出典:EPGの番組情報
100分de名著“金子みすゞ詩集”(3)「“孤独”と“死”をみつめて」[解][字]
時代の流れの中で童謡詩を載せた雑誌は次々に廃刊。みすゞは発表の場を失う。詩集刊行の望みをかけ、512作の詩を西條八十と弟・雅輔に送るが願いはかなえられなかった。
番組内容
金子みすゞにとって詩と表現は、自らを生かす希望の力だった。雑誌廃刊等によってその希望が失われ、さらに結婚生活の不幸、健康の問題も重なり、みすゞは自ら死を選ぶ。みすゞはスペイン風邪の世界的パンデミックと大量死、関東大震災の時代に生き、人の儚(はかな)い死を見つめていたのだった。第三回は、苦境の中でみすゞが真剣に向き合った人間の「孤独」と「死」、「希望の喪失」を描いた詩を読解する。
出演者
【講師】作家/翻訳家…松本侑子,石橋静河,【司会】伊集院光,安部みちこ,【語り】加藤有生子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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- 評価
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
大正時代が終わる頃
みすゞの発表の場であった雑誌が
書店から 消え始めます。
それでも
最後まで みすゞは詩を書き続けました。
苦境の中で向き合った
「孤独」すらも 詩に詠み
最後まで 文学者として生きようとした
金子みすゞ。
第3回は その情熱と向き合います。
♬~
(テーマ音楽)
♬~
「100分de名著」 司会の安部みちこです。
伊集院 光です。
今月の名著は 「金子みすゞ詩集」です。
みすゞは 生前 一冊の詩集も
出すこともなかったんですけれど
見せてあげたかったですね。
今は こんなに出てますよって。
あ~ そうですねぇ。
さあ 指南役 ご紹介しましょう。
引き続き
作家で翻訳家の 松本侑子さんです。
松本さん よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回 みすゞが 雑誌に詩を投稿していた
というのをやったんですけれども
その投稿された詩というのは
選者が順位づけをしていたんです。
はい。
で みすゞが最も多く作品を送った
雑誌の「童話」。
その中での順位ですね 松本さんが
まとめて下さったんですけれども。
すごい。
みすゞは青くなってるんですけれども
まあ 結構ランクインしてますよねぇ。
表を作って 気がついたことは
ほとんどが男性の人が入選者なんですね。
で ご覧のように
この大正13年の前半くらいまで
島田忠夫さんと
みすゞさん
もう大接戦で
抜きつ抜かれつなんですけれども
実は この大正13年の途中に
みすゞさんの詩を高く評価していて
まあ 童謡欄の選者をしていた
西條八十先生が
ソルボンヌ大学留学で
フランスに行ってしまうんですね。
はぁ。
で 選者が変わって 吉江孤雁という
フランス文学の方なんですけれども
当時 農民の文芸運動というのを
指導なさっていて
それもあって こう
ひなびた田舎の風景の忠夫さんの詩を
高く評価するようになったんですね。
みすゞさんの このロマンチックで
ファンタジックな詩とかですね
載らなくなってしまった。
難しいんだよな~。
例えば お笑いの業界だと
暮れに 大きな その漫才の大会が
毎回あるんですけれどもね
審査員の人たちも
一生懸命 審査をしてるけれども
やっぱり
自分が今までやってきた スタイルと
全く違うものを評価しないとか。
まあ そういうことなんでしょうねぇ。
まあ ちょっと行き詰まった感じはあった
と思うんですけれども
そうなったあと みすゞはですね
好みの詩を ペンで書き写して
手書きのアンソロジー集
「琅集」というものを編さんするんです。
あ~ えらいもんですね。
なぜ みすゞは これを作ったんですか?
