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ゲヘ〜〜〜

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:08:26.39 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・19

 真珠湾攻撃後、ドイツの陸海空軍はITTと契約を結び、その結果、ITTはドイツ
軍向けに、電話交換機・電話機・警報機・ブイ・空襲警報装置・レーダー装置を製造し
輸出し売り込んだ。また、ITTは、砲弾用の導火線をドイツ軍向けに月間3万本製造
した。更にITTは、ドイツ軍向け砲弾用導火線を1 944年までに月間5万本製造する
。又、ITTは、ロンドンを空襲する為の ロケットの原材料・乾式整流器用の、セレ
ン光電池・高周波無線装置・要塞および、野戦用の通信セットをドイツ軍に供給した。
これに、作家チャールズハイアムは次のように述べる。「この戦略上非常に重要な資材
がなかったならば、ドイツ空軍は、アメリカ軍とイギリス軍の将兵を殺傷できなかった
だろうし、ドイツ陸軍は、アフリカ・イタリア・フランス・ドイツで連合軍と戦うこと
が出来なかっただろう。また、イギリスは空爆されなかっただろうし、連合国の艦船が
海上で攻撃を受けることもなかっただろう。ITTとその関連企業の助けがなければ、
ドイツ海軍の、レーダー提督がパナマから南方の国々を猛攻撃しようと計画したときに
、ドイツ側が中南米の国々にこの計画を連絡することができなかったはずである。」と
。ところが、これらは、逆である。ITTの前身テレフォニカ・スペインはスペインの
企業で、ドイツでの最新式試験所で数々の発見と特許を取っているのだ。ドイツでの、
子会社のC. Lorenz AGを通して、ルフトヴァッフェの戦闘機生産にもかかわり企業拡大
した。1930年にソスシーンズは、AEGと合弁し、スタンダード・エレクトリック・ゲ
ゼルシャフト(SEG)を設立し、更にローレンツ社を フィリップスから買収してドイツ
での本格的な事業展開に乗り出した。その後ナチスドイツ下で大きくなったが、傘下の
フォッケ・ヴルフや自社の生産設備を通じ、ナチス・ドイツの軍用機材や原料を供給。
中立国から、ナチス・ドイツへの情報提供を請け負い一方でフランスから亡命の技術者
を雇用し、連合国向けに防空システムを開発するなど、ソスシーンズは第二次世界大戦
を通じて連合国側と枢軸国側双方に対してビジネスをやり続けたきぎょうである。ただ
これに接触出来なかったのが日本であった。

111 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/04(木) 15:02:53.16 ID:D1K67SJ+o
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・35

 スターリン体制(1927年〜1953年)の26年間において、スターリンの政策により殺さ
れた人間の数は、銃殺・拷問で殺された者、強制収容所で過労死・凍死・餓死・病死し
た者、農業政策の失敗で餓死・病死した者、などを合計して2000万人〜5000万人と推定
されている。勿論ソ連も多民族国家でありスターリンにより捕縛れたのは、ウクライナ
人、ソ連内のポーランド人、朝鮮人、ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、カル
ムイク人、チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、メスヘティア・トルコ人、フ
ィンランド人、ブルガリア人、ギリシャ人、ラトビア人、リトアニア人、エストニア人
、ユダヤ人などの、民族集団が徹底的に 又は、部分的にシベリアや中央アジアへ強制
移住させられている。その途中でも多くの者が死んでいき、生き残った者は強制収容所
で強制的に働かされた。1941年から1949年までにシベリアや中央アジアへ強制移住させ
られた人々の総数は 330万人と推定されている。第二次世界大戦後の、スターリン体制
は、ソ連人には最低であった。最後の数年間(1948年〜1953年)は、ソ連在住ハザール
系ユダヤ人にとっては、特に暗黒期であった。この時期に生じた反ユダヤ的事件は切り
がなく以下の通りに進んだ。(1) 1930年代及び大戦中に設立されたユダヤ人文化協会・
団体の廃止。(2) 1949年からのソビエトの新聞・雑誌による公然とした反ユダヤ宣言が
なされた。特にユダヤ人の世界市民的な面は、敵性外国人として攻撃された。すなわち
「母国をもたない根なし草」、反逆分子、などである。(3) ユダヤ反ファシスト委員会
の廃止とそれに供なう暗殺と投獄である。ユダヤ人作家・ユダヤ人芸術家などが逮捕、
または殺された。(4) クリミア事件。 スランスキー裁判。 いずれもユダヤ人が罰せら
れ ドレフュス事件に匹敵する措置が取られた。(5) ユダヤ人医師陰謀事件。 スターリ
ンの、権力闘争に利用された事件で事件後、数千のユダヤ人が職を追われた。(6) ユダ
ヤ人とイスラエルとアメリカとをソ連の敵とする大衆宣伝の開始。などである

112 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 04:36:43.14 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・36

 ソ連政府は、第二次世界大戦後、何故かハザール系ユダヤ人を差別し続けた。スター
リン時代からソ連崩壊に至るまで、ソ連の上級官僚に任命されたハザール系ユダヤ人は
、ここで皆無に近い状態であった。教育でも就職でも、ハザール系ユダヤ人は常に差別
され続けてきた。ブレジネフ時代(1964年〜1982年)にハザール系ユダヤ人に、もたら
された恩恵と言えば、ただ1つ、出国の機会だった。1971年から1988年までに、ソ連の
ハザール系ユダヤ人15万人がイスラエルへ移住した。その為、ベルリン封鎖以前から、
ソ連はベルリンへの空路はハンブルク、ビュッケブルク、そしてフランクフルトのみに
限定していた。厳重なチェックを果たすためだ。更に米国対抗、引き揚げ要請に1946年
、ソ連軍は、突如農作物の配送をストップさせ、アメリカ軍司令官ルシウス・D・クレ
イは、西ドイツからの、ソ連への解体した工業製品の輸送を止めることで応酬するので
ある。ソ連はこの措置に対して、アメリカの政策に 反対するキャンペーンを行ない、
占領下の行政活動を妨げる措置をとった。その後ベルリン封鎖となる。ベルリン封鎖は
、第二次世界大戦終結後の1948年 6月25日、ソビエト連邦政府が、西ドイツの西ベルリ
ンに、この都市に向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件である。冷戦初期を象徴する
出来事である。この間ソ連人住民の海外流出は全く止まらかったのだ。しかし、ここで
やっと国内人口が増加に至った。この人口問題は、中国では、朝鮮戦争と一人っ子政策
を取ったし、日本は急激な工業化問題と高度成長期を作った。つまり各国の国情を変え
る大きなものだった。つまりは、中世以来の食糧と生産のバランス維持が、どんな経済
学より必要な政治形態要素だった訳である。

113 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 04:37:14.83 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・37

、旧約聖書において、紀元前11世紀から 紀元前8世紀まで古代イスラエルに存在したと
されるユダヤ人の国家のイスラエル王国。「イスラエル」という国名は、ユダヤ民族の
伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。しかし、史実性としては、
ほとんど証拠がなく、全く王政が存在してはいない。したかどうか、存在したとすれば
どの程度存在したのかは、現在進行中の学問的論争になる程、全く遺跡も遺物も存在が
ない。あるのは残念ながら、イエメンの王国とアフリカの聖なる箱だけなのだ。言語学
的にもヘブライ語の書物は現代ヘブライ語と古代ヘブライ語は、大きく違いアフリカに
近い言語形式を持つ。当時の国際情勢としては、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の
生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより、青銅器時代は終焉を迎え
、鉄器時代が始まった。紀元前1200年まえのカタストロフである。その原因は諸説ある
が、この社会変動の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新た
な時代を生み出した。当時の大国であったヒッタイトが滅亡、エジプト及びアッシリア
、バビロニアが揃って衰退期を迎えていた。これらの大国に囲まれる位置にあった歴史
的古代シリア (レヴァント) の地域には、大国の、同時衰退によって権力の空白地帯が
生じた。大国の干渉を受けることなく、多数のアラム人などの小国が誕生したと言われ
る。イスラエル王国もそのような状況下で誕生した新興国の一つであるとも唱えている
。元々新アッシリア帝国が、イスラエル王国を滅ぼした後、ユダ王国はその後にも、バ
ビロニア帝国、ペルシャ帝国、ヘレニズムの帝国に征服されている、ユダヤ人の自治州
として存在していたなどと歴史上はされているが。殆ど紀元前後に、ユダヤ人集団は、
細々といただろうが、ユダヤ国家が自治州として存続していたなどと言う資料は出ては
来ない。少なくとも、アレキサンダー以降にペルシア側からもエジプト側も欧州からも
何処からも国としてユダ王国などは露ほどもない。

114 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 04:40:33.59 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・38

 作られた物語では、マカバイ戦争が成功し、紀元前110年には ハスモン朝の独立国と
なったが、紀元前63年にはローマ共和国の従属国となり、紀元前37年にはヘロデ朝が置
かれ、紀元後6年にはローマ帝国のユダヤ属州が誕生したのである。と言われるのに税
の徴集も王の訪問記録も、奴隷の出世国にも出ない。ユダヤ人の反乱により、このユダ
ヤ属州は、壊滅的な打撃を受け、ユダヤ人は追放され、シリア・パレスティナに、改称
されるまで、ユダヤはローマの属州として存続した。という。この地域におけるユダヤ
人の存在も、いたとして何世紀にもわたってある程度継続している。と言うが、それら
の記述では、全てが、今のパレスチナ王国民、つまりパレスチナ人なのだ。7世紀に、
ビザンチン帝国から、アラブ人に奪われたレバント地方は、1099年の第1回十字軍の、
攻撃を受け、1187年のアイユーブ朝による征服まで、イスラム教徒の支配下にあった。
13世紀には、エジプトのマムルーク朝がレバントに支配を広げ、1517年にオスマン帝国
に敗れるまで支配した。19世紀には、ユダヤ人の民族意識の高まりからシオニスト運動
が起こり、パレスチナへの移住が始まった。と言うが、1250年、マムルーク出身者が、
エジプトを首都として建てた、イスラーム教国でイスラーム世界の中心地として栄えた
。とある。十字軍とモンゴルの侵入を撃退したが、14世紀半ばから衰え、1517年にオス
マン帝国に滅ぼされた。アイユーブ朝スルタンのトゥーランシャーは、フランス王ルイ
9世の起こした、第6回十字軍を撃退している。ルイ9世自身を捕虜にする。という、
成功を収め、その戦いの主力となったマムルークは冷遇して近臣を重用した為に、不満
を強めたマムルーク出身の将軍たちは、1250年5月、クーデターをおこし、30才の、
トルコ人青年将校のバイバルスが、スルタンを殺害した。これでアイユーブ朝は滅亡し
マムルーク朝が始まったとされる。その頃カイロには、カーリミー商人が大勢いた時代
いた時代である。カーリミーでは、イスラム教徒でなくば商売出来ない仕組みである。

115 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 15:40:38.20 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・39

 首都カイロは、国際的な商業都市として繁栄し、その商人はカーリミー商人と言われ
ていて、アラビア海方面で活躍した時代である。また農業生産力も向上し、小麦・大麦
などの主産物に加えて、サトウキビの栽培が始まり、それを原料とした砂糖の生産が、
増え、主要な輸出品となった。その後も東西交易のルートを抑え、16世紀初頭まで、
インド洋交易圏でのダウ船による海上貿易を支配して行く時、とてもじわっーと国内に
いてユダ王国だ。などと言って、イスラエル地域にいたとは思えない。マムルーク朝の
第5代スルタン、バイバルス(在位1260〜1277)は、十字軍の侵入と戦って撃退してい
るし、またモンゴルのフラグが1258年にバグダードを占領しアッバース朝を倒して建国
したイル=ハン国が、さらにエジプトへの侵入を企てると、1260年のアインジャールー
トの戦いで撃退した。マムルーク朝軍とモンゴル軍はガリラヤの丘陵地帯で激突した。
戦場には、小さな川が流れており、川にちなんでアラビア語でアイン・ジャールート(
ゴリアテの泉)と呼ばれていた現イスラエル地域なので、この戦闘をユダ王国が、兵を
出してないって事は不可解である。先鋒隊の為の1万人強の小勢であったモンゴル軍に
対して、数では優位にあったとみられるマムルーク朝軍は全軍を投入することを避け、
まず、バイバルス率いる先鋒隊のみがモンゴル軍の前に進む。戦いの後、マムルーク朝
の軍は、シリアを北上し、モンゴル軍の残党や、シリアに再侵入してきた部隊を破り、
シリアのほぼ全域を平定する。しかし、アレッポを回復したところで、先の戦いでの、
功労者であるバイバルスと、総司令官であるクトゥズの対立は、再対立した。バイバル
スはアレッポの総督に任命されて、この地方の自立を目論んでいたが、クトゥズはバイ
バルスが独立し地位を脅かすことを怖れた。此の為帰路途上でバイバルス軍によるクー
デターが勃発し、クトゥズが殺され、バイバルスが、新しいスルターンとなったのだ。

116 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 15:41:01.46 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・40

