邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3´
- 1 :卑弥呼は伊都國で治す:2023/11/28(火) 19:34:00.88 ID:C8GfPRLsA
- 邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。
伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。
里程と日程は同一行程の並列説明です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
前のスレが途中で落ちてたんで続き用に立てました
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/l50
- 123 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:14:09.91 ID:tdFFJHD1O
- 家船
アマ
海人族
天之御中主
伊邪ノ爾支
- 124 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:26:49.24 ID:8TqfOsdhg
- 下戸遺伝子
人間がアルコール(エタノール)を摂取すると、
エタノール→アセトアルデヒド→酢酸→と分解されていく。
エタノールとアセトアルデヒドが人体にとって有害であり、
酢酸まで分解されると害が無くなる。
酩酊症状を出すのはアセトアルデヒドである。
主要な分解酵素は、
@ADH1B:アルコール→アセトアルデヒドに分解
AALDH2とALDH1:アセトアルデヒド→酢酸に分解
ALDH2はアセトアルデヒドが低濃度でも作用するが、
ALDH1はアセトアルデヒドが高濃度にならないと作用しないため、
酒に強いかどうか=アセトアルデヒドの分解速度が速いかどうか、
を規定するのは、ALDH2である。
人間は基本的にはADHとALDH1&ALDH2を基本装備している。
ADH遺伝子あるいはALDH2遺伝子に突然変異を起こして機能低下をきたすと、
酒に弱い下戸となる。
ADH遺伝子変異型が日本に渡来したのが、約2万年前
ALDH2遺伝子変異型が日本に渡来したのが、約7500年前
ADH遺伝子変異であれば、アルコールの分解速度は遅いものの、
アセトアルデヒドは分解されるため、酩酊症状はさほど出ない。
ALDH2遺伝子変異においては、アセトアルデヒドが分解されないため、
酩酊症状が強くでて、下戸となる。
- 125 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:28:45.96 ID:8TqfOsdhg
- 各染色体は2対ずつあるので、
2本両方とも正常なALDH2遺伝子:NN型(正常・酒豪)
1本だけ変異型:ND型(酒にやや弱い)
2本とも変異型:DD型(全く呑めない、下戸)
ということになる。
ALDH2遺伝子の変異型が発生したのは、約25000〜30000年前
世界的には、長江下流域が中心地であり、中国大陸に薄く広がり、
日本列島にやや濃く、分布している。
中国北部の山東半島の付け根にだけ飛び地で高濃度スポットがある。
ベンガル湾以西には分布なし。
オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパには皆無。
O系統分布域にごく薄く広がる。
日本国内の分布としては、
酒豪NN型が60-70%台で高いのが、
沖縄鹿児島など南九州、青森など東北から越後など日本海沿岸、高知。
逆に40-50%台で低いのが、
愛知三重など中京地方、近畿瀬戸内、などとなる。
日本人全体では、NN型60%、ND型35%、DD型5%。
- 126 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:30:30.89 ID:8TqfOsdhg
- 人類は誕生以来の数十万年を狩猟採集生活で生きてきたのですから、
熟して落下した果実、つまりやや発酵してエタノールを含む食物を食べるために、
ADH遺伝子とALDH2遺伝子は必須だったわけですね。
遺伝子変異は定期的に発生しますから、
定期的に誕生していた、ALDH2遺伝子変異の個体は、
落下果実を食べることができないので、
自然選択で淘汰されて子孫を残せなかったことになります。
一説には、ALDH2遺伝子変異の人は、
アセトアルデヒドが分解されずに血中高濃度に残ることで、
マラリアなどの感染症を抑制することができて有利だったのだ、
という話がありますが、
そもそもマラリアを殺せるほどの血中アセトアルデヒド濃度を維持するほどの酒を、
定期摂取できた原始社会がありませんし、
さらにそもそも、一口のお酒で顔が真っ赤になる下戸の人が、
マラリアを殺せるほど酒を飲み続けたはずがありませんから、
ちがうでしょうね。
正解は、
ALDH2遺伝子変異は人類にとって不利な変異以外の何物でもないが、
O1b1a1aは雑穀農耕を開始しており、
落下果実ではなく、雑穀を食料主体としていたため、
ALDH2遺伝子変異を生じた個体であっても、問題なく繁殖していくことができた、
ということですね。
- 127 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:34:28.91 ID:8TqfOsdhg
- >>95-97
O系統にて、O1b1、O1b2、O2が分岐したのが31000年前で、
現在のALDH2遺伝子変異が発生したのが25000〜30000年前。
そしてO2やO1b2が東進したやや北寄りのルートにはALDH2遺伝子変異がほぼいませんから、
理論上は、ALDH2遺伝子変異はO1b1a1aが保有していた変異であって、
O1b1a1aは、25000〜30000年前頃には原始的にせよ雑穀栽培を開始していたか、
少なくとも野生のイネ科雑穀を主食としていた。
なので落下果実など発酵食品を食べる必要がない=ALDH2遺伝子変異があっても不利ではない、
環境にいたことになりますね。
逆にALDH2遺伝子変異があるから、寒冷な気候の中でもあれこれ工夫して、
必死に雑穀栽培して生き抜いていたのかもしれませんね。
その甲斐があって、
14000年前から温暖化が始まると、
雑穀栽培による食料安定供給の強みが出て、男性複数人体制へと移行し、
東進開始したと。
- 128 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:39:11.35 ID:8TqfOsdhg
- >>104
人類は丸太船あるいは刳り抜いた丸木舟を標準装備していたと考えられますが、
O1b1a1aはやや内陸で雑穀栽培していた集団で、
渡海能力が無いか乏しかったと考えられます。
東南アジアからオーストラリアへ、あるいは中国南部から南西諸島へ、渡海できていませんね。
ですから、O1b1a1a集団が大挙押しよせてきても、
HTLV-1の大陸横断亜型の極東クラスター集団は、
アンダマン諸島にいて、安全だったのでしょう。
そして逆に言うと、極東クラスター集団側だけが、長距離渡海能力を持っていた。