自分は どういう詩が書きたいのか
改めて この方向性を
見つけようとしたんだと思います。
同時にですね この投稿欄の仲間の
よしみさんとか 忠夫さんたちと一緒に
「曼珠沙華」と名付けた同人をやりまして
今ね その同人雑誌が
見つかってないので
発行されたかどうかが
分からないんですけれども
童謡詩壇の発展のために活動をしていた
ということが分かっています。
まあ ただ詩を書くというのは
孤独なね 一人の作業ですので
そういう みすゞさんのですね
孤独な夜の詩作を思わせるような
作品もございます。 はい。
では 金子みすゞの詩を
読んでいきましょう。
朗読は 俳優の石橋静河さんです。
「とびくら」は
子どもの遊び とびくらべのこと。
朝 木から はらはら舞い散る花は
雀が
とびくらべの相手をしてくれる。
日暮れに散る花は
夕べの鐘が遊んでくれる。
しかし 闇夜に 音もなく散る花は
誰が遊んでくれるのか…。
散りゆく花に 自らの孤独を重ねるような
寂しさが感じられます。
更に 詩の世界で有名になることへの
諦めの気持ちが漂う作品もあります。
う~ん…
何とも言えない さみしげな ねえ。
今の 「杉の木」の中では
この「百合」というのは
何を象徴しているんですか?
あの みすゞさんの詩では 花がですね
文学とか芸術の喩えといったことが
多いんですね。
人が通る峠のみちで
大きな百合の花を咲かせたい
うぐいすのように きれいな唄を
うたいたいと憧れていましたが
大きくなっても
山奥にいる 杉の木のままだったと。
まあ 東京で評価されて
詩集が出て
たくさんの人に読んでもらうような
詩人には なれないかもしれないという
どこか あきらめのような気持ちも
漂っていると思います。
やっぱり 女性が すごく活躍しにくい
世の中の中で 才能もあってという人が
田舎の主婦になっていく
っていうことに対する
ざわつく気持ちを詠んでる
ということですかね。 そうですね。
で あの みすゞが詩を投稿していた雑誌
「童話」ありましたよね。
あれが 大正15年7月号が最後で
廃刊になるんですよね。
お~。
これは どうしてだったんですか?
まあ いくつか理由がありまして
一つにはですね 童謡は もともと活字で
文学として始まりましたけれども
歌になって レコードになって
ラジオにもなって… ってなると
もう 文学として読む このブームが
だんだん なくなってしまったんですね。
はぁ~。
2つ目にはですね…
採算が とれなくなっていました。
また3つ目にはですね だんだん
言論弾圧が強まってまいりまして
雑誌の検閲が始まったりして
自由な表現が
だんだん できなくなってきました。
う~ん
いろいろ 重なっちゃったんですね。
ただ みすゞさん 偉いのはですね…
「童話」が廃刊になった 同じ年にですね
西條八十先生が関連した
また別の詩の雑誌で
「愛誦」という雑誌が出まして
みすゞさんは
また詩を送るようになりまして
常に みすゞさんはね
発表媒体を探して…。
見つける。
ええ。
時代のせいにして 諦めるわけでもなく
一生懸命 やってますね。 はい。
さあ このあと みすゞの人生も
大正の終わりに大きく動いていきます。
ご覧下さい。
大正15年2月 みすゞは
一緒に働いていた書店員と結婚します。
婚礼写真には
はにかむ みすゞが写っています。
秋には 娘も出産。
みすゞは ようやく
自分の家庭を持てたのです。
その年の暮れに 大正天皇が崩御。
昭和が始まりました。
昭和2年の秋
夫は 勤めていた書店を辞め
おもちゃを卸す 問屋業を始めます。
商いが繁盛し 金回りがよくなる一方で
産後の みすゞは
乳飲み子を抱えている…。
男盛りの夫は 遊郭に通うようになります。
みすゞは 夫から感染して
りん病を患います。
当時 りん病は 夫から妻への感染も多く
女性には 肉体的にも精神的にも
つらい病でした。
そのころ 童謡詩を載せていた雑誌が
次々と休刊や廃刊になります。
