「戦争万歳!」新聞が煽った太平洋戦争【新聞の戦争責任はデカい】

戦争万歳!新聞が煽った太平洋戦争

ツイッター:@JapanHistory_Q

【編集後記】
最後の締めでも言ったが、私は基本的に当時の言論人にはあまり腹が立たない。むしろ、今の新聞にムカついている。戦後日本は、いわば新聞の贖罪に付き合わされている感もいなめないと思ってしまうくらいムカついている。
まあ、それは置いておくとして、私は当時の新聞界の人間を批判したり蔑んだりする気は毛頭ない(むしろ、ある種の好感をさえ覚える)。現代の人間が歴史を非難するは、後出しジャンケンみたいなもので卑怯であり、歴史の同時代性というのは忘れてはならないと思っている。つまり、そういう時代だったのである。
現代人がすることは、いかに歴史から教訓を得るかに限られる。今回の動画を作り終わって、私が得た教訓は組織から距離をおいて言論活動をすることである。幸い今の時代は、努力すれば結構個人でも影響力を持てる時代である。そういう意味で、今の新聞やテレビは歴史から何も学んでいない。組織で仕事をして、組織の意思で言葉をほざいてやがる。なんか、また腹が立ってきた。くっ。

【言論統制の補足】
新聞の言論統制は二つの側面から考えると理解がすすむ。一つ目は、新聞の内容を政府なり軍部なりが統制するという面である。これは(誤解を招くようだが)動画でも触れたように、そこまで大した問題ではない。つまり、大新聞の多くは進んで国策推進に協力してきたからである。もちろん、なかには国策を非難する記者もいただろうし、太平洋戦争の戦局がすすみ、事実の糊塗が甚だしくなった段階では多くの記者が軍部の指導に辟易していただろう。それはそれで問題であるわけだが、(満州事変を含め)開戦に導いた新聞の戦争責任は免れない。朝日の緒方竹虎なんかは1944年7月から翌年4月まで情報局の総裁(国務大臣兼任)をやっており44年9月9日の予算委員会では「決戦段階に於ける言論政策と云うものは、所謂言論の為の言論政策ではなくて、人心を戦争一本に持って行くことにある」という発言がある。もちろん、次には真実を打ち明けることが挙国一致につながると彼は言うのであるが、それはそうすることが戦争に勝つための手段であるという考えであり、現代の新聞のような思考停止的な平和主義とは、まるで違う。そういう意味では、平和主義者とよく言われる緒方と同じく朝日のOBで情報局総裁だった下村宏も同じである。
言論統制のもう一つの側面は、新聞統合や資本・発行の制限である。動画ではほとんど触れられなかったが、新体制運動・大政翼賛会というのは、どちらかと言えばこっちの言論統制が主である。日中戦争が始まると、資源が枯渇しだした日本は新聞の材料であるパルプや活字などに余裕がなくなっていく。そこで一県一紙制というものが始まるのだが、つまり地方紙や産業紙を統廃合して、一つの県に新聞を一つにしようという制度である。恐ろしい制度だなと思ってはいけない。現在の新聞はまさにこの一県一紙制に根付いているのであって、つまり一県一紙制はまだ事実上続いているし、その方が既存の新聞にとって都合がいいのである。この制度に関して、当時の朝日や毎日といった大新聞は冷淡だった。「日本新聞年鑑. 昭和16年版」には、大新聞の冷淡さを見てとれる。曰く「政府の新聞統制に対して、新聞界が沈黙を守り続けて」いたらしいが、そのなかで報知新聞の社長だけが「一人大胆にこれを批判」したらしい。つまり、地方紙が次々と統廃合されるなか、東京の大新聞は等閑。というかむしろ読売あたりは積極的に地方紙を吸収していたわけだが、そして可哀想なことに、しまいには報知新聞も読売に吸収されるのである。
新聞連盟や日本新聞会を大新聞がすすんで作ったのは、政府による統制の前に自らで統制した方がマシだと考えたからである。つまり自分たちの身だけは守りたかったわけだが、その姿勢は新聞連盟が新聞会に変わるときの一悶着を見ればわかる。より強い統制を求められた新聞を「全面的に一会社に吸収する」という案が政府の小委員会から出されるわけだが、新聞の代表たちは猛反対。読売の正力は「命に賭けて案を阻止する」と言ったとか。まあ、そんな感じである。新聞は最後まで商業主義。自分たちが儲かって、生き残れればそれで良いという考えだったんじゃないかな。軍部がボスになれば、それに従ったし、GHQがボスになれば、それに従った。もしかしたら、今は頼るべきボスがいないから迷走しているのかもしれっませんね。

※当時の映像や画像を用いているため、プロパガンダを含みます。ご了承ください。
※1:満州事変は1931年の9月である。大阪朝日の発行数は、5月20日の数字を標準値としており、31年から32年にかけての数字が満州事変による部数の増加と見るのが正しい。日中戦争も37年7月7日の盧溝橋事件が契機であり、翌年の38年が日中戦争を反映した数字と言える。
※2:松岡洋右の有名な演説自体は33年2月24日

【素材】
NATIONAL ARCHIVES
https://catalog.archives.gov/
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/
Prelinger Archives
https://archive.org/details/prelinger
MIT Visualizing Cultures
https://visualizingcultures.mit.edu/
Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/Main_Page
Library Of Congress
https://www.loc.gov/
Japanese Military Maps
https://stanford.maps.arcgis.com/apps/PublicGallery/index.html?appid=1ed3022fc7884690a2f137bce9dfe4fe

【音楽】
Storyblocks
https://www.storyblocks.com/audio
Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/Main_Page
YouTube オーディオ ライブラリ

【引用・フェアユース・参考文献】
山本武利「近代日本の新聞読者層」法政大学出版局
保阪正康/半藤一利「そして、メディアは日本を戦争に導いた」東洋経済新報社
鈴木健二「戦争と新聞」毎日新聞社
寺崎英成「昭和天皇独白録」文藝春秋
L.ヤング「総動員帝国ー満洲と戦時帝国主義の文化」岩波書店
伊藤正徳「新聞五十年史」鱒書房
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1037800
新聞要覧. 日本ノ部 昭和21年度版
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140582/20
日本新聞年鑑. 昭和16年版
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1071142
神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
新聞通信調査会デジタルアーカイブ
https://j-dac.jp/chosakai/
岡満男「一九三〇年代の新聞の「共同宣言」」同志社大学人文学会
外務省.日本外交文書デジタルコレクション
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/
NHK戦争証言アーカイブス
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/list.cgi?value=1940
国立公文書館 アジア歴史資料センター
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000564039&ID=M0000000000001802610&TYPE=&NO=

powered by Auto Youtube Summarize

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事