布良星(めらぼし=カノープス)の見える浜

  難破した漁師の魂は 陸にはもう戻れない
 海に沈んだ魂は    水平線の程近く 恨みに揺らめく星になる
 溺れて淋しい魂は   仲間を求めて手を招く

  赤く瞬く布良星は 真冬の海の禍つ星
 朱く悲しい布良星は 布良の港の瀬をゆがめ 舟を沖へと押し流す
 紅い荒びの布良星は 嵐を招く不吉星
 
  それを憂いた西春坊 鉦をたたいて窟ごもり
 『鉦音やんで3年後  わが身を早くとく堀起こし 堂宇に祭れば速やかに
 われは赤い星となり  嵐を告げて進ぜよう』
 言い残して入定す

  村人恐れて手をつけず 坊の遺骸はそのままに
 善意の心は空しくも   祭られもせず窟の中
 果たされなかった約束は 南の空に丈低く 今宵も昇る「叶う不す」
 


          *   *   *



  「おい、誠(せい)ちゃん、ちょっと聞いてくれよ」
のれんをくぐるや、幼馴染の真之(まさゆき)が声を潜めてくる。
布良(めら)の港で釣り船を営む漁師で、羽振りはいい。
「きのう、館山で飲んで、10キロの道を代行で帰ったのよ」
「うん」
「おれんちはフラワーラインの北っかわで、裏は観音堂だ。その観音堂に薄っきび悪りいことに明かりがちらちら点いてる」
「ば~か。観音堂は一時避難所だ。もしもの場合にってんで、街灯は一晩中ついとるワ。なにボケてんだ、おめえ」
一笑に付そうとする店主の誠一を、真之が真剣に押しとどめる。
「いや、普段の明かりなら、おれも驚かねぇ。それが6つも7つも点いてて、おまけにだれがくっちゃべくってんだか、墓地ん中でクヤクヤ、クヤクヤ話し声がする。午前1時は回ってた。丑三つ時だぜ」
「ぷふっ」
聞いていた客のひとりが吹き出した。
「真(まさ)ちゃ~ん。そりゃ心霊か、さもなくばキツネ・タヌキの類だろ。ったく、アホだなぁ。おめぇ、ボ~ッとしてっから、甘ちゃんに見られて化かされたんだぁ」
「ちぇっ、稔(みのる)さんには聞いてねぇよ。21世紀の世の中にな~にがキツネ・タヌキだよ。人を小ばかにしやがって」
「酔っ払いだよ。心配ない」
ふくれっかえった真之を見て、役場に勤める年配の工藤が穏やかに笑う。
「そんなことするのは移住者か別荘族だ。あの人たちは怖い者なしだから、観音堂から夜の港を見下ろして酒でも飲んでたんだろ。たぶん、懐中電灯かランタンの灯りだよ。ま、墓石は燃えないけど焚き火は禁止にしてゴミさえきちんとしてくれれば、町としては大目に見る案件だね」
確かに、外部の者がハメをはずしたあたりが妥当だろう。
都会から来た人たちは、たいてい豊かな自然と開放感に刺激されてハイになり、街では出来なかったことをやってみようとするのだ。
彼の言葉に周りもうなづく。
「え……。う~ん、そ、そうかな。ま、言われてみれば、そんなとこかね。おれ、ちぃっとばかしブルっちまった」
真之(まさゆき)言葉に誠一があきれたように頭を振った。
「なんだよ、布良の漁師が形無しだな。ほれ、おれっちの握る寿司でも食って度胸すえろや」



