結婚地獄(モラハラ家庭に嫁いだら)
「おまえってさ~、もう、ただのみなしごじゃん」
広行(ひろゆき)の薄ら笑いに、ちょっとゾッとする。
「え? やだ、広ちゃん。そんな言い方」
「やもクソもねぇだろ。おまえが頼るものはいねぇってこと。おれを頼るしかねぇんだよ」
「……」
どう返事をしたらいいのかわからなくて黙る。
不機嫌な顔で、いきなりこんな話をするなんてどういうつもりなんだろう?
母が突然の脳出血で逝って間もなく、父は時折、軽い体調不良を口にしていた。
「ママがいなくなってから、パパはすごく疲れやすくなっちゃったよ。もう、年なんだなぁ」
弱く笑った笑顔の下の病魔になぜ、もっと早く気づかなかったのか。
末期の膵臓ガン。
わずか8ヶ月ほどの短い闘病。
そんな父を安心させたくて広行(ひろゆき)との結婚を急いだのは事実だった。
恋愛時代、彼は確かに優しくてマメで良く笑った。
モラル的にそんなことで笑っていいの? と思うようなところで爆笑したり、ちょっと違和感もあったけど明るい性格
で親切だった。
毎日、几帳面にTELして来たり、うっとおしいくらい会いたがったりする反面、すぐにSEXに移行したり、ウソとでまか
せの謝罪や約束が多かったりと、まじめで責任感のある日本人男性とは明らかに違っていた。
「だって、恵美(えみ)が大好きなんだから、いいじゃん。おまえの金はおれの金。後でぜったい返すからいいだろ。
ん~、恵美かわいい~ん」
人のサイフから黙ってお金を抜き取っておきながら、ニッコニコでキスしてくる。
その屈託のない無邪気さの裏に隠れた堪え性のなさに、なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう?
もちろん、わたしなりに親友には相談していた。
「わ~、考えられない。韓国人って反日だもん」
ユッチは顔をゆがめたけれど、
「でも、恵美は言っても聞かないよね~。頑固だし、今は舞い上がってるからなに言ってもムダって感じ。わたしなら
、絶対結婚しないけど、お父さんの病気のこともあるしね。う~ん、5分5分の賭けでいい人ってことも有るかもだし
……。やっぱ、人には添ってみよかなぁ」
と最終的には賛成してくれたのだ。
父がいよいよ余命1ヶ月となったとき、彼は突然、見舞いに行くと言い出した。
「ほら、式場のパンフ。おまえだってお父さんを安心させたいよな。結婚したいって話だけでもしといたほうがいいじ
ゃん」
いつもの張り付いたような笑顔の広行(ひろゆき)から、甘いパステルカラーいっぱいの複数のパンフレットを見せら
れて、心が感謝でいっぱいになったのを覚えている。
最初にわたしのほうからお見舞いをお願いしたときには、
「忙しいから待て」
と、にべもなかったのに、このひと言で
(ああ、彼はこんなにもわたしと父のことを気にかけてくれていたんだ……)
と、一気に信頼と安心感がよみがえって涙が出そうになったのだ。
病室で彼は笑顔を絶やさず、まるで沈黙を恐れるかのように良くしゃべった。
それが詐欺師の手口のひとつとわかったのは、ずっと後のことだ。
「市のリサイクルセンターに勤めてます。いちおう、公務員です」
上機嫌でこんな話もしていた。
父は、
「そう。安定した職場だよね、恵美も幸せだ」
と答えていたけど、本当のところは市のゴミ処理場で、広行(ひろゆき)はただの派遣だ。
それでも初対面の父を安心させるためのウソなのだろうと思うと、バカなわたしにはそれすら彼の思いやりに感じたの
だ。
アバタもエクボを地で行ってしまった自分を、過去に戻って消し去れたらどんなにいいだろう。
わたしもいろいろと彼のことを紹介したけれど、広行(ひろゆき)が在日韓国人のことは最後まで言えなかった。
言えば父が心配するだろうとわかっていたからだ。
実はわたし自身、人種も生い立ちも考え方も違う人とうまくやっていけるだろうか? と考えることがある。