パレスチナは、第一次世界大戦後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年まで
大英帝国の委任統治領となった。この第一大戦前のユダヤ国民は、パレスチナ王国には
僅か住民3人旅行の滞在者5人という8人しかいなかった。その前のクリミア戦争の、
徴兵の為の住民検査では、ユダヤ人は0だったのである。更にこの頃の汎シリアと言う
カリフの下の統一イスラム国と言う、大きな政体であり、パレルナ王国と言えども自治
をやっていると言うよりは、宗教統制上の王であった。第二次世界大戦が始まると、こ
の地域には、アメリカから、一気に千人規模の移住者が既に入植活動をして、混乱を極
め、この混乱を治めるとして、米英は勝手に委任統治領とした。だがドイツから大規模
な爆撃を受け、イシューブのユダヤ人は連合国側に従軍した。1944年、イギリスは武器
の供給と、ユダヤ人旅団の結成に同意した。緊張が高まる中、イギリスはアラブ人と、
ユダヤ人の両派をなだめるために、1947年に国際連合がパレスチナ分割決議を採択し、
アラブ人とユダヤ人の独立国家と国際化されたエルサレムの設立を了承勧告して行く。
1211年 - 数名のラビがフランス・イギリスからエルサレムに来て、母国に帰還したと、
言い張った。十字軍以来の聖地であったからだ。1267年ラムバン(ナフマニデス)が、
エルサレムに定住し、シナゴーグを建設しだした。1291年マムルーク朝は、十字軍を倒
しイスラエルの地を支配し、ユダヤ教徒は、地下に潜って学問の中心地として栄えた。
1194〜1270、ラビ・哲学者・聖書注解・カバラ研究など、エルサレム内のシナゴークの
ユダヤ教徒地区に、トーラー学者・学生が住みはじめ、1798年〜1878年セルビアのセフ
ァルディム系ラビ・イェフダー・アルカライが、聖地での贖罪の前提としての帰還を唱
え移住し始めた。ここで、1799年欧州でナポレオンの遠征で、西アジア・北アフリカの
ユダヤ教徒全員に、エルサレム奪還を奨励する宣言を発布。つまり、十字軍代わりに、
ユダヤ人にイスラム攻撃を命じたのだ。当然エルサレムのユダヤ教徒、トルコ軍に参加
しナポレオンの攻撃から守る。

117 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 15:41:25.91 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・41

 ところが、これが思わぬ事になる。1800年代になると、イスラムのカリフの力も弱く
1808年、ヴィルナのガオンの16人の弟子がサフェドに農業定住地を創設し、1827年に、
モーゼス・モンテフィオーレが、聖地を旅行後、エルサレムに巡礼して、エジプトの、
スルタン・ムハンマド・アリー・パシャと交友関係を結んで、欧米の餌になったのだ。
つまり1840年にモンテフィオーレ、ムハンマド・アリーとの関係を利用して、「儀式に
キリスト教徒の血を使った。」という、デマ情報が出る程、投資を行った。彼は訴えら
れて、拘束されていた後、ダマスカスのユダヤ教徒数名を解放、身の安全を保障させる
1856年ルートヴィヒ・フォン・フランクルも又、聖地巡礼。エルサレム・ユダヤ人学校
(Lamel Schule)を設立し、ライプツィヒ大学を作りで「エルサレムへ戻ろう」運動を
仕掛け、「Nach Jerusalem」を出版。1860年エルサレム城壁外に、ミシュケノット・シ
ャアナニーム「聖なるユダヤ人居住地」が建設された。1862年ツヴィ・カリシャーの「
シオンを求めて」、モーゼス・ヘスの「ローマとエルサレム」などが、次々と出版され
。バハーウッラー、アッコ(アクレ)、ハインリヒ・グレーツなどが、聖地巡礼ツアー
を企画し、1881年エリエゼル・ベン・イェフダー、「イスラエルの地に帰還」「ヘブラ
イ語復興・普及」などの運動を大々的に開始した。ここで、1882年第一次アリーヤー・
ロシア・東ヨーロッパからの大規模な帰還が叶ったのだ。その数3千人。そしてついに
1887年ロスチャイルド家からの寄付と支援を受けて、イスラエルの地の農業コロニーを
買収したのである。1890年フランスの司祭マリー・ラグランジュは新たに、エルサレム
の聖ステファノ・ドミニコ会修道院の敷地に聖書学院を創設。とうとう1896年ロスチャ
イルド家乗り入れの援助の下、ユダヤ人開拓村を誕生させ、1897年第1回、シオニスト
会議。世界シオニスト機構が設置された。ハティクバがシオニズム讃歌イスラエル国歌
を作った。

118 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 15:48:35.97 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・42

 1900年代、ハシディズムの一派サトマール派運動がおこる。アシュケナジムのもつ、
ヘブライ古語で、有徳で思いやりのある行動であることを意味するヘブライ語「ヘーセ
ド」に、起源を持つ「敬虔な者(ハーシード)」という言葉に由来すした一派で超正統
派(ハレディーム)と言われた、正統派ユダヤ教拡大運動のことである。18世紀にバア
ル・シェム・トーヴが開始したとされる。「敬虔主義運動」とも訳される。ガリツィア
地方がその中心であった。と言う。このハシディズムの集会で、少人数によるミクラー
・ラビ文学の研究より、大勢による祈りを重視した。最初から独自の典礼、独自のシナ
ゴーグを発展させたが、ユダヤ教の主流から離れることはなかった。「神(絶対者)は
すべての生命に、内在するカバラ神学を持っている。」と言うのがスローガンである。
このハシディズムの共同体は、「王朝」と呼ばれる宗派で編成される。レベは、通常、
同じ町に住んでいたが、彼らの指導者の和解によって地域をの自治を任せられた。特に
第二次世界大戦後、この「王朝」は、西またはイスラエルに移動するときに、元の、東
ヨーロッパの居住地の名前を保持した。レベは、世襲制の町のラビで、地域社会の行政
責任者でもあったので、独自のシナゴーグ、勉強会場や、内部慈善の仕組みを持って、
自治をしており、教育システム全体を保持している。レベは、また集団の権威の最高の
人物でもある。多くのハシッド儀式が、ラビを取り囲んでいる。安息日、休日、お祝い
の日には、レベは、支持者を祝福するために説教を行い、一緒に歌い、踊り、食事を、
する。この縁故関係に近い集団は、陰部の割礼、去勢、瀉血、麻酔なしで執刀などの、
クロノスが母ガイアの助けを借りて冥界から脱出し、父親ウラヌスの男根を切り落とし
て支配者になるエピソードがあるが、この話は紀元前8世紀にヘシオドスによって書か
れている。『旧約聖書』にも睾丸をつぶされた者や切り取られた者は天国に入れないと
いう記述がある

119 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 16:25:54.08 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・43

 王朝への忠誠とレベは、しばしば、緊張と暴力の原因にもなる。「王朝」間の、注目
すべき争いには、ムカチェヴォのチェイム・エラザー・スピラが、ベルツの死者イザチ
ャー・ドヴ・ロケーチを呪った後、1926〜34年に紛争が生まれた。1980年〜2012年の、
「サトマール王朝」で、緊張が最高潮に達した。2006年の、サトマールの継承争いは、
アーロン・テイテルバウムとザルマン・テイテルバウムの間の、大暴動を見て、エルサ
レム政府は、防弾車で移動しなければならなかった。他の超正統派のグループと同様に
、コミュニティから離脱したい信者は、脅威、敵意、暴力、さまざまな懲罰的措置に、
直面している。厳密な宗教教育と、伝統派の育成の為に、宗派を離れる人は働くスキル
が、全くなく、英語さえも使えずいる。外の社会への復帰は非常に問題になっている。
保守的で、隔離されたコミュニティは、子供の性的虐待が発生し易く、数多くの事件が
報告されている。ハシディズムの指導者は、しばしばその事柄を沈黙させたと非難され
ている。ハシディズムの根底にある最も基本的なテーマは「、宇宙での神の内在」で、
あった。『ティクネイ・ハゾハル』の中に見られるアラム語の語句「Leit Atar panuy
mi-neya(神の存在しない場所はない)」によって表現される。この万有内在の 神論的
な概念は、ルリア派に由来したものだが、ハシディズム派も吸収しが大きく拡大した。
「世界を創造するために、神は自らの全在である(エイン・ソフ)」を収縮させ「神」
から分離した原初の空虚が現出した。この世界が、この空虚の中に生まれた事で、起源
的に、「神に完全に依存している。」物はそれが持つ真の霊的な本質抜きでは無であり
、また無限のエイン・ソフは、原初の空虚の中では顕在化できず、知覚可能な具体性を
もった見かけに限定される。従って、万物の真相と物理的側面の二元論で、両者は互い
に相手に変化する。つまり、真実が外装に隠れたり、外装が真相だったりする。

120 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 16:26:34.96 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・44

 そもそも、外に敵を作って攻撃するのは、内なる内紛を止めて、一致する視点で纏め
ようとする試みであった。「神は、収縮して 姿を隠さなければならず、人間や、物質
一般は全能なるものに、上昇・再結合しなければならない。」レイチェル・エリオアは
こう話して結束より、連帯を呼び掛けた。つまり、神は全能だと認識して、細部をつつ
いて争うな。と言うのだ。リアディのシュネウル・ザルマンによる『トーラー・オール
』中の創世記の中の、ヤコブが父の家に帰り、主が自分の神になる。に、関する注釈に
「これが無限から有限性に至る創造の目的であり、これによって、有限の状態から無限
の状態に戻す。ことができる。」と書かれていると引用する。つまり、法外な神秘主義
の、途方もない嘘も聞いたふりをして容認しろ。と言うわけだ。カバラは、この弁証法
の、重要性を強調し、主に宇宙論的な観点から述べる。たとえば「神」が、自分自身を
徐々に縮小させ、さまざまな次元、すなわちセフィロト(生命の樹)を通して「世界に
入り込む」方法を指した。とした。このハシド派は革新に基づいて、アシュケナージと
セファルディの典礼の、いいとこどりして混合し。ヌサッハの変種を使用した。バアル
・シェム・トヴァは、安息日の前夜に、金曜日の奉仕日を作り、2つの節を追加した。
ハシディムは、東ヨーロッパの背景の礼拝で、ヘブライ語とアラム語のアシュケナージ
の発音を使用している。言葉のない感情的なメロディー「ニグニム」はユダヤジャズで
中東のBGMとなった。ハシディムは、カバナ(終末論)、献身意思を重視しており、
非常に長く繰り返した。この奉仕作業で一部の王朝では、祈りを実施しなければならな
い「伝統的な特定の時間」を、ほぼ廃止し、精神的な浄化のための男性儀式浴は、毎日
行われた。他のよりもはるかの高く休息を得た。この彼らが、シオニズムに反対する、
というのはデマだと言うフェイクが、流された。しかし彼らは偽のユダヤで窮屈な生活
に僻癖していたのだった。そもそもが正当なユダヤ種には、白人種は存在しない。

121 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/05(金) 16:32:48.84 ID:YQI7+bkmb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・45

 その理由は簡単だ。ユダヤは砂漠の民のバール信仰が、偶像崇拝と生贄の儀式に満ち
嫌って作った、世界民族論から発祥し、商売に利用しようして作られたものであるから
、寒い山の洞穴で、少しでも太陽光線の恵みを受けるべく、白い肌に変化した環境には
無かった。逆に照り付ける砂漠に、水を頼りに生きて来た者の誇りと信頼の伝承だった
。ここで1904年〜1914年に、第二次アリーヤーが行われ、ロシア・ポーランドからの、
大規模な民族移動が起こった。即ち、入植の移民である。だが彼らには、資金も、食糧
も生活の知恵も無く窃盗・強盗・殺人・婦女暴行と、犯罪が絶え間なかった。しぶしぶ
と、国際社会は1909年、最初のキブツ・デガニアが建設された。ここで工事の為に、シ
ュムエル・アグノンに入植し、ルーマニアからの移民がテルアビブ建設に励む事になる
。1912年に、募金集めに、ヘンリエッタ・ソールドがアメリカにハダサー Hadassah を
設立した。又立ち上がって、移民阻止を訴えた住民や 先の強盗殺人被害に泣く先住民
は、大きく団結した。この頃には、イギリス軍が進駐し、国際連盟の監理統治の下で、
行政も検挙も裁判も、米英軍、即ち連合軍が行っていた。しかし、入植者で窃盗・強盗
・殺人・婦女暴行と、犯罪した者も、白人優位主義と選民思想で、ほぼ人道上の措置と
して、無罪放免となった。つまり食い扶持が無くて、法を犯しても、この国に法はない
。と言う判決すらだしたのだ。第三回の移民船団で、1915年フサイン・マクマホン書簡
で、協定が結ばれた。フセイン(フサイン)は預言者ムハンマドの血統を継ぐハーシム
家の首長で、オスマン帝国からの、聖地メッカ及びメディナの管理権を持つシャリーフ
=総督(太守)に任命されていた種族長だった。マクマホンは、エジプトおよびスーダ
ンなどの、アフリカ地域のイギリスユダヤ系高等弁務官である。この協定は、マクマホ
ンからのフセインに宛てた書簡という形式で、両者の間の秘密協定として結ばれている
。引用は、マクマホンからフサイン宛書簡(1915年10月24日)である。

122 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/07(日) 06:50:58.23 ID:tlePQyUwm
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・46

