現在のヒトコト: | イヤッッホォォオウ!・・・はぁ。 |
今きいてる音楽: | orbital period(リピートで) |
家族、コメント、CD、立ち読みについて
今日、キオスクで「花形」を読んでいると、隣で「元祖 浦安鉄筋家族」をよんでめちゃくちゃ笑っている人がいました・・・なんかいづらかったです。
そして、BUMP OF CHICKENの「orbital period」を買ってきました。2chでもかなり意見の分かれるバンドですが、自分はとても好きです、激しいのから、優しいのまで。
宮本潤一氏の「民族学の旅」を読んでいます、戦前の日本の姿が作者の思い出を元に、客観的な位置からながら生き生きと見えるのはひとえに宮本氏の文書力のせいか、はたまた、この年まで育った日本という環境から受けた影響がそう感じさせるのかはわかりません。しかし、恥ずかしながら読了せずしてこの本をここで挙げるのには、自分がここで言いたいこと、理想というにはあまりに稚拙ながら、が確かに過去の日本には存在していたといことを示していたからです。
以前、自分は保坂和志氏の「カンバセイション・ピース」を図書館にあったのを見つけて読みました、きっかけはやはり帯の「小津安次郎の映画のような」というコピーでした。小津氏がどのような映画を撮ったかは知っていても、残念ながら現在多忙ゆえに拝見したことはありません(是非この仕事が終えた後はゆっくりと鑑賞したいです)。しかし、小津氏の映画で日常の一風景が描かれる(まるで本当の日常を撮ったような)のと同じように、保坂氏の作品の中には日常が描かれ、ミステリーのような事件も、恋愛モノのような困難も無く、しかし淡々と続くそれは理由は分からないものの、自分を強くひきつるものがありました。
前置きが長くなりましたが、小津氏、保坂氏の作品に見られる「家族」(「カンバセイション・ストーリー」では「家族」のような共同体でしたが)の形が自分にとって、日本で非一般的になりつつある日常であるような気がしてならないのです。
日本は、経済成長やその他諸々の要因によって核家族化が進みました、それは経済発展には不可避のもの(現在先進国と呼ばれる国々が通らずを得なかったのでこの表現を用います)でした。それと同時に大家族という形態も消えたのです。今まで、社会でのあり方だとか、様々な行事での振舞い方だとかいうモラル、常識は大家族という名の社会のミニチュアの中で学ぶものでした。こういう家庭を踏まずに育つ人が増えているのではないかと思うのです。
ここで注意していただきたいのが、自分は大家族制度に戻れば、いかなる現代社会における残虐事件や学校問題が解決できるとは到底思えません。そして、ここでその問題についてを述べようとも思いませんのであしからず。
実際ここで自分が真に言いたいのは、成人してからの家族のあり方についての話です。現在、核家族化、少子高齢化、等等、総合するとこれから社会を担うであろう人々の状況はいっそう厳しいものとなります。そのときに家族というバックがあればより楽になれるのではないかということです。両性での家事分担、男の主夫化、女の社会参加でこの際、配偶者は当てになりません。たとえば、祖父母がいることによってより、子育てが楽になるだとか、身内の相談相手がいるのでストレスが溜まらないのでは、という、非常にミクロな視点で自分は家族の拡大を提案するのです。
身内の付き合いや近所づきあいが疎ましくてマンションに住む、舅、姑との関係を恐れて同居を拒む、などの話は今ではありふれた話です、昔だと「そんな薄情な」という意見が多かったでしょう、これは単なる懐古主義ではありますが。これは今の日本人の多くが仕事以外のことになるべく気をとられないようにした結果であると思います。しかし、その結果ある意味で個人の仕事はより重く個人にのしかかるものとなったようです。
意図的に消したものの中に、実は重要なものが含まれていたのではないでしょうか。
昔の日本にあった人間関係が現在はとても希少なものとなりました。子どもにとって両親がいて、祖父母がいて、兄弟姉妹がいて、近所の小父さん小母さんがいて、年上、同年代、年下の友達がいるということは中々ありません。
仕方がないと言えばそこまでです。しかし、これは子どもにだって大きな影響を与えますが、実際の最たる影響を受けたのは一家を支える大黒柱である男(あるいは今では女)ではないでしょうか。様々なクッションが家庭にはあったのに、今はそれないのです。
今一度家族を見直してほしいです。
そして、自分の駄文を許してください(´・ω・`)
そしてメールくれた人、シムシティは自分も大好きです。
ただ、ゲイツ氏の全部マイクロ的な売り方が一時期嫌だっただけなのです。