200kmだと24時間以上、おそらく3日ほど漕ぎ続けないと渡海できませんから、
確実にツクヨミ航海=月を目印に方角確認しながらの夜間航海術、
も獲得していたはずですね。
そうなると、アンダマン諸島の極東クラスター集団の方が制海権を握っており、
一方的に襲撃できますから、
定期的にベンガル湾沿岸部を襲撃して、O1b1a1a集落の女性を獲得して連れ帰った。
それによって、雑穀栽培を習得したのでしょう。
また、島陸上で暮らす極東クラスター集団が、古来の女性陣メインだったのに対して、
しょっちゅう出撃する極東クラスター集団は、どちらかというと獲得して来たO1b1a1a集落出自女性、
すなわちALDH2遺伝子変異保有女性が多くなりますから、
8000年前の一斉放散の際には、
島に残った陸上生活重視集団は、渡海して来たハツカネズミや避難民によって蹂躙され、
阿鼻叫喚の世界を脱出して東方へと出発した丸木舟熟練集団は、
ALDH2遺伝子変異を多く保有した集団だったのだろう、
と考えられます。
- 129 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:41:06.41 ID:8TqfOsdhg
- >>97
4600年前に中東からの青銅器保有勢力によって、
O1b1a1aがインドから駆逐されているわけですが、
現在のO1b1a1a分布域もそうですし、
ALDH2遺伝子変異の分布域も、インドはもちろんベンガル湾沿岸からも駆逐されていますね。
4000年前に青銅器保有勢力がベンガル湾沿岸まで到達し、
中国南部へなだれ込む直前に、
ハツカネズミの一斉放散が起きたことがわかります。
そして、
インドから、
ALDH2遺伝子変異が駆逐されている=凌辱されて子孫を残していない
のに、
HTLV-1大陸横断亜型は残っている
ということは、
プレデターが襲来したのだ、ということを示唆してます。
O1b1a1aにすら駆逐されたCD系統国家としては、プレデターと
同盟するのはいいけれども、
自由民主主義だしwetな米さんとはやはり違うでしょうから、
よくよく注意しておきなさいよ、ということになります。
- 130 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:42:37.41 ID:8TqfOsdhg
- 日本列島に戻りますと、
>>108
旧石器時代人は北方から樺太経由で、当然NN型
先縄文人は日本亜型集団が南方から渡海で、これもNN型
後縄文人が極東クラスター集団でこれも南方から渡海ですが、
彼らがNDやDD型であった、
ということになりますね。
さらに、C系統について詳しく見てみると、
C1a1は沖縄に多く、日本列島にも分布しているが、アイヌにいない。
C2はアイヌに多いが、沖縄にいない。
- 131 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:49:46.46 ID:8TqfOsdhg
- >>106
以上のデータを加味して考えると、
<男性一人+女性複数人体制時代>
【38000年前】
C系統は丸木舟あるいは丸太舟を知っていて、
C1b2がオーストラリア(サフルランド)へ渡海したのと同じく、
C1a1は南西諸島〜日本列島へ渡海あるいは漂着渡来した
【20000年前】
C2系統が樺太経由で歩いて渡来
ADH遺伝子変異保有
北回りルートなので丸木舟渡海能力を喪失していた
土器=調理による栄養獲得能力優位性と、細石刃=毛皮の優位性でC1a2を駆逐
C1a2は離島にのみ残存
【14000年前】
HTLV-1日本亜型集団が南西諸島経由で渡来
おそらくD1a2a1a
種子島まで来て鹿児島のC2勢力と接触し、土器&細石刃を習得(立切遺跡)
これによって、真水の大量貯蔵(土器甕)、体温の保持(耐水鮫革衣服)を獲得し、
世界最初期の通年水上生活者アマ集団が誕生。
<男性複数人体制時代=文化的社会形成時代>
【7500年前】
HTLV-1極東クラスター集団が南西諸島経由で渡来
ALDH2遺伝子変異保有
【7300年前】
鬼海カルデラ破局噴火
宮崎縄文水上生活者アマ集団が南米へ→HTLV-1南米クラスター
- 132 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:55:55.55 ID:8TqfOsdhg
- と、そう考えると、
ワニ勢力とは本来からD1a2a1aであり、
サメ漁によって、鮫革耐水服、食料、そして副産物としてのサメ歯イヤリングなど装飾具、
を獲得
見た目で鮫そのものだったと
>>90
アブラのようにクラゲのように海上を思うがまま移動して、
清浄なる暮らしをしていた海洋の支配者アマだったわけですね。
- 133 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:58:23.80 ID:8TqfOsdhg
- 渡来C2がADH遺伝子変異を保有していても生き残れたのは、
土器があったから=調理技術の向上によって、
アルコール発酵した食物に頼っていなかったからなのだ、
ということになりますね。
そうなると、
理論的に、最古の土器はADH遺伝子変異の誕生より古くないといけないので、
20000年前くらいまでは頑張って探せば見つかるはずということになります。
土器アダム、ならぬ、男性一人+女性複数人体制なのですから、
土器イブが、必ずどこかに眠っているはず。
それが日本列島だといいですね。
- 134 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:14:53.26 ID:8TqfOsdhg
- 【4000年前】
ハツカネズミ一斉放散
極東クラスター集団=下戸DD型が大幅に減少
貝塚・三内丸山遺跡滅亡、大森貝塚は飢餓状態に陥り人〇食
相対的に海人族D1a2a1aが興盛
離島から日本亜型集団あるいはC1a1集団が本土復帰
【3000年前】
滅亡シュメールのナンム竜末裔が渡来、刻目突帯文土器
青銅器=ネズミ返しをもたらす
YハプロO1b2、mtハプロD4、HTLV-1フリー、標準NN型
>>110
共にHTLV-1フリー、NN型酒豪の
「D1a2a1a&O1b2」が水田稲作全国展開
- 135 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 15:15:23.23 ID:twoGTEO3p
- 最新の研究では、
沖縄の人たちと、北部九州の人たちと、の遺伝子多型頻度の比較によって、
ALDH2遺伝子は、沖縄が上流で、北部九州へと伝播、
ADH遺伝子は逆で、北部九州から、沖縄へと伝播している。
また、ADH遺伝子にはハプロタイプブロックが認められるが、
ALDH2遺伝子には認められない。
ということですから、
mtDNAのM7aにおける多型性解析にて同様に、沖縄が上流で、アイヌへ伝播したのと合わせて、
ALDH2遺伝子は、7500年前に南西諸島経由で日本列島へ渡来した。
ADH遺伝子は、20000年前に北方から日本列島へ渡来した。
ことが再確認されます。
ハプロタイプブロックというのは、
