中区・山下町周辺はかつてリトルインディアだった?!
ココがキニナル!
以前、関内にはもっとインド料理店が多かった気がしていたら、山下公園のそばにインド人が住む集落があり、山下公園のインド水塔はその名残とか。リトルインディアの建物は現存するのでしょうか?(路地の錆びさん)
はまれぽ調査結果!
開港後長らく、中区・山下町付近にはインド人が大勢暮らしていた。山下公園のインド水塔は関東大震災の際のインド人と日本人の絆の証し。近辺には今なおリトルインディアを偲ぶ建物も存在する。
ライター:結城靖博
以来、そのことがずっと頭の片隅にあったが、今回のキニナル投稿は、そのモヤモヤを解く絶好の機会となった。
まずは、名前からしていかにもこの件に詳しそうな一般社団法人横浜インドセンターに問い合わせてみた。するとそこから、この取材にもっともふさわしい方として、公益社団法人在日インド商工協会(ICIJ =Indian Commerce and Industry Association Japanの略)事務局長を紹介され、訪ねることとなった。
ICIJ事務局長は自称「ハマっ子」だった
ICIJの事務局は山下公園通りの一筋裏、水町(みずまち)通り沿いにある。
水町通りをはさんで向かいは県民ホール
事務局はこの建物の3階
エントランス左右の壁面には半円のプレートがあるが
右側のプレートは協会の沿革を伝える記念碑だった
記念碑の文面を読むと法人の名称が微妙に違うが、この謎はのちに判明する。
建物に入ると異国情緒漂う佇まい
この建物は実はマンションだ。ということは住人たちはほとんどインド人で、すでにこの建物自体がリトルインディアなのか? そう思ったが、あとから事務局長に聞いてみると、住人は皆、日本人とのこと。
3階の奥の部屋がICIJ事務局
インターフォンを鳴らすと、穏やかな笑顔の事務局長が出迎えてくれた。
こちらが事務局長のジャグディシュ・D・ケマニさん
今年63歳になるケマニさんは、ボンベイ大学卒業後まもない1981(昭和56)年にインド系の貿易商社に勤めるべく横浜に来た。以来、ずっとこのまちに住んでいるという。商社の台湾移転を機に、2013(平成25)年から現職を務めることになった。
ケマニさんは「もう約40年横浜に住んでますから、ワタシも『ハマっ子』ね」と笑う。とはいえ、そのあとすぐにこう付け加えた。「でも、心はインド人」。
ケマニさんから横浜のインド人史を詳しく受講
ケマニさんは開港以来の横浜のインド人の歴史を時系列的に丁寧にレクチャーしてくれた。だが、その全部を載せると膨大な論文にでもなりそうなので、せっかくだが本稿に関連することだけに絞って紹介しよう。
なお、まとめるにあたっては、2012(平成24)年10月~翌年1月に横浜ユーラシア文化館で開催された『横浜におけるインド人のあゆみ』展の図録も参考にさせてもらった。
水町通りの二筋南、本町通りに面した横浜ユーラシア文化館
そもそも最初にインド人が日本(=横浜)に来たのは開港間もない1863(文久3)年のこと。イギリス系の2つの植民地銀行が横浜に支店を設立し、その従業員としてインド人が来日した。そして1870(明治3)年に、インド人による横浜での商売が始まる。主に日本の絹織物を輸出し、染め物の原料や米をインドから輸入したという。
2年後の1872(明治5)年には横浜に最初のインドの会社が設立し、その後徐々に横浜のインド人が増えていく。さらに1893(明治26)年、日本郵船とインドのタタ商会の提携でボンベイ航路が開設されると、日印貿易は一層本格化する。
ちなみに日本からインドに輸出された絹織物は、インド女性必須の衣料「サリー」の生地などに使われたという。
絵葉書『横浜山下町居留地』(横浜市中央図書館所蔵)
横浜の居留地制度は1899(明治32)年に廃止されるが、1895(明治28)年頃10軒あまりだった横浜のインド系商館はその後も増え続け、1920(大正9)年頃には60軒を数えるほどになる。
そして、1921(大正10)年、インド商人の増加にともない「横浜ヒンドゥー協会」が設立され、翌年、「横浜インド商協会」と名称変更する。これが、現在の「在日インド商工協会(ICIJ)」の前身だ。
玄関前左壁面のプレートの名称の違いも「1921」の意味も納得
インド商人たちが暮らしていた場所は?