          *   *   *



 人っ子ひとりいない浜で寄せ返す波を見ていた。
いつの間にか陽は陰り、澄んでいた青空には薄雲が散って日暮れが近いことを知らせてくる。
白っぽくあせた黄土色の砂から身体を起こし、空に向かって思いっきり伸びをした。
「う~ん、気持ちいい。来年卒業しちゃったら、こういう休みもなくなるのはもったいないよなぁ。院に逃げ込もっかな?」
そんな独り言を大声で言う。
どうせだれもいないのだから、遠慮はいらないのだ。
ついでにブルース・スプリングスティーンの2020年のアルバムから、「ボーン・イン・ザ・U.S.A」を思いっきり熱唱する。
「ボンジュール、ハァッ。ワン・トゥ・トゥリー・フォー、ンジャッ、ンジャッ、ジャジャッチャ、ンジャッ、ンジャッ、ジャジャッチャァ、ボーン・イン・ザ・U.S.A。ァボーン・ダウン・インナ・デッドマンズ・タウン。フォオッ、カマンッ、アァアア~、アッア」
流木の枝をギターがわりにつまびきながらガナりたてるのが、精神崩壊するほど気持ちいい。
人前ではギャグでも出来ない恥ずかしい「成りきり」に酔ったまま砂浜を縦横に歌い踊る。
本当はこの歌は悲しい。
尽きることのないアメリカの病理と、それに抗おうとする魂が蠢く。
日本人のような感傷ではなく、本能的必然であり、自己抑圧からの開放であり、忘れることの出来ない過去の払拭であり、痛みを伴う重い呪縛からの脱出なのだ。
それでもそんなアメリカ人が羨ましくもある。
ボクは今、目標を見失い怠惰と懈怠の中を無目的に浮遊する虫だ。
軽薄で無価値で取るに足りない、ただの微小体に過ぎない。
そんな多少カッコつけの想いをリズムに乗せて叩きつける。
「ンジャッ、ンジャッ、ジャジャッチャ、おれには兄がいる、ケソンでベトコンと戦っている、ンジャッ、ンジャッ、ジャジャッチャ、ンジャッ、ンジャッ、ジャジャッチャ、おれは兄の写真を持っている、幸せそうに彼女に抱かれている兄の、ンジャッ、ンジャッ、おれはアメリカに生まれた、おれは疲れきったアメリカ人のオヤジ、アァ、エ~、ォノノノ、ノ~、ジャジャッチャ~ン」
一見、明るく能天気なベースの刻みは太平洋に向かって放吟するにふさわしい。
「センキュー。センキュ、ベイベー」
見えない大観衆に向かって両腕を上げ、大空を突き上げて終了する。
ちょっとした興奮の余韻を残したままのステップでクルリと振り向いた途端、
「えっ? あ……」
砂浜と並行する道路に地元民の軽トラが止まっていて、処置なしといった眼差しが30メートルの距離を越えて迫ってきた。



          *   *   *



「ま、確かによそ者はいろんなことやらかしてくれるよ。だけど、空気ギターでへたくそな歌と踊り披露したのは、おめえだけだな」
軽トラの主は定食屋兼居酒屋を営む平良(ひら)さんで、味はいいのになぜかロード・マップには載っていない。
よそ者に平気でよそ者と言ってしまう正直さが、観光客には受けないのかもしれなかった。
「飲むか? おれのおごり」
ブスッとした口利きだが、やることは超親切だ。
鴨川の地酒「寿萬亀(じゅまんがめ)」をそそいでくれる。
「わぁ、サンクスです。こんないい酒、アイム・ベリ・ハピー、イェ~、です」
「るっせぇな、黙って飲めやぃ」
他人(ひと)に喜ばれたテレをそんなセリフに隠す平良(ひら)さんがなんとなく好きだ。
「じゃ、ここでいち番高いツマミください」
「おぁあ? 高けえのは高っけぇぞ。あわびで時価8,500円だ」
「いいですよ。刺身にして、半分食べてください。おれのおごりです」
「ひょぉっ、気前いいなぁ。 別荘暮らしは金持ちだ。だけど、おめえ、飲みっぷりもいいな。今の若けぇのはあんまし飲めねぇんじゃ?」
「う~ん。2極分化かな。飲めるやつは浴びるほど飲んでるし。ま、コンフュージョン(混沌)です」
「ほ~、そんなもんか」
とり止めなく話しながら、酒とつまみを交互に口に運ぶいい時間が過ぎていく。
今までは昼間の定食を、しかも1~2回しか利用してなかったけど、気の合いそうな人生の先輩は貴重だから、東京の「多摩自慢」でも1升下げてまた来よう。
「ね、平良(ひら)さん、ご家族は?」
話の接ぎ穂に、なんとなく興味がわいて聞いてみた。
こういう人には意外と、すげぇ美人の奥さんがいたりするのだ。
「ああ、娘も息子も女房もいた。女房はここで84で亡くなったが、子供らは東京だ」
(え? 84で亡くなった?)
完全に聞き違いか、ひょとしたら1984年に亡くなったの意味だろうか?
84年ならつじつまは合うが……。
釈然としないので聞き返そうとしたとたん、
「おっ、らっしぇえ」
新規の客がドヤドヤと入ってきて、話は立ち消えになった。