マクマホンからフサイン宛書簡
「イギリスが、同盟国であるフランスの利益を 損なうことなしに、自由に活動できる
境界線内にある地域においては、私は英国政府の名の下で次の通りの保証および貴書簡
への返答を与える権限を有しております。すなわち、(1) イギリスは一定の修正を加え
て、メッカのシャリーフによって要求されている、範囲内での、全ての地域における
アラブ人の独立を認めて、それを支援する用意がある。(2) イギリスは、外国からの、
すべての侵略に対して、聖地を保全し、その不可侵性を承認する。(3) 状況が許せば、
イギリスはアラブに助言を与え、これらのさまざまな地域における、もっとも適切と、
思われる統治形態を設立する援助を行う。(4) 他方、アラブ側はイギリスだけの助言と
指導を仰ぐことを決定し、健全なる統治形態の確立に必要なヨーロッパ人の顧問および
官吏はイギリス人であることを承認する。(5) バグダードおよびバスラの両州(ウイラ
ーヤ)に関しては、現地住民の福利の促進と相互の経済的利益を保護するために、当該
地域を外国の侵略から守るべく、イギリスの地位と利益の観点から特別の行政措置を、
必要としていることをアラブ側は承認する。・・・(後略)・・・」「メルシナとアレ
キサンドレッタの両地域、おおびダマスクス、ホムス、ハマ、アレッポよりも西に位置
する地域はアラブ独立国家からは除外される。という修正をした。 この協定に基づい
て、1916年に、フセインはいわゆる「アラブの反乱」を開始し、ヒジャーズ王国設立を
宣言。1918年に、フセインの子ファイサルがダマスクスを占領し、シリアの独立をも、
宣言したのである。このアラブの反乱を指導したのがイギリス人が「アラビアのロレン
ス」として、有名になった トーマス・E・ロレンスであった。

123 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/07(日) 06:51:24.77 ID:tlePQyUwm
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・47

 同じ1916年5月16日に、イギリスは、一方でフランスおよびロシアとの、サイ
クス・ピコ協定を行い、アラブ地域の英仏露での、分割案の合意を密約しており、翌年
には、更に一方のユダヤ人にも、国家建設を認めると言う、バルフォア合意を準備して
バルフォア宣言に動き出していた。これは、矛盾する約束を同時進行にしていたことに
なる。第一次世界大戦後、シリアを、委任統治することになったフランスはファイサル
を追い出した。ので、イギリスは自己の委任統治領であった、イラクの実質的支配権を
ファイサルに与えて、兄のアブドゥッラーには、トランスヨルダンの支配権を与えた。
イギリス側は、なんとか辻褄を合わせたかった訳である。その後1917年11月2日 バルフ
ォア宣言を行い、1917年12月には、英国軍は、オスマン軍を破りエルサレム入城凱旋を
行うのである。シオニスト運動の指導者でイスラエルの政治家となったハイム・ワイツ
マンは、1874年にロシアの小さな村モトル(現ベラルーシのモタリ)にユダヤ人として
生まれた。亡命ユダヤ人である。1899年、スイスのフリブール大学の有機化学博士課程
を修了した化学者でもあったが、マンチェスター大学で化学講師の職を得ると、シオニ
ズム運動にドハマりした。1903年、実践的シオニズムを主張し、1904年イギリスに移住
。シオニスト評議会の議長に就任した。1914年第一次世界大戦が始まり11月にイギリス
は、オスマン帝国に宣戦布告する。翌12月ヴァイツマンは友人のC・P・スコットを通じ
、ユダヤ人閣僚のハーバート・サミュエルと接触する。後で彼はイギリス委任統治領の
パレスチナの初代高等弁務官を務めたが、熱烈なシオニストだったので感銘を受けて、
バルフォアとの再会し、シオニズム合議を得て動く事になる。

124 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/07(日) 06:51:54.18 ID:tlePQyUwm
 こうしてユダヤ指導の、英米の二枚舌三枚舌の外交が、ここで展開されていくのだ。
、後に首相となるロイド・ジョージと、面会した。ヴァイツマンは、コルダイト火薬の
原料の、アセトンの大量供給に必要な、ABE発酵法の工業化の安定生産に成功した、
大物「発酵工業の父」と呼ばれている有名人。ここで、この初代イスラエル大統領にな
ったハイム・ワイツマンは、アミール・ファイサル・フサイニーとの会談をするのだ。
マクマホン氏は、エジプトおよびスーダンなどの、アフリカ地域の、イギリスユダヤ系
高等弁務官である。この協定は、マクマホンからのフセインに宛てた書簡という形式で
、両者の間の秘密協定として結ばれている。引用は、マクマホンからフサイン宛書簡(
1915年10月24日)である。 つまり、ユダヤのシオニストらが、それぞれでの
立場で出会い、さも国家間の取引や 国際連合の意向の様に見せかけて、ユダヤ起源の
疑問を省いて、合意したような会見を仕立てたのである。此処には国連総長も国家元首
もさらには、申請の代表や原住民も無く、劇中劇と同じ事を、勝手にフランス国内で、
演じて声明を出しているだけだった。のである。

125 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/07(日) 06:52:24.10 ID:tlePQyUwm
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・48

 1917年11月02日、イギリスはバルフォア宣言で、パレスチナでの、ユダヤ民族郷土の
建設を約束し、1918年にはイギリス政府の後援で、シオニスト委員会代表としてパレス
チナに向かい、テルアヴィヴのユダヤ人入植地を視察した。しかし、これは普通にオカ
シイ話で、英国議会は商人議会や商人議員で、その頂点に首相がいたし、そうした商人
議員は、8割でその中のキリスト教信者であっても、ほぼユダヤコネクションの中に、
埋もれていたのである。つまり、形の上は、ユダヤ人協会の要請で国連の指示で、英国
がユダヤ人領土を査定した形だが、現実は、査定したユダヤ人が、国連のユダヤ人に、
連絡調整して、イギリスのユダヤ議員に指令したと言う、言わばユダヤ内の行動なのだ
。結局、1919年、パリ講和会議にて、アラブ民族運動の指導者で後にイラク王国国王と
なるファイサル1世との間で、ファイサル・ヴァイツマン合意に調印して、互いの民族
国家建設のために協力することを約束した。これ以降には、世界的なシオニスト運動の
指導者としてハイム・ヴァイツマンが影て動いて、建国する方向に持ってゆく。1921年
に、世界シオニスト機構 (WZO) 代表に 就いて、アメリカ合衆国を訪れる。アルベルト
・アインシュタインとともに、シオニズム運動のための資金集めのキャンペーンを展開
し、米国政府に戦争資金に原爆開発事業に寄付し、防衛予算からその事業費給付を、ユ
ダヤ対策事業予算として得た。1925年、アインシュタインやバルフォアとともに、エル
サレムのスコプス山にヘブライ大学を創設したし、また、死海のリン酸塩工場、ナハラ
イムの水力発電所の建設を助成した。その後、起こった世界恐慌に対して、1929年、ユ
ダヤ機関 (Jewish Agency) を設立にこぎ着ける。

126 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/07(日) 06:53:38.43 ID:tlePQyUwm
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・49

 不思議な事だが、今回の米合衆国の、大統領選は、バイデンとトランプが、再び見交
える様な様相である。ところが、このドイツ系のユダヤと言われるナチス・ヒットラー
型の緻密な、いわば単細胞で幼稚な愚鈍な思考と、一方で、都市化馴れしてずる賢く、
大きなグルーブに於いて立ちまわる、イタリア系マフィアの様な、しらばっくれる思考
とには、歴史上は、幾度も対立している。ユダヤの起源は、旧約聖書の「歴史」の中で
、アブラハムやその子孫について、全く検証のしようがない。此の為、最初に挙げられ
る「歴史問題」は、モーセの出エジプトになる。だが、考古学資料も歴史文献も極端に
少なく、エジプトの国境守備隊から宮廷には、「ある部族」が通過中であるとの報告が
なされたとか、ある寛大なファラオが、中近東出身らしき部族に 小麦とビールの糧食
をふるまった。という記述が見られるくらいである。これに対してイスラエルの歴史学
者シュロモー・サンドは『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか?』で、
イスラエルの公式史観は「つくり話」だと主張している。サンドは、エジプト王国では
、個々の出来事をきわめて正確に記録に残す習慣があって、王国の土地に遊牧民の羊飼
いが侵入したことまで知られているのに、ファラオの副王になったとしたユダヤ人の事
はもちろん、ユダヤ人の奴隷が、集団で反乱を起こして脱出したことなどににまったく
触れていないのはなぜなのか、と問う。聖書によれば、モーセは 60万人の戦士と300万
人に近い民を、40年間も砂漠のなかを引き連れたのだ。これほどの規模で居住地を離れ
、これほど長い期間、砂漠をさまようのはまったく不可能だという事実の他に、この様
な出来事が、何らかの碑銘学的ないし考古学的な痕跡を残したに違いないが、どこから
も発見されていない事に、疑問符が付くとしている。

127 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/07(日) 06:54:09.89 ID:tlePQyUwm
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・50

 さらに大きな矛盾は、紀元前1220年のものとされる石碑に、ファラオ(ラメセス2世
の後継者メルネプタ王)が、シナイ半島の地カナンまで遠征して戦いに勝ち、「イスラ
エル」という名の者達を破った。という記録がある事である。これが聖書以外に「イス
ラエル」の名が現われている、初めての記録だが、従来の解釈では出エジプトは紀元前
12世紀(紀元前1100年代)で、この戦いの後の事となっていて、多くの矛盾が起こる。
しかし、そうなると、モーセは、エジプトから解放したユダヤの民を、エジプトが支配
していたカナンの地に、導いた事にもなる。モーセが、カナンの地を征服する様子は、
『ヨシュア記』で描かれ、これは(サンドによれば)「史上初のジェノサイドの一つ」
だったが、このような大事件が起きた事が、この土地を統治していた エジプトの記録
には、何一つまったく残されていない。では、逆に言えば、エジプトのカナン攻略以前
に、モーセが、ユダヤ人を率いて「約束の地」に帰還した。と考えたらどう言う事に、
なるだろう。これなら、発掘された石碑とのつじつまは合うが、今度は、聖書の中に、
この大事件の記載が 一切無い事が説明できなくなる。エジプトでの、多くの奴隷状態
から、ようやく逃れてきたのに、ふたたびエジプトの支配下に置かれる事になる地を目
指して、旅をしたのか、或いはその後又奴隷として生活しただろう事が、なぜ無視した
様な記述なのか。このように考えれば、「合理的」な解釈は一つしか残されていない。
聖書における「出エジプト」は、すべて創作の物語だったのだ。しかし、こうなるとこ
れでは、モーセの存在も、シサイ山での十戒の石版も、ヤハウェの命令による、カナン
征服も、すべてが創り話になってしまうではないか。果たしてそうなのか。考古学的な
検証と発掘は続く。

128 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/10(水) 20:54:00.52 ID:1NpnuaYgo
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・51

 イスラエルの歴史学者シュロモー・サンド 『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作
されたのか?』(高橋武智監訳、佐々木康之・木村高子訳、ちくま学芸文庫) の本では
、イスラエルの公式史観は「つくり話」だと主張している。なお、本書の原題は“The
Invention of the Jewish People(ユダヤ人の発明)”だ。と論破している。1946年に
オーストリアで、ホロコースト生存者の家庭に生まれている。サンドは、2歳で家族と
ともにイスラエルに移住した。父親は、共産主義者であり、16歳で高校を退学になって
、ラジオ修理の仕事をして稼いでいたサンドも、仲間に誘われ共産主義に傾倒したので
ある。25歳で高校を卒業すると、1967年に勃発した、6日間戦争に徴兵、激戦地に投入
され生き延びた。当時ナセル大統領はスエズの通行料で富を得て、最新鋭の軍事力で、
周辺を威圧していた。第三次中東戦争とされるこの戦闘は、周到に用意され1967年6月
、イスラエル軍がエジプトなどに侵攻、わずか6日間でイスラエルの、圧倒的勝利を収
め、シナイ半島、ガザ地区、ゴラン高原などを占領し、勝利して終わった。イスラエル
はパレスチナ占領地を、ここで拡大して軍事大国化し、敗北した エジプト・ナセルの
中東での指導力は衰えてしまった。この戦後に、パレスチナ人に対するイスラエルの、
抑圧して行き、差別的な虐待ぶりが現れる。サンドは、こうした対応を目にしての、「
反シオニスト」になっていく。テルアビブ大学で歴史学の学士号を取得すると、「イス
ラエル人としての、全てを捨てる。」決意をし、フランスに移住した、歴史学の博士号
を取得して、パリやカリフォルニア(UCバークレー)で教鞭をとり。1984年からはテル
アビブ大学に戻って現代ヨーロッパ史を講じ、正教授を経て現在は同大学の名誉教授と
なった。

129 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/10(水) 20:54:29.38 ID:1NpnuaYgo
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・52

