ヶ所の大きな核兵器研究所で行われた。サウス・カロライナ州エイケン近くのサバンナ・リバー・サイトにあるキャニオンと呼ばれるプルトニウム分離工場群と、ワシントン州ハンフォードである。
ワシントン州の施設は、1940年代初めにマンハッタン計画でプルトニウムを分離するために建設され、1950年代と60年代に新しいサバンナ・リバー施設へと大幅に拡充された。広島と長崎を壊滅させた爆弾を生み出し、このときは水素爆弾の核弾頭を造っていたこれらの工場群を、クリンチ・リバー計画が最盛期を迎えていた頃、毎年何十人もの日本の科学者たちが訪れていた。この計画の打ち切りが回避不可能になったとき、日本人はさらに大勢で訪れるようになっていた。
増殖炉は、プルトニウムで動く。プルトニウムは、増殖炉以外には核兵器しか使い道のない物質である。プルトニウムを作り出す技術は、核兵器計画そのものであった。アメリカ合衆国では、このような事業は、政府だけが所有する一握りの核兵器施設に限られていた。核兵器技術の民営化に内在するリスクを認識していたハリー・トルーマン大統領は、アメリカの原爆計画を民間企業と軍から独立した形で構築した。
クリンチ・リバー計画で最も機密性の高い技術は人里離れた核の「居留地」に置かれた。まさにその発端から、日本の業界関係者は、自分たちが獲得しようとしているものを見るために、アメリカ側の基地へ立ち入りを希望した。日米協定は5年の協力期間を提唱していた。この期間に、日本とアメリカの科学者たちは増殖炉計画で共同研究し、その資金の大部分は日本の電力会社によって賄われる。エネルギー省側の総括責任者だったウィリアム・バーチが言ったように、この案は「ゲームを続けるため」のものだった。ゲームを続けるためには、アメリカ合衆国は日本のルールでプレーしなければならない。そして日本が求めた特定の技術は、ずばり核兵器計画のためのものだった。
要求リストの1番にあがっていたのは、約30年にわたり核兵器用プルトニウムを量産してきたサバンナ・リバー・サイトにある、高性能のプルトニウム分離装置だった。サバンナ・リバーでは遠心分離器の建造とテストが行われ、アルゴンヌ国立研究所でさらに試験を重ねた後、日本に送られた。その行き先は、リサイクル機器試験施設(RETF)という紛らわしい名前を付けた工場で、使用済み燃料から核兵器級プルトニウムを分離するためのものである。RETFは日本の増殖炉計画の中心的存在だった。日本人は自分で高純度プルトニウムを製造するため大容量の工場を必要とした。この工場の建設中は、日本はフランスとイギリスに契約してプルトニウムを精製した。
サバンナ・リバーで軍事用プルトニウムを作ったアメリカの経験は、日本の計画にとって理想的だった。アメリカの他の兵器研究所も日本の計画に手を貸した。ハンフォード・サイトとアイダホ州のアルゴンヌ西研究所は、増殖炉「常陽」向けプルトニウム燃料集合体の何千時間にも及ぶ試験を行った。日本の科学者たちはこの試験に全面的に参加し、アメリカの核兵器開発体制をほとんど好き放題に使うことができた。日本がいつか核兵器を配備する時が来たなら、それを可能にしたのは日米協定を通した核兵器転用可能技術の大規模移転だったということになる。
米国エネルギー省が日本の統制された原子力発電会社である動力炉・核燃料開発事業団(動燃)との間で交わした協定は、核拡散防止の禁止事項を定めたリストに違反していた。この協定に欠けていたのは、日本がアメリカの同意なしには核物質を第三国に輸出しないこと、また、日本がアメリカの事前承認なしにはアメリカの核燃料を再処理してプルトニウムを取り出さないことについての保証だった。つまりアメリカ合衆国は、日本にあるアメリカ起源の核物質に関する全ての権限を、その後30年にわたって放棄してしまった。