          *   *   *
  


 そろそろクリスマスも近い、風のない静かな日だった。
「釣れるかい?」
穏やかな声が真後ろでした。
「え? いえ……」
突堤で考え事をしながら半分寝ていたのだから、釣果はボウズだ。
振り仰ぐと役場で何回か見かけたオジさんが、遠慮がちな笑顔を浮かべて立っていた。
格好で判断すると、日曜日のジョギングか散歩の途中なのだろう。
「きみは確か「ろやの坂」んとこの別荘の人だよね。あ、わたし、工藤といいます」
役場の人らしく、几帳面に名乗ってくる。
「あ、松崎です。よろしくお願いします」
頭を下げると、
「そうそう、松崎さんだ。ちょくちょく来てくれてるみたいでうれしく思ってますよ。でも、こんななんにもないとこでよく飽きないね。若い人には刺激がないんじゃない? 地元の連中は東京に行ったが最後、戻らない子が多くてね」
よくある地方の悩みを口にする。
町役場に籍を置いてるだけに人口減少は切実で、そのぶん敏感なのだろう。
「ええ。確かにたまに来るにはすっごくイイとこですけど、不便だし、ずっと住むのはちょっときついかなぁ」
正直に答えると、
「だろうねぇ」
と、ため息混じりにうなづいた。
思い出してみると、ここに親が別荘を持ったころはすぐ近くに鈴木医院という医者もあったし、個人商店も今より多かった。
町は着実に衰退しているのだ。
なんだか心が痛む。
「でも、うちの家族なんかここが気に入ってますよ。28日には両親も来ますし、自分は春休みにもまた来るつもりです」
「そうですか、そりゃ良かった。人気(ひとけ)のない別荘ばかりじゃ、寂しいからね。釣りのほかになんか新しい観光の目玉でもありゃいいんだろうけど……」
そういえば以前、同じことを考えたことがある。
「あ。じゃあ、素人考えですけど、ここで見える布良星(めらぼし=カノープス)はどうです? 全天で2番目に明るい恒星なのに、日本では瀬戸内とか伊豆半島とかの数箇所でしか見ることが出来ないなんて、けっこうロマンですよね」
「うん、そう。この布良町が観測の北限かな。町でもいち時期考えたんだけど、カノープスはここでは赤い不吉な星でしてね、初冬から真冬にかけての海の荒れる時期に重なるもんだから、嵐と遭難者を招くなんて漁師は嫌ってる」
「ああ……。即身仏ともからんでますものね」
「そう、よく知ってるねぇ。お隣の白浜町滝口の入定伝説なんだけど、信仰心の薄い現代では、女の人なんか気持ち悪がるんじゃないかなぁ。それにカノープスは水平線ギリギリだから、雲や大気の具合で条件が悪いと見られないし」
確かに、布良星(めらぼし)があまり有名にならないのは、見えにくいことにもあるのだ。
「う~ん、じゃ、逆に見られれば幸福を招くなんて話にしちゃえば? ペアで見れば結ばれる、なんちゃって」
「あはは。いやぁ、作為見え見えだねぇ」
ちょっとあきれた返事が返ってきた。
いや、やっぱり古くからの伝説に商売がらみで作意を加えるのは良くないだろう。
布良はいつまでも変わらず、布良のままでいてほしいものだ。
ふと平良(ひら)さんの顔が浮かぶ。
ちょっと聞いてみよう。
「あの、話は変わるんですけど、定食屋兼居酒屋の平良さんですけど」
「うんうん」
「奥さん、84で亡くなったとか?」
「あ~あ、そうそう。わたしの親の時代だよ。平良さんは50代で海で亡くなってね、奥さんは長生きしたけど、子供たちは東京で所帯持っちゃったから継ぐ人がいなくてね。店はもうとっくに更地になっちゃった」
「えっ……???」



