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松菊木戸孝允(桂小五郎)

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/12(金) 04:43:58.89 ID:WZT71IFC0.net
木戸孝允のスレ復活

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/29(土) 03:43:14.36 ID:EUAhQkl80.net
桂の師匠は
斎藤弥九郎、江川英達、中島三郎助のイメージ

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/29(土) 19:49:03.72 ID:YFYDe0KJ0.net
>>121
まあ、自分の理解を超えたら全てAIと思う老害でしたと。
もっと勉強しようね、知ったかぶり丸出しは恥ずかしいよ。お爺ちゃんw

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/29(土) 21:55:56.92 ID:OppbW9VA0.net
>>124
弟子総出で止めてるよ
松陰に絶交宣言されたけど

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/06/30(日) 16:41:24.26 ID:dgESEeIq0.net
>>127
松陰が耳を傾けて言うことを聞いたのは木戸だけなんだよねえ

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/03(水) 10:17:09.68 ID:C/AfhxsP0.net
小五郎が吉田松陰に師事したというソースを要求するようなヤツがいるとは草

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/03(水) 19:53:38.91 ID:okOxB6Lu0.net
昨今はWikipediaすら読まないでAIが生成した出鱈目だらけの文章しか読まない奴がいるからな

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 06:42:11.70 ID:9Dvg40xF0.net
醒めた炎読んだけど、吉田松陰は伊藤と一緒に
亡骸を引き取りに行って弔ったぐらいしかイメージない。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 09:32:11.00 ID:wJCj627+0.net
醒めた炎には
「小五郎の藩校時代の旧師、吉田大次郎(松陰)も江戸に来て」
とあって、これが松陰について触れた最初の記述だね

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 09:39:59.77 ID:wJCj627+0.net
木戸孝允文書には松陰との手紙もあるし

松陰は木戸を「事をなすの才あり」と評したし

小五郎が村田蔵六と連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」(ただし、
この場合の竹島は現在で言う鬱陵島)は、松陰の竹島開拓論が原型だし
https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-o.html

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 09:42:30.80 ID:wJCj627+0.net
ソースを要求する前に、wikiに載っていることくらいは勉強してほしいよね

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 09:53:17.28 ID:wJCj627+0.net
松陰との関係に深さは感じられんとか、勉強不足なだけだろ

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 09:58:26.40 ID:wJCj627+0.net
松陰が密航に失敗した後、小五郎が来原良蔵とともに藩に海外留学願いを出しているんだぞww

熱血師弟そのものだww

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 10:03:08.84 ID:wJCj627+0.net
そういう歴史の流れがあるから、長州ファイブの密航が藩に認められたんだよ

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 10:07:01.81 ID:wJCj627+0.net
松陰がやろうとしたことは失敗ばかりだったけど、小五郎や塾生らの長州藩士がちゃんとその遺志を継いだんだよ

深みが感じられないどころか、深すぎて驚くことばかりだよ

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/04(木) 23:01:09.17 ID:3yT4GI1S0.net
京都ホテルオークラは、江戸時代には長州藩邸が置かれていた場所にあります。ホテルの西側には、桂小五郎像が立っています。

桂は吉田松陰の門下生であり、長州藩における討幕派の中心人物でした。池田屋事件では難を逃れ、禁門の変では危機を乗り越え、芸妓の幾松(のちの妻)の助けも借りて、一流の剣客でありながら人を斬らずに生き抜いたという話は有名です。慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結されましたが、この成功には桂の力が大きく貢献しました。

維新後は木戸孝允と改名し、新政府で参議として版籍奉還や廃藩置県など、数々の重要事業に尽力しました。しかし、大久保利通と対立し、明治10年の西南戦争では「西郷いいかげんにしろ」という有名な最後の言葉を遺し、国を憂えて戦中に京都で病死しました。享年44歳。維新の功労者でありながら、畳の上で亡くなった数少ない人物の一人です。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/05(金) 04:04:49.70 ID:C9WkNoKi0.net
>>139
改名は維新前な
AIは駄目だな