対象遺伝子とその周囲の遺伝子がばらけていない、
つまり少数集団によって持ち込まれたことを示唆しますので、
ALDH2遺伝子保有集団は多数が沖縄を玄関口として入って来たけれども、
ADH遺伝子保有者はごく少数しか沖縄には来ていない、
ということを示していますね。
- 136 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 15:17:50.83 ID:twoGTEO3p
- >>132
M7a遺伝子にせよALDH2遺伝子にせよ、多様性を保持しているということは、
無人になってボトルネックを形成していない、
すなわち豊富な人口を保ち続けていたことを示しており、
陸上遺跡が少ないからといって多数の人々が暮らしていたわけですから、
海神族=大鮫魚=ワニが、
14000年前からずっと海上で繁栄していたことになりますね。
365日24時間、清浄な水上生活を続けていた。
要するに海水による「禊ぎ」をずっと、実に12000年の長きに渡って続けてきた。
縄文文明の本質というのは、
世界最古の縄文土器や、世界最古の磨製石器というのはごく一面であって、
実はその本体は、海上生活による禊ぎ払いによる清浄なる世界だった、
ということになります。
世界でも類を見ない独自性を持ち、しかも最古の日本文明とは、
とても清らかなものなのですね。
- 137 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 15:19:52.89 ID:twoGTEO3p
- 青銅器の発達によって陸上生活が次第に豊かになり、
3000年前に養蚕が伝わって、富が蓄積された。
それによってようやく、海神族の有力者が陸上に上がって来たのが、
吉武高木遺跡の割竹形木棺大王だということになります。
原始神道とは先縄文人の1万年以上の長きに渡る禊ぎから連綿と繋がっており、
神道で祓い清めるのは海水での禊ぎが源流
お墓が無いのは、本来は舟葬だったから
裸足なのは、家舟生活だと靴は不要だったから
日本人が玄関で靴を脱ぐのも同じこと
海外では大袈裟なジェスチャーや親密なハグやキスをして、マスクで口を隠すのを嫌がるが、
日本人は動きが小さく、マスクで口を隠しても平気なのは、
舟上生活では転覆するから動きは小さく、
舟同士で離れていたので身体接触は無かった社会で、
距離が離れてるので声は届きにくく、アイコンタクトで以心伝心していた。
じゃあ陸地を領有していなかったかというとそうではなく、
真水の補給地点や、
綾羅木遺跡など各地の住居を伴わない陸上貯蔵拠点、
など重要地域を保有していた。
清浄系統の神社本来の意味はそれらの拠点区画の祀りであろう。
現在の祖神祭祀は、D1a2ナンムのシュメール祖神祭祀の集合であろう。
ということが考えられますね。
- 138 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 15:29:56.36 ID:twoGTEO3p
- 海神族の生活を考えるに、
日中に漁をして、夕方にそれを調理して食事したのでしょう。
もちろん魚介類やその加工品を陸上生活者と交換することもあったでしょう。
調理するには火を使いますので、
各家舟単位で、舟上で工夫したり、浜辺に上陸したりして、
調理した可能性もありますが、
一つの可能性としては、
割竹形木棺=母舟(マザーシップ)に、仲間内の成果を集めて、
まとめて調理していたのではないか。
資源に乏しい縄文時代だとそれが効率的ですね。
安全な湾内に割竹形母舟が佇んでいて、
食料や薪や鮫革衣服など物資が貯蔵されていた。
それを管理しているのは女性リーダーだったでしょう。
湾内の割竹形母舟にいたのは女性リーダーの可能性が高く、
舟形木棺で遠洋漁業などしていたリーダーは男性だったのでしょうから、
弥生時代以降の木棺の男女比もその傾向を踏襲していた可能性が高くなりますね。
あとそうなると、水上生活者集団においては、
嵐の襲来を予言できるリーダーが重宝されますね。
低気圧が近づいてきたら、早めに湾内や砂浜に舟を避難させる。
となると、低気圧になると節々が痛む関節リウマチの方が非常に重要だったのでしょう。
3対1で、女性に多い。
台風の多い日本列島だと、皆逆らえませんね。
- 139 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 16:14:39.45 ID:twoGTEO3p
- 4万年前に人類がオーストラリアに渡海していますし、
丸木舟製作道具の丸ノミ形石器が、青森の大平山元I遺跡から出土していることからも、
丸木舟というのは
出アフリカしたホモサピエンスの標準装備だったことが確定していますね。
しかし、C1b2はニュージーランドには渡海できていませんし、
C2も沖縄には渡海できていなかった。黒潮には逆らえなかった。
彼らが長距離渡海できたのは、漂流渡海での漂着だったのだろうと考えられます。
では、D1a2a1aが黒潮に逆らって、立切遺跡に渡海できたのが何故かというと、
「櫂」の発明ですね。
D1a2a+B4が発明したものと考えられますね。
東名遺跡からも多数出土しています。
D1a2aは時間差で2回に分けて日本列島に渡来した。
HTLV-1の日本亜型と、大陸横断亜型極東クラスター(→南米クラスターにも派生)
8000年前のベンガル湾B4が一部が西にも避難しており、
それがマダガスカルのB4+大陸横断亜型アフリカクラスターですね。
マダガスカルで探せばD1a2aがいるかもしれませんし、
日本列島とちがって、
ABその他がひしめく人類の故郷方面ですから、男系が残るのは厳しかったのかもしれませんね。
- 140 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:34:00.10 ID:DKlAuWJtW
- >>137
>真水の補給地点や、
>綾羅木遺跡など各地の住居を伴わない陸上貯蔵拠点、
>など重要地域を保有していた。
水上生活者といえども、陸地が不要なわけではなく、
河川や湧水など真水の補給場所
木材を入手するための山地
湾など穏やかな内海とその砂浜
が必須ですね。
一方の陸上生活者も、同じ。
水は必要ですし、
貝塚があるくらいですから、
水産資源の豊富な日本列島においては、陸上生活者といえども
漁には出ていたわけですね。
ということは、水上生活者アマと、陸上生活者クニは、
重要拠点を取り合いしていた。
しかも縄文時代は縄文海進で陸地がどんどん沈んでいくわけですから、
その争いは熾烈だったわけですね。
>>90
縄文時代に入って温暖化が進んでくると、
人は皆、アマになりたがった。
- 141 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:35:25.78 ID:DKlAuWJtW
- 重要拠点は限られているので、アマとクニがどちらも増えて栄えることはできなかった。
温暖な西日本では、アマが主流で、重要拠点を占拠。
割竹形母舟で調理して、食べ終わった貝殻などは、海に返すか、
あるいは網に入れて浸して魚をおびきよせるエサにでも使った。