          *   *   *



 ダウンベストを着込んでも夜中の浜辺はけっこう冷える。
布良の洗濯板と呼ばれる磯で、宮崎県の景勝地「鬼の洗濯板」を小規模にしたようなギザギザの岩が続いている。
館山市は暖かいと言われているけど、その実、西風が強くて東京人が期待するほど体感温度は高くない。
雪こそチラつく程度で積もらないものの、霜ぐらいならひと冬に何回も降りるのだ。
思い立って夜空の星を見たくて来たのだが、12月の今頃では、布良星(めらぼし=カノープス)が水平線上に現れるのは午前1時をかなり回る。
『平良(ひら)さんは海で亡くなって、店はもうない』
役場のオジさんの言葉が耳から離れない。
どういうことなのだろう?
地方の小さな町だから、同じ苗字の人がいたとしても不思議はないけど、みんながみんな奥さんが84で亡くなったり、定食屋兼居酒屋を営んでいるはずはない。
時系列的にも完全におかしい話で、工藤さんの言う平良さんはすでに過去の人なのに、ボクが出会ってしゃべったり笑ったりしている平良さんは今現在、生きて存在している人なのだ。
おかしい、おかしいと思いながらも、なぜか口ごもってしまって聞き返せなかった。
「そうですか……」
と、納得した顔をしてしまったのはなぜだろう?
ボクは平良さんに何回も会っているのに……。
冬の浜辺は澄んだ空気と星明りでけっこう明るいから、気をつけながら岩を伝って、もう少し先まで行ってみる。
岩礁に砕ける波音が近くなり、夜目にも白い波頭が寄せては返す。
手を腰に当てて、西風を真横に受けながら屹立する。
寒いけれど爽快だ。
空には星々の群れが散らばり、大気の流動にまたたいて見える。
物言わぬ天と地の狭間にたったひとりの自分だった。
気分的にはもう少し前に出たいが、これから先は岩が小さくなってしまう。
うねりにはリズムがあって、2~30分にいち度は大波が来るのだ。
それを考慮しておかないと波にさらわれるハメになる。
もう、午前2時近かっただろうか?
中天に輝くシリウスから直線をおろした少し右にいつの間にか、目的の布良星(めらぼし=カノープス)が爛れたような赤い光を投げていた。
思ったより目立つ星ではなかったけれど、水平線近くに少し膨張した感じで揺らめきながら、本当に招き寄せるように点滅を繰り返す。
確かに不吉な予感のする星だ。
「海に沈んだ者たちが、仲間を求めて手招きする」
布良の言い伝えが実感を伴って迫ってきた。



          *   *   *



「いや、びっくりしたよ。役場の工藤さんが海に落ちるなんてなぁ。あの突堤は幅が広いから、地元民は頼まれたって落ちやしねぇのに」
「もののはずみってのは怖いよ。対岸で見ていた人の話だと、孫のみっちゃんにもらったキャップが吹き飛ばされちまって、大急ぎで拾おうとして、つんのめってドボンだったらしい」
誠一の経営する「寿司誠」に集まったいつもの常連が、工藤の訃報を口にする。
「時期も悪かったよ。あそこはテトラと風のせいで12月から春ごろまで乱流がきつくなる。よっぽどの泳ぎ手でも落ちたら最後だ」
「まったくなぁ、もう、12月も末だのにこんなことになっちゃ、遺族は正月どころじゃねぇぜ。で、工藤さんって幾つだったい?」
誠一の質問に、小規模造園業社長の石川稔(みのる)が返事する。
「おれと同期だから58か9だよ」
「そ~か。穏やかで責任感のある、いい人だったよなぁ。いい人ほど早く逝くってのは本当だな」
「ふっ。おんなじ同期でも、そこの稔さんなんか、嫌われながらしぶとく生きるくちだよなぁ」
声の主は真之(まさゆき)だ。
「あ? ヤなこと言うなぃ。そぉかぁ。真(まさ)ちゃん、おめぇ、おれに観音堂のことで笑われて根に持ってんな? 嫌だねぇ、粘ちっこい性格は」
「ほれ、そういうトコが嫌われるのっ」
2人の掛け合いに誠一が苦笑する。
本来なら笑うところだけれど、リアクションも湿りがちだ。
「でも、まぁ、真ちゃんが見たって言う観音堂の明かりな、予兆っつうか、千手観音さんの知らせだったかもな」
「なんだよ、稔さんらしくねぇな。やけに信心くせえじゃねえか、きび悪りぃ」
真之が本気で首をすくめる。
「いや、因縁めいたことは言いたくないけどさ。観音堂の周りにゃ家は何軒もある。飲み仲間の真ちゃんだけに見えたってのもなにかの縁かなってさ」
「まあ、ねぇ。確かなことは言えねえが、世の中にゃ化学や物理、理性や常識じゃ、どうにも解明できねってこともあるっつうし。工藤さんとこの墓も観音堂裏にあるからなぁ。真ちゃん、酒ばっかかっくらってねぇでさ、代行で帰ってきた時には観音堂向かって手のひとつも合わせてくれよ。おれっちも思い出してそうするから。厨房の窓からさ、観音堂の森が見えるんだよ」
誠一の言葉に真之は素直に応じる。
「ああ、そうする、そうするよ。人のうわさも七十五(しちじゅうご)日つって、人間は忘れっぽい生き物だが、おりゃあ、忘れねぇ。工藤さんはホント、いい人だったから」
「ちぇ、いい人いい人って。それじゃ、おれはすげえ悪い人みてえじゃねえか。わかったよ、真ちゃん、観音堂の件ではおれが悪うございましたっ」
稔にしては意外に謙虚な返事だ。
「え? いよいよ薄っきび悪りいな。いいよ、いつものまんまで。急にいい人になられちゃ、また観音堂に明かりが点きそうだぜ」
仲間同士の気の置けない会話も、これからは1人欠けた3人になる。
そしてやがてこの3人も、時の流れの中に櫛の歯の欠けるように消えていくのだろう。
人生は長いようで短い、誠一は今さらながらにその意味を噛みしめる気がした。



