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Monday, July 16, 2018

ロジャー・パルバース氏、ジャン・ユンカーマン氏との鼎談(週刊金曜日7月6日)A Roundtable Talk with Roger Pulvers and John Junkerman

『沖縄は孤立していない―世界から沖縄への声、声、声。』の出版記念鼎談を、映画監督ジャン・ユンカーマンさん、作家・映画監督のロジャー・パルバースさんと行い、『週刊金曜日』7月6日号に掲載されました。許可を得て転載します。
(記事画像のみの拡散は禁止です。この投稿のURLを拡散してください)






『沖縄は孤立していない』については本ブログ左上の書評コーナーもご覧ください。

乗松聡子

Saturday, July 14, 2018

『沖縄は孤立していない 世界から沖縄への声、声、声。』レビュー Book reviews -- Okinawa Is Not Alone: International Voices for Okinawa


新刊『沖縄は孤立していない - 世界から沖縄への声、声、声。』(金曜日)を読んだ方からの声を二つ、紹介します。

最初は、「市民の千葉をつくる会」ニュースレター6月号に載った、鎌倉淑子さんによるものです。次は、モントリオール9条の会の、長谷川澄さんによるものです。ありがとうございました!

このブログの左上に、この本のレビューリンク集もありますのでそれも併せてご覧ください!


乗松聡子




本の紹介  

「沖縄は孤立していない」――世界から沖縄への声、声、声。

編著 乗松聡子       
                          株式会社金曜日 2018/5月刊 1800円 

この本は、2014年秋から2017年秋までの3年間に、「正義への責任」として37人の人物が沖縄に送ったエールとサポートを乗松さんが一冊にまとめたものである。

私が名前を知っているジョン・ダワー、ジャン・ユンカーマン、オリバー・ストーンもいるが、知らなかった人の方が多い。ありがたいことに、編者、乗松聡子さんが、どんな人なのかを短く紹介してくれている。歴史学者、天文学者、翻訳家、文学者、映画監督、海洋生物学者、言語学者、退役軍人、平和運動家、弁護士、ジャーナリスト・・・・。
本文やインタビュー、紹介文から、それぞれ人間としての魅力が伝わってくる。 そして、一人として「評論家」はいない。「沖縄で今起きていること」に自分が責任があるといい、引き続き行動するという。
私たちに「正義への責任」という意識は希薄だと感じる。そもそも「正義」ということについて懐疑的だ。それは、戦後アメリカから民主主義を学んだ私たち(現在80歳代から70歳代)が、「民主主義とは多数決である。」と胆略的に思い込み、“多数が常に正しい”と民主主義を誤解したことに一因があるのではないかと思うがどうであろうか?「みなさま、そうなさっていますよ」と言われると安心してその列に加わってしまう。「あなたも責任があるのではないか」という問いは“避けたい。いやなのだ”。
原発事故の責任をだれもとっていない。「もり・かけ問題」でも、トカゲのしっぽ切りで終わらせたいようだし、「うそつき」についても厳しくない。特にこの頃は政治家が嘘をつくので「噓つきは泥棒の始まり」の格言も影が薄い。「ウソ」は不正義だと思うが。
冒頭の特別寄稿、ジョン・ダワーの「あらゆる暴力の時代」は第二次世界大戦後73年間、アメリカがとってきた「米国主導の国際秩序」(軍事化された、核抑止力を含む)を時間軸によって分析、批判していて勉強になった。今や宇宙までも我がものという米軍!
2005年に「若葉・九条の会」を立ち上げ公民館で学び始めてから判ったことの一つに、私たちを悩ましている根本原因は「日米地位協定」にあるということである。私が「自分の責任」に向き合う=「憲法的責任」(憲法が期待している、主権者としての国民(私)の責任。
沖縄の苦しみも安保条約・日米地位協定に原因があることは明白である。豊かなサンゴ礁があり、ジュゴンが棲む海にコンクリートブロックと大量の土砂が入れられている。居ても立っても居られない気持ちだ。サッカーW杯の試合会場にはためく「日の丸」のように“のーてんき”になれない。でも、諦めないね。2018/4/27 の板門店宣言は、世界の終末時計の針を30秒戻したかもしれない。                                                              若葉区・鎌倉淑子
(「市民の千葉を作る会」6月号ニュースレターより)



