永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書

1945年、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦した。宣言の中には「戦争犯罪人を処罰する」ことが盛り込まれていた。東京のスガモプリズンではA級戦犯7人が絞首刑になったが、捕虜虐待などの罪を問われ、連合国各国の軍事法廷で裁かれたBC級戦犯で処刑されたのは920人に上る。アメリカの第8軍による横浜のBC級戦犯裁判では51人の死刑が確定し、スガモプリズンで執行された。そのうちの1人、藤中松雄は現在の福岡県嘉麻市の出身だ。太平洋戦争開戦直後、20歳で召集され、海軍に入隊。終戦の年の4月、沖縄県の石垣島で米兵捕虜3人の処刑現場に立ち会うことになる。連日、空襲が続く中、撃墜された米軍爆撃機から脱出したものの、海軍に捕らえられた搭乗員に「亡くなった戦友の仇討ち」が行われたのだ。横浜裁判の中でも最大、1つの事件で46人が起訴され、41人もの元日本兵に死刑が宣告された「石垣島事件」だ。

 亡くなってから70年も経って、藤中松雄の法廷での姿が初めて確認された。番組では松雄に関する横浜裁判の資料を入手し、石垣島事件を検証。妻と二人の幼い息子を残し、28歳で命を絶たれた青年が遺した言葉を伝える。

BC級戦犯は、日本の指導者ではなく下士官など普通の人々が軍の指揮下で行った捕虜殺害・虐待行為が罪に問われたことから、ほとんどの関係者は口をつぐみ、戦後70年以上が経過しても、日本人のどんな行為が犯罪とされたのか、また軍事法廷ではどのように裁かれたのかが明らかにされてこなかった。日本で唯一BC級戦犯を裁いた横浜軍事法廷で、被告46人という最大の事件、「石垣島事件」についても、事件の全容は明らかにされていなかった。処刑された戦犯の遺族でさえも、父親が何をしたかをいまだに知り得ないという状況を知り、日本とアメリカに残る公文書を検証することを思い立った。一次資料から戦犯裁判の実相を明らかにする。

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