 イスラエルでは、今でも、大真面目に旧約聖書の物語が“公式”の歴史観となってい
る。それによれば、「ユダヤ人の起源」は次のように説明される。紀元前2000年頃に、
テラと呼ばれる男が、その息子アブラハムと妻サラ、孫のロト(アブラハムの甥)を連
れて、当時の文化の中心バビロニアを去って、ユーフラテス川を越えて、現在のトルコ
南部にあたるハランの街にやってきた。彼らは「イヴリム(川向うから来た人々)」と
され、すなわち「ヘブライ人」と呼ばれた者たちだった。父のテラが死んだあと、70歳
代になったアブラハムは、神ヤハウェ(エホバ)に出会って、神の戒律の、男児は誕生
から8日目に、かならず割礼しなければならない。と言う主旨守るならば、子孫を神の
「選民」として、庇護するという契約を結んで、カナンの地が、約束された種族だった
。紀元前16世紀、アブラハムの、ひ孫ヨセフが古代エジプトの副王にとりたてられて、
飢餓に襲われたヘブライ人達を呼び寄せた。だがエジプトで新しい王が権力を握ると、
ヘブライ人は奴隷にされてしまうのである。それから 400年後の紀元前12世紀になると
、ヘブライ人は、モーセという、一人のリーダーに率いられて、エジプトを脱出した。
(「出エジプト記」)モーセは、シナイ山での神の戒律を記した十戒の石版を受け取り
、カナンを征服して「約束の地」に帰還した。その後は、12支族による族長時代の、
「連邦制」を経て、カナンは、ダビデによって統一された。だが、ダビデの子で「知恵
の王」とも称されたソロモンの死後は、北のイスラエルと南のユダという2つの王国に
分裂してしまう。イスラエル王国は、紀元前722年に アッシリアに滅ぼされ、歴史から
消えたが、これに対してユダ王国は、紀元前586年に 新バビロニアのネブカドネザルに
攻略されるまで持ちこたえ、住民たちがバビロニアに虜囚されてからも、独自の一神教
を保持し続けた。此の時、「約束の地」から追放されたユダ王国の子孫が「ユダヤ人」
になった。

130 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/10(水) 20:58:55.68 ID:1NpnuaYgo
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・53

 だが、これらは、全く今でも、歴史的な事実なのか、それとも旧約聖書に書かれた、
単なる新罠のか。論争のままで、イスラエルは約束の地として、建国されたのであった
。日本でも歴史を紐解くには、『古事記』や『日本書紀』と言う古い古書の話での事を
殊更神話時代として言うしか方法はない。つまり、それ以前の古墳や縄文土器の時代の
三角文字や、発掘された刀剣や銅鏡の言葉は、名はあって銘文はあっても、歴史を繋げ
ないからだ。こうして戦前には、天孫降臨から始めるのは「歴史学」ではないが、日本
の軍部を始め、国民を皇民として、これを学校で大真面目に教えていた。そして同じ様
にイスラエルでは、いまでも旧約聖書の物語が“公式”の歴史観となっているが、凡そ
のキリスト教の国々は、それを是認するし、教会の司教を始め、教皇は旧約聖書の中に
、その宗教的支柱や、世界的権威を、保持し続けて、今でも布教し続けいるのである。
話を戻せば、この創作神話の、この問いかけの重要な意味をもつのは、この「公的」な
歴史観が、ユダヤ人が「約束の地」に、自らの国家をもつシオニズムの根拠としている
傲慢さにある。今日、歴史を見る限り、この傲慢さが白豪主義や選民主義を産みだして
、人種差別を行い、次々と征服王朝を建てて、戦争を仕掛けて領土拡張に及んで来た事
は、植民地主義やアパルトヘイトの流れを見ても、充分立証されている。にも関わらず
アメリカは、このイスラエルと言う物を、絶対神イエスの故郷として、かなりヤバく、
擁護するのである。聖書における「出エジプト」はすべて創作なのか。度々噴出する、
話題である。そして、聖書は、どこまで真実なのか。などは、今でも問われているのだ
。基本ユダヤ民族など居ないし、かつてもいなかった。単なるヤウェーと言う絶対神の
妄信教徒の集団がいただけである。だからこそ、いつまでも戦争し、何時までも人殺し
を辞めずに、嘘を吐き出し続け、世界の混乱を求めている。

131 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/10(水) 21:03:21.81 ID:1NpnuaYgo
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・54

 「モーセが架空の存在であった。」としても、ユダヤ人が古くから「約束の地」で、
暮らしていたことは、族長時代を経て、「威厳に満ちたサウル、勇気あるダビデ、賢い
ソロモン王」という3人の王が、北のイスラエルと南のユダを統一し、紅海からアッシ
リアの、ダマスコ(ダマスカス)に至る大帝国をつくったことで 明らかだとされる。
ところが、サンドは、統一王国首都であったエルサレムの大規模な発掘作業が1970年代
に行なわれたものの、ダビデや、ソロモン時代とされる紀元前10世紀に、強力な王国が
存在したと言う名残りが、一つも発見できなかった。と伝えている。「およそ記念碑的
な建造物のいかなる証拠もなく、城壁も、壮麗な宮殿も見つからなかった。し、土器も
驚くほど少ししか出土せずに、出土したものも、ひどく貧弱な様式だったのである。」
聖書の伝承によると、ソロモン王はハツォル、メギド、ゲゼルなどの、北部の町を再興
した。その、ハツォルからは巨大建造物、メギドでは宮殿の城門の廃墟が見つかったが
、「残念なことに、これらの城門の建築様式は、紀元前10世紀よりも ずっーと後の物
であり、サマリアで発見された 前9世紀の別の宮殿に似ていることが明らかになった
」。炭素14を用いた年代測定であっても、北部地域の巨大建造物は統一王国のソロモン
によって建てられたものではなく、イスラエル王国時代のものだ。とされている。つま
り、 イスラエル王国以前には、強力な統一王国はなく、しかも、イスラエル王国は、
「ユダヤ教」ではなかった事が、判明したのである。これは、驚くほど恐ろしい現実の
歴史である。ある程度の歴史を踏まえながら、まるっきりの嘘でない、今でいう処の、
フェイクニュースを忍ばせて、自分達の意図するところへと先導し扇動する。もともと
この地区は、バビロニアとエジプトに商隊を置いて貿易するナバテア人の領域で何処の
領地に入ろうとも、バール信仰、つまりミトラ教の残る地域なのである。

132 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/10(水) 21:08:54.41 ID:1NpnuaYgo
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・55

 アッシリア南部(イスラエル北部)に人口が多く、ゆたかな王国が存在したことは、
アッシリア王シャルマネセル三世の「黒いオベリスク」と呼ばれる碑文などから、間違
いない事実だろう。一方、南のユダ地方には、その当時、王国と呼べるような、政治的
実体はなく、エルサレムでさえも、小さな砦のような町以上ではなかったのだ。「この
地方の一角に、ダビデ家と呼ばれる王朝が存在したかもしれないが、このユダ王国は、
おそらくは、それ以前に出現した北部イスラエル王国よりずっと小さいものだった。」
とサンドはいう。イスラエルの公式史観にとっては、都合の悪いことに、さまざまな、
考古学的発掘や考古学の資料分析の結果では、カナンの人々は、全く一神教を信じてい
た形跡ではなく、当時、中東で一般的だった、多神教徒だった。と言う事を示していた
。そのなかで、もっとも人気のある神が、ヤハウェで、「それがギリシア人における、
ゼウスやローマ人におけるユピテルと同じように、徐々に主神になっていった。」のだ
。このようにして、モーセだけでなくダビデやソロモンすらも、架空の人物になってし
まったのである。「栄光に満ちた統一王国は決して存在したことがなく、ソロモン王は
、700人の妻と300人の 側妻を住まわせるほど、広い宮殿をもっていなかった筈だ。」
とサンドはいう。「イスラエル王国」はたしかに存在したものの、そこにいたのは貧乏
な、乞食集団の「異教徒」の裸体僧達だった。なぜなら、「ユダヤ教」がまだ成立して
いなかったからだ。ここでサンドは「ユダヤ人の起源」を問う。この本の、原題は「ユ
ダヤ人の発明」なのだが、ユダヤ民族・人種なるものは、19世紀ヨーロッパのナショ
ナリズムのなかで、まさに「発明」された。のであった。その歴史的な起源を見ると、
ユダヤ人とはユダヤ教徒であって、民族(エスニック)とは、全く関係がないし、経典
すらも、ローマ帝国が2〜3世紀に編纂した文言を信条にしているのであるからして、
紀元前にあった。等と言う歴史は全くデタラメなのである。

133 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/18(木) 10:24:13.60 ID:9QZjYOzEr
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・56

 この物語は、二千年にわたる「追放=離郷」、そして約束の地への「帰還」として、
扱われる。このユダヤの物語を元に、イスラエルは建国された。だがそこに、歴史的な
正当性は、全くない。そもそも、ユダヤ人とは何者か。精緻な検証作業でサンドは歴史
を追う。そして歴史が解かれると、イスラエルにおける集団的アイデンティティを根底
から突き崩すのである。そこでシオニスト達は、発掘調査に邪魔になる戦争を仕掛けた
。第一次大戦、第二次世界大戦、その後の紛争対立は、いずれもイスラエル否定国家、
シオニスト否定派組織に対抗したものだった。シリア、アルメニア、イラクバクダート
ナイル、アフガン、と狂人と化した国家へ囁いては、軍事進攻し、砲弾の嵐の下には、
貴重な古代古墳の発掘資料の残る地域ばかりであった。何故か。この壮大な民族の神話
と出自は、近代の創作であると暴露されるのを恐れ、現国家に対し再出発を迫る筈だか
らだ。どうすればイスラエルは未来を拓くことができるのか。タブーを破り、イスラエ
ル本国をはじめ、世界各国で反響を巻き起こし、神無き世界に移行するからだ。ユダヤ
は、ローマ帝国の聖書編纂に於いて物語を完成させ、キリスト教徒がアフリカ、ロシア
に至るまで増えたキリスト教の母体にユダヤ教を据えて、護って来た民族をユダヤ民族
として創作した。ここで、その基本の旧約聖書を、護り後世まで残した民族とし、これ
まで罵られ虐げられた地位挽回に、尊敬されるべき人種だと唱える事にしたのである。
つまりは、キリスト教はユダヤ教から派出したもの。と刷り込んだ。ここでユダヤ教へ
の改宗者が、一気に増えた。そして、シオニスト運動は、それを「民族」の歴史にすり
替えて、更に西ヨーロッパ系のユダヤ人を、欧州人の中に徹底して優位においた思想を
貫いたのである。ここで東ヨーロッパ人は農奴の位置に引きずり降ろされた。これは、
ロシアと言う不毛の大地の、ある面極寒の地の宿命でもあった。そこで北欧人は他の手
を打った。

134 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/18(木) 10:25:09.36 ID:9QZjYOzEr
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・57

 全くこの、悪質で醜極たる行為を、少しずつ少しずつ、確実に軌道をそれる事無く、
シオニズム運動としてやり遂げるのだ。イタリアのマフィア成分に、ヒットラーやナチ
スの香りと、虐待・虐殺のエッセンスの香りつけして、人々に、麻薬の金貨の粉を振り
かけて、食卓にだす。この味付け調理人になったのが、ユダヤシオニスト料理人達だろ
う。新大陸アメリカに、人々が上陸して成功した辺りに、労働組合、つまり共産主義は
母国イギリスを変えようとホイッグ党が洗脳する。その後、札束を持って、更にユダヤ
の資本家は駆けつけて、上前をピン撥ねして、銀行家の為の投資や、銀行の為の保険や
、資本家の為の融資契約を始めた。この蟻地獄から抜け出そうと、初代リンカーンは叫
ぶ、「人民の人民による 人民の為の政治を」行おうでは無いか。と。だが、中間層の
くびきは、全く取れない。資本家層の、ばら撒いた餌の美味しさに、人々を自然破壊に
何回となく駆り立てた。どんなに高く高尚な望みと 文化を打ち立てても、足元には、
その岩盤すら崩壊させ、ゆっくりと流れてぶち壊して行く氷河の流れの様な冷酷な人間
をとらえた、仕掛けられる罠の数々。国富論や資本論、市場原理に金融操作は、王では
いちいち指導出来ない事に目を付けて、食糧・エネルギーにまとわりつく石油資本や、
メジャー達のトリッキーな暗躍とその放任主義。当初のユダヤはシオニストでなく、唯
(ただ)の難民や移民で、香港に押し寄せて来た。香港は日本の開国より早く、西洋の
目を付けた中国離島であった。中国皇帝が捨てた、海の最南端の砦であって、すでに、
英国とのアヘン戦争に敗けてカオスな賑わいに、この地に自由を求め移民がやって来て
は、借り物の島借り物の自由で、アメリカに改めて移住した。香港の中国側官庁の九龍
城は租借地の中では無力であり、戦争でのイギリスの奪還よりは、中国の政治難民の群
で溢れ、カオスの中心、魔窟の城になって、上海資産家の逃げ場になってしまったのだ
。この「レッセフェール(自由放任主義)」は、アナーキー(無政府主義)を産んだ。

135 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/18(木) 10:25:48.96 ID:9QZjYOzEr
画期的大著、ついに文庫化。この本の目次
第1章 ネイションをつくりあげる―主権と平等(「用語の検討」―プープル(民族)とエトニー(種族)
ネイション―閉じ込め、境界を定める ほか)
第2章 「神話=史」―はじめに、神がその民を創った(ユダヤ人の時間の素描
「神話=史」としての旧約聖書 ほか)
第3章 追放の発明―熱心な布教と改宗(紀元七〇年
追放なき離郷―不分明な地域における歴史 ほか)
第4章 沈黙の地―失われた(ユダヤの)時を求めて(「幸福のアラビア」―ヒムヤル王国のユダヤ教への改宗
フェニキア人とベルベル人―謎の女王カーヒナ ほか)
第5章 区別―イスラエルにおけるアイデンティティ政策(シオニズムと遺伝
ことで、現代世界における最も深刻な問題の一つに関して、より包括的な理解が得られよう。