『沖縄は孤立していない』の2つの意味 

長谷川澄
(モントリオール9条の会)

「沖縄は孤立していない」を読んで、2つの意味で沖縄は孤立していないことに気付いた。一つは勿論、兵隊や、研究者や、映画制作者や、沖縄文学の翻訳者、等々の仕事を通して、沖縄に関わった、世界の様々な人たちが、沖縄の問題を我が事として、発信したり、実際に沖縄に行って、反対闘争に加わったりして、沖縄で起きている不正を正そうとしていること。もう一つは、沖縄の問題は、孤立した問題ではなく、グアムで、プエルトリコで、済州島で、起きている問題なのだということ。これらの基地のある土地で運動していた人たちが沖縄に連帯して書いている章は、沖縄問題に関心のある全ての人に読んでもらいたい。この本に登場する多くの人が世界中に800(!!!)もある、米国の軍事基地と米帝国について言及している。800とは常軌を逸している。しかし、数は少なくとも、他の国の軍事基地も同じ問題を持っているに違いない。(例えば、フランスが核実験をした太平洋の島々も未だに問題を抱えている)沖縄は軍隊の存在そのものが持つ問題を見せている。私たちは、第二次大戦の沖縄や満州で起きたことから、軍隊が戦時に一般市民を決して守らないことを学んだ。しかし、戦時でなくても、そこに軍隊が存在するだけで、核の持ち込み、自然破壊、騒音、必ず起きる性暴力、等々で、市民の生活は脅かされる。軍隊は、他国からの侵略の抑止力になるより、挑発になっている。この本は、沖縄の問題を通して、軍隊とは、

何のために、だれのためにあるのかを真剣に問いかけていると思う

Saturday, July 07, 2018

チャールズ・エイゼンシュテイン:われらの幸福な新生活? 発展のイデオロギー Charles Eisenstein: Our New, Happy Life? The Ideology of Development

 私が育った1970年代以降、開発・発展すれば幸せになると信じて、がむしゃらに勉強し高度経済成長を通り抜け、気がつくと他者とは分断された都市の孤独の中に生きるようになってしまった。家のように感じていた企業は、今では資本主義の本性を現しブラック化しているように見える。
 いっぽう、途上国(この呼び方自体がバイアスを含んでいるのだが)に暮らしてみると、彼の地の人たちは、自分たちは貧乏だからと言いつつ、垣間見える生活の中には、日本では決して見ることのない種類の喜びがあるのがわかる。

 この2つの異なる社会のモードはいったい何が違うのだろうか? 文筆家・講演家のチャールズ・エイゼンシュテインは、前者は「分断」、後者は「共感」の原理に基づいていると書く。現代社会にあふれる暴力や戦争は、分断の原理に基づく資本主義と産業・消費社会が生んできたのであって、幸せをもたらすのは共感の原理(私があなただったら?)であり、社会のあらゆる領域にそれが必要とされると説く。
農業の未来は、もっと強引な飼育やもっと強い農薬や、もっと多くの生きた土を産業の原材料へと作り変えることにはない。農業の未来は、生き物としての土を知り、生きた土の健全性を養い、土の健康が自分自身の健康と切り離せないと知ることにこそある。
 共感の原理に基づく非暴力の実践として、草や虫を敵としない自然農、森の生態系と共に生きるフォレストガーデニングを、残る人生をかけて形にしてみたいと私は考えている。
 チャールズ・エイゼンシュテインが自身のウェブサイトに発表した文章「Our New, Happy Life? The Ideology of Development」を翻訳して紹介する。
原文:https://charleseisenstein.net/essays/7061-2/
(前文・翻訳:酒井泰幸)
★翻訳はアップ後微修正することがあります。



われらの幸福な新生活? 発展のイデオロギー

チャールズ・エイゼンシュテイン著
2018年5月24日

 ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の一場面、〈党〉が発表するのは、チョコレートの配給を30グラムから20グラムに「増加」したこと。主人公のウィンストン以外は誰も、配給は増えたのではなく減ったということに気付いていないようだ。

