安倍元総理大臣の国葬が、27日に実施されます。
戦後の総理大臣経験者の葬儀としては、国葬以外に、政府と自民党、国民の有志が主催する「国民葬」、また政府と自民党などの政党が共催する「合同葬」が行われた例があります。
1975年6月に行われた佐藤栄作元総理大臣の「国民葬」を、当時の映像で振り返ります。
この映像は国立公文書館に収蔵されていた記録映画「故佐藤栄作国民葬儀」で、国民葬の様子とともに、佐藤内閣の歩みを振り返っています。
※文中の肩書きはいずれも当時 政府が制作した記録映画を入手し配信
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1975年5月19日、佐藤栄作元総理大臣は脳溢血で倒れ、目覚めることなく6月3日に、亡くなりました。74歳でした。
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7年8カ月にわたって政権を担当し、沖縄の祖国復帰、またノーベル平和賞を受賞した佐藤元総理の功績を称えようと、政府・自民党・国民有志の主催で国民葬が行われることになりました。
亡くなってから13日後の6月16日、東京の日本武道館で国民葬が営まれました。
会場には福田赳夫氏や大平正芳氏など、参列者が続々と到着します。
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山口県田布施町生まれの佐藤元総理は、東京大学法学部を卒業後、当時の鉄道省に入省。運輸事務次官を経て、1948年に第2次吉田内閣の官房長官となり、翌年に衆議院議員に当選しました。その後、閣僚や与党幹部として政治史に功績を残しました。
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国民葬には、政界や財界関係者をはじめ、国外からの弔問使節、また学者や文化人、スポーツ選手などが参列しました。
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皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)が会場に到着しました。
参列者は6400人にのぼりました。
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佐藤元総理の遺影のもとには、菊とカーネーションで彩られた日の丸が飾られました。
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映像は、東京・世田谷区の佐藤元総理の自宅前の様子です。
午後1時30分、佐藤元総理の長男・龍太郎氏に抱かれた遺骨は、妻・寛子さんに付き添われ会場へと出発します。自宅前では海上自衛隊東京音楽隊が葬送の曲を演奏します。
自宅周辺には最後の見送りをする近所の人の姿も見えます。
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遺骨を乗せた車列は、淡島通りから青山通りを通り、首相官邸や国会議事堂の前をゆっくりと進みます。
沿道には、佐藤元総理を見送る人たちが並んでいます。
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会場の日本武道館では、当時の総理大臣である三木武夫葬儀委員長が到着を待ち受けます。
長男・龍太郎さんに抱かれた遺骨は、妻・寛子さんが付き添いが会場へと入ります。
陸上自衛隊の儀仗隊が迎える中、弔砲が響きます。
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遺骨が会場内に入りました。
遺骨は三木葬儀委員長に手渡されたあと、儀仗隊長へ渡され、3人の儀仗隊員が式壇に安置します。
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式壇には菊の花が飾られています。佐藤元総理の遺影は、ノーベル平和賞受賞時に撮影されたものです。
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皇太子ご夫妻など皇族の方々が着席されます。天皇皇后両陛下は侍従をお送りになられました。
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開式の辞を、植木国民葬儀副委員長が述べます。
「ただいまから故佐藤栄作国民葬儀を挙行いたします」
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午後2時10分、黙祷が捧げられます。
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ここからは、映像で佐藤内閣の歩みを振り返ります。
佐藤内閣は1964年11月に発足しました。映像は組閣時の様子です。
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日本と韓国の国交正常化のため、日韓基本条約を締結。
調印式は、佐藤総理が立ち会う中、1965年6月に総理官邸で行われました。
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東大安田講堂の映像です。このころには、全国の大学で紛争が起こりました。佐藤総理は、1969年、大学法案を成立させ紛争を解決に導きました。
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国民の声を直に聞くことを政治の基本とした佐藤総理は、東京・台東区の小学校を訪問するなど、国民生活の実情を見て回りました。
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住宅団地を訪れる佐藤総理。台所で、主婦と話をする様子も残されています。
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映像は明治100年式典の様子です。1968年は明治と改元されてから満100年。天皇皇后両陛下も出席され、日本武道館で式典が行われました。
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1965年8月、戦後20年を迎えた沖縄です。佐藤総理は戦後の総理大臣として初めて沖縄を訪問し、「沖縄が祖国に復帰しない限り、戦後は終わらない」という言葉を残しました。
沿道は、日の丸の旗を振る人で埋め尽くされています。
車から降りた佐藤総理は、人々と次々に握手を交わします。
