ブラックパンサーパーティー(黒豹党)とは何だったのか?

アメリカで1960年代後半から1970年代にかけ、公民権運動の中でラディカルな黒人解放闘争を展開した黒豹党。これをほとんど目の敵にしたFBIのフーバー長官(当時)による非常に効果的な宣伝のせいで、マスコミでも最近まで「暴力的なテロ組織」あつかいされてきた。その実際と今日のBLM運動にまで引き継がれる黒豹党の残した遺産とは。

<ビデオ字幕ー訳:大谷行夫>
・黒豹党は、1960年代に米国カリフォルニア州オークランドで、大学仲間のヒューイ・P ・ニュートンとボビー・シールによっ て結成された、革命的社会主義組織です。
・1964年の公民権法は人種、肌の色、宗教、性別、あるいは国籍による差別を禁止したにもかかわらず、人種差別や様々な差別が 黒人社会に横行していました。
・ニュートンとシールは、単に人種差別廃止だけでなく、それ以上の主張をもって黒豹党を結党しました。
・彼らは、黒人社会のあらゆる人種差別撤廃を要求しましたが、黒豹党の最も重要なイデオロギーは武装自己防衛の権利にあり、 全米から注目を集めました。

・当時法学部生だったヒューイは、カリフォルニア州の隠さずに銃携帯が許される「オーブンキャリー法」に精通していました。
・1967年、ヒューイとシールは、オークランド市内を武装パトロールし、警官のパトカーを追尾して黒人への職質を監視し始めました。
・あわてて、カリフォルニア州議会は、黒豹党のパトロールを禁止せんと銃規制法案を通過させようと急ぎました。
・それに抗して、同年5月2日、黒豹党員の小グルーブが実弾装填武器で武装して州議会ビルに抗議するために押しかけました。
・この抗議行動が広く報道され黒豹党は数千人もの支持者や支援者を得ることになり、オークランド市基盤の小グルーブから、全米に支部を持ち、国際的支持も得る団体に急成長したのです。

・黒豹党は、武装自衛のイデオロギーだけでなく、黒いベレー帽の特徴的なユニフォームと拳をあげるスタイルで有名です。
・しかし、黒人社会への飢餓児童救済ブログラム、無料の教育や医療の提供などの地域奉仕活動の偉業はあまり知られていません。
・党員が飛躍的に増加するにつれて全米および世界からも新しい指導者が誕生してきました。
・更に、党で最も影響力を持った人物の多くに女性がいて、女性党貝は全党員の三分のニを占めていたと推計されます。

・黒豹党の革命的なエートスによって法執行当局は黒豹党を「国家安全保障上の脅威となる」として掲げました。
・黒豹党員間の過激な内紛は党が暴力的な団体であるというイメージを一般大衆に持たす要因となりましたが、それらのほとんどはFBIのでっち上げによるものでした。’
・FBIの襲撃は複数人の党員を殺害しただけでなく、党内に疑心暗鬼の雰囲気と内部分裂を引き起こしました。
・更にFBIや警察による逮捕•起訴が強化され、裁判費用が重くのしかかり党の運営が難しくなってきました。
• 70年代中旬初めから、警察の党員殺害や投獄からだけでなく、党は党員を失い始め弱体化していきました。
・FBIの効果的なデマ•キャンペーンによって党は「テロ組織」という烙印を押され、大衆の支持も失い始めたのです。
・こうして長年にわたり党員の減少と否定的な報道の後、1982年に黒豹党は正式に解党しました。

・黒豹党は解党しましたが、困窮児童への無料朝食や鎌状赤血球貧血症研究のための政府資金援助などのようなコミュニテイプログラムの多くは今でも存在しているか、似たようなブログラムの創出を誘発しました。
・最近の米国の政治社会運動において女性の指導的役割は増進しています。
・そういう意味でも、黒豹党は性平等の正常化にも貢献し、評価されます。
・しかし、おそらく党の最も頭著な遺産は、紛れもなく黒人の組織だったという事実です。
・白人の人間性に訴えるより、非妥協的に必要な限り継続的に、党は黒人自らの基本的権利を要求することです。
・そしてそれは今なお「ブラックライブズマター」運動に受け継がれているのです。

2020年12月12日、東京・池袋での「BLM運動は未来を変えるか」シンポにて上映されたものを会場で撮影録画したものです。

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