136 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/18(木) 10:26:31.71 ID:9QZjYOzEr
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・58

 他方、ラブキンは、現在のイスラエルにおいて、ユダヤ教の立場からなされる、シオ
ニズム批判に焦点を当てている。真摯(しんし)なユダヤ教徒にとって、シオニズムは
神を裏切るものであり、ユダヤ教史上、最大の敵である。彼らは政治的には保守的なの
だが、イスラエル国家そのものを否定する。という点で、左翼的な批判者と一致する。
ただ、後者を「反ユダヤ主義」として斥(しりぞ)けることができても、前者をも片づ
けることはできないのである。以上、両書を併せ読めば、ユダヤ教徒が、これまで長く
離散の状態にあって、約束の地、シオン(エルサレム)に帰還する時を待ち望んできた
。と言う嘘の夢が分かり得る。しかし、帰還のために実際に何かをしたわけではない。
そうすることは、神の意志を先取ることだから許されないのである。シオンへの帰還の
運動(シオニズム)が始まったのは、19世紀後半で、ヨーロッパやロシアの各地で、
排外的なナショナリズムが生じたからだ。ユダヤ人が追いつめられた時である。それに
対抗して、ユダヤ人も、自身をネーションとして意識し、国家を創(つく)ろうとした
のである。当初、シオニズムは、大多数のユダヤ教徒からは否定されていた。ユダヤ教
の教えに反するからである。しかし、このエゴイズムにナチズムは更にエゴイズムを、
発散させた。こうした虐待の経験のち、多くのユダヤ人が 独立国家をつくることに、
賛同に追い込まれたのだった。ユダヤ人の大虐殺(ジェノサイド)に責任を感じた欧米
諸国もそれを支持した。それがユダヤ人であろうがなかろうが、ジェノサイドは、常に
行われていたからだ。我々日本人の眼からみると、トランプにしろ、バイデンにしろ、
或いはプーチンにしろ、ネタニヤフにしろ、或いは習近平にしろ、とても汚く、汚らわ
しく、浅はかで醜悪な、同じチンピラに見える。敗戦国家として、和平主義が染みつい
ているせいか、攻撃的演説や、テロなんて言うあり得もしない市民暴徒に銃を向けて、
闘争を煽る。この行為に訝しさを感じてしまうのである。

137 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/18(木) 10:27:37.54 ID:9QZjYOzEr
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・59

 ヒットラーとチャーチルは共にユダヤ人だった。ここで会談が持てなかった事こそ、
ユダヤ人協会の壁だったのである。その結果、1948年にイスラエルが建国されたの
であって、それは先住していたパレスチナ人を追い出し、土地を略奪することによって
なされた。以来、周知のように、パレスチナ人の抵抗が続いている。近年、イスラエル
への批判は国際的にますます強まっているが、ジェノサイドの負い目をもつ欧米では、
イスラエルへの批判は、簡単に政府は、反ユダヤ主義として排除される傾向があった。
 1931年には1度WZO代表を退き、研究生活に戻った。1934年、レホヴォトにダニエ
ル・シーフ研究所(現ヴァイツマン科学研究所)を設立し、「化学兵器の父」で名高い
ユダヤ人化学者で、ナチス政権下のドイツから逃れようとした フリッツ・ハーバーを
所長に招くも、ハーバーはパレスチナに渡る道中で死去した。このためにヴァイツマン
自ら所長に就いた。そして、翌1935年にはWZO代表に復職し、1946年まで務めるので
ある。第二次世界大戦では、イギリス軍需省の名誉顧問となって、合成ゴムとハイオク
ガソリンを研究している。天然ゴムの産地であるマレー植民地が日本に占領された為に
この研究は貴重な物だった。また、イギリス軍内の特別「ユダヤ旅団」の組織を促進し
、彼の息子2人も、軍務に就かせている。1942年、アメリカ大統領フランクリン・ルー
ズベルトとの会見に、出発しようとしたとき、ヴァイツマンは息子マイケルの飛行機が
撃墜された。と知らされたが、仕事を続けている。1947年、国連のパレスチナ分割案に
対し、パレスチナ国家の独立は、認めたがネゲブをイスラエルに含めるよう主張した。
ハリー・トルーマン大統領と、会見して支援を取り付けて、この主張を認めさせること
に成功したのである。こうして、イギリス国民でありながら1948年、イスラエルの初代
大統領に就任する。従って英国にしてみれば、植民地インドと同じに、イスラエルの、
大統領を名誉職としての性格で承認していた。ところが、この実務がおもに首相がする
が、彼の下に着いたダヴィド・ベン・グリオンは、かなりの有能な行政長であったのだ

138 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/18(木) 10:28:02.04 ID:9QZjYOzEr
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・60

 ダヴィド・グリューン (David Grun) は当時ロシア帝国領ポーランドのプロニスクで
生まれている。ワルシャワ大学に在学中、東ヨーロッパで、反ユダヤ主義の流行があり
、ユダヤ人の虐殺(ポグロム)に衝撃を受けた。彼は熱烈なシオニスト及び社会主義者
としてポアレ・ツィオン運動の指導者となった。後に「シオンの労働者」を意味する名
がこの名である。20世紀初頭のロシア帝国の都市部で起こったマルクス主義シオニスト
による労働運動で、。ユダヤ人ブンドに労働シオニズム活動に入った。『建設的、社会
主義』を旗印に掲げたが、聖書を信奉するため、反共路線だった。従ってシオニズムを
拒絶された者達によって指導されることも多かった。1906年9月7日に13人の仲間と共に
パレスチナのヤッフォへ移り住みパレスチナでは最初、オレンジ農業などを行っていた
。が、僚友イツハク・ベンツビらが、参加していたパレスチナ入植者によるハショメル
(自警組織)に志願して、行動する。これはイスラム側からすれば、勝手な入植であり
人の土地に来た強盗団であった。1912年にベンツビとともにイスタンブール大学で法律
を学ぶため、オスマン帝国のイスタンブールへ移っている。オスマン側の法律を学ぶ為
である。しかし彼は、最初の労働シオニスト新聞『アハドゥト(労働)』で編集部員と
して働いた。その時、政治活動を始めると共にヘブライ語の名前ベン=グリオンを使い
始めた。この名は、中世の歴史家ヨセフ・ベン・グリオンから取られたものだった。あ
る時、シオニスト会議の出席者名簿の中に、2人の名前を見つけたジェマル・パシャに
よって、オスマン帝国統治下の、パレスチナにおける政治活動を理由に、オスマン帝国
から永久追放されることが決まった。しかし拘束期間中は、学生であったこともあり、
丁重に扱われた。という立場だった。パシャがドイツに近寄り、イギリス。フランスを
捨てた方針が、そこにある。

139 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/19(金) 21:22:45.90 ID:ReePGDaRb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・61

 1915年に、ニューヨークに移住し、後の妻となるロシア生まれのパウラ・ムンワイス
と出会う。彼らは1917年に結婚する。彼らの間には3人の子供がいた。1917年11月2日に
発せられたバルフォア宣言も、米国で一報を受けている。1918年になり、イギリス陸軍
のユダヤ人部隊に志願した。一家は第一次世界大戦後イギリスの委任統治領となった、
パレスチナに帰還した。ベン=グリオンは後に、当時のパレスチナでの生活について、
「自力で土地を開拓しなければ、土地は我々のものにならないので、アラブ人の村で、
ユダヤ人が 働くのは、危険だと考えていた。だが、我々はそこでアラブ人と衝突した
ことは一度もなく、アラブ人の憎しみを買うこともなかった。」と書いている。実際に
その頃のイスラエルTVでもアパートの隣人、と言うのがコントでアラブ人とユダヤ人
の仲のいいコントが、毎週毎週お笑い番組として、世界に向けて放送されていた。祈り
がうるさいだの、ユダヤがパーティして、ワインがどうたらだの。言葉は判らなかった
が面白かった。ベル・ボロコフは労働シオニズムの先輩だったマルクス主義者でポアレ
・ツィオンの創設者だが、彼の死後、ポアレ・ツィオンは左派と右派に別れ、ベン=グ
リオンは友人の労働シオニズムの右派勢力の指導者カツネルソンと共に、ポアレ・ツィ
オン右派を中心にアフドゥト・ハアヴォダを立ち上げている。1919年にベン=グリオン
はリーダーとなり1920年12月には「ヒスタドルート」(シオニスト労働同盟パレスチナ
)」を結成した。書記長となって、イギリス統治下のユダヤ人社会での労働者地位向上
に注力した。また、自衛組織のハガナーの結成にも関わり、アラブ人のキブツの襲撃に
軍事的に対抗した。キブツの襲撃は、今のハマスの初期闘争で、ガザ地区の境界でイス
ラエル入植者が100人程度殺傷された事件である。

140 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/19(金) 21:23:13.40 ID:ReePGDaRb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・62

 1920年2月8日ウィンストン・チャーチルは、金に目がくらみユダヤ人国家支持を表明
した。ここでヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)、ハガナーが創設される事になった
。これに相応し、アラブ人過激派、反シオニズム暴動開始した。ここで、民族評議会を
設置して、ワド・レウミが窓口になった。ユダヤ人共同体の自治運営を行うと。農村・
テル・ハイの虐殺が起こり、ヨセフ・トルンペルドールが死亡した、ユダヤ人シオニス
トである サー・ハーバート・サミュエルが委任統治領の、高等弁務官に任命されて、
アラビア語・ヘブライ語・英語を公用語に制定した。1922年、イギリス委任統治領パレ
スチナが成立し。イギリスは国際連盟により、パレスチナの委任統治権を認められた。
ここでパレスチナ王国の権威は無くなり、敗戦国日本と同じにパシャの下のアラブ世界
は、解体されたも同じで、英国統治領として、移民を送り出し、国際社会からパレスチ
ナへの、ユダヤ人移民と開拓の助成の責任を持つと宣言した。その後委任統治領を分割
し、ヨルダン川以東に「トランスヨルダン」を設立、ユダヤ機関が創設された。ここで
委任統治政府への窓口としてアハド・ハアムが座った。1923年イギリスの、ゴラン高原
を、シリアの領地を、フランス委任統治領として割譲した。と言うのも第一次世界大戦
後のヴェルサイユ条約の対独講和の流れで、3年前の1920年に英仏はオスマン帝国政府
は締結に応じていた。領土のほとんどを割譲し、主権侵害など非常に苛酷な内容での、
敗戦処理で、既にセーヴル条約をオスマン帝国と結び、大シリアのうち、狭い意味の、
シリア(レバノンを含む)は、フランスの、ヨルダンとパレスチナは イギリスの委任
統治領とされて、ここでパレスチナ王国の支配権は消えさっていた。つまり原住民は、
闘わずして、敗戦国として世界から処理されたのだ。

141 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/19(金) 21:23:35.16 ID:ReePGDaRb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・63

 反発したトルコ人はムスタファ=ケマルの指導のもと締結を拒否、同時に領内に侵攻
してきたギリシア軍を撃退し、改めて1923年にローザンヌ条約を締結して主権の確立と
アナトリアの領土回復などに成功した。オスマン帝国のスルタン政府が連合国と結んだ
セーヴル条約に対し、アンカラのケマル=パシャの率いるトルコ共和国国民政府が廃棄
を宣言した。トルコ国民軍がギリシア=トルコ戦争に勝って改めてスイスのローザンヌ
で連合国との講和会議が開催され、1923年7月にローザンヌ条約が成立した。1920年8
月にイギリス・フランスはダマスクスのファイサル将軍を、軍事力で追放したフランス
のシリア委任統治は、22年7月に国際連盟で承認された。フランスは、委任統治に当
たって、多数派のスンナ派イスラーム教徒を抑えるために、シーア派やドゥルーズ派の
イスラーム教徒、マロン派キリスト教徒などの、少数派の宗教対立を利用した。ヨーロ
ッパ近代主権国家のそれらは、この宗教的な対立を克服していたが。彼らは、中東やイ
ンドは宗教的な「モザイク社会」である。という偏見を持っていた。フランスがシリア
に持ち込んだのものは、そのような偏見から来る「分割統治」であり、それまでに共存
していた様々な宗教の間に、宗派対立から内戦に発展する構造を、持ち込んだのであり
、ここでの持ち込みは、フランスだった。と、言うことができる。ベン=グリオンが、
労働党右派の指導者となった時、ユダヤ内は、青年労働党左派のマパイ党が結成されて
政治的影響力を持つ機関となっていた。他の派閥ほど左寄りではなかったが、労働シオ
ニズムの左派の代表としては、マパムがいた。だが、労働シオニズム右派は、世界シオ
ニスト機構の議会に食い込み、段々優勢となって行った。

142 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/19(金) 21:24:12.73 ID:ReePGDaRb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・64