この取引はカーターの原子力エネルギー法にも違反していた。このアメリカの法律は、アメリカの核物質の再処理あるいは再輸出は、核拡散リスクを増大させてはならないと定めている。日米協定は特に、兵器目的の流用をアメリカ合衆国に速やかに警告することを、何ら保証していない。事実、日本では東海村再処理工場を襲った事故で、70キログラム以上の核兵器級プルトニウムが行方不明となっている。これは20個以上の核兵器を製造できる量である。たった一つの協定で、アメリカ合衆国は核物質の管理権限を譲り渡し、急速な核兵器配備を防ぐための安全余裕度を全て放棄してしまった。技術移転の時点で、増殖炉計画が確実に作り出す唯一のものはプルトニウム、それも膨大な量のプルトニウムで、アメリカの核兵器に使われたプルトニウムより2倍も純度が高いものだということを、ワシントンと東京の官僚たちは知っていた。
この技術移転を画策したアメリカの官僚と科学者たちにとって、これは科学と国際協力に対して彼らが仕掛けたクーデターであった。広島と長崎の原爆惨禍に照らせば、核武装した日本という考えは一般には信じがたいものだったからだ。
日米協定は、アメリカの高速増殖炉と再処理技術を日本に大規模移転したことに加え、アメリカ合衆国から核物質を量的制限無く輸入し、無制限に再処理してプルトニウムを取り出し、他国に再輸出する権利を日本に与えた。
ジョン・グレン上院議員
元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員は、この協定の裏の意味を理解するのに十分な科学的知識を持っていたので、これに猛烈に反対した。しかしケネディー一派は、祝日の連休が始まるわずか数時間前に、協定案を不意打ちで米国議会に送付した。グレンの支持者のほとんどは既に地元に帰った後で、グレンは協定が可決されるのを黙って見ているしかなかった。連邦会計検査院院長は即座にこの協定を違法だと宣告した。にもかかわらず、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(父ブッシュ)は協定に署名した。日米協定に署名する前は、アメリカ起源の燃料からのプルトニウム分離の要求を、アメリカ合衆国はその都度ケース・バイ・ケースで検討していた。ところがこの協定は、アメリカ起源の核物質を日本国内で再処理して貯蔵し、使用済み燃料をプルトニウム分離のためヨーロッパの指定された施設へ輸送する、包括的権限を日本に与えた。
法案が署名され法律が成立すると間もなく、ケネディー一派は応分の報酬にあずかった。協定のペンタゴン通過でケネディーを助けた海軍大尉のジェームズ・アワーには、出世の道が与えられた。法案が成立するとすぐ、アワーはネイビー・ブルーの海軍制服をバンダービルト大学終身教授のツイード・ジャケットに取り替え、日本企業が全額負担するシンクタンクでの新しい地位を獲得した。
マゴールドリックとベンゲルスドーフは数年後に政府職員を退官して個人でビジネスを始め、日本の原子力産業の個人コンサルタントとして何十万ドル(数千万円)を稼いだ。
上院がケネディーの日米原子力協定を批准した1988年の時点で、日本は世界でプルトニウムを負債ではなく財産と見なす数少ない国々の一つになっていた。ソビエトとアメリカは、この大量の長寿命放射性元素を安全に貯蔵する方法を見つけようと試みていた。ドイツやイタリアでは、民衆の強い抗議によって政府はプルトニウムを国境の外で貯蔵せざるを得なくなっていた。
日本の核兵器運搬手段の開発計画
1970年代の時点で、日本は宇宙計画を熱心に推進するようになった。日本は第二次世界大戦の敗戦から立ち上がり、もの作り・技術大国としての地位を確立していた。ジェット機時代は宇宙時代に席を譲り、日本のような覇権国家は自前の宇宙計画を持つ必要があった。日本ではよくあることだが、この決定は感情的というよりはむしろ実用本位だった。将来の通信は人工衛星に依存し、戦争は長距離ミサイルで戦われると考えられた。1969年の時点で、日本はすでに短期間で核武装する能力を維持することを決定していた。始めから、長距離弾道ミサイルと人工衛星の誘導能力は、この防衛構想の一部だった。
1969年に、日本は積極的な宇宙の探求を開始し、宇宙開発事業団(NASDA)を開設して潤沢な資金を与えた。この事業団の目的は宇宙の有効活用だった。日本は月ロケット競争に突入する気はなかった。日本が求めていたのは通信衛星と監視衛星だった。そして日本はその方法を知っていた。