          *   *   *



 開店の17時きっかりに、蔵元から取り寄せた「多摩自慢」をぶら下げて平良(ひら)さんの店を訪ねる。
でも、やっぱり気になって、店のたたずまいを外からじっくり観察した。
フラワーラインから北に1本路地を入ったところで、観音堂の墓地が見える古くからの一角だ。
建物は年季が入っているもののきちんと手入れがされていて、大き目の赤提灯と軒のいくつかの小提灯が昭和の雰囲気をかもしている。
縄暖簾とちょっと色あせた看板がいい感じだ。
怪しげなところは何もない。
「おじゃましま~す」
引き戸を開けて声をかけると、いつもの威勢のいい声が返ってきた。
「らっしぇえ」
さっそく1升ビンを差し出す。
「お~、ありがてぇ。すまねえなぁ~」
思ったとおり、うれしそうに目を細める。
最初のうちこそ、テレ隠しで物言いのキツかった平良さんも、打ち解けたこのごろではぶっきら棒だけど気のいいオジさんだ。
「いいトコブシが入った。たまにはイイぞ」
ミニあわびにそっくりなそれをバター醤油で焼いて、肝をバターで合えたものをトッピングして出してくれる。
コクが増して、あわびと言っても誤魔化せそうだ。
「ん~。美味いですぅ」
本当に酒がすすむ。
「多摩自慢」は、あっという間にカラになった。
平良さんが気を利かせて、さっぱり系の「九十九里」を出してくる。
飲兵衛でよかったと心から思える幸福な時間が過ぎていった。
かなり酒が回っていい気持ちだ。
そういえば、平良さんにぜひ聞いてみなくてはいけない話題がある。
「ああ、そうそう、亡くなっちゃった役場の工藤さん、ボク、ちょっと話したことがあるんです、穏やかないい人でした。町のことをホント考えてるなぁって」
瞬間、なぜか店の電気がフッと暗くなった気がした。
「ふ~ん、それで?」
平良さんはまな板に向いたまま返事をしてくる。
顔は陰ってよく見えない。
「ええ、ボク、あなたの事を聞いてみたんです。そしたら工藤さんの親の時代に、海で50代で亡くなったって……。変ですよね」
「うん、変だな」
カサカサと音がしてフナムシが数匹テーブルの隅を走り抜けていく。
岩礁に生息する虫だが、海が近いので、こんな所にもいるのだろう。
「ボクは平良さんじゃなくて、別人のことじゃないかなって思ってるんです」
ちょっと沈黙があった。
磯の匂いになぜか線香の香りが混じって、プンと鼻に来る。
「別人じゃねぇな」
声が重くくぐもっった。
磨き込んであったはずの1枚板のカウンターがやけに劣化して、ザラザラと砂と塩が張り付いている。
急にどうしたのだろう?
「おれだよ。おれのこと。工藤はな、よけいなことを口走ったんでな、海に沈めてやったワ」
「……!!」
ドクンと息が詰まって思わずむせた。