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/05(金) 20:51:17.93 ID:dzQ9glFZ0.net
https://i.imgur.com/RiW8ae8.jpg
すぐ2500P+2500P手に入ります

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/05(金) 23:49:13.17 ID:08hTTtF90.net
>>140
よくもまあ、そんなウソを堂々と
お前あれだろ? あちこちでAI指摘してる風で、荒らししてるやつだろ?
やめとけよ、ウザいから

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/06(土) 00:29:40.66 ID:bGNS40620.net
Wikipediaに

「前述の通り国泰寺会談において毛利側の吉川が幕府側の永井に桂小五郎と高杉晋作は死去したと言明したため、公には利用出来なくなる。「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2年)に藩主・毛利敬親から賜ったものである。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)だった」

って書いてあるだろ
慶応2年(1866年)に藩主の命で「桂小五郎孝允」から「木戸貫冶孝允」に改名している(その後「木戸準一郎孝允」に)
木戸のWikipediaすら読まない奴が木戸のスレに来んなよ・・・

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/06(土) 00:37:00.25 ID:+05RmFJ50.net
>>142
お前近代史板のあちこちのスレにAIからコピペしたデタラメな文章を貼り付けてるキチガイだろ
AIで生成した誤謬だらけの文章なんて自分で二重チェックしないと使えたもんじゃないのを「学習」したほうがいいぞ

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/06(土) 04:07:40.27 ID:P9X4tTzJ0.net
逃げの小五郎よお!!

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/06(土) 08:41:53.54 ID:aGwqJ45f0.net
攘夷思想に燃える河上彦斎の情熱は、まさに尋常ではないものだった。しかし、その頑固な姿勢は、明治維新政府樹立後、問題視されることになる。

明治4年(1871)11月、岩倉使節団に加わって海外渡航を控えた木戸孝允(旧名:桂小五郎)は、裁判官の玉乃世履を呼び寄せ、次のように告げたという。「河上彦斎は一代の豪傑ではあるが、依然として攘夷論を頑なに唱え続けている。いずれ国家に害毒をなし、文明の妨げとなることだろう。私が帰国する前に、河上を処断しておいてくれ」と。(河上彦斎言行録より)

新生日本を守るためとはいえ、木戸の決断は非情なものだった。この時、彦斎はすでに参議・広沢真臣暗殺の嫌疑で投獄されていたが、玉乃は彦斎の死刑を忍び難く、最後の説得を試みた。しかし、彦斎はついに翻意することはなかった。そして、翌12月4日、最後まで攘夷志士として生きた彦斎は、小伝馬町の刑場で処刑されたのだった。




たまに騒いでいる>>144のID:+05RmFJ50は、自分が荒らしになってる事に気づいていない、ただの阿呆なんだろうなと思う。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/07(日) 22:09:45.00 ID:VqCU7bDK0.net
>>141
試してみる価値があると思うな

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/09(火) 04:33:30.24 ID:8R259Ku60.net
そうかお

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/11(木) 03:46:41.28 ID:v5WQ4vQg0.net
きどこういんこういん

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/18(木) 04:12:27.66 ID:50yHWqHW0.net
こごろう

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/18(木) 20:08:21.81 ID:KYnqu8TH0.net
>>146
河上に鼻つままれ持ち上げられた木戸が恨んだんだろ

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/19(金) 16:14:10.96 ID:U9paR2TV0.net
>>143
あちこちのスレにAIからコピペしたデタラメな文章を貼り付けてるキチガイだろ
AIで生成した誤謬だらけの文章なんて自分で二重チェックしないと使えたもんじゃないのを「学習」したほうがいいぞ

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/07/27(土) 05:16:47.03 ID:AtmBeoHK0.net
木戸こそ維新リーダー

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/03(土) 04:58:07.17 ID:igmXvE030.net
真の英雄

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 12:09:42.67 ID:GqGWddIk0.net
sage推奨。荒らし、コピペ、脱糞行為、sage行為は華麗にスルーしましょう。
幕末・明治に関する小説、テレビドラマ、映画の話題も大歓迎です。
木戸孝允周辺の人々に関する話題も積極的に議論しましょう。