 「同志諸君!」熱のこもった若々しい声が叫ぶ。「傾聴願います、同志諸君! 素晴らしいニュースです。我々は生産性向上のための戦いに勝利しました! 全種類の消費財の生産高に関する最終報告によれば、生活水準が昨年に比べ少なくとも20%上昇したのです。オセアニア各地で本日午前、止むに止まれぬ思いから自然発生的なデモが発生、労働者たちは工場や事務所を一斉に出て、賢明なる指導力を発揮して幸福な新生活を授けてくれた〈ビッグ・ブラザー〉に対する感謝の念を記した幟をおのおの手にし、通りを練り歩きました。」

 続いてアナウンサーは統計を次々に発表し、すべては良くなっていることを示した。最近よく使われるようになった言葉が「われらの幸福な新生活」だ。もちろん、チョコレート配給と同様、その統計がインチキなことは明らかだ。

 この言葉、「われらの幸福な新生活」を思い出したのは、ニコラス・クリストフがニューヨーク・タイムズに書いた記事と、スティーブン・ピンカーがウォール・ストリート・ジャーナルに書いた記事の2本を読んだときだった。どちらの記事も、豊富な統計資料をもとに、人類の状況は全体的に歴史上例を見ないほど良くなっていると断言した。戦争、自動車事故、飛行機事故、さらには銃による暴力をみても、死者数は減少している。貧困率は史上最低、平均余命は伸び、識字率は過去最高、電気と水道を利用でき民主国家に住む人口は史上最多だ。

 『1984年』と同様、これらの記事は社会の基本的方向性を肯定し称賛する。我々は正しい方向に向かっている。独善的な自信に満ちたこれらの記事は、理性と科学、西洋の進んだ政治姿勢のおかげで、我々はより良い世界に向かって前進しているのだと伝える。

 『1984年』と同様、これらの主張には既成秩序にひどく奉仕するゴマカシがある。

 『1984年』とは違い、このゴマカシは偽りの統計で作り出したものではない。

 このゴマカシとその向こうに何があるかを説明する前に、私は読者の皆さんにお断りしておくが、この文章は事態がますます悪くなることを証明しようとするものではない。人類は前向きな進化の道筋を歩いているという、クリストフとピンカーの基本的な楽観論に、じっさい私は同意する。しかし、この進化の道を歩むためには、文明進歩の勝者の物語が無視している恐怖と苦痛と喪失のことを認め、我々自身に取り込む必要がある。


数字の後ろに隠れているもの


 言い換えれば、我々はスティーブン・ピンカーの統計が省略しているまさにそのものに、正面から取り組む必要がある。一般的に言えば、数値に基づく評価は、見たところ客観的だが、何を数値化するか、どのように数値化するか、何を数値化しないかを決める人々の、隠れたバイアスが入っている。また、数値化できないものごと、本来測定できないものごとも、過小評価される。いくつか例を挙げよう。

 ニコラス・クリストフは1日2ドル以下で暮らす人の数が減少したことを称賛する。この統計には何が隠れているのだろう? そう、狩猟採集の先住民や昔ながらの村人が、住む土地を追い出され、大農場や労働搾取工場へ働きに出るたび、彼や彼女の現金収入はゼロから1日数ドルへと上昇する。この数字は良いものと見える。GDPは上昇する。これに伴って悪化するものは目に見えない。

 過去数十年、南側諸国では大勢の人々が田舎を捨て急成長する都市へと逃れた。そのほとんどは金銭経済の外で暮らしていた人々だ。インドやアフリカの小さい村で、多くの人々が食物を調達し、家を建て、衣服を作り、楽しみを作り出していたのは、自給自足やギフト経済(贈与経済)の中だったので、お金はほとんど必要なかった。開発政策とグローバル経済の結果、債務返済のため外貨獲得を迫られた国々では、必ず都市化が起きる。ラゴスやコルカタのスラムでは、1日2ドルなら困窮生活だが、昔ながらの村でなら、それでも金持ちかもしれない。発展と都市化の傾向を当然と思うなら、スラム居住者が1日2ドルから、たとえば5ドルへと上昇するのは、そのとおり、良いことだ。だがもしこの尺度だけに注意を向けると、より深いプロセスが見えなくなる。