          *   *   *



「うそっ。ウソでしょ? 平良さんはそんなことする人じゃないっ」
まさか、犯罪を告白されるとは。
ゾワゾワと危機感が迫ってくる。
悪酔いしたのだろうか、まるで間違い探しゲームのように、周りがジリジリと廃屋に変化していく。    
「おれは鬼(き)になったんだよ。海で死んだ者はみんな鬼になる。おれはおめえのことを気に入った。んで、呼んだ。こっち来う、こっち来うってな」
返事が出来なかった。
あたりの造作は一変していた。
屋根は破れ、壁は落ち、傾きかしいだ柱の間にテーブルやイスが散乱して、かろうじてここが居酒屋だったことを物語っている。
顔を上げた平良さんもすでに人間ではなかった。
抜け散らかった髪をわずかに頭皮にまつわらせ、潮に洗われて青ざめ薄黄色に死蝋化した顔に唇はなく、むき出しの歯茎の上で、白濁し膨張した眼球が確実にこっちを見てくる。
ウゾウゾと蠢くのは赤イソメ、青イソメの類だろうか。
もとは漁師の作業着だったはずの布切れは引きちぎれ劣化して、海草の塊と区別がつかない。
肋骨だろうか、海の生物に食い荒らされた胴体には白くさらされた骨が見えていた。
おぞましく浅ましい姿に悲鳴すら出ない。
それでも必死で彼の温情にすがりつく。
「あ、あのひひ、ひ平良(ひら)さん、ボボク、も、あああなたが好きだったんです。あなたとのの、の、飲みたくて、さ、ささ酒もぶら下げてき来たでしょ。そそそ、それなのにこ、こ、この仕打ちって?」
全身が悪寒のようなものでガクガクと震える。
顎がこわばって、言葉を搾り出す形になった。
ニヤリと彼の形相がゆがむ。
「けっ、今更、おめえにスキだって言われておれが喜ぶと思うか。そんな気持ちはとっくに潮に腐って雑魚の餌だワ」
万事休すだった。
彼はすでに人の心を持たないモノなのだ。
全身がまるで冷凍されるように急速に冷えてくるのがわかる。
睫や髪に霜がつき、鼻の粘膜が切れて鼻血が出た。
手の甲でぬぐおうとしても腕がすでに棒状に凍り付いているのだ。
自然にうずくまる姿勢になり、やけに硬く冷たい物で体を支えた。
目を凝らすとそれは墓石で、見渡す限り、眼の届く果てまでを覆いつくし、その周りにはさまざまな時代の死者の群れが半分宙に浮く形でひしめいていた。
その中には、確かに工藤さんもいた気がする。



          *   *   *



 表戸がガタンと鳴った。
「おうっ、今夜はもう仕舞いだ。のれん出てねえだろっ」
誠一の返事を無視して真之(まさゆき)が顔を出す。
なんだかあたふたとおびえている様子で、厨房の灯りに照らされた顔色も良くない。
「せ、誠(せい)ちゃん、また、明かりがついてる」
「え? 本当かよ? また人死にでも出たら嫌だなぁ。どうせ、見間違いだろ? でも、ま、移住者や別荘族のしわざって事もあるからな」
誠一は半信半疑だ。
なんとなく変な予感がしてためらいがちになる。
それでも厨房の窓を開けて覗いてみた。
茂った木々で観音堂そのものは見えないが、なにやらそのあたりが明るいのがわかった。
「ん? あ~れよぅ、そ~だな。うん、なんだろうな。電気の光じゃないようだが……」
「だから、人魂。人間の灯す明かりじゃね~よぉ」
「ったく、21世紀の世の中で耳なし芳一じゃあんめえし。よし、行って見よう。焚き火でもされてちゃ困るからな」
心霊関係ではなく、あくまでも人の仕業と思いたい彼は、奥から護身用の木刀と災害時用の強いライトを持ち出す。
駐在さんもいらないようなのどかな町だが、昨今の世相を見ていると用心に越したことはない。
手ぶらの真之は店の傘立てをさぐって客の忘れた傘を握りしめた。
「っと。おお~、寒っびいなぁ」
急ぎ足で漁村の狭い路地を抜け、観音堂の石段下にたどりつく。
「あれっ、おっかしいな。明かりが消えちまってる。点いてんのは堂の外灯だけだ」
「やっぱり、人がいたのかな? おれっちの足音でさっさとトンズラしたか?」
堂はいちおう災害時の一時避難所らしく、表側にはチマチマとした平坦地がひろがっている。
誠一はライトを点け、周りを照らしつけながら裏の墓地へと回っていく。
あたりは平和に立ち並ぶ墓石だけで人の気配はなく、真夜中の風が吹きすぎるだけだ。
「う~ん。工藤さんとこの墓も変化なしだぜ。やっぱ、真(まさ)ちゃんのアタマのせいか」
軽い安堵感に冗談が出る。
「いや、ほんとに見たんだ。2回目だから見間違いであるはずねえ」
真之の反論は真剣だ。
そして海側の区画に回り込んだ時だった。
「うひゃっ」
それこそ脳天から噴き出すような声で、ドサッと尻餅をつく。
「ひ、ひひ、人、人がいるっ」
「なんだと?」
誠一が瞬間的に身構える。
用心深くライトを当てながらゆっくりと近づいて行く。
煌々と照らし出された先には、1基の墓石に寄りかかって爆睡しているらしい若い男の姿があった。
傍らにはフザけたことに、カラの1升ビンが数本転がっている。
「はぁ~、なんだ。酔っ払いか。人騒がせだぜ」
「あ~、びっくりした。ちょっくら腰が抜けたで。ね、兄ちゃん、アンタ、バカやってんと風邪ひくよ。ちょとぉ。ったく、起きねえや。終電の車掌の苦労がわかるぜ。ねぇねぇ、兄ちゃんよお」
「ちょっ、待て。触んなっ」
肩に手をかけて揺さぶろうとした真之を誠一が強く止める。
「駐在と救急に電話だ。この顔色見ろ、酒で毛細血管が開いたところに、この寒さだ。葬儀屋呼んだほうがいいかも知れねぇワ。とにかく早くしろっ」
真之を追い立てて、誠一はふと墓石に目をやる。
「平良家先祖累代」