結婚は終着ではなく新たな出発なのだから。
その日の夜に父から電話があり、
「恵美の彼、ちょっと軽いね。いや、今の若いコはみんなああいう感じかな?」
と遠慮がちに聞かれたとき、わたしはワザと明るく、
「いやだ。広くんは初めて会ったから、あがっちゃったのよ。ちょっとハイになっただけ。普段はもっとシブイわよ」
と答えたのだ。
父は笑って、
「ああ、そうだろうね。そういえばパパもママの両親にはじめて会ったときは、あんな感じだったかも」
と、ちょっと口ごもりながらも納得してくれたのだ。
それから2週間後、父は医師の余命宣告より早く、帰らぬ人となった。
「恵美。わかってるだろうけど、結婚は一生の問題だからよく考えることだよ」
の言葉を残して。
あと数日で彼の両親と対面する段取りになっていた矢先のことだった。
わたしはいまでも、そのころのことをうまく思い出せない。
覚悟はしていたけれど生半可な決意じゃ、ひとりぼっちになった悲しみと心細さ、恐怖に似た寂しさを克服なんかでき
ない。
夜も昼も怖くて、人も社会も怖くて、自分の存在をどうしていいかわからなかった。
ただひたすら、泣いて泣いて泣き続けるしかなかったのだ。
葬儀には彼も、彼の両親も来なかった。
もちろん、お悔やみもない。
「まだ、婚約もしていないのだから」
がその理由だった。
わたしは半狂乱で彼にそばにいてくれるよう訴えたけれど、
「いや、恵美。そっちの親戚がいるのに、おれはジャマだろ。こっちのやりかたは日本人とはちがうから」
と言うだけだった。
本当に辛かったけれど韓国とは風習が違うのならそれを尊重するしかない。
25歳にもなったくせにしっかりしないと父が心配すると自分に言い聞かせながらも、なんて冷たいと恨む気持ちもあ
ったことは事実だ。
でも、国際結婚の難しさをこの時点で認識できなかった自分も迂闊で愚かだったと思う。
お通夜も告別式も初七日も親戚が集まり、テキパキした叔母が中心になって滞りなく済ませてくれた。
父のすぐ下の妹で、頑固に独身を貫いていたけど、信頼できるしっかりした人だった。
わたしは父から相続した8桁の数字のある通帳を、そのまま暗証番号とともに彼女に託した。
自分でも意識しない、予感のようなものがあったのかもしれない。
叔母は弁護士に依頼してあづかり証を3通つくり、1通は弁護士にあづけ、1通は自分に、最後の1通はわたしに渡し
てくれた。
「さぁ、これで安心。ショ~コの書類は失くしちゃダメよ」
とニッコリした笑顔をわたしは美しいと思った。
一切の仏事が終わって親類が去ったころ、やっと広行が実家に来てくれた。
あんなに毎日電話をしたり、頻繁に会いに来てくれた彼が、葬儀の期間中は寄り付きもしなかったのだ。
わたしは彼にしがみついて、駄々っ子のようにおもいっきり泣いた。
「広ちゃんのバカッ。寂しかったよ、悲しかったよ、怖かったよ、つらかったよぉ。バカバカバカッ」
彼は、
「おれだって寂しかったんだからいいだろ」
と優しく言って髪をなで、
「落ち着くから」
とSEXを求めてきた。
彼は何かというと、すぐにわたしを欲しがる。
性欲は強いようで、体調不良などで断ると、
「なんだよ、浮気してもいいの? 女は男に求められたら応じなければいけないんだ」
と怒るのだ。
その割には淡白で自分だけさっさとイッてしまうが、わたしは男性経験が彼しかないので、単純に若いせいだろうと思
っていた。
父の死以来、孤独感の塊のようになっていたわたしは、寄る辺ない小さな子猫のように彼の温もりにしがみついたのだ
。
日本人と在日韓国人の結婚は、基本証明書などの書類の取り寄せが必要になるが、日本の役所に結婚届を提出するだけ
で法律上の婚姻は成立する。
広行はあいかわらずヘラヘラしていたけど、わたしはその帰り道、彼と家族になった安堵感と喜びをかみしめていた。