 クリストフは、人間の健康については2017年が史上最も良い年だったと断言する。感染症の流行を評価するなら、彼は確かに正しい。平均余命も世界的に上昇を続けている(だがこれは頭打ちになりつつあり、米国のような国では低下を始めたところもある)。ここでもまた、これらの尺度は不穏な傾向を見えなくする。自己免疫疾患、アレルギー、ライム病、自閉症といった数多くの新たな病気が、かつてない水準に達した薬物依存、うつ病、肥満と合わさって、先進国の間で身体的活力の低下を招き、これは途上国でも次第に表面化している。膨大な社会的資源(米国ではGDPの5分の1)が病人の世話に費やされ、社会全体が病んでいる。

 二人の筆者はそろって識字率のことも書いている。この統計は何を隠しているのだろう? ひとつには、識字への移行は、多くの地域で口頭伝承(言い伝え)の破壊を意味し、文字を持たない言語すべての絶滅を意味した。識字は、より広い社会的パターンの再編成、つまり近代化の一部だ。近代化には文化・言語の均一化が伴う。何千万もの子供たちが学校に通って読み書きや計算を学ぶ。歴史と科学とシェイクスピアが取って代わったものは、一世代前なら学んでいたであろう、ヤギの群れを世話する方法、大麦の育て方、レンガを作り、布を織り、儀式を執り行い、パンを焼く方法だ。昔の子供たちが学んでいたのは、一千種の植物の使い方や百種の鳥のさえずり、一千の物語を綴る言葉や百の踊りを踏むステップだったろう。識字社会への文化変容は、はるかに大きな変化の一部だ。道理をわきまえた人なら意見が分かれるだろう。この変化が良いものか悪いものか、土地に根付いたコミュニティーよりデジタルSNSに頼る方が幸せかどうか、土地の動物や植物のことより企業のロゴをたくさん知っている方が幸せかどうか、土をいじるよりも記号言語を操る方が幸せなのかどうか。それでもこの変化が明確な進歩を意味すると言えるとしたら、偏見に満ちた発想だけだ。

 ここで私は、書き言葉を使って識字を非難したいわけではない(それは愉快なほど皮肉だろうけれど)。私が見ているのは、我々の進歩の尺度には隠れたバイアスが組み込まれていて、尺度を作った人々の世界観に馴染まないものは無視されるということだ。確かに、近代化の済んだ社会で、文盲はひどく不利な立場を意味するが、それ以外の文脈では、識字社会(あるいはその延長であるデジタル化社会)が幸せな社会かどうかは明らかでない。


幸福の計測不能性


 バイアスなのかどうか、議論の余地が全くないように見えるのは、科学と理性と西洋政治理念がより良い世界を作るのに一役買っているというピンカーの主張の要、幸福の尺度だ。国が進歩するほど国民は幸せになるとピンカーはいう。したがって世界の他の国々が我々の付けた道筋に従って発展すればするほど、世界は幸せになるのだ。

 残念ながら幸福の統計には、開発主義の主張が証明しようとする結論そのものが、前提として組み込まれている。一般的に言えば、幸福の尺度には2つのアプローチがある。幸福状態の客観的測定と、幸福感の主観的申告だ。幸福状態の尺度には次のようなものがある。一人あたり所得、平均余命、余暇時間、教育水準、医療を利用する機会、その他諸々の発展に付随する物事だ。多くの文化では、例えば「余暇」という概念がなかった。労働と対比される余暇は、労働自体を産業革命で形作られたようなものと想定する。退屈で、尊厳を傷つける重労働だ。労働が生活からはっきりと分離していない文化は、この幸福の尺度では誤って判定される。ヘレナ・ノーバーグ=ホッジの素晴らしい映画『懐かしい未来(Ancient Futures)』を見ると、このような文化が描かれている。映画によれば、そこでは「労働と余暇は一体なのだ」。