そうした多くのインド商人たちの商館がどこにあったかといえば、まさに今在日インド商工協会がある水町通りを中心としたエリアだった。
ケマニさんによると、かつては現在の山下町24から25番地の間の水町通りと、一筋南側の海岸教会通りには、インド商館が軒を連ねていたという。
また、中華街北側に隣接する場所と、現在スタジアムがある横浜公園の南側にもインド商館が数軒あったそうだ。
リトルインディアをざっくり地図で示すと次のようになる。赤・青・黄で囲んだ辺りがおおよその位置だ。
(© OpenStreetMap contributors)
そのなかでもっとも中心的なエリアは、赤丸で囲った山下町界隈だったようだ。
リトルインディアを襲った関東大震災とインド水塔の関係
だが、協会が設立したわずか2年後の1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こる。当然、横浜のリトルインディアも壊滅的な被害を受けた。
震災当時、横浜に住んでいた116名のインド人のうち28名が亡くなり、命をとりとめた人たちも住む場所を失い、多くが神戸へ移住したという。
絵葉書『大正十二年九月一日横浜市大震災 居留地の惨状』(横浜市中央図書館所蔵)
けれども震災後、経済復興の要であるシルク貿易の一翼を担うインド人たちを重視した横浜市は、震災翌年にいち早く彼らを横浜に呼び戻す施策を講じる。
具体的には山下町に住居を兼ねた商館用の建物を建設した。これによって、神戸に移った38館のうち16館が横浜に戻ったという。建物は2階建てで、1階がオフィス、2階が住居という造りだった。
実はその1棟が現存する。それが下の写真の建物だ。
現在は中華街の老舗料理店「同發(どうはつ)」の菓子工場だが
昭和初期にインド商人復帰策のための商館として建てられたとみられる。びっしり茂ったツタに目を奪われがちだが、確かによく見るとエスニックな外観だ。
場所は、ここ。ちょうど前掲地図の青丸の付近にあたる
こうした市の支援もあって、震災後ふたたび横浜のインド商人たちの活動は活発化する。
そして1933(昭和8)年には、在日インド商工協会が現在ある同じ場所に、横浜インド商協会の建物が竣工した。建物は「インド・クラブ」と呼ばれた。
かつての「インド・クラブ」(写真提供:ICIJ)
この建物は1945(昭和20)年の横浜大空襲の被害からも免れ、1995(平成7)年に取り壊され現在のマンションに変わるまで存在していた。さまざまなパーティなども催され、横浜のインド人の拠点となり、日本人との交流の場ともなった。
また1939(昭和14)年には、震災時の横浜市からの支援に対する感謝と震災で亡くなった人々への慰霊を込めて、インド人たちが山下公園にインド水塔を建設し、市に寄贈した。
現在も山下公園内で目を惹く「インド水塔」は、日印の絆の象徴だった
インド水塔では、今でも震災が起きた9月1日に日印の関係者が集い、震災被害者を追悼する慰霊祭が行われている。発生時間の11時58分に祈りを捧げるという。
横浜のインド人たちに繰り返された災難と復活
しかし、インド水塔建設の数年前には日中戦争が始まっている。さらに2年後の1941(昭和16)年には太平洋戦争が勃発。当時横浜には40あまりのインド商館があったが、交戦状態となったイギリスを宗主国とする植民地インドの人々は、追われるように母国へ帰ることとなる。
やがて1945(昭和20)年に終戦を迎え、その後7年間の連合軍による占領期を経た1952(昭和27)年、日本が主権を回復するとすぐに、イギリスから独立したインドとの間に国交が樹立する。
そしてこのとき、また震災後と同じことが起こる。
戦後の経済復興を目指す横浜市は、ふたたびインド商人用の店舗兼住居の建設を進めたのだ。これを受けて、同年8月には早くもインド人たちの再来日が始まる。
このとき建てられた建物のひとつも、現存することがわかった。しかもそれは、前掲の同發菓子工場と同じ敷地内にある。
右手前の四角い建物が、それ
現在はやはり同發の所有で事務所として使われているが、インド商人が住んでいた頃は、ここも1階がオフィス、2階が住居になっていたのだろう。
左奥にツタがからまる同發菓子工場が見える。
戦後から現在に至る横浜のインド人たち
こうしてふたたび横浜で活躍するようになったインド商人たち。ケマニさんによれば、多い時期で35~40社ぐらいの貿易商社がこの地域に存在していたという。