「ね、広ちゃんのご両親は都営住宅暮らしだったよね。うちの実家広いから、ついでにいっしょに住んじゃおうか?」
言いだしっぺはわたしだった。
肉親を相ついで亡くして以降、寂しさと心細さの巌が、いつまでたっても心を押しつぶそうにしてくる。
何回か会った彼の母はちょっとガサツだったけど、明るくて開けっぴろげの関西のオバちゃんといった感じで、物にこ
だわらない人のようだった。
当時、人間の裏をあまり知らなかったわたしは嫁姑問題もこの義母ならクリアできると思ったのだ。
もう2度と帰らない父母にかわって義両親を愛し、そして愛されたかった。
話をすると義両親は大乗り気で、いつもは仏頂面で寡黙な義父でさえ頬をゆるめて、
「いい嫁だ。広行はいい嫁をもらった。良いことだ」
と言ってくれたのだ。
ただ、その直後、彼は抜け目なくこう言った。
「名義変更はしてくれるんだろう。当然だろ、ぼくが家長なんだから」
敷地60坪ほどの実家は1階の南東側にリビングダイニング、南西に6畳2間と3畳の納戸、それに並んでキッチン
などの水周り。
2階は南東に8畳の和室、南西に同じ広さの洋間があり、北に簡易キッチンとトイレがついている。
義父母は1階に、わたしたちは2階に住んだ。
最初の6ヶ月くらいは本当に楽しい日々で、わたしは広行と結婚したことに感謝した。
階下からはなにがおかしいんだか、義母の大きな笑い声がいつも響いて来たし、彼も気が向くと部屋に掃除機をかけた
り、食器を洗ったり、恋人時代のように荷物を持ってくれたりした。
母が亡くなって間もなく父が入院してしまい、人気(ひとけ)のなかった実家が賑やかに活気付いた気がして、父母の
遺影に向かって
「パパ、ママ。安心して。幸せだよ」
と報告したのだ。
わたしたちは2階のささやかなベランダにガーデン・テーブルを出して、木々の緑に飾られた庭を見下ろしながらビー
ルを飲んだ。
彼は、
「美味い」
と言いながら、わたしを引き寄せてキスしてくれ、本当に絵に描いたような新婚風景だったと思う。
それにはっきりとした陰りが出たのは、ある日の朝食後のことだった。
そのころのわたしは1階のキッチンで朝晩、みんなの食事を作る立場になっていて、メニューは社員食堂のように月曜
日は肉、火曜は魚などの決まったルーティンになっていた。
義母が決めたルールらしかったが、家族は誰も文句を言わず、わたしとしてもわかりやすくて楽だった。
この一家は味については無頓着らしく、上手くできなくても文句が出ないかわりに、自慢できるくらいの味に仕上げて
も反応はなかった。
食後の決まりもあって、家族それぞれの湯飲みにお茶を入れて回るのだが、その日はちょっとした弾みで義母の体にぶ
つかり、彼女の手にこぼしてしまったのだ。
「あっつういぃぃぃっ」
引きつるような声に、心底びっくりして、
「お義母さん、ごめんなさいっ。こっちで冷やして」
とシンクに手を引っ張ったのだが、彼女はそれを振り払った。
「ったくうっ、持参金もない嫁なんかもらうもんじゃないっ。あんたのせいでうちの広ちゃんは結婚式もあげられない
。四柱単子(日本の結納にあたり、箱の中に高価な金やプラチナ、宝石などの装身具、株券などを入れて贈る)も礼物
(婚礼道具と一緒に贈られる金品)もない嫁なんて最低よっ。ああああ~、イラつくっ。結婚費用はみんな新婦側が持
つってことも知らないバカ娘がぁっ」
興奮して叫びだした義母をどうしていいかわからない。
持参金はなかったけれど、そのかわり実家の名義を義父に譲ったではないか。
「お、お義母さんっ、怒らないで。熱かったよね。ホントにごめんなさい」
必死でなだめながら、すがる思いで広行を見たが、彼はそっぽを向いて鼻をほじっている。
大きな舌打ちが聞こえた。
義父が荒々しく立ち上がって、自分の6畳間に引き上げていくところだった。
その横顔は悪鬼のように変化していて、わたしがはじめて見る表情だった。
そんなに悪いことをしてしまったのだろうか?