 客観的な幸福状態の尺度に組み込まれているのは、発展についての特定の見方、特に現在主流となっている発展のあり方だ。先進国が幸せだと言うのは、したがって循環論法だ。

 個人の幸福感の主観的申告はどうかと言うと、個人の自己申告は必然的に周囲の文化を基準にする。私は自分の幸福感を、私の周りの標準的な幸福感のレベルと比較して評価する。不安と憂鬱が蔓延する社会では、基準値は非常に低くなる。以前ある女性が私に言った。「私は自分のことをまあまあ幸せな人間だと思っていましたが、私が軍隊で派遣されていた場所に近いアフガニスタンの村を訪れたとき、考えが変わりました。違う視点からはどんな風なのか見てみたかったのです。ここはひどく貧しい村です」と彼女は言った。「小屋には床さえ無く土でできていて、たびたび泥になりました。食べ物さえ十分にはありませんでした。でもこんなに幸せそうな人々を見たことがありません。人々は喜びと寛容さにあふれんばかりでした。何も持たないこの人たちは、おそらく私の知っている誰よりも幸せそうでした」。

 アフガニスタンの村人たちが幸せの拠り所とせざるをえなかったものが何であれ、我々の道筋に従うべきだということを証明しようとするスティーブン・ピンカーの統計に、それが現れるとは思えない。メキシコ、ブラジル、アフリカ、インドを訪れた読者なら、似たような経験をしたことがあるかもしれない。田舎へ行けば、アメリカの郊外に立ち並ぶ箱のような街で見ることはめったに無いほどの喜びを目にする。何世紀にもわたる帝国主義、戦争、植民地支配にもかかわらず、である。想像してみなさい、公正で平和な世界でならどれほどの幸福感が可能になるか。

 私がここで言っていることが、直接このような経験をしたことのない人にとって説得力を持たないことは、重々承知だ。それはきっと、現地の人が訪問客に最高の顔を見せようとしただけかもしれないと、あなたは思うだろう。あるいは、私が「幸せな先住民」という美化のレンズを通して彼らを見ていると思うかもしれない。だが私はここで、小賢しい男のうわべだけの愛想や作り笑いのことを言っているのではない。古い文化の人々は、コミュニティーや場所との繋がりを持ち、親族で強く団結し、人と文化の物語という網目の中に織り込まれ、現代人の中に見ることが希な、堅固さと存在感のようなものを放つ。私はそういう人と交流すると、〈人類の発展〉がもたらした重要な成果が何だったとしても、計り知れないほど大事な何かを我々は失ったのだということが分かる。そして、我々がそれを認め、その回復に向けて舵を切らなければ、寿命やGDPや学歴をこれ以上いくら進歩させても、行くに値する場所に我々を導きはしないことが、私には分かる。

 深い幸せを作る要素の中で、ほかに何が我々の評価から抜け落ちているだろうか? 本物のコミュニケーション? 人間関係の親密さと活発さ? 土地の動植物を良く知っていること? 建築物からの美の涵養? 有意義な集団事業への参加? 共同体意識と社会的連帯? 我々が失ったものは、評価しようと思っても難しい。定量的な頭脳、つまりお金とデータの精神にとって、それは存在しないも同然なのだ。だがその喪失感は心に影を落とし、幸福な新生活の約束でも癒やせないような、ぼんやりとした憧れとなる。

 この喪失の激しさ(そして、その裏側の、回復の可能性は)計り知れないが、それでもピンカーの分析からは抜け落ちている統計があって、手がかりを与えてくれる。私が言っているのは、近代社会と近代化しつつある社会の全てを苦しめている、高い率の自殺、オピオイド依存、メタンフェタミン依存、ポルノ、ギャンブル、不安、うつ病のことだ。これらは進歩に泥を塗るというだけではなく、深刻な危機の症状なのだ。コミュニティーが解体するとき、自然と土地との絆が断ち切られるとき、意味の構造が崩壊するとき、我々を一個の完全なものにしている繋がりが薄れるとき、憧れを麻痺させ隙間を埋めるために、代用品として依存性のものを求めるようになる。

 ここで私が言う喪失は、制度そのものと分かちがたい関係にある。 それはつまり、科学、技術、産業、資本主義、そして合理的個人という政治的な理念のことで、人類を困窮から開放したとスティーブン・ピンカーがいうものだ。だが、中世や産業革命初期に対する改善が、議論の余地なく確かにあったということを、これらの制度のおかげだとは素直に認められないかもしれない。もしかすると別の説明ができないか? もしかすると、科学、資本主義、合理的個人主義などの結果としてではなく、それらがあったにもかかわらず実現したのではないのか?