 1935年にはベン=グリオンはパレスチナのユダヤ機関の、執行委員会の議長となり、
役職は1948年のイスラエル建国まで続いた。1936年から1939年にかけての、パレスチナ
でのアラブ人暴動の間、ベン=グリオンは『ハガッシュ(Havlagah)』と呼ばれるハガ
ナーやその他の集団にアラブ人のユダヤ市民に対する攻撃への報復はせず、自衛に専念
するよう呼びかけた。アラブ人暴動とは、イギリス委任統治領パレスチナのパレスチナ
・アラブ人が、大量のユダヤ人入植への反発とイギリス植民地支配に対し独立を求め起
こした民族主義反乱でパレスチナ独立運動であった。第1期は、都市の中の精鋭部隊で
あった、アラブ高等委員会(HAC)が指揮し、同盟罷業と政治的抗議が主だった。つまり
ストライキとデモである。1936年10月までに、この段階では、イギリスのパレスチナ・
トランスヨルダン高等委員会が政治的合意し、外交で、イラク、サウジアラビア、トラ
ンスヨルダン、イエメンの支配者を含んだ、戒厳令を組み合わせて破壊した。トランス
ヨルダンは、ハシェム朝が支配したシリア・アラブ王国の一部として承認されていた、
地域で、現在のシリアとヨルダン地域を統治しました。トランスヨルダンは1920年7月
のメイサルンの戦いで、無人地帯となってその間、隣国パレスチナのイギリスは「パレ
スチナとの明確なつながり」を避けることを選んだ。しかし、この嘘つきベン=グリオ
ンの時代は、かなりにソ連が力を持っていた時代で、キューバ危機やら、南米戦争など
起ったし、学生運動も商事会社爆破などが日本でも起こっている時代で、英国は隣の、
アイルランド抗争でへばっていた。ところが、運のいい事に、ベトナム戦争の反対や、
ニクソンショックでの、レイムダックに陥っていて、飲んだくれの 大統領代わりに、
友人のキッシンジャーがアメリカを動かしていた。その為第三次中東戦争でイスラエル
は、これで「終わった。」とホワイトハウスに電話をかけた。すると二つ返事で支援と
仲裁を行ったのである。

143 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/19(金) 21:30:45.04 ID:ReePGDaRb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・65

 この嘘つきベン=グリオンが、なぜ「嘘つき」と呼ばれていたのか。それは、中国の
抗日問題、或いは、韓国の歴史問題や竹島問題、と同じ様に次々と空想を事実として、
教育されて来たからであって、ベン=グリオンがどれだけ真実を知っていたか知らない
が、その嘘を「それは真実だ」と言うしかないイスラエル事情と立場にあったのである
。ノーマン・ベントウィッチは、英国パレスチナの高等弁務官が「オフィスで過ごして
いた時、エミールファイサル国王は、彼の王国から逃げなければならなかった。」とし
ている。ファイサルシリアは、伝統的に、父のヒジャーズ王国の大きな領有権を持って
自治をしていた。しかし、拠り所としていたオスマン帝国軍は、アカバの戦いの後は、
1917年にアカバからの撤退を余儀なくされた。ここで1920年3月、アカバのダマスカス
でファイサル・ビン・フセインによって、シリアのハシミテ王国が宣言されて、後ろ盾
に英国軍がついた。後には、トランスヨルダンとなった地域の大部分を包含した。この
時点で、ヒジャーズ王国の領有権を主張したが、人口の少ないトランスヨルダン南部は
追われる事になった。イギリス外務省は、既にパレスチナ王国を捨て、ヨルダン川東側
におけるアラブの立場を指摘している。「1918年初頭、パレスチナ南部が征服された直
後、外務省は、ヨルダン川の東側を支配する地域に対して、ファイサルの権威を認める
べきだ。」と決定した。「我々は、例え我々の軍隊が現在トランスヨルダンの主要地域
を支配していなくても、我々のこの認識を確認することができる」と述べた。つまり、
このヨルダン川を手に入れた途端に、自軍の下で活動していたフセイン軍を王国として
認定せよ。声明を発したのである。そして、「ファイサルの出発とシリア首長国の分裂
は、ヨルダンの東側の領土を 不可解な孤立状態に置き去りにしたのである。しばらく
の間、そこは支配層の無人地帯となった。オスマン帝国の政権では、領土はダマスカス
のヴィライェットに付属し、軍政下では、ダマスカスから統治されていた東部占領地の
一部として扱われていた。しかし、その従属関係が継続することは今や不可能であり、
その自然な愛着はパレスチナにあった。

144 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/26(金) 16:33:25.98 ID:njPh/LOUb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・66

 その領土は、確かに、パレスチナの委任統治領に含まれていたはずだが、ユダヤ人の
国民の、故郷に関する委任統治の条項の適用に関して、難しい問題が当然あって否決。
アラブ自治区に関しては、アラブ人に与えられた約束に、領土が含まれていた。最終的
に、国王陛下の英政府は明確な約束に着手することを望まず、軍隊による領土への侵入
に、拒否権を行使した。それゆえ、アラブ人は、自分たちの運命を切り開くしかなかっ
たのである。」此の時、この経過から、アブドゥッラーは、1920年11月にこの地域に入
り、1921年3月2日にアンマンに移住した。同月下旬には イギリスとの会合が開かれ、
アブドゥッラー・ビン・フセインが、パレスチナに対する イギリス委任統治領の後援
のもとで、完全に自由な自治的な、統治システムで領土を統治すること。を条件に国の
成立が合意されている。こうして1921年4月1日に、アブドゥッラーがトランスヨルダン
の首長に任命されて、1921年 4月11日に、最初の政府が、樹立された。それが皮切りに
、大国イスラムの統治首長の王と教皇の座にいた カリフの国家トランスヨルダンは、
切り裂かれて行くのである。つまり、これまでイスラム教での認可だったのが、スンナ
派、シーア派の闘争に分け入った西洋主義で、国連認可の国事情に変化させていったの
である。こうしたアラブ政府への権限移譲が徐々に行われていくのには、当然米英政府
の軍事力外交が物を言ったし、その裏付けの経済に、イランのペトロ製油所の闘争事件
の鼻薬は欠かせなかった。その後、1923年 5月25日にアンマン声明で 1922年 改訂委任
統治領の承認を受けて1922年に合意し、試用期間の完了を条件とした独立行政が認めら
れた。と公表したのである。つまりアミール・アブドゥッラーは、そのような秘密交渉
での政府合憲があって、殿下と締結される協定によって、領土に関する国際的な義務を
履行する立場にブリタニック陛下を置くことを条件とされた。」と公言したのである。

145 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/07/26(金) 16:33:48.67 ID:njPh/LOUb
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・67

 中東における最初の石油発見はイランの地である。その当時のイランはカージャール
朝ペルシャ王朝であった。1901年、オーストラリアの実業家がカージャール朝政府に、
石油の利権を申請し、北部地方を除く全イランにおける60年間にわたる石油探査、発掘
の権利を手に入れた。彼は1901年から1905年の間に 20万3千のイギリスポンド相当を、
石油開発調査のために 費やした。ここで、資金的の行き詰りに遭遇した。調査活動を
停止せざるを得ない状況に陥って権利売りをする。1906年に、イギリスのビルマ石油と
スコットランド人の投資家ロード・ストラスコナが、石油シンジケートを組織して、彼
を援助することとなった。その後の、3年間に17万7千ポンドが投資されたが。しかし
、この投資も、使い果たしてしまうことになった。しかし、最後の土壇場で、ついに、
石油を発見した。というドラマチックな出来事であった。場所はイラン南部のペルシャ
湾から、約2千キロ離れたマスジェデ・スレイマン、1908年の事である。この男とは、
ウィリアム・ダーシーである。イランでは、この利権を「ダーシー利権」と呼んでいる
。これが、中東における最初の石油発見であり、その翌年に、資本金200万ポンドの 「
アングロ・ペルシャ石油会社」が、ここで設立されたのである。ペルシャで発見された
石油は、英国資本の会社の所有されることになった。1926年に2万5千人以上のイラン人
が、石油産業で雇用された。しかし、第一次世界大戦が始まって、資本金 400万ポンド
に増資されてその権利を守ろうとした。が、その増資分の 200万ポンドはイギリス政府
が引き受けるのだ。こうしてイギリス政府がこの会社の支配権を握り、イランの石油は
英国海軍の燃料に利用され、重要な戦略物資となっていった。実は此の時、オスマン・
トルコなどでは軍人ヌーレッディン・パシャなどが、トルコ独立運動を繰り広げていた


146 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/07(水) 14:10:30.01 ID:QQeiCIRGd
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・68

 アラブ地域では、アラビア半島においては かつての王国の再興を目指す保守派の、
イブン=サウード党が、イギリスと同盟を結びながらも、ワッハーブ派の勢力を率いて
頭角を現していた。彼は、大戦中からアラブ独立運動を指導してきた。ヒジャーズ王国
のフセインを破って、半島の大部分を統一して、1932年にサウジ=アラビア王国を建て
たのである。勿論、これにはイギリスの銃砲が、成功に導いている。いわゆるアラビア
のローレンスの活躍頃である。しかしまもなく国内で莫大な石油資源が発見されると、
同国の戦略的な重要性は、英国にとって著しく高まった。大戦の開始とともにイギリス
の保護国となっていたエジプトでは、戦後に、全国的な反英独立運動がおこり(1919年
革命)、1922年にイギリスは、条件付きの独立を認めて、立憲君主制のエジプト王国も
ここで国家承認して成立させた。これはイギリスでの、スエズ運河の支配権など多くの
特権を密約によって維持した事での成功で、原住民エジプトには、銃器による王国親衛
隊に僅かの利益しかもたらさない。当然、新しい文明知識と、原住民の現況の生活に、
歪みは大きく、人々による抗議が、果てしなく続いた。実はこれが、ユダヤのイスラエ
ルの建国の機運だったのだ。またイラクは、イギリスに、シリアはフランスに委任統治
下に国連は決めて置かれた。後に、それぞれは独立を達成したが、その理由も欧州経済
の対ソ戦略上であった。つまり、それらの国境線は、列強の思惑によって定められた物
であり、アラブ地域は、幾つもの国境線で分断される事になった。もっとも大きな矛盾
がパレスチナである。イギリスは大戦中、1915年のフセイン・マクマホン協定によって
アラブ人に、オスマン帝国からの独立を約束する一方、17年のバルフォア宣言では、パ
レスチナへの復帰をめざすユダヤ人のシオニズム運動を支援する姿勢を示した。双方の
協力を得た漁夫の利は、相反する約束に加えて、大戦後にパレスチナはイギリスの委任
統治領となってアラブ・ペルシャの両民族は、それぞれの権利を主張してる中、ユダヤ
の権利が、突然の頭角を現し、混乱を深め、現在まで続く深刻なパレスチナ問題が生ま
れることになった。世界にとっては、青天の霹靂である。

147 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/07(水) 14:15:09.03 ID:QQeiCIRGd
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・69

 実は、イギリスとイランとの間では、石油利権契約を1920年代から行っていた。もと
もとはバクー油田の油を、ソ連の干渉なく持ち出す為のパイプライン掘削の予定だった
らしいが、中東には、古代から、石油のにじみ出る場所や、天然ガスの永久の炎の神殿
などがあった。いわゆる地獄の釜とされる場所があった。だが、その資源の有効利用は
、ランプの光の種であり、良くて食糧加工の燃料ぐらいだった。此の為20世紀初めまで
は、ほとんど注目されることはなかったのである。これが、鉄の革命から、燃料機関が
開発され、アメリカを中心として石油の採掘がブームを開く。アメリカの席巻を嫌った
西欧諸国では、世界各国で石油を探し始め、イランでは英国が目を付けた。1920年代に
入ると、探査が実施され中東に膨大な石油が眠っていることが明らかになると、中東の
石油生産の中心国として狙われ、オスマントルコの帝国も終焉迎えた。史上最も強大な
帝国の一つとして知られるオスマン帝国は、最初はアナトリア地方(現在のトルコ)に
誕生したトルコ系集団の小さな騎馬軍団に過ぎなかった。しかし、最盛期には、欧州の
中に食い込み、北はオーストリアのウィーン、東はペルシャ湾、西はアフリカ北西部の
アルジェリア、南はアラビア半島南部のイエメンに至る領土を有する、広大な国に発展
して、イスラム教社会の長(おさ)として君臨した。此の時出来たのが、中葉な、中央
集権化社会であった。その成功の秘密であったとされ、領土の大きさと中央集権的機構
は、独裁と言えない金銭に特化し税収を重んじた世界であった。世界で最も利益の上が
る交易路支配の通行料で莫大な富を得る一方で、完璧に組織化された軍制を敷いたのだ
。これらの事は、教科書の1頁にも満たない程度の記述で終わる。しかし、パレスチナ
問題の経緯は、人類の深刻な問題であり、中東世界では、西洋世界と違い大きなものだ
。勿論、他の部分でも、関連する事項は書かれているしTVや新聞でも時折記事になる
。しかしそれは、薄っぺらい内容で中には、ユダヤ指導の嘘の解説付きしかありません


148 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/11(日) 10:43:44.24 ID:1xuuBJOYB
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・70