「許して、お義母さん。弾みだったの、わざとじゃないの」
後悔の涙が自然にあふれてきた。
悪気ではなかったものの、不注意で軽いヤケドをさせてしまったのは事実なのだ。
「恵美ぃ、あやまってすみゃ、ケ~サツいらねんだぜ。治療費と慰謝料出せよ。な、母ちゃん。おれ、こんなダメ嫁も
らってさ、も~サイアク」
ちょっと唖然とした。
同居前には、
「嫁姑関係? だいじょぶ。もし、母ちゃんとモメたら、おれが味方になってやるよ」
と言っていた広行はどこに行ったのだろう?
彼に期待してもムダだ、広行は母親に味方してわたしを罵るだけなのだ。
「恵美、ごっめ~ん。新婚生活どぉ? 恵美ったら、最初に3~4回電話くれただけでいつまでたっても連絡くれない
んだもん。だから、こっちからしちゃった。お邪魔だった?」
親友のユッチの明るい声が本当に救いだった。
あのお茶こぼし事件からずっと義母は不機嫌で、事あるごとに
「ああ、うちの両班の身分があんたのおかげで台無し」
と大声でののしっていたから、わたしはだんだんに萎縮してしまって毎日がとてもつらいものになっていたのだ。
「ね、両班ってなに? ユッチは物知りだから知ってる? ggったらなにか身分制度みたいなの」
飛びつくような返事に、彼女はちょっとびっくりしたようだったけど、わけを話すと、
「なるほどね」
とうなづいた。
「あのね、官僚をだせる貴族階級のことよ。でも、この身分の人はとっても少ないの。在日韓国人の多くは朝鮮戦争の
ときに、戦いもしないで国を捨てて日本に不法入国した白丁よ。両班のわけないじゃない。もし、本当に両班だったら
、味方についてくれたあこがれの白人国家アメリカに逃げてるわよ。お金も地位もあるんだもん、ボート・ピープルな
んかやらないわよ。やだぁ、知らないと思って恵美は勝手なこと言われてるのよ」
目から少しウロコが落ちる気がした。
「じゃ、結婚費用はみんな新婦側が持つって本当?」
「え~、今は折半が主流だけど? あなたのお義母さん、言ってることちょっと変。恵美はこのままでOKよ。だって
、恵美は義両親を実家に住ませてあげてるんでしょ。都内で駅も近くて庭もあってなんて家、売ったら数億よ。すごい
お金持ちの娘を嫁にできて良かったですねって胸を張っていいわよ」
ユッチの言葉が心底うれしかった。
「ありがとう。ユッチの声聞けて良かっ……」
わたしの言葉が途中で消えた。
「恵美さんっ」
ヒステリックな義母の叫びとともにふすまがバシッと跳ね返ったからだ。
一瞬、体がビクッと飛び上がり、指は反射的にスマホを切っていた。
「あんた、しょっちゅう電話してんでしょっ。代金かさんでホント迷惑っ」
「えっ? あ、あの、支払いは自分でやってますけど?」
「バカ言わないでよっ。あんたのお金はうちのお金でしょっ。嫁の分際でなに言ってるのっ」
彼女は聞く耳を持たないからわたしが黙るしかない。
広行の言い方に酷似していて、心底悲しかった。
うつむいていたから、義母がスマホに手を伸ばしたのに気づくのが遅れ、あだちが原の鬼婆のような指がひったくるよ
うに通り過ぎた。
「あっ、お義母さん?」
彼女はものも言わず、そのまま階段を下りていく。
「ね、返してくださいっ。ね、お願い、気をつけますから。そのスマホ仕事で使うんです」
追いすがるわたしの胸のあたりに立ちはだかるように、なにかがぶつかった。
キッチンから自室に帰ろうとする義父だった。
「おっ。や~らかい。グゥフフ」
耳元に息を吹きかけるように素早くささやいて、そのまま去っていく。
もみっと強くまさぐられた気がして総毛立った。
本当に偶然の衝突だったのだろうか?