共感仮説


 スティーブン・ピンカーが強調する改善の一つは、暴力の減少だ。戦争犠牲者、殺人、凶悪犯罪は、1世代か2世代前に比べれば、一般的には何分の1かの水準にまで低下した。暴力の減少は現実だが、それをピンカーのように民主主義、理性、法の支配、データに基づく警察活動などのおかげと考えるべきなのか? 私はそうは思わない。民主主義は戦争の歯止めとはならない。じっさい、米国は過去半世紀の間に他のどの国よりもはるかに多くの軍事行動を実行してきた。また凶悪犯罪の減少は、単に刑罰を与えて我々自身をお互いから守る能力が優れていて、我々の野蛮な衝動を抑止のテクノロジーで取り締まっているからなのか?

 私は別の仮説を持っている。暴力の減少は、切り離され自己中心的で理性的な主体が作る世界を完璧に仕上げた結果ではない。その逆だ。この物語が破綻し、代わりに共感が高まった結果なのだ。

 切り離された個人という神話では、自己利益の追求に制限を設け、個人の自由と公共の利益のバランスを取ることが、国家の目的だった。相互連携とエコロジーと相互存在(interbeing)という、新たに出現した神話では、他者の利益は、それが人間であってもなくても、我々自身の幸せと分かちがたい関係にあるという理解に、我々は目覚める。

 共感を特徴づける質問は、「私があなただったらどうだろう?」というものだ。対照的に、戦争の発想は他者化、つまり敵となる人々の非人間化と悪魔化だ。他人の経験を考えることに慣れていればいるほど、それは難しくなる。このため、戦争、拷問、死刑、そして暴力は受け入れ難いものになった。それらが「非合理的」だということではない。その逆だ。体制側のシンクタンクは、この全てに対して非常に合理的な理由をでっちあげることが実に上手い。

 自己中心的な参加者同士の競争が絶対的な前提となっているような世界観の中で、「合理的」なこととは、どんな手段を使ってでも相手を打ち負かすこと、相手を支配すること、相手を搾取することではないのか? 一日14時間労働や奴隷制度や債務者監獄を廃止したのは、科学や理性の進歩ではなかった。

 エコロジーと相互依存と相互存在の世界観は、理性を使うための指針として別の前提を与えてくれる。他人にも生きた経験があり、行動を条件付けるような周囲の状況に影響されていることを理解すれば、他者を傷つけるための第一歩として非人間的に扱うのは難しくなる。なんらかの形で世界に起きることは、やがて我々自身にも起きるということを理解すれば、もう理性が戦争を後押しすることはない。土と水と生態系の健康が我々自身の健康と分かちがたいものであることを理解すれば、もう理性がその略奪を駆り立てることはない。

 ひねった見方をすれば、科学が戦争の時代を終わらせたという点で、スティーブン・ピンカーのような科学技術の応援団が言うことは正しい。それは我々がとても賢くなって原始的な衝動から大きく進歩したからではない。いやむしろ、科学がもたらした残虐性のあまりの極端さのため、分断の神話が維持できなくなったからだ。殺人と破壊を行う能力が技術進歩を遂げたことで、我々が他者に加える危害が自分の身に及ばないようにするのは不可能なことが、ますます明確になる。

 原始的な迷信が我々に機関銃と原子爆弾を与えたのではない。産業は残虐性を乗り越える進化のステップではなく、逆に残虐性を産業的規模で応用した。組織の理性的な運営によって大虐殺を克服することはできず、逆にホロコーストでは空前の規模と空前の効率で大虐殺が起きるのを可能にした。科学は戦争の不条理を教えてくれず、逆に冷戦の相互確証破壊という不条理の極みへと我々を導いた。その狂気の中に、我々が他者にすることは我々自身にも降りかかるという、本物の進化につながる理解の種(たね)があった。それこそが、劣化した米国政治家たちを別にすれば、今では核兵器の使用など誰も真剣に考えない理由だ。