          *   *   *



 観音堂での変死事件は、野放図な若者の事故死でケリがついた。
冬の西風の中、ダウンベストくらいで吹きっさらしの墓場に居座り、大量の酒を喰らって寝込めば館山市だって凍死する。
そのいい例と解釈されたのだ。
それ以降は観音堂にも明かりは点かず、季節は春へと巡っていった。
誠一(せいいち)の「寿司誠」は観光客でにぎわい、真之(まさゆき)の釣り船も大忙しになった。
特に今年はコロナの緊急事態宣言解除の影響で、布良沖のヤリイカを求めて初心者が多くやってくる。
面倒見のいい彼は、しかけや餌の手配の他にも、にわか釣り人への指導でてんてこ舞いになり、「寿司誠」から足が遠のいていた。
それと入れ替わように石川稔(いしかわみのる)がやってくる。
造園業の彼の繁忙期は正月前で、今は比較的ひまなのだ。
閉店近い時間で空席も目立つころだった。
「ね、誠(せい)ちゃん、ちょっと」
稔が小声で手招きする。
「ん?」
「変なんだよ。おれ、さぁ、工藤さんに会っちゃったよ」
「え? あんたと同期のあの工藤さん? 去年亡くなった役場の工藤さん? ウッソだろう?」
思わず言葉を畳み込む。
「つい、2~3んち前だ。おれんちの脇の坂を下りてきてさ。いつもの笑顔で『こんど観音堂の裏で飲みましょう』って誘うんだ。ちょうど彼は誰(かはたれ)時だった。そういう時って別に違和感ないのね。おれ、フツーに『いいねぇ、そうしよう』って返事しちゃったんだけど、後からあれ? って。工藤さん、亡くなってるよなって」
「よせやい、観音堂の話はおれっちの店じゃご法度だ」
「いや、夢かも知んねぇんだ。なんだか考えれば考えるほど実感がわかねぇ」
「夕方だったんだろ、だれか違う人じゃねえの?」
「いや、その点は間違げぇなくあの人だ。おれは工藤さんともよく飲んだから、声の調子や歩き方なんかもよく知ってる。間違げぇようはねぇよ」
「う~ん」
なんだか背筋がウゾウゾしてくる。
「稔さん、こんなことしか言えねえけど、体調不良や車の運転には気をつけなよ。ま、逆にいいことがある前兆かもしれんから線香でもあげて念仏のひとつも唱えてやってよ」
「ああ、おれもそう思って実行してるけどな」
誠一の心に2度ある事は3度ある、ということわざが浮かぶ。
不安がヒタヒタと上げ潮のように迫るけれど、それを稔に気取られてはいけない。
何気ないフリで奥へ行き、そっと厨房の窓を開けてみる。
よかった、観音堂の森は黒々としている。
だが、そこからちょっと目をそらした時、彼は危うく声を上げそうになった。
観音堂の裏手、墓地の見える古い一角のあたりに、ぼんやりと招くように薄い灯りがいくつか点っていた。
そうだ、あそこの更地には、自分らの親の代に亡くなった平良(ひら)さんの店があったのだ。
「稔さん。あ、いや、あ~、なんでもねえ」
この事実を伝えていいものか迷う。
「なんだ、言いかけてやめるなんて。さぁ、おれも腰を上げよう、今夜は特に美味かったぜ。あんがとよ」
稔の動作や言葉には別段変わったところはなにもない。
それでも不安だ。
「あ、ちょっと待て。今、送るから・・・・・・。あ、あの、お客さん、もう仕舞いなんで」
「いいって、いいって。ガキじゃあんめぇし」
残った数人を急いで追い出そうとする誠一を、稔は笑って止め、さっさと店を後にして行った。