だが扱う商品は、日本の近代化を支えたシルクに、戦後は日本製家電製品なども加わっていく。
かつてのリトルインディアの近く、「水町通り入口」交差点の角に建つ「シルクセンター」は、いわば開港期から戦前までの歴史を伝える文化遺産だともいえる。
画面左が「シルクセンター」。奥へ続く道が水町通り
では、現在の横浜のインド人たちの状況はどうなっているのだろうか。
ケマニさん曰く、昔ながらの貿易商社はもはや数社しかないという。1990(平成2)年前後に山下町周辺はビルが次々に建て替えられ、まちの様相が大きく変化していったそうだ。おそらくそれは、バブルとの関係が大きいのだろう。
とはいえ山下町には建て替え後もインド系のマンションが並ぶ
水町通りの一筋南の海岸教会通りに、数棟のインド人が経営するマンションが建ち、実はケマニさんもそのひとつに住んでいる。
現在、横浜のインド人が減少しているかというと、それは逆だ。
『横浜市統計書』によれば、国交樹立の1952(昭和27)年に32人だった横浜市のインド人は、30年後の1982(昭和57)年に132人、さらにその30年後の2012(平成24)年に1538人、直近の2020(令和2)年3月末では3169人(横浜市ホームページ「外国人の人口」より)に増えている。
インドでは近年IT産業が急成長し、横浜にもインド系IT企業が進出している。彼らにとってはもはやシルク貿易の拠点であった山下町は関係ない。3000有余の横浜のインド人たちは、みなとみらいなど他の地域にもオフィスを構え、各地に分散して暮らしているようだ。
ICIJが今、力を入れていること
そんな横浜市内に拡散するインド人たちをギュウッと束ねて、横浜の市民共々、新たな日印の絆を強めようとしているのが、ケマニさんが事務局長を務めるICIJだ。
その象徴的なイベントが、2002(平成14)年から毎年10月に山下公園で開催されている「ディワリ・イン・ヨコハマ」だという。
ICIJ事務局にはインド地図の隣りに去年のディワリのポスターが派手に貼られていた
ディワリとは、ヒンドゥー教徒が約8割を占めるインドの中で、ヒンドゥー教の女神・ラクシュミーを祝う祭りだ。ヒンドゥー教の暦では10月中旬~11月中旬が新年。中国の春節のように毎年変わるが、この時期に催されるディワリはインドの新年祭なのだ。
日本では、山下公園で10月下旬の土日の2日間に開催される。
下の写真は2015(平成27)年に開催された「ディワリ・イン・ヨコハマ」のオープニングセレモニーのシーンだ。
左からICIJ理事長、インド大使、横浜市副市長によるテープカット(写真提供:ICIJ)
会期中には、さまざまな催しが山下公園で繰り広げられる。
インドの料理や小物の出店はもちろん(写真提供:ICIJ)
ステージでインドのボリウッドダンスを披露したり(写真提供:ICIJ)
逆に日本の伝統舞踊を披露したり(写真提供:ICIJ)
かと思えばヨガ教室なども開催される(写真提供:ICIJ)
これは土曜日のフィナーレ、神々への祈り。祈るのはケマニさん(写真提供:ICIJ)
そして日曜日のクライマックス「光りのパレード」(写真提供:ICIJ)
ディワリは光りのフェスティバルとも呼ばれる。パレードの先頭にはやはりケマニさんが。イベント中大奮闘の事務局長は、このプロジェクトの副会長も務めている。
このほかにもいろいろなイベントを通して、インド文化の理解、日印の文化交流を進めている現在のICIJだが、2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災の際は、東北に住むインド人60~70人をICIJのある建物2階のホールで保護したという。
2階にあるICIJのホール(写真提供:ICIJ)
そのときICIJに避難していた方々(写真提供:ICIJ)
ただし、上の写真が撮られた場所は2階のホールではなく、1階の寺院の中だ。
実は、ICIJが入っている建物には、1階にヒンドゥー教の寺院もある。
エントランスの左側にある黒っぽい扉が寺院の入り口
扉右横のプレートには「サティア サイ 横浜センター」と書かれている。
このように、単なる経済的なつながりだけではなく、より深い人的・文化的交流にも力を注いでいるのが、現在のICIJであるようだ。
リトルインディアにレストラン街はあったのか?