木戸孝允に興味を持った方は、以下の文献を参考にしてみてください。

松菊木戸公傳
木戸孝允日記
木戸孝允文書
木戸孝允遺文集
木戸孝允関係文書

これらの文献は、多くの大きな図書館に所蔵されています。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 12:10:33.54 ID:GqGWddIk0.net
松尾正人『木戸孝允』は読んでいるという前提で話を進めます。

木戸の名前を冠した文献としては、以下のものが挙げられます。

長井純市「木戸孝允覚書─分権論を中心として─」『法政史学』第50号、1998年
森川潤『木戸孝允とドイツ・コネクションの形成』広島修道大学研究叢書第93号、広島修道大学総合研究所、1995年
内山京子「木戸孝允と明治初期の新聞界」『日本歴史』12月号、吉川弘文館、2008年
五十嵐暁郎『明治維新の思想』世織書房、1996年(収録の木戸孝允論はおすすめ。この部分のみネットでも読めるので検索してみてください。)
落合弘樹「国家構想の展開と木戸孝允─往復書翰から見た木戸孝允と井上馨─」『明治大学人文科学研究所紀要』第64号、2009年(これも検索すれば読めます。)

木戸に関する興味深い論文が掲載されていると思われる文献としては、以下のものが挙げられます。

松尾正人『廃藩置県 近代統一国家への苦悶』中公新書、1986年
松尾正人『維新政権』吉川弘文館、1995年
松尾正人「明治初年『新聞雑誌』の廃藩論」『中央史学』第19号、1996年
松尾正人「山口藩知事毛利元徳の辞職「上表」」『中央大学文学部紀要』第168号(史学科42号)、1997年
家近良樹『幕末政治と倒幕運動』吉川弘文館、1995年
芳賀徹 編『岩倉使節団の比較文化史的研究』思文閣出版、2003年
沼田哲 編『明治天皇と政治家群像─近代国家形成の推進者たち─』吉川弘文館、2002年
高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年
高橋秀直「廃藩政府論─クーデターから使節団へ─」『日本史研究』356号、1992年

青山忠正の薩長盟約に関する論文の所在は忘れましたが、おそらく他の文献で引用されているはずです。

1980年代後半以降の、明治初期政治史に関するまともな論文集であれば、たいてい木戸に関する記述が含まれています。ぜひ様々な文献を読んでみてください。

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 12:12:44.18 ID:GqGWddIk0.net
尾本氏の小説と齋藤氏の評論、両方読まれていますか?
それともどちらか一方でしょうか?
両方読んでいるという方もいらっしゃるのでしょうか。

価格や読破時間を考えると、私はほとんど評論の方しか読まないのですが、
晩年の病と死に至る過程の記述については、小説の方にもう少し詳しく書かれていたら…という思いが拭えません。
やはり木戸氏の生涯を考えさせられると、その部分で感傷に浸りたい気持ちになります。

小説はまだ書店で見つけられていないので、一度現物を見てから購入を決めたいと思います。それまでは競馬のPOG本で時間を潰そうと思います。
(都内のある大型書店の検索システムでは「在庫あり」と表示されていたのですが、実際に指定された場所にあったのは齋藤氏の評論だけでした。これは担当者が入力ミスをしたようです。)

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 12:52:31.55 ID:GqGWddIk0.net
斎藤本は、研究者向けに書かれた専門書であるため、一般の読者にはやや難解な部分があります。また、研究者の傾向として、既によく研究されている部分については深く掘り下げず、簡潔にまとめる傾向があるため、伝記として読む場合、物足りなさを感じる箇所も少なくないでしょう。

例えば、最初の章では、吉田松陰との関係や丙辰丸盟約、文久2年の攘夷藩論への転換に至る経緯など、一般読者が特に興味を持つ部分も、比較的あっさりとした記述に留まっています。特に、義弟である来原良蔵の自刃事件については、木戸孝允よりも年上であったという点など、興味深いエピソードがあるにも関わらず、詳細な描写が不足しているのは残念です。

