原水禁とは - 原水禁

2020年05月01日

1.原水禁とはなにか?(原水禁の組織と活動)

原水禁は正式名称を原水爆禁止日本国民会議といい、1965年に結成された日本でもっとも規模の大きな反核、平和運動団体の一つです。全国の47都道府県のすべてに県原水禁組織があり、労働組合、青年団体など25の全国組織が加盟しています。(2001年1月現在)日常的に様々な市民団体や被爆者団体、労働組合、政党などと連携しながら活動しています。また、1999年10月22日には、「憲法擁護・平和・人権フォーラム」と「食とみどり・水を守る中央労農市民会議」が合流し、原水禁国民会議が団体加盟して、「フォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)」を結成しました。

とくに、毎年3月(1954年に「第五福竜丸」がビキニ環礁の核実験で被爆した)には、静岡で「3・1ビキニ・デー」の集会を開き、8月(1945年に原子爆弾を投下された)には、広島と長崎で原水爆禁止世界大会を開催しています。このほか日常的に様々な活動を行なっています。世界の反核運動の仲間との国際連帯の活動、反核・平和を訴えるキャンペーン活動、脱原子力の社会をめざす様々な取り組み、被爆者の救援活動などが活動の中心です。

2.ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ(原水禁運動の歩み)

1945年8月、広島と長崎に相次いで原爆が投下されました。熱線・衝撃波・放射能によって、広島・長崎の都市は廃墟となり、数十万人の住民(日本人だけではありませんでした)が被爆しました。死者の正確な数はいまだに不明ですが、多くの被爆者が放射能障害でその後も亡くなっていきました。犠牲者は被爆直後から、苦しいうめきの息の下から、残虐な原爆の廃絶を訴えてきました。しかし敗戦後日本はアメリカの占領下に置かれて、原爆の報道は禁止され、広島・長崎の被爆者の原爆をなくせの声は日本国内でさえあまり知られていませんでした。

日本の原水禁運動が誕生した直接のきっかけは、1954年3月1日のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験でした。このとき、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」に死の灰が降りかかり、乗組員23人が急性の放射線障害にかかります。第五福竜丸以外の付近で操業していた他の漁船の多くも被災し、毎日、陸揚げされた魚の放射能が測定され,次々に廃棄処分にされました。この様子は連日報道され、国民全体に大きなショックを与えたのです。こうした中で、原水爆の禁止を求める署名運動がはじまり、それはたちまち野火のように全国に燃え広がります。全国津々浦々の町、村、職場で「核実験反対」や「核兵器反対」の決議がされました。町内会、青年団、婦人会などの保守的なグループが署名運動の先頭に立ち、そこに労働組合や革新政党なども加わる文字通り全国民的な運動として展開されたのです。

広島・長崎の被爆者の原爆をなくせという声と悲惨な被爆の実態が、この署名運動の過程を通じて国民に伝えられ理解されていきます。ビキニの被災によって巻き起こった「死の灰」への恐怖に、広島・長崎の悲惨な状況を知ることによって強まった反戦感情が結びついて、強力な原水禁運動として爆発したのです。

ところが革新勢力の運動の高揚や東西対立の激化などを背景に、「平和の敵・アメリカ帝国主義の打倒」、「平和を守るソ連社会主義の核兵器・核実験支持」、「軍事基地反対、民族独立、安保反対を中心課題とせよ」といった主張をする勢力が原水禁運動を牛耳ろうとしました。運動に参加する幅広い層の「いかなる国の核実験・核兵器にも反対する」との要求や意見と真っ正面から対立し、それまでの原水禁運動の組織(原水協)は大きく混乱し停滞して、1963年夏の長崎大会はついに中止となり、組織は分裂しました。

そうした中で、「いかなる国の核実験にも反対」する確固たる信念をもった広範な層が集まって、1965年2月、「原水禁(原水爆禁止日本国民会議)」を結成しました。世界の平和運動家バートランド・ラッセルなども「いかなる国の核兵器にも反対する運動でなければ平和運動ではない」と主張して原水禁の見解を支持してきました。