「平和のための原子力」の下でアメリカが核技術を日本に移転したのと同じように、アメリカは日本に宇宙開発の秘密も開示した。NASDAはN-I液体燃料ロケットをアメリカの援助で開発し、1977年に通信衛星「きく2号」を打ち上げるために使った。この成功によって日本はアメリカ合衆国とソビエト連邦に次いで人工衛星を静止軌道に投入した3番目の国となった。
「きく2号」打ち上げ成功の後、NASDAはN-IIロケットとH-IIロケットを開発し、無線通信、放送、気象観測などの地球観測機能を持った様々な実用衛星を打ち上げた。大型で効率の高い国際クラスの打ち上げロケットとなったH-IIは1994年から打ち上げられてきた。H-IIの打ち上げ能力は、核弾頭を大陸間射程で打ち上げる能力に対応していた。「きく2号」の初期の成功にもかかわらず、日本の悩みの種は正確さの欠如だった。アメリカ人やロシア人とは異なり、日本のロケット科学者たちは人工衛星を正確な軌道に投入する能力を持っていなかった。
「きく2号」の後継機は不正確で不安定な軌道が続発していた。設計寿命を10年とした「きく3号」は、軌道を保つためにわずか2年半で燃料を使い果たし落下した。「きく4号」は2年も持たなかった。困難な問題に直面した科学者ならどこの国でもそうするように、日本人は近道を探した。それはソビエト共産主義の凋落とともにやってきた。
1991年、科学者たちが西側諸国に脱出し、空気も漏らさぬかに見えたソビエト宇宙・ミサイル計画の機密保持に大穴があいた。日本の秘密情報機関はこの混乱を利用し、SS-20ロケットの設計図と、ソビエトで当時もっとも進んでいた中距離弾道ミサイルの重要な第3段目の部品を入手した。3個の弾頭を搭載するSS-20ロケットは技術的な秘宝で、日本はここから多くのミサイル誘導技術を学んだ。ロシアのミサイルから学んだのは、一つのロケットに搭載された複数の弾頭を別々の位置に誘導する方法だった。多弾頭独立目標再突入ミサイルと呼ばれるこの技術は、現代の全ての弾道ミサイル兵器の鍵となっている。ひとつのミサイルから別々の目標に向けられた複数の弾頭を打ち出せば、これに対する防御はほとんど不可能となる。
日本は「ルナーA」月探査機も開発した。この宇宙探査機は多くの点で大陸間弾道ミサイルに似ている。「ルナーA」は3つの探査機を月面上の別々の目標に打ち込むように設計された。この技術は弾道ミサイルに直接応用可能なものだ。多弾頭の再突入と標的技術の実験に加え、頑強な電子機器を作る日本の能力も試験できるはずだった。探査機に搭載された機器は、月面に衝突し突き刺さる際の強大な圧力に耐えなければならない。これはB-2爆撃機のために開発されたB-61-11のような小型のバンカー・バスター核兵器のために、アメリカ合衆国が完成した技術と全く同じものである。「ルナーA」計画でこの技術が完成すれば、日本は世界と肩を並べる高性能の核兵器と運搬ロケットを開発することができる。
地域安全保障問題と初期の破局的原子力事故
ウォルター・モンデール大使
核兵器に対するムードが日本で変化し始めていた。これをおそらく最も露わに述べたのは、国務大臣ハダ・ハツモ(訳注:モンデール大使の在任中、羽田 孜[はた つとむ]が細川内閣で外務大臣を務めている)が大使館での夕食会でウォルター・モンデール駐日大使にささやいた言葉であった。後に中国への大使となったハダ(訳注:羽田 孜がその後在中国日本大使になったことはない)はモンデールに、もし北朝鮮が核爆弾を獲得するか地域安全保障問題が悪化したなら、日本は核武装しなければならないと語った。そのために日本の民衆を教育しなければならないが、そのことは問題ないとハダは語った。中国と北朝鮮が核実験を行う中、数年の間にこの地域の安定性はますます脆弱になっていた。日本は地域の問題に迅速に対応する準備をしなければならないと感じる。1980年代初め、バブル経済の崩壊で、日本は数多くの分野で支出を削減した。しかし核エネルギーへの傾倒は止まらなかった。この領域では、日本はまだ世界のリーダーだった。
