被災71周年3.1ビキニ・デー全国集会を開催しました
2025年03月04日
原水禁は2月28日、静岡市・静岡労政会館ホールにて「被災71周年3.1ビキニ・デー全国集会」を開催し、全国から約180人が参加しました。
本集会は渡邊楓花さん(静岡・高校生1万人署名活動メンバー、2023年長崎派遣代表)と江﨑稟真さん(大学生、高校生1万人署名活動学生サポーター)が司会を務めました。
はじめに、染裕之・原水禁共同議長が主催者あいさつを行いました。ウクライナやパレスチナなどの状況に触れ、核使用の危険性が高まっていることを指摘。また、3月3日から開催される日本政府の核兵器禁止条約(TPNW)締約国会議への不参加決定を批判し、原水禁運動の真価が問われているとしました。
また、開催地・静岡を代表して静岡県平和・国民運動センターの福井淳会長があいさつ。ビキニ事件とその被害の経過を振り返りました。核なき世界を実現することは次代への私たちの責務とし、そのためにしっかりとりくむ決意を述べました。
原水禁共同議長である金子哲夫さんから「被爆80年・核兵器廃絶のために 原水禁運動に歴史に学ぶ」と題した講演を受けました。原水禁運動はビキニ事件を契機に始まり、広島・長崎の被爆から約10年のブランクがあります。それは米軍のプレスコードによって広島・長崎の被害の実態が隠されていたことが大きな原因ですが、第1回原水爆禁止世界大会で被爆者自身が被爆体験を語ったことで、被爆の実相が全国各地の市民に受け止められ、核兵器廃絶と被爆者救済が運動の柱となりました。
そのことを原水禁運動の原点として確認しつつ、その後の運動の歴史について解説しました。そのなかで重要な意味を持つ出来事のひとつが、マーシャル諸島の被災者との出会いでした。日本だけが「被爆国」ではないことにくわえ、核実験やウラン採掘によって先住民族など弱い立場にいる人たちに核被害が集中している現実に直面することになりました。その中から「核と人類は共存できない」という核絶対否定の理念を確立していった経過が説明されました。
冷戦以降一貫して数としては核兵器が減少しているようにも見えますが、実戦用に配備されている数を見ればこの間はむしろ増加しています。ロシア・ウクライナ、イスラエル・パレスチナなど核と戦争をめぐって世界は厳しい状況ではあるが、いのちの尊厳をうばい核兵器使用に繋がる戦争を否定する「ヒロシマの心」に立脚して運動を強化することが私たちの課題だとしました。とりわけ自治体決議や署名運動などをつうじて日本政府のTPNW参加を迫っていくことが重要だと述べました。
世界の核被害者と連帯しすべての被害者の救済を実現していくことの必要性、「被爆者援護法」を国家補償法へと改正していくことの意義、そして加害の歴史と責任をしっかりと追及していくことの重要性などを語り、市民一人ひとりの力は弱くとも、世界の人びとと連帯し核廃絶に向けてあきらめず声を上げ続けることを呼びかけました。
つづいて第五福竜丸漁労長だった故・見崎吉男さんのご遺族、杉山厚子さんからの講話がありました。見崎さんは漁業界や地域社会からは不幸を持ち込んだとして冷遇され、マスコミから事実に基づかない批判を受けた経験から、たいへんな苦悩を抱え込み、長年その体験を語ることがありませんでした。
2001年、大学での公開講座をきっかけに見崎さんは被爆証言を語るようになりましたが、その際も必ず謝罪のことばを述べていたと言います。そのことは見崎さんが心にため込んだ悲しみや苦しみの深さを物語っています。杉山さんは父である見崎さんの思いを引き継ぎ、証言活動を行ってきました。家族として見守ってきた見崎さんの姿や核廃絶への思いについて語られ、最後に見崎さんの墓碑に刻まれた自作の詩を紹介されました。
「だれにだって 風の日も雨の日もあらしの日だってあるさ 大切なのは夢をしっかり抱きしめて いのちいっぱい生きたか 波のように何度でも立ち上がったかだ」
会場では「ビキニ市民ネット焼津・かまぼこ屋根の会」が、見崎さんの写真や見崎さんの遺志を継いでマーシャル諸島を訪問した際の写真などを展示しました。
静岡選出の高校生平和大使(第27代)の谷河優那さん、粂田陽菜さん、水野可麗さんから活動報告やそれぞれの思いについて発言。この1年間、ジュネーブや広島・長崎への派遣のほか、日々署名活動を重ねてきました。とくに小学校での平和の授業での講師を務めたことを報告し、そのときに合唱した「千羽鶴」を披露。歌詞の「鶴を折る」の部分では、参加者もいっしょになって手話で表現しました。