寒冷な東日本では、アマが少ないので、クニが貝塚を営めた。
DNAの多様性解析から、縄文人がボトルネックを生じたのは、
4000年前のハツカネズミ一斉放散の時だけですから、
縄文人はずっと栄えていたわけで、
気候による「アマとクニの人口比率の濃淡」が、
沖縄が無人に見えて、
九州から西日本にわずかに貝塚があって、
東日本から樺太にかけて貝塚だらけ
という形で残っているのでしょう。
当然、温暖な西日本に人口が多かったはずで、
陸上遺跡だけで算出された現在の縄文時代推定人口は少なくとも2倍以上には見積もるべきでしょうね。
- 142 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:37:25.57 ID:DKlAuWJtW
- 先縄文人の時代には、農耕がありませんでしたし、
縄文海進真っ只中でしたので、
アマが圧倒的に優位で、クニは内陸などで細々と暮らしていた。
だから貝塚はほとんどない。
7500年前ごろに極東クラスター集団が渡来して来て合流し、
雑穀農耕をもたらしたのと、
7300年前の鬼海カルデラ破局噴火で気候が寒冷化して海進が収まったのとで、
クニも人口を増やす手段が増えて、
東日本を中心に貝塚を形成して盛り返したのですね。
稲b遺伝子や、下戸遺伝子も一緒に来たと。
- 143 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:38:09.62 ID:DKlAuWJtW
- Y染色体ハプロとmtハプロに共通する流れとして、
Y染色体ハプロは、
D系統は南回りルートにしか残っておらず、
C系統は全世界に拡散している
mtハプロも、
M系統は南回りルートが主体、Dは後世に拡散しただけ
N系統は全世界に拡散している
10万年前には、人類ホモサピエンスだけではなく、
ネアンデルタール人やデニソワ人など他のホモ族もいたわけですね。
中東にはネアンデルタール人がいたからアフリカ大陸から出ることができなかった。
人類が優位に立てたのは、弓矢の発明によるもので、
最古のものが64000年前の南アフリカ・シブドゥ洞窟で発見。
そこから人類が出アフリカを果たして、
48000年前の矢尻がスリランカから発見されます。
- 144 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:39:04.98 ID:DKlAuWJtW
- そこで問題となったのが、寒冷地適応ですね。
いくら弓矢を持っていても、氷期の地球気候では、寒くて北上できなかった。
コロモジラミの誕生が7万年前ですから、
人類は7万年前には衣服を纏っていたと考えられますが、
まだ植物繊維製の衣服だけで、毛皮が無かったのですね。
ですから、弓矢を手にした人類が、中東のネアンデルタール人を駆逐して
出アフリカを果たした後、
そこから寒い北方には北上できずに、
気候が同じ東へ、海岸沿いに進んだことになります。
弓矢と丸木舟を標準装備ですね。
それがD系統と、M系統なのでしょう。
その一部に、HTLV-1保有集団もいたと。
- 145 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:40:18.67 ID:DKlAuWJtW
- C系統は中東北部でネアンさんと睨みあっていた。
ネアンさんの出土人骨は、男性複数人が一緒にいることがありますので、
ネアンさんは男性の人数制限をしていなかったのですね。
(人類の男性人骨が洞窟から複数見つかることがありますが、
おそらくヒモ男性一人が安全な洞窟で囲われていたのが、
長期世代に渡った結果を見ているのでしょう)
おそらく人類の方が本来は脆弱で、全滅しやすく、
群れが生き延びる確率を少しでも上げるために、男性一人+女性複数人体制を編み出した。
>>42
闘いの構図としては、
屈強なネアン男性棍棒集団に対して、
おしゃべり全開で情報共有することで統率連携の取れたサピエンス女性弓矢軍団が、
襲いかかったと。
あるいは、逆レ〇〇という形で、ネアンさんの遺伝子が取り入れられた可能性すらありえますね。
- 146 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:42:23.67 ID:DKlAuWJtW
- 寒さで北上できなかったC+N集団が、毛皮の衣服を発明した。
もしくは、ネアンさんが毛皮を発明していて北方展開していたのと接触したことで、
それを学習した。
ネアンさんにとっては悪夢以外の何物でもなく、
毛皮を着たC+N集団が弓矢で一気になだれ込んできた、ということですね。
寒冷な時代ですから、毛皮を着たC+N集団は優位性があり、
東方へも進出した。
M系統が多数残っていますから、
東方ではある程度の争いはあったのでしょうが、
同じ人類ですから、吸収していったのでしょう。
まだ見た目が似ていた、ということを意味しています。
男性一人+女性複数人体制の男性一人は、
毛皮C+N集団の男性が選ばれることがほとんどで、
C+B(N系統)+Mに置き換わっていった。
ただ、沿岸で漁を中心に暮らしていたD+M集団は、
弓矢が不要ですから、
長らく漁生活をしていたD+M系統のほうが優位で、逆にBを迎え入れて、
D+M+B、となっていったのですね。
- 147 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:43:18.23 ID:DKlAuWJtW
- 計算上は、スンダランドにデニソワ人系の有力集団がいたはずで、
その集団に阻まれて、
先行のD+M集団はその手前で止まっていた。
後ろから毛皮を身に着けたC+Bがやってきて、
保温効果での生存率向上=人口増加にて、
デニソワ人系集団を打ち負かして、
C1b2はオーストラリアへおそらく最初は漂着渡来。
ポリネシア型HTLV-1を伴った。
C1a1も南西諸島や日本列島へおそらく最初は漂着渡来。
HTLV-1フリーだから、後に日本渡来したD系統との接触なし。
おそらく黒潮に乗った意図しない漂流で、
一人だけ漂着したら、二度と帰れない故郷の南西諸島を想いながら
一人寂しく人生を終えた。
たまに男女で漂着したり、
あるいは先着の漂着者が存命のうちに、異性が漂着して奇跡的に出会ったりしたら、
子孫を残せたのでしょう。
気の遠くなるような100年1000年単位の偶然で。
港川人のmtハプロMも、現代日本人には繋がっていないらしいですね。
- 148 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:44:44.58 ID:DKlAuWJtW
- C1a1が日本列島に漂着しはじめたのが4万年前。
そこから2万年遅れで、
中東で東と北に分かれた、北上から東進したC2+Nが樺太経由で日本列島にやって来たのですね。
ADH遺伝子変異を保有ですね。
C1a1+B+Mは、比較的温暖な南回りで、
ネアンDNAは無いかごくわずか
Mを吸収して、
スンダランドのデニソワ人系DNAを吸収して、
海岸沿いに暮らしてきた。
C2は、寒冷な北回りで、
ネアン生息地を突破して来たのでネアンDNAが濃く、
M成分はゼロ、
北方デニソワ人DNAを吸収、