義母の手に渡ったスマホは結局、帰ってこなかった。
絶対に取り返すべき私物だったけど、わたしは母に抗議して彼女の心象を悪くできない立場になっていた。
思いもかけなかった、義父のセクハラが始まったのだ。
独立型キッチンで食事の支度をしていたり、洗濯のために脱衣所にいたりするといつの間にか後ろに立っていたりする
。
「広だけじゃ、満足しないだろ~。ん?」
そんなささやきとともに、いやらしい手が伸びてくるのだ。
わたしは素早く体をよけながら、リビングで韓国ドラマに夢中の義母のもとに逃げる。
義父に妻の存在をそれとなく意識させて牽制するのだ。
彼は露骨に鼻白んだ顔をし、それ以上は迫ってこない。
義母の目を盗んでのセクハラは毎日ではなかったし、1ヶ月ほどはそれですんでいたから、わたしにも油断があった
のだろうか?
就寝前の風呂を手早く済ませ、パジャマに着替えて脱衣所で髪を乾かしていた。
なにかの気配と、タンと小さく引き戸の閉まる音。
いやな予感に反射的に振り向くと、やっぱり義父が立っていた。
さっきまで義母と一緒にTVを見ていたはずだ。
「歯を磨こうと思ってな。ふっ、なんだ。服着ちゃったのか」
ドアをふさぐように背にし、変な薄ら笑いでわたしを見る目が発情した犬畜生を思わせる。
「あ……わたし行きますね」
顔をそむけて急いですり抜けようとする胸の辺りに手を回されるけど、タオルと腕でがっちりガードしてあるのだ。
「待て、ちょっとハグしよう。なぁ? 親娘(おやこ)のスキンシップだよぉ。フンフン、いい匂いだ、恵美ぃ」
抱きすくめるように片手をパジャマの下に入れながら、片手で口をふさいでくる。
明らかにいつもと違う強引さだった。
「い、いやっ、お、おお……お義母さ……んっ」
「ん~ん。いいだろぉ~。ず~っとガマンしてやったんだ。まんざらでもないくせにぃ」
義父の臭い舌が耳から首筋の辺りをベロベロなめまわす。
危機感でアタマが爆発した気がした。
ぴったりと密着する義父を全身の力で振りほどこうともがく。
足に触れ、ガタンと音のした引き戸を思い切り蹴り飛ばす。
体は転倒したけど、戸ははずれて廊下に吹っ飛んだ。
大きな音と地響きがしたのに義父の動きは止まらなかった。
わたしの上に重なって押さえつけながら、服の上から激しく腰を動かしてくる。
「こぉ~のぉお、めす犬うぅぅ~っ」
だれかの叫びが聞こえ、髪がものすごい力で引っ張られた。
わたしはわけがわからず、義父が急に4本腕になった気がした。
それくらい突発的な暴力だった。
「こ、この女だ、こいつが誘惑したんだっ」
義父のワメき声と同時に頬が強く張られた。
義母だった。
普段から吊り上った目が、さらに吊り目になっている。
「お、お義母さん、違うっ。お義父さん、お義父さんなのっ」
とにかく義父から体を離しながら、必死で抗議する。
「うう、う。うそだっ、こ、このめ狐が悪いっ」
彼は怒鳴りながらそそくさと逃げて行き、義母はわたしを憎々しげに蹴りつけてから後を追った。
すべての音が遠のいたような脱衣所にひとり残されてうづくまりながら、のろのろと乱れ千切れたパジャマを整える
。
今の義母は混乱しているのだ、きっと味方になってくれる、そう信じたかったけど心の冷めた部分がそれを強く否定し
てくる。
女同士で気持ちが通じるどころか、彼女は頭からわたしを悪者にしてきたのだ。
失望と落胆とやり場のない悲しみと怒りが、心をもみくちゃにしてくる。