司会から本集会に鈴木康友さん(静岡県知事)、難波喬司さん(静岡市長)、中野弘道さん(焼津市長)、市田真理さん(公益財団法人第五福竜丸平和協会事務局長)、デスモンド・ドラチョムさん(マーシャル諸島・REACH-MI研究部長)からメッセージが寄せられていることが紹介されました。
静岡県平和・国民運動センター幹事の坂本恵久さんが集会アピールを読み上げて提案、全体で確認し、集会を終えました。(メッセージおよびアピールは本記事に掲載しています)
翌3月1日、久保山愛吉さんのお墓のある焼津市・弘徳院で墓前祭を開催しました。染・共同議長と地元・志太平和フォーラム代表の中山亜樹彦さんがあいさつ。その後参加者全員で久保山さんのご冥福をお祈りしました。墓前に花束と線香を捧げるとともに、核廃絶に向けた決意をあらたにしました。
集会へのメッセージ
鈴木康友さん(静岡県知事)
「被災71周年3・1ビキニデー全国集会」の開催に当たり、原水爆の犠牲となられた方々に謹んで哀悼の意を表します。
静岡県では、県及び全ての市町が非核宣言を行っており、核兵器の廃絶と平和な世界の実現は県民共通の願いであります。
私は、県民の思いを大切にし、誰もが安心して暮らすことのできる、平和で豊かな“幸福度日本一の静岡県”の実現に向けて、全力を尽くしてまいります。
本日の集会が、県民、そして人類共通の願いである核兵器のない、戦争のない平和な世界の実現に向けて大きく寄与されますことを、心から祈念いたします。
難波喬司さん(静岡市長)
被災71周年3・1ビキニデー集会の開催にあたり、原水爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げますとともに、多くの方々の御支援・御賛同のもと開催されますことをお慶び申しあげます。
世界における核兵器廃絶に向けた気運がこれまでになく高まってまいりましたのも、皆様の不断の取り組みがあってこそと、深く敬意を表し、衷心より感謝いたします。
本集会がビキニ被爆の実相を内外に広く伝え、核兵器の非人道性を強く発信し、世界を恒久平和へと導く大きな力となりますことを心より祈念いたします。
中野弘道さん(焼津市長)
「被災71周年3・1ビキニデー全国集会」が開催されるにあたり、焼津市民を代表してメッセージをお送りいたします。
太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁での米国の水爆実験により、マーシャル島民や近海で操業していた多くの船や船員が被災してから、本年で71年が経過しました。
また、昨年は、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞されました。改めて受賞をお祝い申し上げます。
このことは、世界各国の多くの人たちの核兵器廃絶運動の機運を高めたものと思います。
「核兵器のない世界」の実現は、私たちの共通の願いでもあります。
焼津市では、毎年6月30日に核兵器廃絶と恒久平和の実現を訴える「市民集会」をはじめとした平和推進事業を通じて、焼津市民が平和を愛する心を持ち、後世に語り継いでいくよう取り組んでおります。
また、本市が加盟しています平和首長会議、非核宣言自治体協議会の一員として、共に平和運動を展開し、世界平和の実現のため、引き続き取り組んでまいります。
結びに、皆様方の活動が、「核兵器のない世界」の実現につながりますことを念願いたしますとともに、御参加の皆様の御健勝と御活躍を心からお祈り申し上げます。
市田真理さん(公益財団法人第五福竜丸平和協会事務局長)
被災71周年 3・1ビキニデー全国集会 ご参集のみなさまへ
連帯の挨拶をおくります
核と人類は共存できない。その信念を持ち、被災71周年3・1ビキニデー全国集会にご参集のみなさんに、連帯のご挨拶を申し上げます。そして今なお苦しむ、世界のヒバクシャに心から連帯の想いを伝えます。
1954年3月1日、日本のマグロ漁船・第五福竜丸がアメリカの水爆実験ブラボーに遭遇し被災しました。実験場から160km離れていたにもかかわらず、第五福竜丸には放射性降下物=死の灰が降り注ぎました。23人の乗組員たちは頭痛、吐き気、放射線火傷、脱毛などの急性症状に見舞われ、半年後には無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。その後ほとんどが20代の乗組員のみなさんも、人生を狂わされ、自らの苦しみを口に出せないまま亡くなっていきました。
