謎のアニメ感想家(笑)、翼の騎士トーノZEROのアニメ感想行ってみよう!
今日の修羅の刻の感想。
サブタイトル §
最終回 「鬼と修羅」
あらすじ §
土方は一人で敵陣に突っ込みます。
多数の鉄砲隊が待ちかまえる前に出た土方は、ここが三途の川だと悟ります。
そこに、出海が出てきます。
出海は、沖田の刀を土方に渡し、戦います。
土方は、自分が鬼ならおまえは修羅だと出海を評します。
死闘の末、出海は勝利します。
既に致命傷を負った土方は、鉄砲隊に突っ込み、銃撃を受けます。
出海は、蘭に幸せになれと言いますが、蘭はそれを聞き入れず、出海が死ぬのを見届けるまで一緒にいると言い、出海についていきます。
感想 §
確かに出海と土方の戦いは凄いのだけれど、この修羅の刻では凄い戦いは当然期待されるところ。それだけでは大きな衝撃になりません。
ですが、刀が間に合わないと思って刀を捨てて腕でガードする土方のシーンと、脇差しを使うシーン2回は非常に印象的ですね。まさに、あらゆる手段を使って戦っています。他作品では刀を握ったらそれを離すことはない戦いばかり。更に、サムライは誰もが差している割に使ったところを滅多に見ない脇差し。それらが有効活用されているのは一種の気持ちよいこだわりですね。そして、まさに土方は何もかも出し切って敗北したことになります。悔いは残らないでしょう。
そして、もう1つ見どころは蘭と出海の会話ですね。出海は蘭がハーフであることを全く問題にしません。それは、他の様々な出来事と合わせて、蘭の中に出海を慕う心を生み出しているのかもしれません。明らかに、最後に出海についていこうとする蘭は、復讐のためではありません。
もう1つ、出海が示す覚悟の言葉もグッと来ますね。けして勝利を絶対とせず、負けた場合の指示を蘭に示します。それだけの覚悟で臨んだ戦い。それは、官軍の兵士達に身動きさせないだけの壮絶さを発揮させるわけですね。
さて、ハーフの蘭を連れて行くことになった出海。と言うことは、このあと、陸奥の名を継ぐ者達には異人の血が入るのでしょうか。前にちらっと読んだことがある「修羅の門」の陸奥九十九にも異人の血が? と思ったら家系図をわざわざ作っている人がいますね。確かに、出海と蘭の子の子孫が九十九ということになるようですが、不確実な部分も残るようですね。少なくとも、蘭の時点で既にハーフであることから考えれば、九十九に流れる異人の血は相当に薄いものだろうと思われます。
さて、今回はいつものEDはなし。最終回用の特製EDで、歌はOPのものが入りました。でも、あのいつものEDがいいんだな。歌も良いけれど、見上げる夜空の星が、大海に浮かぶ小さな船になり、それが徐々に大きくなっていく。このスケール感のある映像は素晴らしいですね。来週から見られないと思うと寂しいですね。
今回の名台詞 §
凄い台詞が続々来て、ゾクゾクしますね。
出海「その刀を貸せ。おまえじゃオレを斬れなかった。だから斬れる奴に渡してやるんだよ」
出海「鬼というものを始めてオレは見に行くことになる」
出海「世の中には他にもこういう馬鹿がいるだろうさ」
土方「こいつ、怪我をした足を平気で使いやがる」
土方「オレが鬼ならてめえは修羅だ」
土方「さて行くか。地獄の門が開いている」
蘭「馬鹿はあなただけです」
しかし、中でもいちばんはこれ。
出海「天然理心流はいつから二刀流になったんだい」
土方「オレのは喧嘩殺法さ」
勝つためには何でもするという土方の態度は、特定の流儀からは逸脱したものですね、それを喧嘩殺法と称していますが、まさにそれゆえに土方は怖いと言えますね。
シリーズを通して §
第一部 宮本武蔵編は、実はあまりちゃんと見ていなかったり。特に、武蔵と八雲の決戦を見ていなかったりします。正直、男装の美少女がうろうろしていたりして、軟弱な美少女アニメ的な空気も感じて、作品に入っていけなかったようなところがあります。しかし、そんな風に感じてしまったのは一種の敗因でしたね。本作品をちゃんと見るタイミングがやや遅れました。