1990年代、日本で最も大きな権力を持った政治家の一人である東京都知事の石原慎太郎は、初めて公然と核兵器システムの獲得を主張した。驚くべきことに世間の論議はほとんど無く、都知事は大差で再選された。
当初から、日本の増殖炉計画はある確信に基づいていた。それは、アメリカ人とヨーロッパ人が失敗したこと、つまり極めて複雑な増殖炉サイクルを安全に運転して利益を上げることを、日本の産業ならやり遂げられるという確信だった。この考えは、製造業での約60年にわたる成功によって育まれた日本国家の威信に根付いていた。日本の献身的で教育の行き届いた労働力と、もはやブランドとなった品質管理によって、日本は数々の産業で世界をリードしていた。原子力発電は、日本の優れた労働者と経営者が可能にした数々の成功談に、さらに一ページを加えるだけだと信じられていた。
30年前なら、日本に対して最も批判的な人々でさえ、西洋の努力が失敗した分野でも、日本なら成功を収めることができると同意したかもしれない。しかし、破局的な原子力事故の続発で、原子力産業が他の分野とは全く異なることが明らかになり、この楽天主義は間もなく衰えてしまった。1995年の高速増殖炉「もんじゅ」と1997年4月の東海村再処理工場での二つの事故で、深刻な放射能漏れが起き、どちらの事故でも隠蔽工作が行われた。最もひどかったのは高速増殖炉「もんじゅ」での火災と放射性ナトリウム漏れ事故だった。「もんじゅ」を運用していた国有企業の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は、国民に対し事故に関して繰り返し嘘をついた。動燃は事故原因が写ったビデオ映像を隠そうとした。破裂した二次冷却系のパイプから2〜3トンと推定される放射性ナトリウムが漏出し、高速増殖炉技術の歴史上この種の漏洩事故としては最大のものとなった。虚偽の情報を出したことに対して動燃が付けた理由の一つは、「もんじゅ」が日本のエネルギー計画の中で極めて重要なので、「もんじゅ」の運転継続を脅かすことはできないというものだった。言い換えれば、国民の安全は増殖炉計画の二の次だったと言うことだ。
12月11日早朝に福井県職員たちの勇気ある行動がなければ、動燃の隠蔽工作は成功していただろう。隠蔽の疑いがあったので県職員たちは発電所に立ち入り、ビデオテープを差し押さえた。この行動は、先に福井県の敦賀1号機で1980年代初頭に起きた事故の直接的な結果であった。福井県職員たちはこの事故を調査することを許可されなかった。「もんじゅ」の事故が起きたとき、職員たちは二度と追い返されないことを決意した。動燃自身がビデオテープ隠しに関与していたことが暴露されると、一人の動燃幹部が自殺した。
日本の核施設で深刻な問題が続発する中、第二次世界大戦以後見られなかった軍事的対応が日本人の心に戻ってきた。1999年の春、日本の領海に侵入して留まった北朝鮮のトロール船を日本の艦艇が砲撃した。終戦以来、この行動は日本の機関砲が火を噴いた最初の例となった。純粋に軍事的観点から見ればこの交戦の重要性は低いが、この一件は日本の軍人魂が再び目覚めたことを象徴していたので、北太平洋地域の注目を集めた。
日本を除けば、フランス、ロシア、イギリスだけが、今もプルトニウムを財産と見なしている。これらの国々は商業再処理産業に何百億ドル(何兆円)も投資してきた。アメリカ合衆国は、サウス・カロライナ州バーンウエルの、サバンナ・リバー・サイトの門からすぐ外にある、唯一の再処理工場を、一度も運転することなく廃止した。フランスのラ・アーグとイギリスのセラフィールドにある政府所有の巨大な工場だけが、海外顧客のために使用済み核燃料から何トンものプルトニウムを分離している。最大の顧客は日本で、増殖炉を造る能力への自信とは裏腹に、イギリスとフランスからプルトニウムを購入することを選んだ。