内陸での生活が長かった。
見た目も、言語も、全く異なっていて、
お互い同じ人類とは思わなかった可能性も高いですね。
- 149 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:45:36.12 ID:DKlAuWJtW
- 旧石器時代のC1a1集団にせよ、
HTLV-1日本亜型集団にせよ、
HTLV-1極東クラスター集団にせよ、
同じ南回りで、
母系はB+Mベースで、
沿岸生活がメインなので毛皮はあまり使わない。
言語の基本語彙や文法が似ていて、
見た目も似ていたわけですね。
一方の、C2+N9bは、言語も見た目も全く違った。
そして毛皮着用。
弥生時代以降なので、だいぶ時代が異なりますが、
東方の毛人、というのは、
青銅器や鉄器の刀子にて、髪の毛や髭を整えた倭人に対して、
毛むくじゃらの石器人を示していたという話がありますが、
一方では、
倭人=「西の」水上生活者は、夏は裸、冬は鮫革衣服着用、に対しての、
毛人=「東の」陸上生活者は、毛皮を着ているので毛むくじゃら、
ということかもしれませんね。
- 150 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:47:13.12 ID:DKlAuWJtW
- そうなると、例えば、
C2系統が本格的な生粋の毛人
後期縄文人=雑穀栽培する東方貝塚陸上生活者は、
D系統同系統ではあるが、陸上生活してる辺境部族の蝦夷
だったのかもしれませんね。
そうなると、
熊襲というのも、
ワニ=海神族=大鮫魚が、鮫革を着用していたのと同様に、
縄文〜弥生九州の内陸部、九州山地の陸上生活者が、
ツキノワグマの熊皮をトーテムとして着用していた。
ただ、温暖な九州なので、毛人と呼ぶほどは通年での全身毛皮ではなく、
ワンポイントアイテムとして、
熊皮のスカーフや、帽子、腰巻などを身に着けていた、
だけだったのでしょう。
薩摩隼人はおそらく水上生活者アマでしょうね。
有明海から長崎伊邪國のワニと別勢力だったということでしょうか。
南米に渡ったのも薩摩隼人の祖ということになりますね。
で、狗奴国は熊襲とは全然別で、
O1b2ナンム奴国王系+狗人旧燕人の渡来系勢力でしょう。
- 151 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:49:52.36 ID:DKlAuWJtW
- 南回りルートが、
(D)→C<毛皮>→O1b1<農耕・男性複数人体制>→インダス文明勢力<青銅器>
と複数の波が押し寄せたのと同じで、
北回りルートも、
C→NQ<農耕?牧畜?騎乗?>→O2(青銅器)
と複数の波があったわけですね。
中国における発掘とDNA解析から、
殷が、初期N系統で、途中からO2が下剋上
周が、Qだった、
とされています。
そうなると、
中国北部においては、
Nなどが多数いて雑穀農耕を開始して、男性複数人体制で増えつつあったところに、
O2が青銅器を持ってきて、O2がサポートする形で、
最初はN集団が殷国家を樹立。
(日本でD1a2a1aを青銅器O1b2がサポートしたのと似ている)
途中でO2が下剋上。
隋唐、元、清、などのように、北方民族が王朝を立てたのが、
Q系統の周であった可能性が高いですね。
- 152 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:51:04.76 ID:DKlAuWJtW
- >>7
そうなると、計算上の話ですが、
殷の支配層がO2で、周の支配層がQ、ですから、
殷、盖國、箕子朝鮮、秦、の支配層がO2
周、燕、の支配層がQ、(中国倭はO1b2a2で同盟勢力)
と考えられますね。
そうなると、
北京を中心とする、北部中国北東部にあった燕の王族はQで、
別民族の遼東半島勢力=列陽を征服支配していたと。
前222年に燕が滅亡
衛氏朝鮮が、前195〜前108(滅ぼされて楽浪郡設置)
ですから、
前スレでの江辻型青銅器工房で倭人と協業していたのが、
列陽=遼東勢力で、
宗主国の燕の卜占を持ち込んで、司祭として立ち位置を確保していたが、
前108年に、勒島遺跡から青谷上寺地遺跡へ避難。
- 153 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:52:23.70 ID:DKlAuWJtW
- 燕本国の支配層だったQ系統については、
つまりは太子丹の王統が、
前222年直接渡来、
もしくは衛氏朝鮮で粘った挙句の、前108年渡来で、
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/92
燕再興埋蔵資金=大量の青銅器と、青銅器工人=古浦砂丘遺跡工人とを引き連れて、
やって来たのですね。
山鹿貝塚系の豊国女王家がこれを受け入れた。
そう考えると、
Q系統の燕本国王統=古浦砂丘遺跡を、
O1b2奴国王=中広形銅矛将軍と手を結んだ、
過去の被征服勢力の列陽=遼東勢力=青谷上寺地遺跡が、
卜占事業の競争相手として、急襲したのも説明がつきますね。
- 154 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:53:44.50 ID:DKlAuWJtW
- https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/132
Q系統は、
三次市に逃げ込んでいた奴国王の兄末裔によって保護されて、
東方へ逃れた。
それが奴国王失脚時に出陣したのが、
大阪湾型銅戈
九州型銅戈と合流して壇ノ浦合戦で勝利して、
青谷上寺地遺跡にも仕返しした。
勢力そのものは、
三雲南小路遺跡大王擁立に参加できたのでしょうが、
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/174
Q系統本流の将軍は、東日本に追撃したものの、
軍神の計略に嵌って打ち取られてしまったわけですね。
- 155 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:55:00.16 ID:DKlAuWJtW
- 誇り高き系統に対して、計算上の話で大変恐縮ですが、
日本にいるQ系統というのは、
周王室→燕王室→太子丹
→復興を期していた古浦勢力(〇〇姫の最初の夫)
→大阪湾型銅戈
→三雲南小路大王の譜代
→狗人
→狗奴国に参画
という計算にはなります。
- 156 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 23:22:01.15 ID:DKlAuWJtW
- 燕復興資金としての青銅器や、
中細形銅剣c類を作る青銅器職人を連れてきた、
燕王家末裔に比べて、
ナンムO1b2の青銅器技法は明らかに劣りますね。
ということはつまり、
シュメール本家滅亡して東に逃れたナンム王族末裔は、
青銅器職人など伴わず、
少数の王族とその近侍だけで、先に東進して栄えていたO2勢力圏の北縁を東へ進んできたことになります。
その道中で、女性を途中で補給しつつ東へ進み、
沿海州に辿り着くころには、女系D4の立派なモンゴロイドになっていた、
