~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2012年1月12日 私がふくしまに暮らすということ (吉田麻里香)
Support for victims of the Tohoku earthquake
Feb 3rd, 2012 by Senrinomichi
http://www.senrinomichi.com/?p=4482&lang=ja
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【引用開始】
・・・略・・・
私は今までずいぶん日本の中にある沈黙を理解することについて書いてきたけれども、麻里香さんのこの文章のおかげで少しよくわかるようになるかもしれません。
・・・略・・・
今度はこの麻里香さんの文章をシェアしたいと思います。どなたかこの文章を他の言語に訳すのに協力して下さる人がいれば、senrinomichi23@gmail.com にメッセージをくださるか 千里の道のFacebook pageにコンタクトしてください。 以下麻里香さんのノートです。
――――――――――――――――――――――
このノートは、原発事故から10ヶ月目にあたる1月12日に記したものです。
・・・略・・・
私は福島県在住ですが、「比較的」放射線量の低い地域に住んでいます。私より危険な地域で暮らすことを選んでいらっしゃる方、余儀なくされている方は多数おられるでしょう。このノートを読んで、もしかしたら「『安全な』地域に住んでいるくせに」「過剰反応してるのではないか」という感想を持たれ、不愉快になる方もいらっしゃるかもしれません。その場合は、そっとこのノートを削除してください。
いくら「安全」と言われても、私は怖い。私は怒っています。そして私は不安です。それはおそらく放射線量が高いから/低いからというだけの問題ではなく、「事実」として提示された情報が何度も覆されたことによる恐怖や怒りや不安です。その率直な気持ちは、誰が否定しても私の心の中に存在しているのです。そして、その感情を認めてこそ、いつかしっかり昇華できるものと信じています。
…………………………………………
ふくしまで暮らす、ということ。
わたしが、ふくしまで暮らすということ。
わたしにとって、ふくしまで暮らすということ。
たとえば、朝起きて窓を開けて深呼吸する習慣がなくなったこと。
たとえば、洗濯物を外に干せないということ。
たとえば、庭の畑で採れた野菜を捨てるということ。
たとえば、私が何も言わなくても線量計とマスクを身につけて外出する娘の姿に胸がチクっと痛むということ。
たとえば、この真っ白な雪に触れられないということ。
たとえば、「がんばろう福島」のスローガンに時々微かな苛立ちを感じるということ。
たとえば、いつのまにか呼吸が浅くなっているということ。
たとえば、福島に住んでることを誰かに話すとき、「でもうちはまだ線量が低いから…」ときかれてもいないのに説明してしまうこと。
たとえば、ふくしまには福島とFUKUSHIMAがある、と感じること。
たとえば、ふくしまに「とどまれ」と言われると「人の命をなんだと思ってるんだ!」と言いたくなり、「避難しろ」と言われると「そう簡単に言うな!こっちにも事情があるんだ!」と言いたくなってしまうこと。
たとえば、6歳の娘が将来結婚できるかが今から心配になってしまうこと。
たとえば、ふくしまに住んでいるという選択の責任を放棄したくなること。
たとえば、わたしたちの日常が誰かの犠牲と努力によって保たれている薄氷のような「安全」の上に成り立っているという当たり前の現実を、毎朝腹の底から理解するということ。
たとえば、明日にはこの家を遠く離れるかもしれない、と毎晩考えること。
たとえば、それでも明日もこの家で暮らせますように、と毎晩祈ること。
とにかく、娘の健康と幸せを祈ること。
あの黒煙が脳裏から離れないこと。
それでも、毎日をそれなりに楽しく暮らしていることを、誰かにわかってほしいということ。
毎日、怒ること。
毎日、祈ること。
ふくしまを代表するつもりも代弁するつもりもありません。これがわたしの、わたしだけのふくしまで暮らすということ。
今日が、ふくしまにとっての10ヶ月。
【引用終了】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
複合発酵材を山林に散布、放射線量が大幅低下の現場見学(エコロジーな日々)
http://blog.livedoor.jp/somali.....74119.html