さらに、本文中には「これについてはすでに指摘されている」といった脚注が多く見られ、より深い考察を期待していた読者にとっては、物足りなさを感じてしまうかもしれません。

上記のように、斎藤本は学術的な厳密性を重視しているため、一般読者が求める詳細なエピソードや背景説明が不足している点に注意が必要です。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 16:29:06.12 ID:GqGWddIk0.net
明治4年6月27日の木戸孝允の日記に、「わが論のたちまちに彼の心腹に入るを覚ふ。西郷の公心、余の心に徹し覚えず感歎せり」とある。

「醒めた炎」では、この「わが論」を廃藩置県と解釈しているが、少し無理があるように思われる。制度改革全般を指しているのではないだろうか。

参考までに、木戸孝允遺文集(妻木忠太編)によると、「明治4年6月27日西郷が始めて公(木戸)が言う廃藩置県の主意を了解した」とあり、「醒めた炎」の解釈と一致する。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 16:31:14.40 ID:GqGWddIk0.net
どうしても、『冷静』『慎重』ってイメージに引っ張られるけど、丙辰丸の盟約を結んだり、廃藩置県では最も急進派だったり、『まずやってみる』っていう手数の人だったんじゃないかなぁと思ってたら、自分を『狂気軽躁』と分析してたようで、やっぱりと思った。村松剛さんは『その形容は似つかわしくないけれど』と書いてるけども

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 16:33:56.36 ID:GqGWddIk0.net
木戸孝允と山田顕義の関係は、明治維新を担った二人の人物間の信頼関係としてしばしば強調される。山田顕義は、長州藩出身の学識豊かで礼節を重んじる人物であり、木戸孝允もその能力を高く評価していた。

しかし、「木戸孝允が山田顕義を最も信頼していた」と断言するのは、他の同志との関係性を考慮すると、必ずしも正確ではない。木戸孝允は、高杉晋作や伊藤博文など、様々な個性を持つ人物と協力し、維新を成し遂げた。これらの関係性もそれぞれ特徴があり、単純に比較することは困難である。

また、功山寺挙兵後の萩の町に対する扱いをめぐる記述についても、修正が必要だ。高杉晋作や伊藤博文が「放火を得意としていた」という表現は、彼らの行動の一部を切り取って過度に強調しており、彼らの全人格を捉えるには不十分である。彼らは、藩政改革を推進する上で、時には過激な手段も厭わなかったが、同時に新しい国家建設のために多大な貢献をした人物でもある。

山田顕義が萩の町の焼払いに反対したのは事実だが、その理由は、単に「美しい町を保存したい」という感情的なものではなく、藩政改革の長期的な視点から、町を破壊することは生産的ではないと考えたためであると考えられる。木戸孝允が山田の意見に耳を傾けたのは、彼の見識を信頼していたからであり、必ずしも山田の性格的な特徴が決定的な要因であったわけではない。

さらに、萩の町が現在も残っているのは、山田顕義の反対だけが理由ではない。明治政府の政策や、地元住民の努力など、様々な要因が複合的に作用した結果である。

結論として、木戸孝允と山田顕義の関係は、明治維新における重要な要素の一つであることは間違いない。しかし、この関係性を過度に単純化したり、他の関係者を無視したりすることは、歴史的事実を歪曲する可能性がある。歴史的な人物や出来事を評価する際には、多角的な視点から、様々な資料を比較検討することが重要である。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/05(月) 16:35:40.87 ID:GqGWddIk0.net
慶応元年(1865年)の萩の戦いにおいて、山田顕義は、萩城下を戦火から守るために尽力した人物の一人として知られている。高杉晋作が萩城下への攻撃を主張する中、山田は山県有朋や太田とともに、藩主や町民を巻き込む無用の犠牲を避けようとした。

山田のこの姿勢は、彼自身の経験や価値観に深く根ざしていたと考えられる。京都での戦火を目の当たりにした山田は、無辜の民が戦争によってどれほどの苦しみを味わうかを知っていた。そのため、萩城下を戦場とすることに強い抵抗を感じたのである。