しかし、被害は第五福竜丸だけではありません。
核実験場にされたマーシャル諸島には深刻な健康被害と環境破壊が遺されました。
操業中の多数の漁船や航行中の貨物船にも死の灰は降ったのです。しかも太平洋での核実験はその後も続けられ、「核の海」で生き、仕事せざるを得ませんでした。
生活と命を脅かす核実験に対し、不安と憤りから始まった原水爆禁止署名運動は、やがて原爆被害者たちの背中を押し、日本原水爆被害者団体協議会結成へとつながっていきました。昨年、その日本被団協にノーベル平和賞が授与されたことは、核をめぐる世界への警告にほかなりません。
その重みを心に刻んで
第五福竜丸は 核のない未来に向かって いまも 航海中です。
デスモンド・ドラチョムさん(マーシャル諸島・REACH-MI研究部長)
YaKwe Aolep(マーシャル語で「みなさん、こんにちは!」)
太平洋の真ん中にあり、国の99.99パーセントが海であるマーシャル諸島共和国からご挨拶を申し上げます。「Pacific」は平和を意味し、太平洋は世界の3分の1を占めています。マーシャル語で平和を意味する⾔葉は“Aeineman-Ae”であり、Aeは「流れ」、inは「ために」、emanは「良い」を表しており、これは平和な流れを意味しています。今日の世界において、核問題ほど私たちの平和を脅かすものはありません。先日行われた⽇本の高校生平和大使とREACH-MI、CMI原子力研究所、CMI太平洋研究所の学生たちとの異⽂化交流では、私は、善意と連帯を認識することを通じて平和を理解すること、そしてCMI核研究所の所長であるケネス・ケディ教授が「平和な太平洋とは核兵器のない太平洋であることを常に意味する」といった雄弁で示したような、私たちの目下の現実よりも良い定義を明確にすることを通じて、平和を理解するようになりました。
マーシャル諸島は、日本と同様、核兵器の被害がどのようなものかをよく知っています。3月1日の「核被害者追悼の日」は、それを思い起こさせてくれます。核兵器は、たとえ原子力エネルギーによる民生用であっても、数年前の福島原子力発電所の事故と同じ致命的な運命をたどるのです。私はこのことを、太平洋のピースボートにミシェル・アラキノを中⼼とするフランス領ポリネシア・タヒチの仲間たち、エネ・ウェタク族長のもとで2人の男の⼦を育てるブルック・タカラ、核問題を専門とする日本人ジャーナリスト高瀬剛さん、シンガポールのアンジェリ・ナランドランさんを中⼼とするピースボートの担当者、そしてREACH-MIの⼤切な仲間たちと一緒に参加して学びました。
核のない世界のため、市⺠社会の行動に関する5つの提⾔が太平洋平和フォーラムから発表され、多くの進展がありました。これまでと同じように私達が闘い続けていくことをお願いしたいと思います。提⾔は以下の通りです。
私たちは次のことを続けなければなりません。
1)「原子力災害の撤廃、リスク削減、対応、復興に関する行動の太平洋規模の枠組み」を策定する。これは以下のことを含みます
-ロビー活動およびキャンペーン
(核災害のリスク削減や対応の重要性を訴えるための政治的・社会的な働きかけ)
-脅威の指標の特定とコミュニティの回復力の向上
-対応の実施要項
(核災害が発生した際の具体的な対応手順の策定)
-再定住の実施要項
(被災者の避難や移住の手続きの明確化)
-土地利用の再考を含む経済復興の実施要項
(被災地の経済を復興させるための⽅法を検討し、新しい土地利用のあり方を考える)
-調査の実施要項
(核災害に関する研究を進めるためのルールや指針を整備する)
-人権の監視
-フィードバック回路
-第三者によるモニタリングと評価の枠組み
2)すべての人がアクセスできる原子力災害とその影響に関する知識の国際的な保管場所を作る。私達は以下の事を継続しなければなりません
-現在進行中の調査からデータを収集する。
-世界中で行われているさまざまな法的手続きに関する情報を収集する。
-損害の補償と収益化に関わる判例に関する情報を収集する。
-科学的医学的知見に関する情報の収集
-さらなる共同研究のためのプラットフォームの提供
3)原発災害と原子力発電所の苦境に関する直接の記憶の国際的な保管場所を作る。原子力災害と原子力被害を受けた地域社会の苦境に関連する一次記憶の国際的な保管場所を作る。