フランスとイギリスの再処理業者が日本に返還するプルトニウムは、核兵器に使用するのに十分な純度を持ち、アメリカ合衆国で採掘されたウランから作られたものも含まれている。レーガン政権のリチャード・ケネディーによって押し通された日米協定のおかげで、アメリカ合衆国はこの核物質の移動と使用に関して何の影響力も行使できない。したがって日本の悲惨な原子力事故の後でさえ、核兵器を制限しテロ組織が核物質を入手することを防ぐ努力にもかかわらず、今もアメリカ起源の核物質がトン単位で日本に輸送されている。輸送船1隻には何百発もの爆弾が作れるプルトニウムが載っている。
日本人は世界で最も熱心な核兵器反対論者だが、日本の安全保障は核兵器と密接に結びついている。アメリカの核の傘は、今のところ中国や北朝鮮のような核武装した隣国に対する日本の最後の防衛線となっている。そして日本の指導者層の理由付けは、日本を守るためにアメリカが核戦争に踏み込む確証がないというものだ。中国や北朝鮮からの爆弾が国内で爆発する可能性があるので、多くの日本の指導者たちは、核の選択肢を好ましいというだけでなく不可欠だと考えるようになった。
リチャード・ケネディーは1998年に死去し、アーリントン国立墓地に埋葬された。その後の年月で、彼の弟子たちは安楽な生活を送った。しかし彼らがケネディー特使の働きによる果実を享受している間に、彼らが作り出した政策の現実は最も劇的な形で最終章を迎えようとしていた。
イギリス、カンブリアのシースケールにある、セラフィールド核再処理工場
セラフィールド核再処理工場はサバンナ・リバー・サイトをイギリス政府所有にしたような施設である。かつてセラフィールドは、プルトニウムの生産に特化していた。プルトニウムは世界で最も危険な物質で、原子爆弾の鍵を握る材料である。セラフィールドは数年前までは近隣の街の生活を支えていた。世界中の原発で放射線照射された原子炉燃料から、貴重なプルトニウムを分離するために、6千5百人がセラフィールドで働いた。これは危険な作業である。顕微鏡でしか見えないプルトニウム粒子が、肺癌や血液のガンを引き起こすのに十分なのである。セラフィールドはプルトニウムをトン単位で生産し、同時にさらに大量の他の放射性廃棄物も生み出した。サバンナ・リバーのように、イギリスの工場は放射能を周囲の環境に放出した。1952年以来、アイリッシュ海の魚貝類や海草、そしてこの地域の鳩までが、セラフィールドからの放射性廃棄物にひどく汚染されてしまった。このプルトニウム工場は、10年間で300億リットルの放射性廃棄物を海へ放出した。
セラフィールドの再処理産業の最も危険な結果は、世界の反対側で引き起こすかもしれない軍備競争である。この理由は、セラフィールドを運営する国有企業の英国核燃料会社(BNFL)が、最高値を付けた買い手のためにプルトニウムを量産したからである。引退したイギリスの核兵器設計者であるフランク・バーナビー博士は、セラフィールドで生産され繰り返し日本に輸送されたプルトニウム燃料は、核兵器用として十分なほど純度が高いと語る。アメリカ合衆国とイギリスの両者が、いわゆる原子炉級プルトニウムで核兵器を作り、実験も行ったと彼は説明する。
核不拡散の専門家である故ポール・リーベンタールは、セラフィールドに最も近い街であるシースケールの人々は、期せずして原子爆弾になるかもしれないプルトニウムを供給したのであり、「サッチャー政権のイギリス政府は雇用確保の名目でこれを行ったのだ」と語った。
ケネディー特使の協定は、プルトニウムをテロ攻撃の可能性から守るため、政府の専用艦船による護衛付きで核物質を輸送する船舶を求めていた。この文言の意図は、輸送船を軍艦で護衛することを求めるものだったが、日本の国内圧力に対応して、船舶会社はアメリカ、イギリス、日本の政府を説得し、二隻の輸送船が相互に護衛し合うことを許可させた。費用を節約したい日本の電力会社の連合体が部分的に所有するBNFLの、さらに子会社であるパシフィック・ニュークリア・トランスポート・リミテッドという船舶会社が、これらの輸送船を所有する。