 しかし どんなに栄えた帝国もいつかは滅びる。アナトリアに姿を現してから600年後
、オスマン帝国は第一次世界大戦の中で崩壊した。これは英国の産業革命による「鉄」
の革命は、巨大な帆船と望遠鏡を創り、大砲と蒸気機関を創り出した。この事でスエズ
運河が作られ、航路需要で陸路の稼ぎは極端に減ったのである。盗賊が出来、この盗賊
退治にロシアや清は、手を焼いていた処に、スペイン、イギリス、フランスが台頭する
。かつて15世紀、1453年に、オスマン帝国君主メフメト2世は、難攻不落の都と見ら
れていたコンスタンティノープルを陥落させた。ここでビザンチン帝国は滅ぼされた。
ローマ皇帝コンスタンティヌスに由来する都の名前も、ギリシャ語で「都市の中の都市
」という意味を持つ「イスタンブール」と呼ばれるようになった。イスタンブールを、
首都とする帝国となったオスマン朝は、その後も、バルカン半島、中東、北アフリカへ
と拡大を続ける。王朝ではあった、世襲制というより、継承されたのは「スルタン」、
すなわち君主の地位だけで、オスマン帝国のその他の指導的地位は、生まれに関わらず
自分で、その地位を勝ち取らなければならなかった。下も上も実力主義でのイスラムの
伝統的カリフ制を繋げたのである。米国のブームは、遅れてサウジアラビアにも訪れた
。掘削技術が確立され、ダンマーム、クウェートのブルガン両油田が、いずれも1938年
に発見されて、本格的に採油され出した。その後この利権を求め、欧州戦争が起こる。
第三帝国を眺望するドイツは、フランスから課せられた賠償金、更には植民地放棄での
食糧輸入に、東方生存権の主張をする。更には工業化の下で、農奴の様な外国企業下の
工場作業員に甘んじているつもりはなく、兵器・兵力を、密かに研究開発に着手した。
しかし、これらも又、石油依存の新製品であり、中東もしくは東方にドイツが、活路を
求めた事は当然だったのである。

149 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/14(水) 11:33:16.20 ID:EaoD96WkJ
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・71

 ドイツ人達は当初は、共産党も労働党も受け入れなかった。しかしドイツの民主党は
、第一次世界大戦前の、ヴァイマル共和政時代で小さなリベラル左派政党で、カトリッ
クからは、歪んだ修道派と思われ、共産党左派からは鋭い攻撃にあっていた。プロテス
タントというよりは、社民党や中央党と共に穏健左派・中道・リベラルの、連立政権の
ヴァイマル連合を形成することが多く、小政党の乱立仕様のドイツ国内で、ユダヤ人が
多い党だった為に、反ユダヤ主義者からの「ユダヤ人の党」と批判されて、党勢は低迷
していた。もともと、第一次世界大戦後の1918年に帝政時代の自由主義の左派政党であ
る進歩人民党と自由主義右派政党の国民自由党の左派が合同して結党されたものであり
、不満の多い、労働者党や共産党の様な、結束の固い政党ではなかった。中央の王道の
平等主義に賛同し、貴族王族貴婦人の末裔で、各地の有力者で支持の弱い多数派の党と
言った物だった。当然隣地の公領境界は紛争にていがみ合いの議員も多く、その為多く
の点で同床異夢の面が強く、大同小異の意見だった。小公国の集合体で日本と同じに、
総論賛成各論反対で、突き詰めた具体論では、常に暗礁に乗り上げる事も多く、国民に
は嘆きと諦めそして憤慨しかなかった。その上で、ロシアからの諜報や、工作も幅広く
行われいたので、この民主主義vs共産主義の中で、改めて共産主義に加わって、民主
主義排除の、愛国主義を訴えたのが、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)である。
強者につき、弱者民主主義政党をくじく、と言う戦略で、遂には分断されて、共産党の
共和制の絶対優位になった。その後は共産主義と思われる頃、ヒットラーは台頭した。
当初は、代わりの労働党として米英の援助もあった。民主党も労働者党も中道路線を、
取って民衆の支持があったからだ。しかし、共産党との共闘路線で、左派一色の愛国者
の全体主義に陥ると、一気に共産党と労働党左派しかいなくなった世界で強硬策に出た
。共産党員の犯罪者集団を裏から支援し、共産主義の悪臭を大々的に喧伝し排撃した。

150 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/17(土) 13:24:34.45 ID:VnIpjxJyL
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・72

 「テロル」の語源は、ドイツ語の「Terror(テロル)」に由来する。ドイツ語では「
Terror」テロル、英語では「terrorizum」テロリズムこれらを略してテロと呼んだが、
元々は、両方ともラテン語の震える、震えだすの恐怖を意味する「terror」「terreo」
から来ている。歴史的に「恐怖」の流れでこの言葉が使われるようになったのは、ゲル
マン民族がローマ帝国に侵入してきた 紀元前131年である。無敵だったローマ軍は、こ
のアジア高原のゲルマン民族に敗北し、恐慌状態に陥った。これが最古のテロの語源と
いわれている。つまり、用いられ方としては現代と若干違っていた。この時、戦争が行
われた場所が、今のドイツ当たりで、「テロル」つまり「恐怖政治」の観念は文化とし
て残っていた。時代が下っても、1793年〜1794年7月のフランス革命でも、この言葉が
使われた。ジャコバン派が恐怖政治(ロベスピエールの恐怖政治)を行った。この時に、
現代に近い意味の、恐怖政治の打開といった。既成政治への闘いと言う意味合いになっ
た。ここで、直接的語源の フランス語の「Terreur」(テルール)が産まれたのである。
更に現代使われている意味と同じになったのは、ロシアのセルゲイ・ネチャーエフの、
革命家の呼びかけが、自分自身の事を「テロリスト」と呼んだのが最初だった。と言わ
れる。この既存大政党の破壊作戦、暴力もいとわないテロル作戦をナチスは行ていった
。ここで「政治目的のために破壊活動や暗殺、暴行」を意味する事になった。武力での
相手を降伏させるのならば、それはただの戦争や争いでしょう。しかし、テロリストは
更に深く、自国民が自国政府を攻撃する。といった意味がある。それはただの破壊願望
のようにも見えても、テロには、国内政治に対しての破壊を伴うエスカレートした抗議
活動と言った定義がつくものだった。現代には、その由来が 民族間の対立であった筈
の、ゲルマンとローマという事実からも、テロが原点回帰しだし、より深い憎しみの元
に生み出され始めた。

151 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 17:35:06.38 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・73

 こうして、この時期のドイツでは、社会インフラの、ほぼ全ての側面において、ナチ
ズムの考え方が、強要され、急速に全体主義国家と化し、ナチズムに基づいてに、様々
な対外膨張政策を実行されて行った。その一つであった1939年9月1日のポーランド侵攻
が、英仏からの対独宣戦布告を招き、第二次世界大戦を引き起こす事になる。一時期は
欧州のほぼ全土を支配下に置いたものの、次第に戦況は悪化し、1943年後半には連合国
に対して完全な劣勢に立たされるようになった。1945年に行われた赤軍によるベルリン
の戦いを前にヒトラーが自殺し、その後ヒトラーの遺言に基づいてカール・デーニッツ
が大統領となり、終戦までの暫定政権としてフレンスブルク政府が短期間存在するが、
概ね、ナチスドイツはこの期間の国の全体的民衆の意志の代表でもあったとも言えた。
このドイツが引き起こした第二次大戦は、実は欧米社会の人種差別が引き起こさせた。
と言っても過言ではない。元々、アメリカには、多人種のるつぼであり、人種差別偏見
は、今でも根強く残っている。そこにメリケンファースト主義と言う覆いを付けて建国
した国で、そこにユダヤ教徒は富豪移民としてドイツからやって来たのであって、ここ
に母国第一主義=ファシストとの出会いで、シオニスト運動が起こったのも当然と言え
ば当然でもあった。この時期に、他国に先んじてオイルの掘削技術から精製技術と運送
販売技術が成立した事には、中東にとって悲劇と言えば悲劇であった。油井掘削に来た
この時期まで、中東各国はおろか、西洋の国にさえ、油を採掘する技術はもっておらず
、メジャーと呼ばれる国際石油資本によって、油田は採掘されるまで、中東各国には、
ただ単に燃料が産出しているのを眺めていただけであった。その上で産出・輸出後でも
、その利権料と、そこから得られるわずかな税金、だけしか自らの懐には入らなかった
のである。

152 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 17:35:35.96 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・75

 しかし、国際法上でこの事件は、石油利権協定が国家間の条約ではない。とされた点
では注目される。事実1951年のアングロ・イラニアン石油会社の国有化紛争の後、1954
年に米系メジャーズ5社とブリティシュ・ペトロリアム(BP)、シェル、フランス石油
(CFP)および、米国の中小石油会社共同合資会社の イリコンの共同所有になった。こ
のイラン石油資源の共同所有機構をイラニアン・コンソーシアム(Iranian Consortium
)との抑制政策を行った。戦争期において、少数派ユダヤにとって、既に勝ち目はない
と悟っていたので、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ系難民が、パレスチナへ押し寄
せる様になると、これを規制しようとするイギリス当局と折衝して難民受け入れに尽力
していた時に、石油資本は様々な手を打って、助けた。理由は簡単にユダヤこそが石油
資を掴んでいたからだ。逆に言えば、石油資本家は、ユダヤ信徒に加入しなければ干さ
れたのだ。それこそはスタンダードオイルの道筋にある。ここでロックフェラー財団の
援助があった。ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニアは、1870年に、スタン
ダード・オイル社を創業した。彼は標準の石油を決め、フォードに燃料として提携して
供給していた。フォードにとっても不良な石油製品で、動かない車とされるのは困る事
であったし、一定の品質の石油は必要な事だった。こうして採掘しない石油王は資本家
として大成功し、ピーク時は、アメリカの石油の9割をコントロールするなど、同社は
石油市場を独占してアメリカ初のトラストを結成した。1897年に事実上引退したが、そ
の後に現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた。その慈善事業
の中に、イスラエル国家があった。

153 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 17:44:02.53 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・76

 実は歴史とは不思議なもので、イスラエル国家を作ったユダヤ人を救ったとされる人
に、よくドイツ系のカソリック教徒であるシンドラーが上がる。第二次世界大戦中に、
1,200人近いユダヤ人を、アウシュビッツへの移送から救った。とされる。が一方で、
シンドラーは、1936年にドイツ国防軍諜報部で働き始め、初めから1939年2月にナチ党
に加わりその下で虐殺にも立ち会っている。華美な生活を好む 日和見主義の実業家、
シンドラーは戦時中の救世主にはなりそうもない人物であった。クラクフに移住し占領
下のポーランドで、商取引から「ユダヤ人を駆逐するドイツの計画」を利用して、1939
年11月にユダヤ人所有の、ホーロー鉄器メーカーを買い取って、エマリア工場を、建設
し経営した。シンドラーには他に2つ工場を運営していました。その中で、近くのクラ
クフのゲットーからユダヤ人の強制労働者を雇用し、成功していた。つまり経営者とし
て、工場主として、この労働者を守ったのである。ところが、このユダヤ人に3人の、
伝説的日本人がいる。戦前の日本にとって、対ソ戦略のハルビン(現中国の黒龍江省)
でロシア語を学んでいた杉原千畝は、ロシア語通訳官として外務省に勤務。在ハルビン
日本総領事館でソ連に関する情報分析するインテリジェンス・オフィサーとして、あま
りにも有能であって、情報通であり、優れた分析能力から、モスクワへの赴任をソ連の
当局から忌避された存在となったのであった。1939年(昭和14年)、大戦前夜の情勢下
、バルト三国の一つ、リトアニアの臨時首都、カウナスに領事館を開設し、ドイツ大使
館下の赴任であった。しかし対ソ情報の収集・分析が主な任務で当然ユダヤの密偵とは
縁が深かったのである。この日本人達のデーターでは約3〜5万人のユダヤが救われた
とされ、その中の4万人はその名前やサインを利用して出国したとされている。中国の
贋物文化が成せる技であろう。

154 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 21:48:03.41 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・77

 外交官として、ロシア駐留を降格され、ドイツ大使下ではあったものの 独立した、
リトアニア大使として、ユダヤ人難民を救済する、通行証明券を発行して、「日本の、
シンドラー」として知られおよそ6000人に発給し、命を救った。とされる。1985年
には、イスラエル政府から、ユダヤ人を救った人だけに贈られる「諸国民の中の正義の
人」の称号を授与され、「ヤド・バシェム賞」を受賞した。もちろん、日本人では一人
だけだ。しかし、杉原自身が発行したのは3000人ほどで、残りは真似てサインと印
が押されて、ソ連の収監免れて通行し、日本経由でアメリカに渡ったとされた。実は、
杉原千畝には先駆者がいた。「猶太人対策要綱」を作った、安江仙弘である。当時の、
陸相・板垣征四郎に働きかけによって策定され、この要綱の立案過程に関し安江は、大
きな役割を持って進言していた、。これまで資料的裏付けがなかったが、関根真保が、
京都大学に提出した学位請求論文の公開『日本占領下の上海ユダヤ人ゲットー』(2010)
のなかで、「満鉄外國経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27日)という資料、
満鉄側のメモ「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」という記述を発見され、この資料のなかに、
猶太人対策要綱の内容が網羅されていることから、こうしてご子息の安江弘夫の証言の
正しさが立証されたのである。つまり、1930年代に、日本で進められた、ユダヤ難民の
為の移住計画の河豚計画は、ユダヤ人の大物が暗殺されて頓挫した。1934年、鮎川義介
が提唱した計画は座礁し、1938年の五相会議で政府の方針として定まっても。実務面で
ユダヤ人会に拒否された。陸軍大佐の安江仙弘と、海軍大佐の犬塚惟重らが主導してい
たが、ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満洲国に招き入れ、自治区を建設する
事に、迫害を推進するドイツのナチ党との友好が、深めるにつれて形骸化し、日独伊の
三国軍事同盟の締結とともに、対外戦争で実現性が無くなり頓挫したのだ。

155 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 21:48:34.77 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・78