-視聴覚資料のアーカイブ化
-被爆者・被災者の証言の収集
4)SDGsに沿った、原子力問題に関する公式/非公式のカリキュラムを開発
-科学
-核の歴史
-影響を受けたコミュニティのストーリー
-⼈道的・環境的影響
-⽂化的損失とその他の無形の影響
5)オンラインの反核活動プラットフォームを開発し、促進する
-情報共有
-共同行動
-議論
-メディアへのアクセスと影響
-ロビー活動およびキャンペーン
-資金調達
-国際協力と連帯
6番目の、そして最後の提言として、私は、私たち全員が私たち自身に優しくなり、私たちのこれまでの長い道のりを評価するようお願いします。私たち自身、そして、核エネルギーと核爆弾の惨禍に苦しむ人々のため、祈りを捧げ続けてほしいのです。
Kommol Tata(マーシャル語で「ありがとうございます」)
被災71周年3.1ビキニ・デー全国集会アピール
1954年3月1日、アメリカによるビキニ環礁での水爆実験によって、「第五福竜丸」をはじめとする日本の漁船が被爆し、「第五福竜丸」乗組員であった久保山愛吉さんは原爆症との闘病の末、亡くなりました。この被害に対する衝撃を契機に、原水爆禁止署名運動が全国に拡がり、これが現在まで続く原水禁運動の出発点となっています。
1956年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成され、被爆者援護の実現を求めるとともに、被爆の実相の証言を国内外で積極的に積み重ねてきました。そして2024年にはこれまでの活動が評価され、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。核の非人道性を国際的に明らかにしてきた日本被団協のとりくみに心から敬意を表します。
私たちもこれまで、「被爆者の救済なくして核廃絶なし」「核廃絶なくして被爆者の救済なし」、そして「核と人類は共存できない」のことばを原水禁運動の基礎に据えながら、核廃絶にとりくんできました。それにもかかわらず、被爆から80年を迎える2025年、核なき世界の実現にいまだ至らず、むしろ核兵器使用のリスクが高まり続けています。核兵器の小型化や高性能化、核弾頭の増強、そして核兵器使用の威嚇が行われています。
こうした状況のなかで、被爆者の皆さんは日本政府に対し、核兵器廃絶に向けとりくむことを求め続けています。そのひとつが核兵器禁止条約(TPNW)に対する態度変更です。
日本政府はTPNWへの署名・批准どころか、締約国会議へのオブザーバー参加すら拒んできましたが、被爆者をはじめとした多くの市民の声をまえに、石破首相がオブザーバー参加の検討を口にするなどし、この3月にニューヨークで行われるTPNW第3回締約国会議へのオブザーバー参加が焦点となってきました。しかし、調査・検討を理由に態度をあいまいにしてきた挙句、2月18日、日本政府のTPNW第3回締約国会議への不参加を決定しています。
岩屋外務相は核兵器国を交えずに核軍縮を進めることは難しいとか、オブザーバー参加が日本政府の核抑止政策について誤ったメッセージを与えるおそれがあるなどと述べていますが、「核保有国と非保有国の橋渡し役」を自任するならそのためにも積極的に参加すべきです。そして、本当におそれるべきは戦争被爆国日本が核兵器廃絶に向けた努力に対し、ネガティブなメッセージを発信することではないでしょうか。
不参加決定は残念ですが、私たちはあきらめたり、歩みを止めることはありません。私たちはあらためて日本政府が核抑止論から脱却し、核兵器廃絶に向けた具体的な行動にとりくむことを求めます。日本政府のTPNWに対する態度をあらためさせることが、世界の核軍縮、ひいては核兵器廃絶に向けた動きに大きな弾みをつけることになることを確信し、日本全国で行動し、核廃絶を願う世界の人びととの共同を切り拓いていきましょう。
久保山愛吉さんは「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」とのことばを残し亡くなりました。久保山さんをはじめとするすべてのヒバクシャの核廃絶の願いを胸に刻み、核も戦争もない世界に向け、原水禁運動を大きく前進させる決意を確認しあい、本年のビキニ・デーにあたってのアピールとします。
2025年2月28日
被災71周年ビキニ・デー全国集会