この家にはすでに居場所はなかった。
やっと立ち上がって洗面台の鏡を覗く。
クシャクシャの髪の下で赤く腫れたわたしの顔。
涙は流れていないのに、明らかな泣き顔のわたし。
義父がダンマリを決め込んでいるのだろう、義母の発狂したような早口が小型犬のほえ声みたいにギャンギャンと響い
てくる。
耐えられなくて耳をふさいだ時はじめて、スッと涙が流れて滴り落ちた。
今なら終電に間に合う。
わたしはそれにすがった。
広行は今夜もいない。
「おまえには飽きた。男はな、釣った魚に餌はやんね~の」
わたしをみなしごだと嘲ったあの晩からまもなく、彼はそんなことを言って帰って来なくなった。
心配で義母に訴えても、
「あ~、広のビョーキ。あはははっ。あんたに魅力がないからぁ、ほかの女のトコでしょ。それより夕飯の支度早くし
なさいよぉっ」
意地悪な返事が戻ってくるだけだったのだ。
わずかな私物を急いでまとめた。
その中には父母の遺影と叔母が作成してくれた相続金あづかり証も含まれていた。
「パパ、ママ、ごめんなさい。心配かけて。でも、あたし、負けないから」
しっかりしなきゃいけない、この時、心から強くつよく思っていた。
なぜなら数日前、義母はこんな考えられない提案をしてきたからだ。
「この家、大きいからお兄ちゃん夫婦も同居すべきよ。広ちゃんは1階のお父ちゃんの部屋の北側に来なさい。嫁のあ
んたは、そうねぇ。納戸でいいわね。キッチンが近くて便利よぉ。お兄ちゃん夫婦は2階に住ませるから」
わたしがびっくりして返事もできずにいると、彼女は上機嫌のニッコニコでこう決め付けたのだ。
「家族は一緒に住まなきゃね。恵美さんっ、いいわねっ」
わたしは黙ってうなづいたけれど、内心ではゾッとしていた。
義姉も韓国人で、とても気の強い人だった。
家族内のカーストでは、一応、義父が最高位、その下に実質的権力者の義母、義兄、広行、義姉、わたしの順番だった
。
義姉は初対面からわたしのことなどバカにしきっていて、態度は横柄、言葉は失礼な毒舌だった。
彼女はしょっちゅう、ゴマ摺り用のちょっとしたお土産を持ってやってきて、そのたびに甥っ子の世話を押し付ける。
わたしの仕事が休みの土日や祝日などを狙ってやってくる節があった。
3歳になっても言葉が遅れ、事あるごとにキイイイィィィィ~ッという狂声を張り上げるその子は多動で衝動的で目が
離せない。
疲労困憊して、少しでも手を抜こうものなら、
「ちょっとお、ちゃんと見ててよっ。ケガしたらど~すんのよおっ、バカ嫁っ、ホント、使っかえねぇ~」
と罵り、義母と一緒になって気持ちよさそうに大笑いするのだ。
そのくせ彼女のやり方は、ほとんどネグレクトに近い。
その義姉一家に2階を明け渡し、わたしは納戸暮らしなんて我慢できるはずがなかった。
もとはと言えば私の父母の家ではないか。
義母の言いなりになって自分の身の安泰を図るのは、もう止めよう。
彼女はわたしが譲歩すればするほど、増長して無理難題を押し付けてくる。
和を尊ぶ日本人の忍耐にも限界があることなど、アタマから理解しないのだ。
「恵美さぁん」
なにか魂胆があるときの甘ったるい声が耳元によみがえる。
「ねぇ、ねぇ、東京駅八重洲口までの通勤、遠くて大変よねぇ~。あたし、いい勤め先見つけてあげたわよぉ。駅前の
コンビニ。最高よねぇ。近所になさい」
親切ごかしの声と言葉だったが、瞬時に嫌な気がした。