自由な機運の大正時代は
遠のきつつあったのです。
実際
その昭和4年に 「赤い鳥」が休刊して
「金の星」は廃刊してるんですね。
童謡詩の人気を
引っ張っていたといえる 3大雑誌は
これで 全て書店から なくなってしまった
ということなんですよね。
活字としての童謡の人気が
だんだん なくなっていきまして
みすゞさんの詩の先生だった
西條八十さんもですね
だんだん 歌謡曲の作詞を始めていきます。
はい。
例えば 昭和4年に大ヒットした
「東京行進曲」という曲がありまして
「昔恋しい 銀座の柳」。
非常に この華やかな東京の昭和モダンの
風俗を描いてですね 大ヒットします。
で あの 昭和の
そういう時代になっても 実は…
昭和2年の夏に
2人は下関駅で会っています。
東京のね 人気詩人ですからね
うれしかったと思います。
家族を持って 子どもも育ててっていう
割と一般的に見える幸せみたいなことと
私には 詩の才能があるんだっていう
方向の幸せみたいのの間で
やっぱり揺れているっていう においが
ず~っとしている。
西條先生が ちゃんと時間を割いてくれる
ということがあると
揺れ続けるんだろうと思いますね。
で その後なんですけれど
昭和4年の秋ごろですね。
手書きの詩集ノート3冊にあった詩
512作を書き直して
西條八十と
当時 東京の雑誌社で働いていた
弟の雅輔に送っているんです。
子ども まだ3歳ですので
子育て大変な時期に
このことをやっているという その動機
というのは 先生 どうお考えですか?
もしかしたら
その中から いい作品を選んで
詩集を出してもらえるんじゃないか
出してもらえたら
うれしいなぁっていう
この ひそかなですね
願いがあったと思います。
というのは 「童話」の投稿欄の仲間だった
島田忠夫さんもですね
佐藤よしみさんも もう 年下なのに
男性は詩集が出てたんですね。
う~ん。
しかし あの
八十先生からも 雅輔さんからも
詩集を出しましょうという話はなかった。
みすゞは この 弟と八十さんに送る時に
例えば そういう願いみたいなのは
ちょっと添えたりしないんですかね。
そこがね やっぱり
みすゞさん 控えめな方ですから
読んでもらえたらいいのということは
どうも 連絡してたみたいですよ。
でも やっぱり彼女が偉いなと思うのは
512作を 八十先生の分 3冊と
雅輔さん 3冊
あと自分の控えも要りますから。
1, 500作 手書きですよ!
すごいですね。
そうか。 500じゃなく 1, 500ですね。
3冊目の手書き詩集
「さみしい王女」には
詩人になることへの諦めの境地を
思わせる詩があります。
少し よそを見ている間に
どこかへ行ってしまった
遠い海に白く輝いていた 舟の帆。
それは みすゞにとって
結婚して 子どもを育てている間に
去ってしまった童謡詩の流行や
自由を愛した
大正時代なのかもしれません。
一人 浜辺に取り残された悲しみが
たゆたいます。
実は みすゞは以前にも
同じ題名の詩を書いていました。
その中にある舟の帆は
輝かしい未来と 夢の象徴でした。
上の方の詩は 初めの頃の作品ですから
はるか遠くにですね
こう 詩人になって 詩集が出るという
きらきら かがやきながら
行くんだよって
舟の帆がね すいすい進んでいた。
でも こうして かわいい赤ちゃんを産んで
育ててる間に
あの帆は どっかへ行ってしまった。
何か その 見てたものが
くだらないものだったらば
これは嘆きなんだけども
見てたのも きれいな貝がらだから。
それは 子どもなのかもしれないし
家庭なのかもしれないし…。
ねえ 何か やっぱり とてもいいですね。
そして とても さみしいですね。
「こんなふうに行ってしまった、
誰かがあった」。
これは 私の推測では
多分 八十先生じゃないかな。
ああ…。
もう 歌謡曲の世界に行ってしまった
八十先生かなと。
そうか 「誰か」が西條先生で
「何か」が そうですね