日本、フランス、イギリスの間で続けられる核貿易は、間もなく日常的なものになった。アメリカ起源の原子炉廃棄物が毎年何千トンも日本のために輸送されていることは、1995年の春まではほとんど問題にされなかった。フランスとイギリスがプルトニウムを日本に送り続けることには、利益を超えたもう一つの理由があった。そうしなければ、これをロシアがやるだけなのだ。経済的には、需要と供給のバランスは、世界で唯一の真剣なプルトニウムの買い手である日本にとって有利である。核武装した日本という展望に直面し、これらの国々の間で繰り広げられた血生臭い歴史を考えたアジアの日本近隣諸国は、フランス政府所有の再処理業者であるアレバ社からの購入を始めた。
パシフィック・ピンテイル号
福島の核惨事は、間一髪で危機を免れた日本で最初の核兵器級プルトニウム事故ではなかった。1995年3月20日、何百発の原子爆弾を作れるプルトニウム廃棄物を積載したパシフィック・ピンテイル号が、嵐の中をチリの領海に入ろうとしたとき、日本はチリの海岸を汚染する寸前だった。
1995年3月20日、ブレイン・アクストン船長はそれまでの経験でも見たこともない悪天候に見舞われていた。軽武装したトローラー船のパシフィック・ピンテイル号は、荒れる海の中で難航し、40フィート(12メートル)の波が船体に叩き付け、しぶきは嵐の中を真横に飛んでいた。世界一危険な海である南米大陸先端のホーン岬沖で南極嵐の真っ直中にいただけでなく、この悪天候はアクストン船長が直面していた数々の問題の一つに過ぎなかった。
ピンテイル号は、積み荷の内容をめぐってチリ海軍の警備艇とにらみ合いを続けていた。フランスから日本へ運ばれる積み荷は、プルトニウムを含んだ高レベル放射性廃棄物のキャニスターが28本だった。もしピンテイル号が沈むようなことになれば、猛毒の積み荷が南米大陸の西岸全体を汚染することになりかねない。アクストンとチリの船長は、共に大惨事の危険に気付いていた。
波しぶきと土砂降りの雨の中、アクストン船長はチリの国旗を掲げた警備艇を辛うじて視認することができた。チリの船長は、ピンテイル号がチリの200海里専管水域に侵入することを防ぐため、いかなる手段をも使う権限を与えられていると、既にアクストンに警告していた。アクストンにはこの文言の意味は明白だった。これは、最も礼儀正しい言い回しで「反転して帰れ、さもなければ撃沈するか、拿捕する」と言っているのだった。
チリ政府は、もしピンテイル号が沈むのなら、それはチリ経済の主力である南洋漁業の漁場からできるだけ離れた場所でなければならないと、心を決めていた。チリ警備艇の船長は、沿岸警備周波数で警告を叫び続けた。警備艇が荒海を乗り越えてピンテイル号に照準を合わせようとしているとき、船長はサンチアゴに無線で砲撃の許可を求めていた。許可は与えられなかった。アクストン船長は、チリ人は核廃棄物の積み荷を自国の海に沈めたくない方に賭けた。海はあまりにひどく荒れていたので、どちらの船も何とか浮いているだけで精一杯だった。拿捕のために乗船するなど論外だった。チリの警備艇はピンテイル号に、パタゴニア沿岸の風下で嵐を避けながら、チリ水域の航行を続けさせるほか無かった。ひどい話は、荒天で損害を被ったピンテイル号が2週間後に日本の水域に到着したとき、日本の東には台風が発達中で、日本の所有者たちはピンテイル号に、日本沿岸から300海里離れて台風の外で待つように命令したのだった。
2010年9月、フランスのアレバ社は、福島第一原子力発電所3号機に、最初のプルトニウム・ベースの混合酸化物(MOX)燃料を装填した。年月が経つにつれ、さらに多数の日本の指導者たちが、軍備推進、原子力推進を大胆に表明するようになった。2011年3月の津波と核惨事に先立つ数週間に、中国漁船の船長が海上保安庁の艦船に彼の船を体当たりさせて逮捕されたあと、核武装した日本の問題は公然と議論されるようになった。イギリスのインディペンデント紙との対談で、石原慎太郎東京都知事は日本が1年以内に核兵器を開発して世界に強いメッセージを送る可能性を肯定した。「日本の全ての敵国、すなわち直近の隣国である中国、北朝鮮、ロシアは核兵器を持っている。こんな状況に置かれた国が他にあるか?