確かに近いし、女性は昼間のシフトだけだから、8時間労働でも通勤の分だけ時間に余裕ができるはずだ。
だけど、現実はそうはならないのはわかっていた。
この間うちから彼女が盛んに口にしていたこのセリフ。
「糖尿がひどくなっちゃって、ダルくてしょうがないのよぉ。あ~、つらいつらいつらい、ど~しよう」
そのくせ友達としょっちゅうどこかに出かけていく。
もう、いい年なのにK-POPかなにかにハマっているようだった。
普段から不精で家事の苦手な彼女は、掃除洗濯、買い物料理、調理器具や食器洗い、庭の手入れなどの一切の家事を
押し付けるつもりなのだ。
わたしは今まで25万の手取りがあり、給与のうち半分を義母に手渡していた。
同居している以上、生活費を入れるのは当然と納得していたけれど、彼女の今までのやり口から言って、転職による減
給を考慮してくれるとは思えない。
今までどおりの額を要求され、わたしは仕事と家事で休む間もなくなり、ろくな小遣いもないままにこき使われること
になるのだ。
「あの、いいですけど、退職は会社の規定で3ヵ月後になるんです」
「え~? ウソぉ、あんた、ウソ言ったら承知しないわよっ」
ウソだらけの義母は他人もそうだと思うらしく凄んできたけど、信じようが信じまいが規定は規定なのだ。
「……ま、しゃあない……か。ったくうっ」
わたしが1歩も引かず説明したから、幸いにもその話は立ち消えになったけど、このままでは骨の髄までしゃぶりつく
されるだろう。
韓国人にとっての嫁はいつまでたっても赤の他人で人権はないのだ。
この転職話はわたしを完全に支配下に置くために彼女が仕組んだものだった。
情報源のスマホを取り上げたのもその一環で、自由になる金すらない嫁は姑の言いなりになるしかない。
忍び足で家を出た。
行き先はもちろん、ユッチのマンションだ。
今ではもう、広行への愛情もおぞましいだけだ。
深夜の訪問にはびっくりするだろうけど、彼女が暖かく迎え入れてくれるだろうことはわかっている。
今まで何度も、
「ね、ガマンできなくなったら逃げておいでよ。今、恵美みたいなモラハラ被害者が結構多くてネットでも話題になっ
てるの。シェルターとかもあるし、専門の弁護士もいるみたいよ。だいじょうぶ、勇気出して。恵美は泣き寝入りなん
かしなくていいんだから」
と励ましてくれたのだ。
終電に駆け込んで片隅に座り、流れすぎる街の明かりを目で追う。
この1年の、思い切り削り取ってしまいたいくらいの思い出が、飛び去る夜の風景といっしょになって後ろに消えてい
く。
広行を愛した気持ちは本物だったのに、彼から見たわたしはただの恋愛ゲームのキャラクターに過ぎなかったのはどう
いうことなのだろう?
「女なんか、代わりはいくらでもいる」
彼がいみじくも言った言葉を笑って受け流してしまったわたしはきっと、その時点で都合のいい女に成り下がったのだ
。
愛を与えれば同じように愛が帰ってくると信じていたわたし。
義父母にも誠意を貫けばやがて家族として受け入れられると疑わなかったわたし。
それが全く通じない家庭が、いや人種がいたなんて……。
ユッチのマンションのある駅を降り、足早に見慣れた住宅街を抜けていく。
深夜の道は暗くて静まり返っていたけれど怖さや不安はなかった、
わたしは彼女のドアをどんな顔で開けるのだろう。
きっと、泣いてしまうかも?
結婚地獄(モラハラ家庭に嫁いだら)