ということですね。
時期的には、中国に忽然と現れたメソポタミア系青銅器文化(鼎なし)の、
三星堆遺跡が、ひょっとしたらO1b2青銅器工人が南回りルートで逃れてきたものかもしれませんね。
おそらく殷と同盟していたのが、おそらく周に滅ばされていますが、
その辺りにD1a2aを伴わないO1b2が散らばってらっしゃるようなので。
- 157 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 23:25:57.21 ID:DKlAuWJtW
- そうなると、
三星堆遺跡には既に扶桑樹があることから、
神仙思想とはそもそもメソポタミア時代のシュメールO1b2の思想が源流だったのではないか。
東の扶桑樹から10の太陽が順番に天を巡る。
メソポタミアではセフィロトにおいて生命の樹から10の太陽が昇る。
だからO1b2も東の蓬莱の地を目指して東進したのではないか。
そして、不老不死の蓬莱の地、黄金の國ジパングにて、
実に1万年以上の長きに渡って禊ぎを続けてきた、
海洋聖帝に邂逅した。
遥か東方の日本列島=蓬莱の地で具現化したものが、
平原遺跡1号女王墓の世界最大の超大型内行花文鏡(周径八咫の鏡)ではなかろうか。
平原女王卑彌呼はうち5枚を副葬させたが、
残り5枚が存在していた、あるいはいる、のではないか。
- 158 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 00:59:44.06 ID:qxeNTydZF
- 漢鏡を大量に副葬しているからには、
「天円地方」の概念を当然認識していたはずね。
>>13
伊都国内での遷都は、
吉武遺跡=ひのもと=漢代伊都中心一万戸
から
三雲遺跡=ひむか=魏代伊都中心千戸
への移動であり、
ひのもと=天円=内行花文鏡系が権威鏡
ひむか=地方=方格規矩四神鏡が権威鏡
爾支から倭国王になったひむか系統には、大率がいて、対馬海峡を監察していますから、
方格規矩四神鏡はそちら方面に多い。
入れ替わって爾支になった須玖岡本王がひのもとで、奴国進駐して大倭を押さえましたから、
内行花文鏡は列島方面に多い。
伊都国王系は当然ひのもと出自であるから、内行花文鏡は基本保有していて、
ひむか系列であれば方格規矩四神鏡も追加される、ということでしょう。
一貴山銚子塚古墳などが典型例ですね。
- 159 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:01:05.81 ID:qxeNTydZF
- >>90
水上生活者と陸上生活者それぞれの夕ご飯風景を考えると、
水上生活者は、その日に獲れた海産物を中心に、陸海の保存食も交えながら、
海上の割竹形母舟で調理して、食事に入りますので、
虫がいない清潔な環境で、
昆布だしの美味しい食事をしていたわけですね。
現代人の我々が同席させていただいても、もう驚くほど美味しかったことでしょう。
それが1万年以上続いたグルメ民族が日本人。
陸上生活者も、山の幸ならびに、沿岸漁での成果も含めて、集落で調理するわけですが、
これが問題ですね。
縄文時代ですから、都市は無く、せいぜい数戸数十戸の集落なので、
人の手が入らない澱んだ水や、藪やらに囲まれている。
大量の虫が漂う中で暮らしていたわけですね。
蚊にたかられながら調理して、
調理甕の中には羽虫が入ってくる。
場合によっては巨大な蛾なども入り、それももう気にせず食べていたのかもしれない。
魏志倭人伝の時代ですら調味料を使っていなかったのですから、
おそらく我々だと口に入れることもできない見た目と味だったと思われます。
- 160 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:02:07.86 ID:qxeNTydZF
- https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/667
田熊石畑遺跡の代々の伊都国王族東征将軍について考えますと、
ほぼ最初期の将軍の場合は、1万年以上の割竹形母舟での食事が当たり前であって、
オー月ヒメが賓客のために御自ら咀嚼して胃酸で溶解して殺菌消毒して、
嘔吐して出した清潔な料理
(同じ集落の陸上生活者なら女性指導者自らの料理として涙を流して喜ぶ食事)
を見て、ぶったまげたわけですね。
(ふと、戦時中の米軍捕虜にゴボウを与えた看守が、
戦後に、木の根っこを食わせて虐待したとして裁かれたという逸話を思い出しました。)
それが数代を経ると、将軍の娘と懇ろになった若き時代の奴国王が、
将軍の頭の虱を取るとあります。
水上生活者時代であれば、毎日海に潜るので、虱などつかなかったわけで、
田熊石畑遺跡の将軍は、割竹形木棺に埋葬されてはいたけれども、
陸上生活をしていたのだ、
ということがわかりますね。
- 161 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:03:44.79 ID:qxeNTydZF
- だからといって、
吉武高木遺跡の割竹形木棺大王も同様に、
普段の生活からして陸上生活者になっていたのかどうかは一考の余地がある、
ということですね。
吉武高木遺跡の王墓は、割竹形木棺3、箱式木棺1、甕棺7、ですから、
可能性としては、
普段は水上生活を続けていたのだが、亡くなった時だけ、
陸上生活者達に示しをつけるため、本当は舟葬で対馬海流に流すはずだが、
吉武高木遺跡に埋葬した、という可能性があるわけですね。
また、吉武高木遺跡の棺は、
全員が伊都国王だったかもしれませんが、
もしかすると、
割竹形木棺と箱式木棺が伊都国王で、
甕棺は配下の爾支だった、
という可能性もあります。
- 162 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:06:19.48 ID:qxeNTydZF
- 景行天皇の時に、
神夏磯媛は磯津山の榊に八握剣・八咫鏡・八尺瓊など三種の神器と共に白旗を掲げて舟でお迎えします。
これも考えてみれば妙な話で、
弥生時代だから舟で移動するのはいいとして、
景行天皇が舟でいらっしゃるのだから、
神夏磯媛が陸上生活者であれば、自領の陸地で歓待の準備をしてお出迎えすればいいわけですよね。
それが神夏磯媛の方もわざわざ舟に乗ってお出迎えしたということは、
神夏磯媛は水上生活者だった可能性がありますね。
神夏磯媛の本拠は香椎だとされており、その香椎は不彌國の範囲とも考えられますね。
不彌國千家の「家」というのは、家舟も含まれるのではないか、というのは前スレで考察しましたが、
そもそも不彌國というのは、陸地部分は香椎と志賀島くらいのごくわずかな部分だけで、
博多湾+その辺りの沿岸海域の水上部分がメインの行政区分だった可能性がある、
ということですね。
これは同じく「家」で記録された壱岐島の一大國(一支國か)についても同様で、
対馬島の対海國が千戸で「戸」。
対海島には対馬國と対海國があったとかんがえても二千戸くらいでしょう。
それがより小さい壱岐島の、一大國だけで三千許家というのは、
一大國のいわゆる原の辻遺跡やカラカミ遺跡の陸上部分は千戸くらいで、