「去年の夏、京都の戦で都は火の海につつまれた。おれたちはその中を逃げてきた。一番難儀をこうむったのは罪もない町民だった。萩の町を焼いちゃぁいけん」

山田の発言は、単なる感情的な訴えではなく、戦争の残酷さに対する深い洞察に基づいたものであった。彼は、武力による解決が必ずしも最善の策ではないことを悟っていたのである。

しかし、高杉晋作をはじめとする急進的な志士たちは、時の政府に対する不満を爆発させ、武力による倒幕を急いでいた。彼らの目には、山田たちの主張は、改革を遅らせる妨げと映ったのかもしれない。

萩の戦いは、尊王攘夷運動の終焉を告げる戦いとなった。この戦いを経て、幕末の政治状況は大きく変化し、明治維新へとつながっていく。山田顕義は、この激動の時代を生き抜き、平和な社会の実現を目指して尽力した。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 08:22:01.41 ID:EFm4WDPv0.net
長文荒らしウザすぎ

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 12:54:03.38 ID:hejdQjaO0.net
>>163
ゆとり世代の低学歴は100文字以上読めないらしいね

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 12:55:40.63 ID:hejdQjaO0.net
>>162
山田顕義って、すごい人だったんですね。萩の戦いでの彼の行動は、ただ単に平和を願っていただけじゃなくて、京都での経験からくる深い悲しみや、戦争の残酷さに対する深い理解があったからこそなんだと感じました。

高杉晋作さんみたいに、すぐに武力に訴えかける人もいる中で、山田さんはもっと冷静に状況を判断しようとしていた。それは、彼が単に臆病だったからじゃなくて、もっと大きな視点で物事を考えていたからだと思います。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 13:43:50.89 ID:svpUdtuW0.net
とぶが如くで山田は会津嫌いって書いてたけど、
どうせ嘘だと思うw

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 17:24:19.79 ID:7k1X/xzT0.net
>>160
いちいち俺の思ってることと合うなと思ったら2スレほど前の俺の書き込みじゃんw
なんか分かんないけど採用してくれたんだな

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 17:47:10.87 ID:WuiRpPJr0.net
木戸は嫉妬深く粘着質の鬱病気質とは司馬遼太郎が一番最初に指摘していたぞ。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/06(火) 18:45:28.96 ID:svpUdtuW0.net
伊藤と森がアメリカと協定を結ぼうとして最恵国待遇があるのを知って
木戸と岩倉がブチ切れた話だろ。
伊藤と大久保は委任状取りに帰るし。

伊藤と木戸に関しては伊藤が悪い。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/08(木) 06:01:26.65 ID:Le585BL50.net
>>168
大村益次郎の手紙にも書いてあるしな

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/10(土) 07:10:54.44 ID:KMGrQv1/0.net
大村を発掘した木戸さんこそ救世主

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/10(土) 17:59:16.98 ID:/juR8BBg0.net
>>143
前述の書き込みにおいて、国泰寺会談で吉川氏が桂小五郎と高杉晋作の死去を明言したとの記述がありますが、現存する史料に基づけば、この説を裏付ける確固たる証拠は見当たりません。同会談に関する記録は複数存在しますが、いずれも吉川氏のこのような発言を記しているものは確認されていません。

吉川氏がこのような虚偽の情報を伝えたとすれば、その目的は、交渉の有利な展開を図るための策略であった可能性が考えられます。しかし、この点については、さらなる史料に基づいた詳細な分析が必要となります。

木戸姓・孝允名の由来については、書き込みの内容は概ね事実と一致しています。桂小五郎が木戸姓を賜ったのは、藩主・毛利敬親からの信頼の証であり、孝允名は桂家当主を継承した際に名乗った諱です。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/08/14(水) 06:57:18.53 ID:RFfjEs7g0.net
そうだったか

174 :!id:ignore:2024/08/17(土) 18:32:19.29 ID:wSwGUUbv0.net
近所に斎藤弥九郎先生の墓があるよ
東京都の史跡
もう子孫がいなくて東京都が管理してる
線香を上げてきた

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