中華街の近くに、かつてインド人が多くいたことはわかった。だがそこには、中華街のような飲食店が建ち並ぶまちは形成されなかった。それは、インド人たちが貿易業者として生計を立てていたからだろう。
しかしインド人が多ければインド料理の店も多いのが自然なはず。その点を尋ねると、ケマニさんは「元々インド料理の店はそれほど多くなかった」と言う。40年近くここに暮らす氏が言うのだから確かだろう。どうやらインド人は自宅でインド料理を作って食べていたようだ。外食が多い中国人との食文化の違いということか。
ケマニさんによれば、現在も山下町周辺には本格的なインド料理店は2軒ほどしかないという。そのうちの1軒をケマニさんに教えてもらった。
「スパイスマジックカルカッタ 横浜産貿店」外観
この店は水町通りにも山下公園通りにも面した産業貿易センタービルの地下1階にある。
下の地図からもわかる通り、山下公園内のインド水塔からもすぐそばだ。
(© OpenStreetMap contributors)
毎年、インド水塔での慰霊祭のあと、このインド料理店に関係者が集まり食事をするという。
この店の料理をいただきながら、近辺に広がっていたリトルインディアの世界にしばし思いを馳せてみるのもいいかもしれない(取材時は臨時休業中)。
取材を終えて
震災と戦争。歴史に翻弄されながらも繰り返し再生を遂げた日印の絆。そんな「横浜のインド人史」というテーマからは逸れるが、この時期だからこそあえて付記しておきたいことがある。
ICIJでは現在、「SDGs」の推進にも積極的に取り組んでいる。
2015年に国連で採択されたSDGsとは「Sustainable Development Goals」の略称で、2030年までに世界が達成すべき17の目標と169の達成基準から成る「持続可能な開発目標」だ。そこには貧困、飢餓、環境破壊など世界が共通に抱えるさまざまな問題が含まれている。
ディワリの会場にてSDGs活動の学生たちとケマニさん(写真提供:ICIJ)
折しも今、新型コロナウイルスの感染拡大に全世界が震撼するなか、人類の持続可能性がまさに問われている。この世界的な危機を乗り越えるためには、人々の生き方の大きな変革が必要にちがいない。そしてその変革がなされてこそ、SDGsが掲げるさまざまな目標も達成される日が来るように思う。
―終わり―
取材協力
公益社団法人在日インド商工協会(ICIJ)
住所/横浜市中区山下町24-2-306
電話/045-662-1905
http://www.icij.jp/
http://diwaliyokohama.org/
一般社団法人横浜インドセンター
住所/横浜市中区山下町2 産業貿易センタービル2階
電話/045-222-7300
http://www.yokohama-india.or.jp/
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
参考資料
『横浜におけるインド人のあゆみ』公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団発行(2013年9月刊)
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ねおクマさん
2020年05月11日 15時13分
ン十年前、ICIJ隣の上田ビルやその隣のインペリアルビルにバイト先の事務所があったのでその当時から気になってた事が分かってすっきりしました!
路地の錆びさん
2020年05月02日 22時42分
詳細な調査をありがとうございます。ICIJ隣接のインペリアルビルも同發菓子工場も好きな建物でよく近くを通りますが、探していたリトルインディアやその関係の建物のそばだったのですね。早くコロナが収束して、また水町通りや同發菓子工場、そしてインド水塔を興味深い思いでゆっくりと散歩したいです。
Kitkatさん
2020年05月02日 01時34分
昨年末、関内駅そばのモハンというインド料理店で妹とランチしました。さすが横浜ってなんでもありだね、と美味しくいただきました。その時のことを思い出しながら読み始めたのですが、フットワークの軽い取材に充実した内容、ライターは誰だろうとトップに戻って名前をみたら、やっぱり結城さんでした。