一大國の海域、つまり対馬海峡を本拠とする家舟が二千家くらいの、
合計三千余家、という意味だったのではないか、
ということですね。
- 163 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:08:51.44 ID:qxeNTydZF
- 神夏磯媛と同様に、
仲哀天皇の時に、豊国岡県主の熊鰐が白銅鏡・十握剣・八尺瓊を榊に掲げて、
舟で周芳の沙麼の浦にお迎えした。
熊鰐ワニですから、それこそ昭和まで続いていた豊国の水上生活者であった可能性が高く、
元は縄文時代からの伊邪國系の鮫革水上生活者であり、
田熊石畑遺跡の時に、八岐大蛇つまりD1a2ムシュマッヘ眷属から豊国海上権益を奪取して、
遠賀川流域に拠点形成していったのが箱式石棺群。
ボスが田熊石畑遺跡将軍の割竹形木棺=母舟マザーシップで、
その配下が箱式石棺群ですね。
奴国王が銅剣女王に求婚に行ったときには、豊国海上を支配していた。
ワニ=岡田熊鰐が、
仲哀天皇を海上でお出迎えして、献上したのが、
六連島(下関市)と藍島(北九州市)で、
水上生活者だったから島が拠点なわけで、
熊鰐の領域というのも、陸上拠点は沿岸要所のみで、主体は海域だったのではなかろうか。
田熊石畑遺跡将軍系の水上生活者熊鰐が、関門海峡までを支配していたのではなかろうかと。
- 164 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:09:18.86 ID:qxeNTydZF
- >>140-141
>重要拠点は限られているので、アマとクニがどちらも増えて栄えることはできなかった。
そう考えると、すっきりしてきますね。
・8000年前から日本列島から樺太まで貝塚が分布している
・貝塚は温暖な西日本に少なく、寒冷な東日本に多い
・沖縄は8000年前まで無人だったように見える
・朝鮮半島も4000年前まで無人だったように見える
・4000年前のハツカネズミCAS一斉放散は南西諸島から樺太まで蹂躙しているのに、朝鮮半島には渡っていない
・2000年前のハツカネズミMUS一斉放散は朝鮮半島から日本列島へ侵入している
- 165 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:11:07.99 ID:qxeNTydZF
- 怒られそうなので、ファンタジー世界のお話としてですが、
温暖な沖縄から九州にかけては、アマが通年で暮らしていますね。
しかし、緯度が高い地域になると冬は寒いので、
夏はアマが大挙北上して暮らすけれども、冬は南下していなくなっていた。
家舟に全財産を積んで気ままに移動できるアマはそれでいいですが、
竪穴住居を作って定住する陸上生活者クニは、冬は水場を使えるけれども、夏は水上生活者に奪われる、という生活はありえませんよね。
ですから、アマが夏だけ使う拠点というのも、結局はアマの領土であって、
クニは入れなかったことになります。
7400年前までの先縄文人の頃は、
陸上生活者クニは農耕を知らないので、下手すると男性一人+女性複数人体制のまま。
しかも、縄文海進で沿岸拠点つまり家屋や財産がどんどん水没していく。
圧倒的に不利ですから、
海産資源を活用する水上生活者アマに沿岸の重要拠点を占められたのですね。
アマの本場である沖縄九州。
日本列島の形状は、
東日本に向けて次第に緯度が高くなり、
東北地方へと立ち上がります。
よって、アマが夏に北上するのはせいぜい東北地方までで、
北海道や樺太までは来なかったのですね。
だから陸上生活者クニの遺跡がそれなりに残る。
対して、半島は、対馬海峡さえ越えればすぐですから、
夏にアマが大量にやってきたわけですね。
- 166 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:12:12.92 ID:qxeNTydZF
- 7500年前に極東クラスター集団がやってきて、雑穀農耕が伝わります。
よって陸上生活者クニの生活が向上して、貝塚が形成されてくるわけですね。
ただ、極東クラスター集団がやってきてすぐに、
鬼海カルデラの破局噴火が起きましたから、
九州〜西日本に積もったアカホヤ火山灰で千年ほど農耕が出来ず、
雑穀農耕はいきなり出鼻をくじかれたわけですね。
アカホヤ火山灰によって陸上生活者クニの雑穀農耕が抑制され、
西日本はアマ有利の状況が逆に強化され、
極東クラスター集団は東日本へ流れて、貝塚も東日本中心に栄えることとなった。
鬼海カルデラ破局噴火前夜の東名遺跡に雑穀栽培の気配が無いようですから、
極東クラスター集団がやって来たのはその直後。
宮崎B4の水上生活者集団(隼人)が南米に漂着したと思われますが、
B4→B2とHTLV-1は伝播したのに、ALDH2遺伝子変異は伝わっていないようですから、
極東クラスター集団がやって来た頃には、鬼海カルデラ破局噴火前夜の中規模噴火が相次いで不穏な状況で、
隼人に数人が参加して極東クラスターを蔓延させたけれども、
大部分はそのまま東へと向かって、
火山灰のこない地域でb系統稲を含んだ多種イネ科雑穀栽培の普及に取り組み始めたのでしょう。
岡山など。
- 167 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:13:29.66 ID:qxeNTydZF
- 同じ高緯度地域ではあるが、
@東日本〜東北地方〜樺太については、通年の水上生活者アマ勢力の本拠から距離があったので、
陸上生活者クニが集落を営めた。
A半島は、水上生活者アマ勢力の真北だったので、毎年夏になると沿岸拠点を占拠され、
陸上生活者が?栄を始めることができなかった。
半島について一応コメントしておきますと、
もともと誰かが繁栄していて、それを水上生活者が追い出したわけではないのですね。
一説には、旧人のmtDNAが残っているとも言われています。
もともといた人を、水上生活者が襲撃したのではなく、
まず入って来たのが、水上生活者で、夏だけ滞在していた。
ハツカネズミが入らなかったからには、その期間が4000年前までは続いていたと。
その後、青銅器伝来にて水上生活者が陸に上がり始めたのと、
北方から陸上生活者が入って来たのとで、陸上集落が増えたので、
2000年前にMUSハツカネズミが入ってくることができた、
ということですね。
ですから、謝罪と賠償を求めるとすれば、
旧人のmtDNAを持つ方々に対して、当時半島で活動していた水上生活者の末裔、
つまり現在半島で暮らしている方々の基層が、
半島内で処理するべき案件だということになりますね。
仮想世界の話ではありますが。
- 168 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:15:02.04 ID:qxeNTydZF
- ALDH2遺伝子変異集団が、生き残るために、イネ科雑穀栽培を開始したのと同様に、
ADH遺伝子変異集団が、生き残るために、土器を開発したと考えられますね。
ALDH2遺伝子変異の人は、アセトアルデヒドを分解できないので、
アルコールを摂取したらすぐ酔っぱらって大変なことになります。