3.核と人類は共存できない(原水禁の主張)

原水禁の運動は、核実験反対と核兵器廃絶・被爆者の救援といった当初の課題にとどまらず、いまでは原子力の「平和利用」も含めた、あらゆる「核」に反対する運動へと広がっています。結成時から長く原水禁の精神的な支柱であった、故森滝市郎原水禁議長の「核と人類は共存できない」という言葉に象徴されるように、私たちは人間と「核」が絶対に相容れないものであるという立場に立っています。核兵器であれ、発電用の原子力であれ、私たちはあらゆる「核」を完全に否定しているのです。

核兵器の廃絶をめざして

現在、私たちの核兵器の廃絶を求める運動にとって、またとない機会を迎えています。国際司法裁判所が核兵器が国際法に違反するという勧告的意見を示し、私たちの長年の要求であった包括的核実験禁止条約が成立しました。以前からの反核運動の仲間だけでなく、これまで核政策の中心にいた人々の中からも核軍縮を求める声があがっています。核兵器への包囲網がかつてなく強まっているいまこそ、私たちのもつ力のすべてを注いで核兵器廃絶へ向けた動きを一歩でも二歩でも進めていきたいと考えます。

脱原発の世界をつくる

チェルノブイリ原発の事故を見ても明らかなように、原子力を利用した施設ではひとたび事故がおこると、莫大な被害をもたらします。いかなる安全対策を施したとしても人間が動かすものである以上、絶対に安全ということはあり得ません。技術を過信し、原子力を人間が完全に制御できるという傲慢な発想に対して、私たちは警鐘を鳴らしてきました。とくに日本では、危険なプルトニウムを利用した核燃料サイクル計画が強引に推し進められようとしており、私たちはこれに強く反対し、脱原発の世界をつくりたいと考えています。

ヒバクシャとの連帯

現在、世界には多くのヒバクシャが存在し、その数は2500万人以上に及ぶといわれています。広島・長崎のヒバクシャは半世紀をへてなお後遺症害に苦しんでいます。その一方でチェルノブイリなど原発の事故によるヒバクシャ、ウラン採掘地周辺や核実験によるヒバクシャ、核兵器の開発にともなうヒバクシャなど、新たなヒバクシャも大勢生み出されてきたのです。私たちは世界のヒバクシャとのネットワークを強化し、世界の反核・非核を願う人々との共同行動を追求しながら、核のない世界をつくりたいと考えています。

原水禁のシンボルマーク

 原水禁のシンボルマークは、広島市平和公園の慰霊碑を参考に、粟津潔さんが1966年にデザインしたものです。1929年東京生まれの粟津さんは、日本におけるグラフィック・デザインの基礎を築いた人として著名ですが、絵画、ポスター、版画、建築、音楽、映像、演劇など、その関心と思考の幅は広く、表現の境界を越えて、現在も第一線で活躍されています。

原水禁が1965年に発足して以降、多くの文化人が賛同し、関わってきました。原水禁大会で林光さん作曲の「原爆小景」が演奏されたこともあります。粟津さんも原水禁の趣旨に賛同して、このデザインを制作されたのです。このマークは66年の世界大会で紹介され、以来、原水禁のシンボルマークとなりました。

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原水爆禁止日本国民会議
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原水禁国民会議の役員体制・参加団体

役員紹介(2024年4月26日現在)

共同議長 川野浩一(長崎原水禁)
金子哲夫(広島原水禁)
染 裕之(平和フォーラム共同代表・自治労)
副議長 西尾 漠(専門委員・原子力資料情報室)
事務局長 谷 雅志(平和フォーラム事務局長・日教組)
副事務局長 田中直樹(平和フォーラム副事務局長・自治労)
事務局次長 大瀬敬昭(広島原水禁)
平野忠司(長崎原水禁)
橋本麻由(平和フォーラム)
山本圭介(平和フォーラム)
顧問 秋葉忠利(広島原水禁・元広島市長・元平和市長会議議長)
藤本泰成(元原水禁共同議長)

参加団体

アクセス

所在地

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