 しかし、米英国が、航空機用ガソリンの禁輸とくず鉄などの輸入制限に踏み切って、
日本の南下政策を牽制するようになっても尚、ユダヤ人の香港駐留し監視に当たってい
る。米国との決裂が、決定的なものとなり、独伊との三国同盟が締結された日の翌日の
1940年(昭和16年) 9月28日、要綱の提案者の安江大佐は、大連特務機関長を解任され
て、ユダヤ避難民の受け入れは大局上よろしくない。という意見の一致が外務・内務・
陸海軍の間でなされたという。しかし、過去の河豚計画の連絡協議案の要綱においての
1)ユダヤ人を他国人と同様公正に扱うこと、2)またユダヤ人を、取り締まる際であ
っても 外国人入国取締規則において公正に取り締まること。その際に2)を明示し、
本要綱の2ヶ月前に発せられた 近衛外務大臣訓令「米三 機密合 第1447号」( 件名:
猶太避難民ノ入国ニ関スル件、1938年10月7日付)の要綱(2)の「外国人の入国取締
規則」とは別の、「外国人入国令」(大正7年内務省令第1号 外国人入国ニ関スル件)
が言及され、本令に基づきユダヤ避難民の、日本への入国(経由地としての通過に限る
)を行うものである。との合意を盾に、軍部・満鉄と、共に合議・協約の遂行を要望し
ていく。本令に基づきユダヤ避難民の日本への入国(経由地としての通過に限る)を行
うものであるといい。突っぱねる。が、しかしながら(1942年 3月13日連絡会議決定案
「時局ニ伴フ猶太人対策」による廃止案)が策定されて、12月 7日、有田八郎外務大臣
の名において「暗 合 第3544号」(件名: 猶太避難民ニ関スル件)という訓令が在外各
公館長に発せられて、「本邦は機密合第1447号の趣旨と同一で、其の取扱には同信
記載の要項に依って、入國条件に抵触せさる資本家、技術家の如き者の入國に付ては、
あらかじめ事情を詳具し請訓相成様致度し」御処理ありたしと締め括られる。つまり、
米英への宣戦布告で、近衛訓令「米三 機密 合 第1447号」と有田訓令「暗合 第3544号
」は無効になっていたものの、要綱とは別のところで、実務が1938年11月以来上海租界
へのユダヤ難民流入が急増して、現地日本当局は、現地ユダヤ社会から対策の要請を、
現地判断の対応しか出来なかったのである。

156 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 21:49:06.94 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・79

 1939年夏までの間、積極的に措置を講じなかったため、17000人が ドイツを脱出する
ことができた。とされ、また駐ベルリン満州国公使館書記官王替夫は1939年6月から、
リトアニアの在カウナス領事館杉原千畝副領事は、1940年7月から、ユダヤ避難民に、
通過ビザを大量に発給していたのであった。しかし、外務省訓令を無視してビザを発給
し続けた杉原は、戦後の1947年、外務省を辞めさせられている。外交官としての 名誉
回復は、実に44年後の1991年であった。戦後70年、リトアニアでユダヤ難民6000人を、
救済した元外交官・杉原千畝とされている。一方、安江仙弘(やすえのりひろ)大佐は
旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男で、1918年、シベリア出兵に出征して、
シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン
賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を日本に帰国後、翻訳して広めた事で
有名であった。満州占領の立役者の石原莞爾(陸軍中将)や、樋口季一郎(陸軍中将)
と同期で、1940年12月、陸軍大佐として、大連特務機関長を務めていた安江は予備役に
編入された。軍中央部の方針と安江の意見が合わず、陸相・東条英機によって予備役に
編入されたという説もある。しかし、安江が陸軍大学校を卒業していない「無天組」で
あった為、普通の人事ではあった。陸軍を退いた安江は、南満州鉄道に移り、1941年1
月に満鉄安江機関長に就任し、1945年8月の敗戦で満州国と満鉄が消滅するまでその任
にあった。しかし彼は、オトポール事件では、ユダヤ人専用の特別敗走列車を走らせて
いたし、終戦後にも満州の満蒙団の日本への引揚者の為の運行を特務隊の数人と共に、
担って、多くの日本人の帰郷に役目をはたしていた。知られざる外交官、王替夫(おう
たいふ)は、駐ベルリン満州国公使館に勤務し、1939年6月〜1940年5月まで、杉原とも
同行し、中華民国の何鳳山(かほうざん)と共に、ユダヤ難民を含む難民に、およそ、
12,000通と8,000通の、満州国と台湾の通過ビザを発給し、たことで知られている。

157 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 21:54:32.23 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・80

 日本が全体主義の軍事国家となる上で、大きな壁が、自由・平等・博愛の確立された
日本の精神であった。例えば日本人は「正義・大義・道義」を大事にする。そこで物語
や人生に、例えば、正義や大義があるものであっても、個の命や人生には、判官びいき
が存在し、強きをくじき弱きを助くを、常に正義として見つめてきたのである。この、
日本が、開国以来、集団化する軍国化する全体主義の下の統制下する。と言うのは常に
大きな問題を持っていた。例えば「身を建てる」とか「一国一城の主」というものは、
決して大きな集団になる。などと言う事ではない。逆に徒党を組むとか、賊徒というの
は決して善い事とは捉えていない。と言う日本人の思考がある。なのに最近は、日教組
なのか文部省か政府なのか知らないが、絆とか、繋がる。とか、SNSという、奇妙な
意味の無い集団を巣食う悪意悪行が盛んである。こうした、敗戦後の意識では、全くの
信じられないくらいの正義感があったと言えよう。オトポール事件とは、昭和13年の
頃つまり1938年には、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人が、満洲に入国できずに、
ソ連のオトポール駅で、立ち往生した事件である。実は前年の1937年(昭和12年)に、
ソ連ではスターリンの粛清声明が発せられた。どんな出来事があったのか、出来事一覧
を見れば、一目瞭然に日本史や世界史などに残る 有名なニュースをチェックすれば、
国内でユダヤ人への名目上の国籍はく奪と中国での暴力革命を指導し、毛沢東が帰国し
、次々と日本人経営者の工場が爆破されて、ユダヤ人資産家が暗殺されて行った年でも
あった。此の為夏に、突如、盧溝橋事件(7月7日)が起こり、日中戦争が開始された。
日中戦争と言われるが、実は日本は戦争と思っていなく、日中事変でありあくまで国内
争乱の類であった。が、世界には東洋の一つの国として、満州国が誕生していた。

158 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 21:55:06.65 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・81

 此の時、日本軍は、ソ連と国境線を挟んで、関東軍が対峙しており、満州国が出来て
いて爆薬兵器に、ソ連から持ち込みを防ぐ。厳重な取締りをしていた。しかしながら、
満州国建国は、充分に海外に伝わっていて、満州に夢の国が出来たと大勢がやって来て
いたのだ。つまりここで満州国入国ピザと日本や台湾の入国ピザが分けられようとした
。パリ万国博覧会が5月に開幕され、中共合作の6月ソ連会議が、スペイン内戦と第二
次上海事件を起こして8月には本格的内戦に陥っていた。つまりソ連は、スペインの、
ゲルニカ空襲と、日本の上海空襲と二両面作戦を起こすほど、巨大な大国で国際旅団を
派遣していたのである。ところが、不思議な事にこれを行ったのはドイツ・イタリアで
あり、アジアではアメリカであったのだ。何故か。実はソ連国内よりは アメリカ共産
党の方が強い力を持っていたのである。広田弘毅内閣が閣内不一致で総辞職し、林内閣
が成立し第33代内閣総理大臣に林銑十郎が就いた。しかし、中国共産党が中国国民党に
第二次国共合作を提議し、欧州でもスペインのフランコ将軍がマラガを占領していた。
4月26日にナチス・ドイツ空軍がゲルニカを空襲(ドイツ、スペイン)し、5月1日には
北海道美唄町で大火があり、約340戸が全焼する大事件が起こっている 5月6日ドイツの
ヒンデンブルク号が、アメリカのレイクハースト海軍飛行場で大爆発が起こり 5月12日
イギリスの国王は王を捨てて再婚し、ドモリの弟君のジョージ6世戴冠式(イギリス)
が行われ、5月25日には、本格的な国際舞台の パリ万国博覧会開幕(フランス)が行わ
れていた。この頃日本は満州占領後の建国に揺れていて、元老西園寺公望(きんもち)は
、後継首班に陸軍長老の前朝鮮総督の宇垣一成(かずしげ)を推薦した。陸軍中堅幕僚は
、強い反対し宇垣内閣は流産。元陸相の林銑十郎が組閣を組織した。当初は、興中公司
(こうちゅうコンス)社長の、十河信二(そごうしんじ)や参謀本部の石原莞爾(いしはら
かんじ)大佐ら「満州組」の意向に沿って組閣を進めたていたが、陸軍首脳部と宮内庁
はこれを好しとしなかったのである。

159 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 22:30:53.26 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・82

 日本は軍部の反発が強く、変人石原莞爾らを退け、首脳部の推す候補を受け入れて、
やっと内閣を発足させたものの、内閣は政友会・民政党の閣僚は居なく、議会内に支持
勢力も持たず、「祭政一致」という抽象的政綱の精神論を発表するのみであった。佐藤
尚武(さとうなおたけ)外相は、日中関係改善をスローガンに上げるが、華北分離工作
を修正、国防資源獲得の為の華北経済開発促進を重視し、一方で、資本の擁護の立場で
の結城豊太郎(ゆうきとよたろう)蔵相が、「軍財抱合財政」を推進した。議会は2月に
、再開されたものの、予算案を成立させた後、行き詰まり最終日に突如解散し、総選挙
で政党に打撃を与えて親軍政党を造ろうと画策した。しかし、これは国民意識との違い
が露わであり、貧困の民衆は「食い逃げ解散」として国民の不評で、総選挙の結果では
政党の大勝となり、内閣の惨敗となったのであった。林内閣は、選挙後居座りをも模索
したが、倒閣運動が高まりに抗しきれず5月総辞職した。後継内閣は6月に近衛文麿(
このえふみまろ)によって組織されるに至った。二・二六事件が起こり、フランクリン
・ルーズベルト米大統領が「日独伊3国は『隔離』されなければならない。」と演説し
「隔離演説」が騒がれた。蒋介石が中国共産党の合法的地位承認を発表し、トラウマン
工作が失敗し、とうとう日本は中央軍司令の大本営設置、イタリアが国際連盟を脱退、
日本は戦艦大和を密かに作るに至った。スペイン内戦も止まらず拡大し、日本に潜入の
米国共産党も活動が活発で、手に負えなくなり、日本海軍機が米砲艦「パナイ」を誤爆
(日本、アメリカ)に至ったのである。この頃のアメリカ・中国・ドイツは戦争に飢え
ていた事を日本は知らなかった。実は小公国の集まりのドイツはやっとオーストリアと
併合し注目を外に向け中を固めようとしていた。中国も南部と北部中央の王朝跡と国民
の意識は中世のままだったし、米国もそれぞれの移民が文化摩擦を起こしていたのだ。

160 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/08/18(日) 22:48:54.79 ID:1u0OfRq3F
 それは秘密・ひみつ・ヒミツ 秘密のQアノン・・・・・83

 独墺合邦(どくおうがっぽう)とか、オーストリア併合(オーストリアへいごう)と
が言われるドイツ語圏国家は、念願の主権国家を作れた。1648年に戦われた宗教的政治
戦争だった、三十年戦争以後、神聖ローマ帝国が統一国家の実権を失い、領邦と帝国は
自由都市によって分裂して自由を謳歌した都市国家となっていた。ドイツ民族の統一の
「ドイツ国家」の復活はドイツ人の、望みと悲願ではあったが、しかし、自由と束縛や
監理や秩序には、大きな矛盾があって、そもそも同居は出来ないで分裂していた。この
「ドイツ国民」という定義には、バランスの無い同床異夢の大きな内部問題が介在して
いたのである。三十年戦争後の皇帝であった、ハプスブルク家が治めるオーストリア、
皇室新興勢力のホーエンツォレルン家が、それぞれ治めていた。ブランデンブルク選帝
侯国とプロイセン王国という、2つの大国が並立して歴史を紡いできたが、いずれも、
自国によるドイツ統一を望んた。今の南北朝鮮の様な状態だったのである。第三次の、
対仏大同盟中に、ライン同盟が離脱しウィーン議定書に基づくウイーン体制が解体され
てオーストリア帝国が、ほぼ主導するドイツ連邦が、新たに結成された。だがこの時も
、ゆるやかな行政で、ドイツ連邦はあくまでも複数の主権国家の連合体であった。オー
ストリアの領土上、ハンガリー人やスラブ民族などが多数の民族が居住していて、自由
と平等を求めながら異民族が存在した。本当の意味での国民国家が成り立たなかった。
と、ここで共産主義の排斥運動が起こった。つまり、国民国家としてのドイツ統一は、
1848年革命によってドイツ民族のナショナリズムが高揚する中で、憲法制定を通じて、
自由主義的なドイツ統一を図るフランクフルト国民議会で、初めて具体的な実現方法を
討議されて、空中分裂のままに時を過ごすのである。ここで、ナチスが台頭し、ナチス
の政策は、マイノリティ排斥に賛同し、熱狂的反政府活動に及んで人気をえたのだ。つ
まり、今のネタニヤフの行う、パレスチナ誹謗中傷と攻撃そのものだったのである。

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