コストのことを話題にしたりする人がいるが、事実は、外交的交渉力とは核兵器を意味する。すべての[国連]安保理[常任]理事国が核兵器を保有している」と石原はインディペンデント紙に語った。海上保安庁の艦船に体当たりした容疑がかけられた中国漁船の船長を、警察が釈放する形で終わりを迎えた中国との衝突は、アジアにおける日本の弱みを露呈させたのだ。「[もし日本が核兵器を持っていたら]中国は尖閣諸島に手を出そうとはしないだろう。」
都知事が声明を発表する前の週に、北京は2011年の防衛予算を13パーセント増額することを公表した。日本との緊張をさらに高めたのは、2011年1月に中国は公式に日本を抜いて世界第2の経済大国になったことである。
核武装した日本は、第二次大戦中に日本が領有する北方4島を占拠したロシアからも尊敬を勝ち取るだろうと都知事は語った。さらに都知事は、日本は武器の製造と輸出に関する全ての憲法上の制約を撤廃すべきだと助言した。「日本は高性能の武器を開発して国外に輸出すべきだ。アメリカが航空機産業を破壊する前には、日本は世界一の戦闘機を作った。日本はその地位を取り戻せるかもしれない。」日本の国粋主義者たちは、アメリカ占領時代にアメリカ合衆国によって書かれた日本の戦後憲法を廃棄すべきだと主張してきた。憲法は日本が戦争を始めることを禁じている。
都知事がこれらの声明を発表した1ヶ月後、福島原子力発電所でプルトニウム・ベースのMOX燃料を装填した3号機を含む、3つの原子炉がメルトダウンした。初めて日本の一般市民が、強力な日本の電力会社と日本政府との関係について、また備蓄されたプルトニウムについて、真剣な問いを発することを始めた。
それから1年後、答えよりも多くの疑問が残っている。
編者注:1991年以来、国家安全保障通信社(NSNS)の記者らは隠された日本の核兵器開発計画を調査した。NSNSの調査は数年を要した。今も進行中の福島第一原子力発電所の悲劇につきまとう、偽情報と秘密主義の理由について、NSNSは独自の洞察を得た。この記事はNSNSの現役記者や、元記者たち、フェロー、インターンの調査結果をまとめたものである。
参考資料(機密解除文書)
ジョセフ・トレント(Joseph Trento)
ジョセフ・トレントは、印刷・放送媒体の両方で、調査ジャーナリストとして35年以上にわたり精力的に執筆してきた。1991年に国家安全保障通信社(NSNS)で働く前は、トレントはCNNの特命報道班、ウィルミントン・ニュース・ジャーナル、有名なジャーナリストであるジャック・アンダーソンの下で働いた。トレントはピューリツァー賞に6回ノミネートされ、「テロへの前奏曲(Prelude to Terror)」、「CIA秘史(The Secret History of the CIA)」、「未亡人(Widows)」、「惨事の処方箋(Prescription for Disaster)」をはじめとする5冊の本を出版した。ジョセフは現在、DCBureau.orgの編集者を務めている。