Friday, October 20th, 2006 |
12:09 pm |
昔の写真 今の家には思い出の残骸がちらほら残ってしまっている。
久しぶりに押入れを整理していたら、昔の写真が出てきた。
3年前、前の家に写っていたいた2人は確かに幸せそうな顔をしていた。
2人が2人でいることに、本当に満足しているようだった。
昔の写真は、昔の気持ちを思い出す。
その切り取られた空間は、今となっては懐かしい、その当時では当たり前の景色を。。。、今の自分の中で退避されていた記憶を。。。、有無を言わさずアップデートしてしまう。
今の自分の認識、理性は、このときばかりは役に立たないようだ。。。
もしかしたら、その時は気づいていなかったけれど、本当は君を本気で好きだったのかもしれない。
感傷なのか、本当の気持ちなのか分からないけれど、もう一度あの頃に戻って、真剣に君と向き合ってみたかったと思う。
もうかなうことのない願いだけれども。。。 |
Friday, September 29th, 2006 |
10:41 am |
家族がそろった最終日 今日がその日だった。
明日からまた一人の生活に戻ることとなる。
自分の決めたことが果たして正しいことだったのか、今は分からない。
ただの感傷なのか、本当に心が泣いているのか、自分の気持ちなのに少しもつかめない。
誰かに聞けば教えてくれるのだろうか。。。 |
Monday, September 25th, 2006 |
4:12 pm |
新しい生活に向けて 3年間送ってきた結婚生活にピリオドを打とうと決めたのは先週の頭。
特に何か出来事があったわけでもなく、いつの間にか妻にそのことを切り出していた。
すでに意味のなくなっていた生活が、当たり前に過ぎている矛盾に、ただ気がついただけなのだが。。。
よくある話だが、結婚のきっかけは娘ができたという事実。
そのまま娘も無事に生まれ、新しい生活を始めたわけだが、最初から矛盾を含んだ生活の始まりに、うすうす今の現状を予想していたのかもしれない。
人と人はお互いの気持ち、絆で結ばれる。
これは男女関係だけの話でもない。
友人関係でも、「気が合う」、「一緒にいて楽しい」、「趣味が合う」、等、関係を継続していく上での何かしら理由がある。
家族関係でも、「尊敬できる」、「寂しさがなくなる」、「恩返しがしたい」、等、さまざまな感情、思いがあるからこそ一緒に生活し、離れていてもお互い大切に思ったりするのではないだろうか。。。
私と妻の関係には、正直何もなかったと思う。
付き合い始めの理由は、それまでのお互いの恋愛関係対し、私は投げやりになり、彼女は誰かに救いを求め、そしてお互いを慰めあってしまった。
たまたまタイミングが合っただけのこと。
それもとびっきりな絶妙のタイミングで。。。
自分も彼女を愛しているかといったら、正確なところ「否」であるし、また逆も真だろう。
愛してもいない女性を大切にし続けることは到底無理な話だし、愛してもいない男性に抱かれ続けることも、彼女にとって不快以外何物でもないだろう。
30を過ぎて、自分が強くなったと感じる反面、また人としての弱さを自覚しつつある。
将来に対する不安は日に日に強まり、一人でいることの空虚さもつらさも、今となってははっきりと理解できる。
それでも、もう一度一人になってみようと思う。
そもそも私は一人であったし、むしろ2人、3人になってしまったことに、今、強烈な違和感を感じているのだから。
寂しさを友達にすること。。。
それが今の私のテーマだ。 |
Wednesday, September 13th, 2006 |
6:59 pm |
人を観ること 世の中にはいろいろな人が生きていて、そのいろんな人と関わりを持つたび、その都度その人を観、自分の感覚から人を評価する毎日を過ごしている。
人を観ることは好きだ。
自分の感覚で、勝手に人に印をつけていく作業は、誰にも迷惑はかけないし、人との関わり方を決める上でも重要なファクターのような気がする。
また厄介なしがらみ、うんざりする儀礼的な関わりを避けるためにも、この印は重要な判断基準となり、自分を救ってくれたりする。
「人が十人いたら、一人は白で、一人は黒、残り八人は灰色。」
誰かが言った言葉で、正確な内容は忘れてしまったが、
今、この言葉を自分の中での一つの真実として捉えている。
それにしてもこの世の中には、「灰色の八人」が多いこと。
自分が何色かなんて、自分自身正確なところ知りもしないし、それは他人から観られる際に、観る側が勝手に決めればいいことだが、自分の眼から見る世の中には、本当に、「灰色の八人」が多い。
彼らは自分の意見を持たないし、持ったとしてもいろんな理由、いろんな形でコロコロ変化をする。
そう、白にも黒にもなりうる存在。。。
はっきり言えば、自分といった「個」を持てずにタダ生きているだけの存在で、そんな自分自身を自覚できずいる人たちのことだ。
きっと生きることについて考えたこともないのだろう。
何が真実なのか、自分の中の明確な価値観、生きる上での性、自己の本当の欲求等、考えなければ生きることそのものが意味のないものになることにさえ気づいてもいないのだろう。
くわばら、くわばら。。。
願わくば関わらずに生きていきたいものだ。
100%無理な私の願いは、人を観ることを徹底できたとしても、きっと成就する種類のものではないのだろう。
それがこの世の中で、生きていくということなのだから。 |
Tuesday, September 12th, 2006 |
9:08 pm |
どうでも良くなる時 どうでもよくなる時がある。
人間関係について、仕事について、日々の雑務について、自分の家族について、そして生きることについて。。。
自覚が薄れる時、自分の存在が空気みたいに薄く感じられ、自分の意識がすべてにおいてバーチャルに感じ、うわべだけの世界との認識でさえ滑稽に思える時、人は何を思うことで自立を保つことができるのだろうか?
ただ不思議なことに、このグレーな感覚はいつまでも続かない。
いつの間にか当たり前の毎日をこなそうとしている自分がいて、それに対し疑問をはさむこともない。
またそんなことを考えても意味のないことも、どこかで認識をしている。
きっと生きることになれてきただけだろう。
意味のないスキルだけど、生きる上では大事なことなのか?
それさえも分からずに日々を過ごしている。 |
Friday, September 8th, 2006 |
11:55 am |
自分の性(さが) 昨日、部屋のバルコニーで満月を見ながらひとつ気づいたことがある。
自分の人生における性(さが)が何なのかをだ。
今までの人生において、自分の性は仕事であると考え、自分もそのことに納得してきた。
でもどうやら違ったようだ。
日々の生活における、この満たされぬ渇きは、どうやら仕事でどんなに自己達成を成し遂げたとしても、決して満たされないものであることに気づいてしまった。
陳腐な話だが、本当の自分の性は、人を本気で愛することでしか満たされず、人から本気で愛されることで潤されるようである。
しかしそれは本当の意味で難しい。。。
なぜならもうすでに人を本気で好きになることを、かなり前にあきらめてしまっているから。
7年前、あきらめることで人生を生きるのが本当に楽になった。
最初から他人に対し期待することを放棄し、小さな失望、大きな裏切りにも耐えられる自分をキープする。
かりそめの仮想空間、そんな現状で今は生きている。
また心をさらけ出し、人にぶつかっていく行為は、非常に堪える作業だ。
今まで人生を生きてきて学んだ自己防衛の癖を取り払わなければならない。
そして人と再度真正面から向き合おうとする、強い意志を持ち続けていくことになるだろう。
考えるだけでうんざりする。。。
ただ小利口に生き抜くことはやめにしたいと思う。
ぬるま湯につかり、グレーな毎日を過ごしたとしても、結局満たされないことに気づいたのだから。。。 |