そういう時代だったり 流行だったり。
そして まあ 悩んでいる
みすゞの心情が分かる詩というのを
もう一つ ご紹介したいんですが
「玩具のない子が」です。
この玩具というのは 多分
いろんな まあ 暮らしの物質 品々。
そして お母さんというのは まあ家族とか
お友達の喩えではないかと思います。
で この詩の「私」は
優しいお母さんがいて
玩具も
箱から こぼれるほど あるんです。
それでも 私は寂しい。
近代人の魂の飢えとかですね
孤独といったものを
非常に象徴的に描いてると思います。
自分は エッセーに 「孤独」という
エッセーを書いたことがあるんですけど
それ僕 学生時代 割と孤立してて
すごい孤独だったんですよ。
で 夜 寝る時に 何かこう
ずっと胸騒ぎがし続ける みたいな。
多分 その文章には
「紙やすりを丸めて
飲み込もうとしてるような感覚だった」
って書いてる。
で 後に 周りに芸人仲間ができて
カミさんをもらって
孤独ではないはずなのに
おんなじ感じになることに…。
…が 怖くてしょうがないんだよ
みたいなのを書いたことあるんだけど
でも 俺 そういう人 いっぱいいると
思うんですよね。 そうですね。
もっと何か
もう 命が かっか燃えるようなね
情熱を傾けられる何か そんなものが
欲しいと言っている この詩人の静かな
でも 切実な言葉が
私は聞こえてくるような気がするんです。
まあ この「さみしい王女」というのは…
やっぱり みすゞさんの
この詩への情熱みたいなものが
満たされない むなしさも
感じられますね。
では その3冊目の手書き詩集
「さみしい王女」を締めくくっている
最後の詩を読みましょう。
元気よく 山登りを始めたものの
結局 山頂に行けないまま
眠りに落ちる きりぎりすの詩です。
ユーモラスで 軽やかな詩ですが
続く巻末手記とあわせて読むと
そこに
みすゞが込めた真意が読み解けます。
きりぎりすの詩は リズミカルで
こう ユーモラスな感じもありますが…
そして 最後の巻末手記でも…
…と書いてますので
やっぱり この「山」というのは…
それができないで 帰ってきて
さみしい秋が更けていくという
まあ そういう詩ですね。
そしてです 昭和5年3月になると
みすゞは 自ら命を絶つんですね。
26歳ですよ。
ほんとにね 若くてね 惜しくて
もう かわいそうで 残念です。
みすゞさんはですね…
それが そちらに今 飾って頂いている
お写真なんですけれども。
まあ 下関の…
顔写真として載せるために
撮ったのではないかという お考えで。
確かに 羽織というのは
改まった時に着るものですしね
眉毛も濃く描いて キリッとした
文学者らしい顔をしてますから
あるいは そうだったかもしれない。
死んでから
夢を託していくしかなかった
かわいそうな気持ちを感じます。
僕は 最後の最後まで 自分の死後に
詩集が出るかもって思った その説を
すごく支持したい。
何か 世の中も夫も 才能あふれる女性を
受け止められてないっちゃあ
受け止められてないのかな…。
いや 実は みすゞさんが亡くなった
翌月の4月に
八十先生は 新しい詩の雑誌を
創刊してまして 「蝋人形」と。
そこに 堂々と
みすゞさんの詩が載ってるんです。
それを知らないで
悲観して 亡くなったと思います。
いろいろ こう ズレがあったんですね
いろんなところで。 はい。
僕は あの 無知で ゼロの状態から
この収録に挑んでるので
やっぱり 自ら亡くなるということは
結構 ショック。 そうですね。
…なのと
でも 誰かが掘り出してくれたから
今 僕らは知れてるっていうところを
4夜目で
ちゃんと知りたいなって思いますね。
松本さん ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
♬~
(橋本)バカヤロー!
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