ナギーブ・マフフーズ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=686750 / CC BY SA 3.0
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#20世紀の小説家
#21世紀の小説家
#ノーベル文学賞受賞者
#アメリカ芸術科学アカデミー会員
#カイロ大学出身の人物
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#1911年生
#2006年没
ナギーブ・マフフーズ(エジプト・アラビア語:نجيب محفوظ, ラテン文字転写:Nagīb Maḥfūẓ, IPA: [næˈɡiːb mɑħˈfuːzˤ]; 慣用されているラテン文字表記: Naguib Mahfouz; 1911年12月11日 – 2006年8月30日)はエジプトの作家・小説家。
70年にわたる作家人生の中で小説34作品のほか、短編小説350以上、多数の映画脚本、演劇作品5作品を生み出した。
エジプト国内では1980年代までにマフフーズが脚本した映画が25本、小説の映画化が30本以上、制作された。
エジプト国外での映画化を含むとそれ以上になる。
代表作に「バイナル・カスライン」を含む「カイロ三部作」、『街角の子供たち』、『渡り鳥と秋』、『蜃気楼』、『ハーネルハリーリー市場』、『ミダク横丁』など。
1988年にエジプト初、アラブ圏初のノーベル文学賞を受賞した。
なお、生涯を通じてカイロの外へ出ることは滅多になかった。
カイロ旧市街を代表するスークの一つ、ハーネルハリーリーのグーリー門に店を広げるランタン屋。
1911年12月11日にカイロの下位中流階級のムスリム家庭に生まれた。
難産の末、誕生した新生児に、家族は分娩に立ち会った医師の名前をもらって名づけた。
7人きょうだいの末っ子で、兄が4人、姉が2人いた。
すぐ上の兄とも10歳は年が離れており、まるで一人っ子のように育った。
作家はのちに、自分に普通のきょうだい同士のつながりがなかったことを嘆いている。
アメリカン大学カイロ校出版局のウェブサイトは、このことが彼の作品の多くに共通して見られる兄弟愛のテーマに影響を及ぼしたと分析する。
マフフーズの一家は安定的で愛情にあふれた家庭であり、幸福な少年時代を過ごしたと見られる。
マフフーズが「時代遅れの人だった」と形容する父アブデルアズィーズ・エブラーヒームは役人だった。
母ファーティマはアズハル大学の長老ムスタファ・カシーシャの娘であった。
彼女自身は文盲であったものの、エジプト考古学博物館やピラミッドのような文化的な場所への小旅行に、少年時代のマフフーズを頻繁に連れて行ったという。
一家は敬虔なムスリムであり、マフフーズは宗教的に厳格な環境で育てられた。
あるインタビューでは、そうした幼少期の宗教的な雰囲気を詳細に語り、「あの一家から芸術家が誕生するなんて想像もできなかっただろうね」と述べている。
1919年のエジプト革命は、後々まで続く強い影響を作家に与えた。
当時7歳の幼いマフフーズは、イギリスの兵士がデモの参加者なら男女の区別なく発砲する様子を何度も目撃した。
「子どもの頃の私を最も不安にさせたもの、それは1919年の革命だったと言える」とマフフーズは後年語った。
マフフーズの一家は、彼が誕生した当初、カイロの旧市街中心部にあるガマリーヤ区にあるベイト=ル=カーディー(Bayt al-Qadi)地区に住んでいた。
この界隈はファーティマ朝がカイロの町を建設したときからある歴史の古い地区である。
1924年、12歳のときに、旧市街の北辺にあるアッバースィーヤ区に移った。
アッバースィーヤ区では「カイロ三部作」のカマールのように初恋も経験した。
『ミダク横丁』や「カイロ三部作」を始め、マフフーズの小説には、作家が幼少期を過ごした街区を舞台背景とするものが多い。
小学生の頃は探偵小説、歴史小説、冒険小説を読みふけった。
中等教育の学校に上がると、ターハー・フセインやサラーマ・ムーサー、フェビアン協会の知識人たちが書いた本を熱心に読み、影響を受けた。
とりわけターハー・フセインやサラーマ・ムーサー、モハメド・ハサネイン・ヘイカル、イブラーヒーム・アル=マージニーといったアラビア語のフィクションに新しい手法をもたらした作家たちの作品は、短編小説の書き方というものをマフフーズに教えてくれた。
中等教育を終えたマフフーズは、1930年にフアード1世大学(現カイロ大学)に入学を認められ、そこで哲学を学んだ後、1934年に卒業した。
書くことが好きで数学や自然科学にも早い頃から興味を示していたマフフーズが哲学を専攻した理由は、多才な詩人アッバース・アル=アッカードの著作に感化されたためであった。
その後1年間は哲学修士課程に…
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