          *   *   *



 歩きなれた夜道を辿る。
自宅は丘のてっぺんだから、どこに行くにも坂道だ。
海を見渡せる中腹でふと見ると、前方の海上低く、濁った赤色の布良星がのぼっていた。
「ああ? 4月じゃ22時ごろには見えなくなるんだが、夜中の今の時間でも見えるのはおかしいな」
口に出してつぶやくが、酔っていい気持ちの彼にとってはどうでもいいことだ。
大して気にもせずすぐに目をそらし、舗装のないでこぼこ道に視線を戻した。
「稔(みのる)さん、遅いなぁ。みんな待ってる」
不意に親しげな声が呼び止める。
「え?」
稔はちょっと不審気な目を向けたが、それもわずか1秒ほどで、楽しげな返事を返した。
「う~ん、悪りい、悪りい。・・・・・・おっ、ええと、そこにいるあんたは墓地で寝てた大学生だな。若気の至りでムチャはいけねぇよ。大騒ぎになって、この役場のオジさんがアタフタするからなぁ」
かたわらの工藤に笑みを向けて、そばの店に近づく。
「おお~、懐かしいねぇ。おれがガキんときの平良さんの居酒屋だ。奥さんが切り盛りしてて、あの人は船がでんぐり反って死んじまった。マグロ延縄漁もそろそろ下火になるころだったなぁ。いや、うれしいよ。ガキんときに戻ったみたいだ」
引き戸を開け、後に続く工藤と学生を従えて、自分が先立ちになって入っていく。
一方、誠一(せいいち)は稔を送らなかったことが気にかかっていた。
「変なことでもなきゃいいが・・・・・・」
つぶやきながら、また厨房の窓を開けて見る。
薄明かりはすでに消えていて、更地のあたりも観音堂の森も黒々している。
それにいくらか安堵しかけた時だった。
いきなり、店の電話が鳴る。
彼は戸棚にガタッとぶつかるほどびっくりした。
「は、はい、寿司せ・・・・・・」
みなまで言い終わらないうちに、稔の妻の声が畳みかける。
「ね、ね、主人が帰らないんだけど。まだ、誠(せい)ちゃんのとこにいるの?」
なんだか嫌な汗がにじむ気がする。
「いや、40分ぐれぇ前に帰えったぜ」
「変ねぇ、いつもはこんなことないのに・・・・・・。飲み友達の真(まさ)ちゃんのとこかなって思って聞いたんだけど、忙しくてしばらく会ってないって」
「い、いや、稔さんは顔が広いから、どっかで飲んでるはずだ。おれも心当たりに聞いてみるよ。心配ない、たいじょぶだ」
安心させて電話を切ったものの、観音堂の墓石に寄りかかって凍死していた青年の姿がよみがえって体が震えてくる。
「誠ちゃんっ、稔さんが消えたって? おれ、駐在さんに連絡しといたぜ」
駆けつけてきた真之(まさゆき)の声に、はっと気を取り直す。
「うん。とにかく観音堂に行こう。嫌なことになってねぇといいが」
急いでライトを持ち出すが、木刀は持たない。
足早に突き進む彼の後ろに真之が続き、2人は無言で堂の石段を登っていく。
背筋を這い上がる悪い予感がひと足ごとに強くなるのがわかって、誠一は真之を振り返った。
「いいか、なにがあってもびっくりするな」
「お、おうともよ」
外灯の青白い光に照らされて白々(しらじら)と広がる堂前広場が、まるで賽の河原のように荒れ果てて見えていた。
古い言い伝えの一節が、布良星(めらぼし=カノープス)の赤い色を淀ませる。
稔が最後に見た赤汚れた光は、まだ水平線上にかかるのだろうか?

 難破した漁師の魂は 陸にはもう戻れない
 海に沈んだ魂は    水平線の程近く 恨みに揺らめく星になる
 溺れて淋しい魂は   仲間を求めて手を招く

 赤く瞬く布良星は 真冬の海の禍つ星
 朱く悲しい布良星は 布良の港の瀬をゆがめ 舟を沖へと押し流す
 紅い荒びの布良星は 嵐を招く不吉星

布良星(めらぼし=カノープス)の見える浜

布良星(めらぼし=カノープス)の見える浜

久しぶりに「死にたい病」が出たので書きました。 千葉県布良の浜は、布良星(めらぼし=カノープス)の見える北限です。 また、この地には海で死んだ漁師が寂しさのあまり、赤い恨みの星になって人を呼び寄せるのだと言う伝説があります。 連続する不審死はこれに関係するのでしょうか? ミステリー・ホラー。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-26

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