ADH遺伝子変異の人は、アセトアルデヒドは分解できるのですが、
アルコールが長らく残るので、ほろ酔いの状態が長く続くわけですね。
微妙な状態ですが、
やはり厳しい生存競争の石器時代だと命取りだったと考えられますね。
ADH遺伝子変異の人は、群れの中で、自分だけ落下果実を食べると気分が悪いのが次の日まで続くので悩んでいた。
だからなるべく落下果実を食べないようにして飢えていた。
最初は、火で肉を焼いた際に、
こぼれていた果実が焼けたものを口にすると、なんともないことに気づいたのですね。
で、火を使った調理の際に、石などの上に果実を置いて、アルコールを飛ばしてから食べ始めた。
大半の石は丸いので、焼くと果汁が流れ去ってしまう。
くぼんだ石を探してその上で焼くと、果汁が残ってより美味しい。
しかし、くぼんだ石というのがなかなか無い。
何かくぼんだものが無いかと見回すと、
土くれ粘土が火で焼けると硬くなっているのに気づいて、
それでくぼんだ土器を作って、果実を調理することを開始した。
こんなところでしょうか。
- 169 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:17:26.16 ID:qxeNTydZF
- 人類は火を標準装備していましたから、
土器そのものは、偶発的にあちこちの調理場で発生していたはずですね。
同じく火を使っていたネアンデルタール人の調理場でも土器片は発生していたはず。
ですから、世界各地の土器は、東アジアで開発された土器が全世界に伝播した可能性もありますし、
最古は東アジアだけれども、それに遅れて各地で別個に開発された可能性もあります。
東アジアのものについては、
ADH遺伝子変異保有者いる以上は、
その範囲の中で土器が開発されていった可能性が高い。
青森県の大平山元I遺跡で16500年前の無文土器が見つかっている。
アイヌにC2がいることからしても、
C2の中のADH遺伝子変異集団が土器を開発した可能性が高い。
一方で、東西世界に拡散した櫛目文土器の担い手とされる、
Y染色体ハプロN1a1系統が17900年前分岐とされているから、
まずADH遺伝子変異の発生に間に合っていない。
さらに、
N1a1櫛目文土器は、珍しくといっては失礼ですが、
東から西へと拡散していますね。
その理由を考えると、土器に雪や氷を入れて熱することで、水を入手できたからですね。
寒冷な高緯度地方においては、川も凍る期間が長い。
そのような環境にあって、土器で水を作れるという手段が、群れの生存にとっては圧倒的に有利だから、
一気に西の端まで制圧できたのですね。
ただし、緯度が下がると、普通に川の水を使えますから、もちろん便利ではあるけれども、
土器の有利性が相対的に小さかった。
だからN系統は高緯度地域限定で、ユーラシア大陸を西進できたのですね。
- 170 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:18:33.87 ID:qxeNTydZF
- 川が凍る高緯度地域で、土器煮沸によって水を入手できるという利点は大きいですし、
櫛目文土器という同一形式が西へ伝わっていることからも、
その伝播速度の速さがわかります。
ということは、
最初期の無文土器ができたのが大陸側であれば、
その無文土器の段階で、土器そのものに圧倒的優位性があるわけですから、
無文土器が西へと高速で伝播したはずですね。
なので、やはり、青森など日本列島で、C2のADH遺伝子変異者が発生し、
落下果実を熱してアルコールを飛ばして食べ始め、
土器で器を作り、
それが無文土器。
人口密度の問題で、
樺太経由から西の陸地方面は当時あまりに疎で、
土器が多少伝わっても西進する原動力が無かった
南の日本列島には人が多いので、あれこれ分岐しながら縄文土器が日本列島に定着して、
曽畑式土器がワニ集落の土器。
ワニが夏に、朝鮮半島からその北部まで出張することがあり、
興隆窪文化と交易。
興隆窪文化に、曽畑式土器(櫛目紋土器)、?状耳飾り、翡翠、を伝えた。
土器を手に入れたN1a1が西進。
すなわち日本文明の伝播。
同じく夏に北上出張した先の、三内丸山遺跡も全く同様。
こちらは土器の元祖なので曽畑式土器は不要。
で、綺麗に説明がつきますね。
- 171 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:19:40.33 ID:qxeNTydZF
- 稲作が北回りルートで伝わったという根拠について確認してみますと、
山東半島の先端である膠東半島にある、趙家荘遺跡にて4300年前の水田遺跡が見つかっていますが、
水田の畔が不揃いで、区画が小さく、じきに途絶えている。
水田であったかどうかも怪しい。
同じく山東半島で龍山文化圏の遺跡である、楊家圏遺跡においては、
水田遺構が見つかっていないのに、
「イネのプラントオパール」が見つかったことをもって、
なぜか段丘を水田遺構と考えられると「予想」しているだけ。
遼東半島の文家屯遺跡では、水田も植物資料もなく、
土器の圧痕にて、イネ1アワ98キビ32(龍山文化期に絞ってイネ1アワ9キビ5)
遼東半島の王家村遺跡でも同様で、水田もなにも無く、
土器の圧痕にて、イネ7ムギ1アワ66キビ88(龍山文化期に絞ってイネ7ムギ1アワ54キビ69)
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/636
4000年前から1000年飛んで、
いきなり3000年ほど前に、
対馬海峡をはさんで水田稲作が突如開始されるわけですね。
しかも支石墓や青銅器や養蚕など数々の新機軸と同時に。
- 172 :日本@名無史さん:2024/05/24(金) 01:21:31.09 ID:qxeNTydZF
- プラントオパールや、他イネ科雑穀よりも少ない圧痕で、
水田稲作をしていたと主張できるのなら、
岡山など縄文日本列島でも、5000年前から水田稲作がなされていたと主張できますよね。
>>125
>中国北部の山東半島の付け根にだけ飛び地で高濃度スポットがある。
そもそも論ですが、
稲作集団が北回りルート=長江流域→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→と、入植していったのであれば、
ALDH2遺伝子変異、つまり下戸遺伝子集団が、その経路に沿って濃く分布するはずですね。
しかし、山東半島付け根に濃く分布したところで尽きている。
これはつまり、
長江文明人O1b1a1aが、龍山文化を形成し始めたところで、
4000年前のハツカネズミ一斉放散で壊滅した、ということでしょう。
稲作で栄えた長江文明人O1b1a1aが、稲を持って山東半島付け根で龍山文化を開始して頑張ったが、
寒い高緯度ではなかなか上手く育たず苦戦していた。
周辺では雑穀栽培していただけで、
O1b1a1aが持ち込んだイネもそれなりには植えて育ててみていたと。
時間があれば品種改良できただろうけれども、
4000年前のハツカネズミ一斉放散で壊滅してしまった、ということでしょうね。
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