第二部 寛永御前試合編は、最初のうちは何をしているのか理解できませんでした。まさか登場人物の世代が一回り違う別時代の話だとは思わなかったので。しかし、真田の娘であるとか、老年猿飛佐助であるとか、かなり無理のある登場人物達が中心的な役割を果たしていて、やはり入り込むのにはやや困難を感じていました。とはいえ、御前試合に関わる陰謀とがっちり噛み合ったあたりから、少しずつ面白みが出てきましたね。特に御前試合に関わる者達を、普通のまっとうな人間としてきっちり描くあたりはとても好感。更に、江戸城の描写も良かったですね。このあたりから、私も強くこの作品を意識するようになってきます。
第三部 風雲幕末編は、凄い驚きを何度も味わうことができました。第三部は別格と言っても良いですね。全てがあるべきところにストンと落ちている感じです。たとえば、ヒロインを比較すれば明らかです。第一部、第二部は戦うヒロインですが、それは歴史ドラマの文法ではなく、アニメの文法です。そこに、安っぽさが入り込む隙があります。しかし、第3部になると女性は出るべきところにしか登場せず、しかも勇敢であることはあっても、けして兵士のように戦いはしません。
そして、もう1つ特筆すべきは、戦争と個人的な果たし合いの相違を明確に描いていることです。要塞攻略戦で出海が突っ込んで突破口開くところだけは、やや両者の境界が曖昧になりかかったような気もしますが、ほとんどのシーンではこの2つは完全に区別されてます。たとえば最終回の中では、幕軍、官軍の兵士達軍人が行う戦争の描き方と、土方と出海の個人的な戦いの描き方は、全く区別されています。軍人達は戦争を行うシステムの中で、各人は部品となって動いています。しかし、土方と出海は微笑みを浮かべつつ、楽しいと言いながら戦います。全く個人的な感情の問題として戦いが行われています。ここで強調したいのは、それではなく、戦争がそれとは切り離れた別次元で描かれたと言うことです。特に、龍馬が指揮する海戦シーンの素晴らしさは特筆すべきものがありますね。このあたりの描写は、それだけ取り出しても見るに値する素晴らしいものです。
というわけで、全体を通してみると、どのように描くべきかスタッフ側にも迷いがあり、途中までは戦う美少女ヒロインを立ててみたりしたものの、最終的にはあるべき姿に落ち着いたという感じを受けます。その一連の流れが試行錯誤の流れであるとしても、それは非常に有意義な試行錯誤であり、この作品はとても大きな価値を持つと思います。
オマケ: 天空戦記修羅と刻 §
土方「オレが鬼ならてめえは修羅だ」
出海「人じゃないってことだろ? 実はそうなんだ。オレの正体は修羅。修羅王シュラト。変身だってできるんだぜ。オン・シュラ・ソワカ!」
土方「ふっ。面白いぜ。おまえが変身ならこっちは合体だ。バクシンクロン合身!」
出海「おっと、バクシンガーは5人揃っていないと合身できないんじゃなかったか?」
土方「残念だったな。最終回近くで、スリーJのおかげで一人で合身させられるように改良されていたんだぜ」
出海「なるほど。だが1つだけ重大なことを忘れているぜ」
土方「なんだそれは」
出海「バクシンガーを扱えるのは土方じゃない。諸刃のシュテッケン、シュテッケン・ラドクリフだってことだ」
土方「しまった~~~~」
出海「隙あり。ナウマクサンマンダボダナン アビラウンケンソワカ、修羅魔破拳!」
土方「ぐはぁ」
出海「勝った。さあ、ラクシュ、行くぞ」
蘭「誰がラクシュやねん」
オマケ2: ハーフの蘭ちゃん §
蘭「だって私は異人とのハーフなのよ!」
出海「オレは可愛いとしか思っていなかった。それに……、ニューハーフは好きだ……」
蘭「(こいつ……。一生つきまとって殺してやる……)」