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1969年11月、佐藤総理はアメリカを訪問。ニクソン大統領との間で沖縄返還を正式に決めました。
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1972年5月15日、沖縄は返還されました。映像は記念式典の様子です。
佐藤総理は「祖国愛に燃えて身命を捧げた人々の思い、現代に生きる我々として、ここに重ねて自由を守り、平和に徹する誓いを新たにするものであります。」と述べました。
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映像は1970年に大阪で開かれた万国博覧会の様子です。日本で万博が開かれるのは初めてで、華やかな式典の様子と天皇皇后両陛下や皇太子ご夫妻のお姿も収められています。
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1971年8月、26回目の原爆記念日を迎えた広島です。佐藤総理大臣は、「核兵器を作らず・持たず・持ち込ませず」といういわゆる非核三原則を基本政策にしていました。
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その成果は国際的にも高く評価され、佐藤総理は1974年12月、ノーベル平和賞を受賞しました。
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映像は再び国民葬の様子に戻ります。
三木葬儀委員長が追悼の辞を述べます。
「あれほど頑健であった君は、去る5月19日夕刻、突然倒れ、以来14日、国の内外を挙げて君の回復への祈りも甲斐なく、去る6月3日未明、ついに君は不帰の客となられました。
巨星は逝いてついに帰らないのであります。
私は今、8年の昔、君が吉田元内閣総理大臣の御霊前に追悼の辞を捧げられたその同じ場所に立って、君に永遠の別れを申し上げなければならないのであります。偉大なるものを失った言い知れぬ悲しみとむなしさを禁ずることはできません。
国民の悲願であった沖縄返還をはじめとして、日韓外交関係の正常化、日米友好関係の堅持、その他、幅広く平和友好外交の推進は、非核3原則の堅持とともに、世界平和の促進に大きく寄与しました。これらの功績はノーベル平和賞受賞の大きな理由になりました。
君はノーベル平和賞受賞という歴史に残る大業績を持って、平和日本の名を世界に高からしめてくれました。君の名は永遠に平和日本の金字塔に刻まれるでありましょう。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後は終わらない」という君の発言とその実現のために心血を注がれた事実は、我が国民の永遠に忘れえないところであります。
君は信念の人、剛直の人、時に孤高の人と言われました。君倒るるの報に際して、いち小学生は「おじさん、死んではいけません。おばさんがかわいそうです。」と手紙を書きました。国民のこうした祈りもむなしく、君は長逝して再び相見えることはできません。
ここに国民の皆さんとともに、君の生前の功績を称え、その人となりを忍び、心からご冥福を祈ります。佐藤さん、どうか安らかに眠ってください。」
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続いて、前尾衆議院議長、河野参議院議長、村上最高裁判所長官が追悼の辞を述べます。
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そして、友人代表として作家の山岡荘八氏が追悼の辞を述べます。
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東京文京区立第二中学校3年の生徒たち6人です。
生徒たちは、社会科の研究テーマに沖縄返還を選び、佐藤元総理のもとを訪れ、話を聞きました。お別れの言葉を述べます。
「あの時、僕たちに握手してくださった佐藤さんの温かい手を、僕たちは一生忘れることはないでしょう。佐藤さんのご冥福を心からお祈りいたします。佐藤さん、さようなら。」
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天皇皇后両陛下の御使いで参列した侍従が拝礼します。
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続いて、皇太子ご夫妻や皇族の方々のご供花が続きます。
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三木葬儀委員長夫妻が献花します。
そのあとには、佐藤元総理の妻・寛子さん、長男・龍太郎さんとその家族、次男・信二さんも続きます。そして、兄の岸信介さん夫妻も献花します。
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ここからは政党幹部の献花です。
日本社会党、公明党、民社党と続きます。
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沖縄県の屋良知事夫妻も献花します。
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ここからは国外からの参列者の献花です。
フィリピンのマルコス大統領夫人らが続きます。
特使が派遣された7カ国を含め、91カ国と7つの国際機関の代表の献花が続きます。
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途切れることなく参列者の献花が続きます。続々と、白い花を持った人たちが式壇に向かいます。
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参列者の献花が進むと、式場の外で待っていた一般の参列者が会場に入ります。入り口で花を受け取り、次々に献花に向かいます。
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参列者が見送る中、遺骨が退場します。
三木葬儀委員長を先頭に、長男・龍太郎さんが遺骨を胸に抱き、会場をあとにします。
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弔銃が鳴り響く中、佐藤元総理の遺骨を乗せた車が、東京・世田谷区の自宅に向け出発しました。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
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