 たとえば平壌やテヘランを核攻撃するかもしれないと聞いたとき我々が感じる恐怖は、放射能汚染の吹き返しや報復テロの恐怖ではない。それは我々が犠牲者に共感し自分と同一視するから生じるのだ。相互存在の意識が育つと、我々は犠牲者の苦しみを、彼らの邪悪さの因果応報だとか、残念だが自由のための犠牲だなどと言って無視することなど、もう簡単にできなくなる。それはある意味で、我々自身にも降りかかってくるように感じられるからだ。

 確かに現在の世界でも、人権侵害、暗殺部隊、拷問、家庭内暴力、軍隊内暴力、凶悪犯罪が尽きることはない。その渦中にあって、慈悲心の高まりが見られるのは、醜さを取り繕うためではなく、運動に全面的に参加するよう呼びかけるためだ。それは個人のレベルでは、親切と慈悲と共感の運動、自分の判断と将来展望を取り戻す運動で、(一方これと矛盾することなく)勇気を持って耳に痛い真実を口に出し、隠されたものを曝け出し、暴力と不正を明るみに出し、誰かに聞いてもらわなければならない話を自分から語る運動だ。慈悲心と真実の2本の糸が合わさって織り上げる政治では、不正の告発は加害者を裁くことではなく、悪事を起こした状況を理解し変えようとするだろう。

 共感をもとに、我々は犯罪者を罰するのではなく、犯罪の温床となった状況を理解しようとする。我々はテロリズムと戦うのではなく、それを生んだ条件を理解し変えようとする。我々は壁で移民を締め出すのではなく、そもそもなぜ人々が土地や家を捨てるほど絶望しているのか理解し、我々が彼らの絶望の原因になっているかもしれないことを理解しようとする。

 共感はスティーブン・ピンカーが言う結論の逆を指し示す。共感はこう言う。効率的な法定刑罰と「データに基づく警察活動」を押し進めるのではなく、我々はフィラデルフィア州の新任地区検事長、ラリー・クラスナーの取り組みに学ぶべきかもしれない。彼が検察官に出した指示は、最大限の量刑を求刑するのをやめ、大麻所持者の起訴をやめ、違反者を刑事罰ではなく法廷外の更生制度に導き、長すぎる保護観察期間を短縮するなどの改革だった。これらの方策を下支えしているのは慈悲心だ。犯罪者になったらどんな感じがするのか? 中毒者になったら? 売春婦になったら? あなたがそれを続けようとするのを、たぶん私たちは止めたいと今も思うが、もう私たちはあなたを処罰したいとは望まない。私たちはあなたが別の人生を歩むために現実的なチャンスを与えたいのだ。

 同様に農業の未来は、もっと強引な飼育やもっと強い農薬や、もっと多くの生きた土を産業の原材料へと作り変えることにはない。農業の未来は、生き物としての土を知り、生きた土の健全性を養い、土の健康が自分自身の健康と切り離せないと知ることにこそある。このように、共感の原理(私があなただったら?)は、刑事司法や、外交政策、人間関係、農業、医学、教育、テクノロジーを超えて広がり、その境界の外にある領域など存在しない。共感の原理を文明の制度に読み替えることが(理性と統制と支配の及ぶ範囲を広げるよりも)、本物の進歩をもたらすだろう。

 この進歩の展望はテクノロジーの発展に逆らうものではないが、科学や理性やテクノロジーがあれば自動的に達成されるものでもない。人間の能力を全て投入すれば、人間とそうでないものも含めた世界の幸福が、我々を生かしているという理解を具現化した未来を、切り開くことができるだろう。

(本文終わり)

オーウェル作『1984年』引用部分の訳は、髙橋和久訳『一九八四年[新訳版]』(早川書房)を参考にした。

著者:
チャールズ・エイゼンシュテイン(文筆家・講演家)
ウェブサイトは https://charleseisenstein.net
著書「聖なる経済学」でギフト経済を提唱。